教室にて―石霊信仰における口碑伝承の口語体形式記述による仮説形成の実験と検証ならびに趣味―
教室にはつい先っき巣立ったばかりの子供がいた。
瀬津は自分の机に突っ伏して、中からとも外からとも着かないぼんやりした笑い声を聞いていた。夕焼けの日差しがカーテンの影に揺らめく。部活動はどこもやっていない。この時間まで残っているなら恐らく卒業生かな、と思いながら目を閉じる。
春なのにどこか冷えた空気が開けっ放しの窓から流れ込んでくるのが分かった。加工された木の匂いがする。それで妙に懐かしい気持ちになって、あぁそうか、と瀬津は気付いた。
これは図書室の匂いと同じだ。それからふと、先輩どうしてるかな、と思って、おもわず吹き出しそうになった。
どうしているか、以前の話だったからだ。
先輩は既にこの世にいない。
死んだ者に、どうしているかもあったものじゃない。
ただ、それでも瀬津は先輩を思い出してしまう。
先輩とは図書室で出会った。
新入生だった瀬津は図書室の常連らしい先輩を何度か見かけるうちに、妙な親近感を覚えていった。ある日、授業をさぼって図書室で図書員おすすめの本を枕にしていると、向かいの席に誰かが座った。
何か忠告するようなことを言われたので、瀬津が少しばかりむっとして顔を上げると見慣れた顔がそこにはあった。それが初めて聞いた先輩の声だった。会話は思いのほか続いた。
先輩の話す薀蓄は面白かったり全然面白くなかったり、役に立ったり何の役にも立たなかったりと、どうにもつかみどころのないもので、ただ民俗話が心持ち多かった。
特に瀬津の印象にあるのが『となえ石』という話しだ。
地元に残る伝説で、男が願い事をとなえると綺麗な白い石が懐に入っていて、願いが叶うという話だ。ただこの話には何も叶わないという結末もあるらしく、どちらにしてもその白い石は返されるという。返される先は神社だったり、霊験あらたかな人物であったり、色々とはっきりしない。何とも濁されたままの終わり方をしている。
瀬津は話の終わり方にではなくて、男のその後の行方について興味を持った。というのもその話は、突然にして男から石の行方に焦点が移っているからだった。
以来、ことあるごとにその話を思い出していた。
その日は、夏休みに入る前だった。連日うだるような暑さだった。
図書室だけは冷房がきいていて、読み慣れた小説をボーッとして眺めていると先輩が静かに向かいの席へ座った。いつもながら無駄のない動きだった。
「暑いね」
「夏ですからねぇ」
「君が読んでるその小説はあれだよね。主人公がヒロインに借りていたものを返すけど本人は全く覚えていない日常系ミステリの」
「違いますよ。借りてたものを返すけど、いらないからって突っ返されるその謎を巡るミステリものですよ。バカらしさが売りの話です」
先輩は、そうだったかなと少し困った顔をした。瀬津は何かぎこちなさを感じた。
「何かありましたか」
「ん? いや、ね。ずっと前に『となえ石』の話をしたよね。覚えてる?」
頷くと、先輩は嬉しそうに笑った。内心、瀬津はとても驚いていた。滅多に笑わない先輩が破顔したのだから。
「良かった。実はその石なんだけどね、これなんだよ」
それは真っ白な石だった。加工されたものではない歪な形の石が、手のひらの真ん中に収まっていた。
「これが、となえ石ですか?」
「そう。笑われるかも知れないけど、僕はこれをずっと大事に持っててね」
どうしたものか、と瀬津は困惑していた。明らかに冗談なのだ。けれども先輩に限って冗談を吹っかけてくるとは考えられなかった。そういう人間ではない、と瀬津は思っていた。
「でも、あれって伝説の話ですよね。先輩の家に代々受け継がれてきた家宝か何か、とかそういうものですか?」
「いや。僕の家は平凡な家だよ。神代に仕えていた訳でも、何か特別な血筋でもない。そもそも一般的な家庭の定義――」
「じゃあ、どうして先輩が持ってるんですか? 曰くありな石ですよね、それ」
話が脱線し始めたから早々に軸を戻す。それと同時にいじわるに質問をする。訝しみとも、普段は言い返せない分のお返しとも、どちらとも着かない心持ちがあった。
「うん……貰ったんだよ。ある女の子から」
少し間が空いた。
「あ、いやいや。僕が幼い頃の話だよ。その子とは淵ヶ瀬神社の境内で知り合ったんだ」
「神社で出会うってのも、先輩らしいですね」
「願い事をしていたらね、袖を引っ張られたんだ。それで見たらその子がいて、何のお願い事をしているのと訊かれて、まぁ願い事をかくかくしかじかと話したら、白い石を見せてくれて」
「くれた、と?」
「そうは行かなかった。暇だから、かくれんぼをしたい、とっておきの場所で見つけてくれたらこれをあげる、と言って突然かくれんぼが始まってね。僕も断れない性質だったし、それがとなえ石だって分かったから付き合う事にしたんだ」
随分と早い時期に、となえ石を知っていたらしい。そんな事よりも、何とも奇妙な女の子の提案に瀬津は胸のざわめきを覚え始めていた。
「これがとても苦労したんだ。始めは簡単に見つけられたんだけど、段々と難しくなっていった。神社の敷地内に隠れるんだけど、あの神社って規模が大きくないだろ? それがなかなか見つけられない。見当もつかなくて泣きそうになれば上からクスクス笑い声がする。見上げるとその子が木の太い枝に腰を落ち着かせてこっちを見下ろしている、なんて事が何回かあって、でも……」
「とっておきはまだ、だった?」
「うん。日が暮れかけて、そろそろ帰りたいなぁって思っていた頃、向こうが、これでお終い、っていって最後のかくれんぼが始まった」
瀬津にはその女の子が、最後と言って隠れる場所を考えている様子が何故かありありと想像できた。
「僕は必死に探した。木の上、狛犬の陰、今思えば舞殿らしい朽ちた廃殿の到るところ。でも見つからない。もう夕暮れ時で辺りが薄闇に染まっていく。何だか怖くなって、恥ずかしながらとうとう泣いてしまった。すると本殿の方から大きな音がした。もうあからさまに音がしたんだ。それで僕は、まさかと思いながらも本殿まで走った。誰かに見咎められるとかそんな事を考える余裕はなかったし、何せ泣いていてある意味、気が大きくなっていたんだろうね。躊躇する事なく本殿のあるところまで回り込んだ」
そこで先輩は一息ついた。じっとりとかいた汗をハンカチで拭う。いつも涼し気なはずなのに、と瀬津は思いながら自身もじっとりと汗をかいている事に気付いた。捲る途中だったページが汗で萎びている。
「本殿の扉は簡単に開いて、僕は初めてその内陣ってやつを見たんだ。多分、祭壇なんだろうけど、そこに大きくて真っ白な石が祀られてあった。直感的にそれが『となえ石』だと思った。吸い込まれそうなぐらいに真っ白でただただ僕はそれにばかり気を取られて、女の子の、綺麗でしょ、って声がするまで僕が内陣に足を踏み入れている事も女の子を探している事も忘れていた」
本当に綺麗だったんだ、と先輩は嬉しそうに、懐かしむように言った。
「いつの間にか女の子が後ろにいてね、僕はびっくりするのと、やっと見つけたって気持ちとで目まぐるしくしていた。でも夕焼けの日差しに重なる彼女を見て、忙しくしていた心が止まった。本当に止まったんだ。そして、静かにその目を見ていた」
照れながら先輩は話す。
「その子が、見つけられたね、って言ってから優しく笑って、僕は何て言うかその、その状況に戸惑っていた、ような気がする。ここがきみのとっておきなのって何とか声を出して訊いたら、そうだよって今度は嬉しそうに笑った。それで、もうこれで終わりかぁ、とかまだ時間あるかなぁ、とか言って、約束だからねって、となえ石をくれた。手からそっと渡してくれた石は冷っとしていて、僕はおや、って思ったんだよね。でも何に違和感を感じたのか分かる前に、女の子の後ろで扉が閉まり出して僕は再び驚いた。閉じ込められる、って。出なきゃって思って、でも足が動かない。女の子に助けを求めようとしても口も動かなくなっていた。夕日が狭まっていくし、中はそれに合わせて暗闇が増していくし、僕は泣こうにも泣けないしで、扉の軋みと、女の子の大丈夫だよ、って声と最後に、お願い事が叶うといいね、って言葉が聞こえてそこから記憶がないんだ」
「その後はどうなったんですか」
「うん。両親の話なんだけど、何か一人で帰って来てたらしい。僕は全然覚えてないんだけど、ただかなり疲れた様子だったとか」
そうですか、と瀬津が言ったっきり、会話は途絶えた。大事そうに手に乗せられている『となえ石』が気になり、瀬津はある質問をした。
「それで願い事は叶ったんですか」
少しだけ間を置いて、先輩は頷くと、やはり嬉しそうに笑った。
「叶ったよ。ようやく叶ったんだ」
そして、次の日、自室で亡くなっている先輩を彼の母親が発見した。
瀬津は机に突っ伏して、ぼんやりと考えていた。
『となえ石』はどうやら先輩の元からなくなっているらしい。誰もその石の事を知らない。何故、自分にだけ話したのか。事故で処理されたが、本当に事故だったのか。
何より気になったのは、先輩が言う願い事が叶ったとは何だったのか。結局、願い事は訊けず終いだった。
『となえ石』は願い事が叶うと持ち主の元から去るのがどれにも共通する話だ。一方で、その後の行方はまちまちだ。ただ、本来の持ち主の元に返るという結末だけはどうもないらしい。そもそも、本来の持ち主という前提がないようだ。
瀬津は、もしかしたらと考える。何処かに持ち主がいて、そこへ返るという結末もあって良いのではないか、と。
春の薫風を待ったが、一向に吹く気配がない。
瀬津は突っ伏したまま鞄の中を手探る。
風がカーテンを揺らして、瀬津のうなじをくすぐる。
指先にこつん、と小石がぶつかった。
お読み頂きありがとうございます。何か石に関してお話が書きたかったもので、つい。