一〇日目
お待たせしております。ここ二週間ほどの間で閲覧回数がじわじわ増えてきました。ありがとうございます。感謝序でに更新させて頂きます。紙の原稿は現在「二二日目」まで完成してる感じです。
一〇日目
いちばん納得できないのは、この島を創造した精霊が四ついたという点だ。そして「はじまりとおわりを結ぶ歌」の中では三つの精霊しか登場しないという点だ。
「今日こそぜんぶ聞きだしてやる。」
フリョッハの部屋で朝支度をしている時から、パキリリェッタは意気込んでいた。
「今日はずいぶん張りきってるね。」
「だって分かんないまんまなんてやだもん。」
「でもひょっとするとリエッタの分からないとこはきのうの午後に説明されちゃったかもよ?」
彼女の小さな背中に前掛の紐を結びながら、フリョッハが軽くからかう。
「えっそれはこまる。」
「朝行ったら他の子にきのう教えてもらったこと聞いたほうがいいかもね。」
「そうしよっと。」
聞き漏らすのが嫌なら午後も出席すれば、とまでは言わなかった。パキリリェッタが太陽の高い内からおとなしく寝ていられる訳がないことはフリョッハももう理解していた。
「朝ごはん、他の子はきのうのお昼みたいに食べてるみたいだけどリエッタもそうする?」
「ううん、おねえちゃんといっしょがいい。」
「そ。」
何気ないやりとりの後パキリリェッタが呟くのを彼女は聞き逃さなかった。
「フリョッハパパにもきのうのこと聞いてもらわなきゃ……」
「それはやめてあげて。」
鬱陶しそうな父親の顔がくっきりと目に浮かぶようだった。そして事実見ることになった。
島の住人達には時間の感覚はあっても時刻の概念はないため、何をするにも何となく始まる。普段の習慣で花蜜をあつめてから授業に向かうのでは遅過ぎた。
二人が最上階に辿り着いた時には他の子供達は全員集まって担当の語り部達の傍で座っていた――この部屋で寝起きしているのだから遅刻などしようもない訳だが。
「遅くなってごめんなさい、しかも二日続けて。」
「構いませんよ。私達が学ぶべきことはそう多くありませんから。」
「世話係のわたしの責任です。」
「明日から気をつけて頂ければ。」
語り部の青年からすると本当に気に留めていないのだろうが、フリョッハは彼の対応に余計気を重くした。
ただ一人淡い黄色の衣をまとったパキリリェッタが床に座ると、語り部は口を開いた。
「ひとつの果実から四つの種。この意味が分かりますか?」
「パキリリェッタさん、今日も授業に出てるってほんとですか?」
ピォルモが出し抜けに失礼気味の質問をする。
「疑わないでよ。遅くはなっちゃったけどちゃんと連れて行ったから。」
「昨日の午後結局戻って来なかったのでてっきり嫌になってしまったかと。」
「それは、ごめん。」
「それにしてもどういう心境の変化なんですかね?風変りだったのは小さい内だけで少しずつ普通の子になってくんでしょうか。」
「それはどうかな。わたしといるときは相変わらずだけど。」
他の子と同じように過ごすパキリリェッタを想像しようとしてみたが、全くできない。そんなにおとなしくなってしまったらそれはもう彼女ではない。
「パキちゃんなりに気を遣ってる感じがするなあ話を聞いてる感じだと。」
口を挟んだのはアナイだった。三人を始めとする二〇人余りの人々は北の砂浜に広がる若い森にいた。手空きの世話係達は適当に誰かの仕事を手伝って過ごす。フリョッハとピォルモはアナイに呼ばれたのだった。少しずつながら確実に増えている木材の需要に応えるため何十世代も前の長老達が協議した末、北の砂浜に木材調達用の森を造営することを決定した。その頃からの努力が実り、今では立派な森林を形成していた。しかしこの人工林は天然のそれとは異なり絶えず人の手を要する。適切な世話をしてやらなければたちまち荒れてしまう。
三人は膝までの高さしかない浅瀬に浮かぶ落ち葉を搔き集めている。木々の根に過剰な湿気が伝わって腐るのを防ぐためだ。それはフリョッハが慣れ親しんだ仕事だった。世話係としての仕事をしていてもこの仕事を兼ねられることに安堵を感じつつも変わりきれないもどかしさもある。
「リエッタが気をつかってる?それはないよ、あの子に限って。いつもわがまま放題だもん。」
苦笑するフリョッハ。親友の言葉を冗談と受け取ったが、本人は至って真剣のようだった。
「だって私達の話をずっと聞いてたんでしょ?脱皮してる間中。フゥ、自分があのときなに言ってたか覚えてる?」
「ええ?」
途中からとは言え、結局アナイはパキリリェッタが脱皮を終えるまでずっとフリョッハにつき合っていたのだ。ずいぶん色々なことを話したような気がする。
「ちゃんとパキちゃんのお世話ができるようにしっかり勉強するって、そんなようなこと言ってたでしょ。なんで忘れちゃうかな。」
「たしかにそう言ったけど……」
言われてみれば思い当たる節はあった。フリョッハが世話係本来の仕事に勤しむにはパキリリェッタがも普通の蚕の精の生活に馴染まなければならない。
――あした、授業に出なきゃだめかな?――
昨晩の遠慮がちな彼女の言葉を思い返す。そう、幼い彼女の本音はだだ漏れだったのだ。
「リエッタにがまんさせてたらわたしがいる意味ないよ。本末転倒だよ。」
「パキちゃんのことを考えてたのはたしかだけど本人の気持ちを見落としちゃってたってわけね。」
「どうすればいいかな、わたし……」
気づいてしまうといても立ってもいられない気分になった。
「まあまあ、パキリリェッタさんは半日だけ出席するつもりだったわけですしそう慌てなくても……早めに迎えに行ってお昼を外で食べるのはどうですか?」
「そうだね、そうしよう。ってことでアナイ、わるいんだけど……」
フリョッハが申し訳なさそうに水面に浮かぶ搔き集めた落ち葉の山を見る。
「ええ、いいわよ。後はピォルモがやっとくから気にしないで?」
「はい?」
「ほんっとにごめんね?」
「いや、えっと……」
「こんな仕事はたまーに遊びついでに手伝ってくれればそれでいいから。<大樹>まではけっこう遠いし急いだほうがいいよ。」
「うん……」
砂浜に上がると、裸足のハチドリの精は前掛の股下に垂らした下端を絞ってびしょ濡れの翼をぶるぶる震わせて即座に乾かした。そうして軽く息を吸い込むと駆け出しつつ翼を広げ徐々に高度を上げていく。砂浜を抜け森の木々を越え、一路<大樹>を目指す――
その日の授業は自分達の性別についてだった。かつて我らの母の母、父の父、つまりは遠い先祖には性別がなく、その内四つに分かれたのだと云う。
「それじゃ先生。」
今日も元気に手を挙げるのはパキリリェッタ。兄弟達の純粋な眼差しが彼女に向く。
「わたしの性別はどれですか?」
「あなたがたには性別はありません。まだね。これは特別蚕の精だけという訳ではなく完全変身を遂げる虫の精の幼虫はみなそうです。蝶の精や蛍の精などもですね。あなたがたが自ら編んだ繭を破った時、あなたがたは自分が果たすべき役割を知るでしょう。」
今日の語り部の話はなかなか悪くない、とパキリリェッタは思った相変わらず抽象的な表現にこだわり過ぎてはいるけれど。彼の話のおかげで少し賢くなった気がする。
「最初に実った<大樹>の果実……それは動物にはなりませんでした。ただ腐り、その場に四つの種が残ったのです。その瞬間から、地上のあらゆる事物は四つに分かれました。その最も卑近な例が我々の性別であるというだけで、他にも色々な例が挙げられます。例えば……」
再びパキリリェッタは気づいた。彼は、かつて自分達の先祖に性別はなかったと言った。しかし今彼は性別が四つに分かれたのは動物達が<大樹>の果実から産まれる前だと言う。これは明らかな矛盾だ。
「先生質問。」
兄弟達の戸惑うような眼差しが二人を交互に見やる。
「私が話している途中なのですが。」
「だって気になっちゃって。後回しにしたら忘れちゃいそうだし。」
「いいでしょう。仰って下さい。」
パキリリェッタは怒りを知らぬ聖人に尋ねた。言い終えると、彼は右の眉を釣り上げて見せたがそれがいかなる意味を含んでいるのか幼子には分からなかった。
「なるほど……実に鋭い。素晴らしい質問です。答えましょう。」
「僅かな間だけ説明のために図でも描きたいような手ぶりをしていたが、すぐに止まった。語り部が語るべきは目に見えない真実。言い表せない真実を示すのはまた別の者達だ。
「私達の母の母、父の父に性別はありませんでした。それは確かです。しかしあの方々は在り方そのものが私達と同じではなかった。それは<大樹>が果実を落とすより前のことです。彼らは果実からでなく種から生まれました。たったひとつの種から。」
「精霊のこと?」
「そう。ひとつの種から産まれた四つの精霊です。空や海に性別がありますか?つまりはそういうことです。突き詰めれば、私達の祖先は今も島の内に外に満ちる精霊であり彼らに性別はなかったのです。
パキリリェッタは何気なく傍でちらちらと輝いている光の精霊を見た。随分小さく……弱々しく見える。
「精霊の在り方は様々です。必ずしも彼らのようであったとは限りません。」
「光の精霊、水の精霊、風の精霊……種の歌に出てくるのって三つだけでしょう?あとひとつは?」
「謎です。」
予期せぬ答えにぽかんと口を開けるパキリリェッタ。
「分かんないってこと?先生でも?」
「ひとつの種から分かれ出た四つの精霊は<大樹>を立派に育て上げると<大樹>に取り込まれて再びひとつになりました。やがて無数の果実が熟れて地に落ちると中にいた四つの精霊が結びつき合ってひとつの動物になったのです。伝わっているのはそれだけです。」
語り部さえ分からないことがある。この事実はパキリリェッタを驚かせると同時に勇気づけた。どんな原理かは本人にも分からなかったがとにかくいても立ってもいられない気分になったのだった。
授業が終わると、パキリリェッタはすぐに部屋の外に鮮やかなオレンジに黒の縁取りの尾羽をみつけた。部屋の外、つまり<大樹>の幹の中心部にある螺旋階段に繋がる踊り場で、フリョッハは授業が終わるのを待っていた。扉を開放した入り口から、彼女の愛らしい尾羽がちらちらと見え隠れしていたのだった。
「おねーえちゃんっ♡」
言うが早いか、背を向けて立っていた彼女に思いっきり抱きつくパキリリェッタ。
「うわっびっくりしたあ。」
「おまたせ!授業はおわったよ。早く行こ?」
フリョッハの手をぐいぐい引っ張って階段を下る。
「まってまって、そんなに急がなくても……」
「のんびりなんてしてられないよ!解けた結び目をつかまえるのはわたしなんだから!」
「え?つかまえるって?」
外で食べるつもりで弁当を用意して良かった、とフリョッハはほっとした。と言っても桑の葉を数枚束ねただけだが。導かれるまま降りていく彼女の背中で、リュックサックのように背負った葉の束が上下に揺れる。
<大樹>の外へ出ると無邪気な幼精はようやく立ち止まった。
「捜す当てはあるの?よく見かける場所とか。」
「南の森にしゅつぼつするらしいけど。」
森の中は他の生物達の領域で基本的に精達はいないものだが、居心地の良い南方は野趣に興じる精の棲み処にもなっている。
「南の森なら安全だしとりあえず行ってみよっか。」
「おなか空いちゃったしおべんと食べながら行こ?」
幼子は世話係の背中に揺れる葉の束を目ざとく見つけていた。
「お弁当用死してもらえるのが当たり前なんて思わないでよ?」
溜め息をつくフリョッハ。
「はあ……なんかお姉ちゃんがお兄ちゃんに口うるさく注意してた気持ちがちょっとわかっちゃった……」
南の森は日当たりが良好な分樹々の成長が早く、地上は却って薄暗い。夏に向けて日に日に強まる日差しが遮られて心地良い。人々の往来の多い開けた通りを涼しい風が通り抜ける。
「こんなににぎやかなとこ歩いてたら見つかりっこないよー。」
パキリリェッタがいかにも不満げに文句を言う。
「あんまりあぶない所に行きたくないんだけど……」
「あっちに行こうよ。」
指差したのは静寂が立ち込める深い森の方角。
「うーん、わたしたちだけじゃあぶないんじゃないかなあ。」
保護者として判断をつき兼ねるフリョッハの態度にパキリリェッタは頬を膨らませてみせる。
「なに?その表情。」
「もう……察してったら。」
よく見れば彼女の小さな白い両手は前掛の左右の裾を下向きに引っ張っている。
「あ、もしかしておしっこ?」
おもったことをそのまま発したフリョッハの声は結構大きかった。辺りをきょろきょろ見回しても幸い聞かれてはいないようだった。
(聞かれちゃったらはずかしいでしょ!)
「それならそうと言ってくれればよかったのに。誰も見てないからそのへんでしてきて?」
「もう、おねえちゃんはでりかしーないんだから。」
ぶつぶつ言いながら葦原に分け入るパキリリェッタ。背の高い葦原はすぐに小さな幼精を呑み込んだ。
「ごめんってば。」
静寂に向かって謝るフリョッハにさらさらとそよぐ葦原はただ揺れただけだった
「あ……」
その瞬間、彼女は自身の過ちを理解した。あの日と同じだ。パキリリェッタと初めて会った日。彼女は今のように葦原に跳び込んだのだ。そしてその後。
「沼に、落ちたんだ……」
世話をしている蚕の精がいたずら好きで危険を顧みない幼児であることを、片時も目を離してはならない存在であることを忘れていた。多少授業の間じっとしていられるようになったとは言え彼女はやはり他の蚕の精とは違っている。
「リエッタ?!遠くに行かないでよ?」
慌てて叫んでも返事はない。フリョッハの小さな心臓は早くも高鳴り始めていた。
「んもう、おねえちゃんってばときどきいぢわるになるんだもん。やんなっちゃう。」
用を済ませたパキリリェッタが戻ろうともと来た道を引き返すその途中、彼女のすぐ傍でがさがさと葦原が不自然な音を発した。
「おねえちゃん?いるの?」
身を守る術を持たない幼精は招待を確かめようと立ち止まった。
さざめきは途切れることなくパキリリェッタに接近する。音のする方角を見定めた彼女が振り向いた先に、それはいた。
「あなた、だれ?」
その地を這う蟲はやたらに細長く、葦に隠れてしまって全容は見えない。黒光りする優美な甲殻を備えた大切が無数に連なり、そのひとつひとつから二対の細い脚が生えている。本来なら地下にいるはずのヤスデを、パキリリェッタは見たことがなかった。
奇異な要望とは裏腹におとなしいその生物はパキリリェッタに用事があった訳でもなくいそいそと通り過ぎていった。
「うっわー、ほんとに長い。ひとりで行列作ってるみたい。」
長い、長い体躯は進んでいながらも彼女の視界に留まり続けた。眺めるうちにいたずらを思いついた。思いついたら、もうやらずにいられない。
彼女の膝より低い薄っぺらな体節にぴょんと飛び乗る。翅のように軽い虫の精の幼虫が一人乗ったところで問題ではない。彼は気にも留めずに賑やかな通りに向かっていた。
「あなたもお買いもの?」
地下の生物達は決して言葉を発さない。その代わりにパキリリェッタは彼が発する足音の他に、もうひとつさらさらと音を奏でる存在がすぐ後ろにいることに気づいた。ヤスデのように葦の根元を掻き分けて進むそれの姿を、彼女はついに見なかった。
間もなく葦原を抜けるとフリョッハが口を開けて呆然と立っていた。普段冷静な彼女の驚いた表情はパキリリェッタだけのものだった。
「おねえちゃーん!この虫さんなんて名前ー?」
呑気な蚕の精とは対照的にフリョッハの顔は青ざめた。
「今すぐ降りて!そこから離れて!」
「へいきだよ、だってすごくおとなし……」
突然ヤスデの無数の脚が同時に歩みを止める。投げ出されそうになる小さな身体をなんとか踏ん張って持ち応えるとすぐさま後ろを見た。先ほどまで葦に隠れていた何かがヤスデの末端に噛みついている。それは細長く無数の脚が生えていて、ヤスデに酷似していたが凶悪な大顎を持っているという点で明らかに異なっていた。
「どうしちゃったの?!仲間なのに!」
「そっちはムカデだから!早く逃げて……」
必死の叫びに応える間もなく、蚕の幼精の小さな身体は噛みつかれたヤスデが苦痛に身をよじらせた拍子にあらぬ方向に投げ飛ばされた。二頭の巨大な多足類が命懸けの攻防を繰り広げるその真下で、彼女は生まれて初めて感じ取った恐怖によって立ち上がれずにいたのだった。
地下に巣食う夥しい数の生物達が一体いつ生まれたかについて彼らの神話は何も語らない。それは別の歌だ、地下の住人たち自身が語るべき歌だ。彼らは絶えず喰う。常に餌を求め、見つからなければ互いに喰いかかる。決して<大樹>の果実を口にしない荒ぶる原初の生物達の理性が生まれる前の純粋な生への衝動が蚕の精の頭上高く振り上げられ、何のためらいもなく振りかざされた。
時が止まったかに感じられた。周囲の人々は立ち止まりフリョッハは簡単に想像できる無惨な光景に目を背けようと瞼を閉じた。
可憐な花が倒られる瞬間が瞼の裏で何十回と繰り返される。彼女がようやく目を見開いたのは何者かが彼女の手を引っ張ってからだった。
「逃げろ、早く!」
焦りが滲んだ青年の声が彼女を急き立てる。淡い水色の鱗粉がきらきらと視界を舞う。彼の両手にパキリリェッタが抱かれているのを見てようやくフリョッハも走り出し、すぐに低空へ逃れた。
もともと彼女達を狙っていた訳でもないので安全な場所まで避難するのにさほどの苦労はなかった。他の大勢の精達と同様に遠巻きで二頭の多足類の格闘を眺めた。しかし、落ち着いて見てみればこれは一方的な殺戮だったのだ。腐食した根や葉を食すヤスデに対しムカデは肉食。どちらが生き残るかは明らかだった。
辺りを見回すと群衆から離れた昏い森の中にあの青年のすらりとした人影が見えた。恐る恐る傍へ寄る。フリョッハはようやく彼の顔を見るチャンスを得た。蝶の精特有の流線的で優美な甲殻が下腹部から背中を通って首まで伸びている。翅に描かれた浅葱色の美しい紋様は彼がアサギマダラの精であることを示していた。
蝶の精は両手にぎこちなく抱いた蚕の精を押しつけるかのようにハチドリの精に渡した。今まで抱きすくめたことなど一度もなかったが、気絶して穏やかな寝息を立てるパキリリェッタは翅のように軽やかな見かけと裏腹に意外とずっしり重みがある。
「ま、まって!」
何も言わずに背中を向け立ち去ろうとする青年をフリョッハが呼び留める。
首だけをこちらに向けて次の言葉を待つアサギマダラの精。
「ありがとう、助けてくれて。この子になにかあったらわたし、どうなってたか……」
それでも青年は無言で立ち去ろうとする。
「名前は?」
ぴくりと首を挙げて立ち止まる。
「あなたの、名前。」
「……誰かに名前を聞かれたのは初めてだ。」
そう呟いた後、彼は彼より二回りも小柄なフリョッハの目を見て言った。
「ヴェルチンジェトリックス。父も同じ名前。祖父もそう。多分その前もずっと。」
彼女は、彼の浅葱色の左の翅が破けていることに初めて気づいた。
「その翅って……」
「ここにはもう来るな。」
一言だけ言い残すと、フリョッハの言葉を待たず走り去ってしまった。一陣の風が彼女の髪を小さくなびかせる。走るより飛ぶ方が得意の蝶の精にしては信じられないほど速い。そう言えば、ムカデから逃げる際も走っていた。
「あなたが、より多くと結ばれますように……」
ささやかな祈りの言葉は薄暗い森に染み入って消えた。
涼しげな木陰に佇むフリョッハの手の中で、大分髪の伸びた小さな白い頭がもぞもぞと動く。
「あ、やっと起きた。」
「ん……おねえ、ちゃん?」
うつ伏せの幼精は膝枕から頭を挙げると夢現の様子で左目をこする。
「わたし寝てたの?」
「覚えてない?」
「おねえちゃんと森に入ってぇ……」
ひとつずつ思い出そうと試みる幼子がはっと気づく。
「あの長いの!細長いのは?!」行列さんはどこ行っちゃったの?」
「ヤスデとムカデね……」
思い出させたは良いものの説明に窮する。何しろ結局ヤスデを食い殺したムカデはリトルソルジャー達の反撃を受けて地下に逃げ戻ったのだ。即座に駆け付けた五人で何とか追い返したものの一人が犠牲になってしまった。知るべきかも知れないが話したくはない。
「それよりリエッタ、あなたかなりあぶないとこだったの分かってる?」
「あー、そうだったかも。思いだしてきた。あのときわたし落ちてくるヤスデさんの下敷になっちゃったんだよね。」
「なってないよ?なってないから。すんでのところで助けてくれたんだよ。」
「だれが?」
「んーっと、ヴェルチん……ゼトリン?」
「ふーん。わたしは会ったことないよね。」
「たぶん。わたしも初めてだったし。」
「お姉ちゃんはそりゃそうだろうけど。」
「それどういう意味?」
追及するフリョッハをごまかそうと葦原にうつ伏せに寝転ぶ。
「あーあ、わたしも会ってみたかったなあ、ヴェルちん。どんな人だった?」
「謝るまで話してあげません。」
「あーまたいぢわる!」
「ほらもう行くよ、夕方だし。父さんが心配するから。」
立ち上がりすたすたと歩くフリョッハの後をぴょこぴょこついて話をせがむ。
「おねえちゃんは会ったんでしょう?話したんでしょう?」
「アサギマダラの精の男の子。って言ってももう羽化してたからわたしなんかよりぜんぜん大人だったけど。それでね、かわいそうに左の翅が破けちゃってたんだよね。」
パキリリェッタが大きな黒目を丸くする。
「翅ってやぶけるの?」
「そうだよ?すっごく脆いから翅持ちの人たちはみんな大事にしてるよ。くれぐれも、触っちゃだめだからね。どんなにきれいでもだめ。大らかな人でも怒るよ。」
「そうなんだ。気をつける……」
「なにがあったのか分からないけど、あんなに破けてたらもう飛べないんだろうな……」
「でも、治るんでしょ?」
「膝を擦り剝くのとはわけがちがうんだよ。傷がつくぐらいならまだしも、穴が開いたらそれっきり。塞がったなんて話は聞いたことないよ。」
「そうなんだ……」
パキリリェッタはしんみりと考え込んでいた。翅を失うとはどういうことか。空を失うとは。翅のない芋虫の彼女にとっては翅がなくともさほど不便もないのでは、と思ったものの、それをわざわざ口に出さなくても良いことが分かる程度には彼女も成長していた。
「あ、でもそのせいかな。すっごく足が速かったんだよね。」
「え?」
立ち止まるパキリリェッタ。
「翅で使う栄養が足に回ってるとか?そんなの聞いたことないけど。」
冗談めかして微笑みかけてもパキリリェッタは小さな口をあんぐりと開けたまま。
「そのヴェルちんって解けた結び目だったんじゃない?」
「まさか。」
「ぜったいそうだよ!速かったんでしょう?追いつけなかった?」
「まあたしかに……。わたしも全力で飛んでたけどずっと前走ってた。しかもリエッタを抱えて。」
「そんなすごい人に助けられちゃったんだあ♪どんな人だった?」
「だから、アサギマダラの精で……」
「さっき聞いた!ほかには?」
「でもほとんど話してくれなかったし……」でもちょっぴり……」
顔の筋肉が妙な弛緩の仕方をするのを、パキリリェッタは見逃さなかった。
「ちょっぴりだけ、かっこよかったかも……」
「さいごの方聞こえなかった。」
「なんでもない!」
顔が熱を帯びたのを感じたフリョッハはそれを隠すように走り出した。手つかずの森から幹の上に立った家々が並ぶ通りに跳び出す。いつもより少しだけ早い帰宅だった。
「状況の説明を。」
全てが終わった後、最長老バラールブローメは老いた足を急がせて南の森へ赴いた。目の前では、今まさにムカデとの戦いで結びつき合っていた精霊が解けたリトルソルジャーが<大樹>と結ばれようとしていた。
「突然森の陰から一頭のヤスデが飛び出して、後を追うようにムカデが現れたとのことです。両社は互いに噛みつき合い、ヤスデは、その……ムカデの牙に倒れました。」
傍に仕える青年が温和な老女に説明しにくい事柄をやんわりと告げる。
「気遣いは無用ですよ。真実を知る覚悟ならしているつもりです。続けて下さい。」
「はい……ムカデは次に周りの人々を襲いましたが偶然その中にいたリトルソルジャーが抗戦。最終的には更に四人集まりこれを鎮めました。ムカデは地下に消えましたが、しかし最初に相対した者がムカデの毒を受け治療する間もなく、このようなことに……」
「ありがとう、スライフェル。よく分かりました。」
バラールは地面に寝かせられた男の遺体の傍に膝まづくとカゲロウの精の乱れた前髪を掻き分けた。浅黒い彼の凛々しい眉は苦痛に歪んでいるでも全てを受け入れ柔和なようでもなかった。あまりの呆気なさに自分自身も驚いているかのような、そんな表情だ。
実際ムカデの牙から滴る毒は体内に入れば即死に至ると言うものでもない。きちんと毒を抜けばしばらく寝込むことにはなるだろうが命までは取られない。しかし彼は、刺された後もたった一人で闘い続けた。より多くを守る為に自らの命を差し出したのだった。
「彼の名は?」
「スラルデンチェス。そう聞いています。」
「彼の名を戦士の碑に刻みましょう。せめてもの慰めになると良いのですが。」
彼の身体をゆっくりと、黒い粒子が包み込み始めるとバラールは立ち上がり一歩退いた。全身の皮膚が黒く染まると緑色の地面から無数の蔓が伸び戦士の身体に隈なく絡みつく。そうしてゆっくりと地下へ、根の国へ呑み込まれた。
「「あなたがより多くと結ばれますように。」」
立ち会った多くの人々が口々に祈りを捧げた。誰が言い出すでもなく一人、また一人と立ち去る。跡には何も残らない。バラールもまた<大樹>にむけて歩き始めた。
「これは兆しです。」
「と、仰いますと?」
「覚えているでしょう。ここ数年地下生物の出現が頻繁に起きています。私が子供の頃は、一八年も前ならそんなことは一度だってありませんでした。何かが起きているのです。あるいは起きつつある。
……根の魔女を呼びましょう。相談できるのは彼女しかいません。」
「ですが、夏まではいつ雨が降るやら……」
「それまで私達の方でも調べを進めましょう。次に雨が降ったら、彼女を迎えるのです。」