九日目
九日目
霧の濃い朝。夜も明けきらぬうちから脱皮を終えた蚕の精達は西の砂浜にいた。黒くたゆたう東の水平線、空と海とがひとつに結ばれる場所から太陽は産まれる。若々しい黄色い陽光はぼんやりと<大樹>の輪郭を映し出しその威容を讃える。それでも眼前に広がる遠浅の海は夜のまま。蚕の精達の脱皮の成功を祝う儀式は夜から朝へと移り変わるこの微妙な時間に密やかに行われる。
「うー……ねむいよお……」
瞼をこするパキリリェッタはフリョッハと手を繋いで長い行列の中ほどに立っていた。群れを成すのは幼い蚕の精達。世話係はフリョッハの他にはいなかった。彼女自身はパキリリェッタが駄々を捏ねたから仕方なく同行している、というふうを装ってはいたものの実のところ脱皮したての蚕の精と抱き合って寝ていたために絡みついた粘液が乾燥して塩水で洗わなければ落ちそうにもないのだった。
(もうぜったい脱皮したてのリエッタは触らない……いっしょに寝るなんてもっとなし!)
きらびやかな羽毛に張りつくかぴかぴの粘液を爪で引っ掻きながら、彼女はそう誓った。
二人の番が来る頃には太陽は更に上昇し昏い海はいくらかその不気味さを薄れさせた。
列の最前に辿り着いた蚕の精と世話係の前には門が、その脇には執祀官が待ち構えていた。細い日本の丸太を柱としてその上部に丸太を一本括りつけただけのこれ以上簡素にしようにもない門はその単純さとは裏腹に堂々たる風格を誇っていた。
執祀官とは儀式や祭祀に通暁し、その執行の全般を司る者達。<大樹>の高層部に籠りきりで修行に身を捧げているためあまり顔馴染はない。彼らの他にはあまり見ない厚着の装束を着込んで深緑色のフードを目深に被っているため表情は読み取れない。ただ厳しく結んだ口だけが二人には見えた。
「ここから先は蚕の精のみで結構です。世話係の方は門はくぐらずにお待ちください……」
重々しい口調でキツツキの精の老人はそう告げた。彼の声には有無を言わせない威圧的な響きがある。フリョッハは口を開きかけながらもパキリリェッタの手を振り解き横に退いた。
「ねえねえおじさん、おねえちゃんもいっしょに洗ったげて?」
こともなげに言ってのけるパキリリェッタ。
「天より臨みし方、その理由をお聞かせい頂けますか。」
執祀官に動じた様子はない。
「昨日からずっとわたしといっしょに寝ちゃってたからね、わたしの汚れがおねえちゃんにもくっついちゃってるの。いいでしょ?」
「あなたがたの体液は穢れなどではありませんよ。この島の外で産まれこの島に身を置くあなた方は脱皮の際には門をくぐることなしにあちら側に行ってしまいます。新しい身体を得たあなた方に滴る体液はかの島の神秘そのものです。しかしこの島に留まるためには敢えてそれを拭い去らねばならないのです。この門をくぐり今一度かの島に戻ってこの神秘を置いて来なければなりません。そう……それが付着している以上世話係の方もあちら側の海の水で洗い流して頂かなければならないでしょう。」
解説なのか独り言なのかはっきりとしないまま執祀官は口を閉じた。
「だってさ、おねえちゃん。早くいこ?」
これ以上言葉が続かないことを知るとパキリリェッタはそう言って右手を伸ばした。再び手を繋ぐと二人は門をくぐった。
「……さっきあの人が言ってたこと、意味わかった?」
「んまあ、なんとなく?」
わたしは途中からよくわかんなくなっちゃった、と言うのは年上のプライドが許さなかった。
パキリリェッタはくぐった後も不思議そうに門を、門に切り抜かれた四角い景色を眺めていた。
「……なんも変わってなくない?」
「しっ、あっちにいない間に大事じゃないことを言わないときは正反対じゃないことをいっちゃいけないの。」
「どうしちゃったの?」
呆れ気味のパキリリェッタ。フリョッハは莫迦にされたようで恥ずかしくなりながらも早口で告げる。
「んもう、わかってよ。こっちにいる間は正反対のことを言わなきゃいけないの!」
「……どして?」
「いいからそうして。できないなら黙って身体洗って。」
僅かに不服そうに歪んだ彼女の表情がぱっといたずらっぽく輝く。
「うっわー!ほんとに別世界に来ちゃったーっ!」
わざと大声を出すおてんばの口を慌てて塞ぐフリョッハ。気まずい笑みを執祀官に向けるが、彼はやはりびくともしていなかった。聖なる人々だけが持ち得る不動の精神の賜物だが、彼に関してはもはや樹木の境地だ。
「もうやめてったら……」
「もっとやりなさいって言ったの?」
フリョッハの両手の中でいたずらっ子の薄い肩がさもおかしそうに揺れる。
寄せては返す波に足を踏み入れて更に進み、膝の辺りまで浸かるようになったところでしゃがんでようやくまとっていた衣を解き全身を塩水に晒す。
白く固まった粘液が融けて波にさらわれていく。
フリョッハの鱗と羽毛に覆われた褐色の身体をパキリリェッタがまじまじと見つめる。
「ど、どうかしたの……?」
肩まで海水に浸からせて恥ずかしそうに背中を向ける。普段寝るときには一糸まとわぬ姿で一緒に寝ているのに奇妙だとは、彼女自身も思っていた。
「おねえちゃんとわたしでどうしてこんなに肌の色が違わないのかなって。」
「最後だけ逆にすればいいってものでも……」
「ねえ、なんで?」
そんなことはフリョッハにも分からない。島にいるものの中で純白の肌を持っているのは蚕の精だけだ。鳥の精はみなフリョッハのような浅黒い肌をしているし、虫の精は薄黄色や黄土色など様々である。
彼らの白い肌については古くから疑問を持たれていたようで、緑色の桑の葉を解いて白い絹糸に編み直す蚕蛾の物語がそれへの答えとして語り継がれてきた。それによれば……
「後がつかえています。済んだら速やかに戻るように。」
執祀官の厳格な声にたしなめられて、二人はいそいそと衣をまとって再び門をくぐった。
「今日から授業始まるけど、ちゃんと参加できる?」
タオルでパキリリェッタのかわいらしい禿げ頭を拭いてやりつつフリョッハが尋ねる。
「じゅぎょう?」
「言い伝えを聞いたり歌を歌ったり?」
「よくわかんないけど行ってもいいよ。でもちょっとおうちに戻りたい。」
「それはどうして?」
「んふふー」
幼い蚕の精は意味ありげに笑うだけだった。
寝室に戻るとパキリリェッタは迷わず箪笥の抽出しを開けにかかり、がさがさと物色し始める。
「待ってそれわたしの衣……」
「おねえちゃんわたしこれ着たい!」
そう言って取り出したのは緑と焦げ茶のツートンカラーの前掛だった。フリョッハが二年ほど前に着ていたものだ。
「ええ?いいけど蚕の精はみんな白いの着てるよ?みんなといっしょの方がいいんじゃない?」
「みんなと同じなんてやだ。まっ白なんてつまんないじゃん。大きくなったら着たいなあって思ってたんだー♪」
肩と腰で結んでいた日本の紐を解いて素っ裸になると、有無を言わさず着付けをせがんだ。
「わたしのたんすの中身、勝手に見たんだ。」
「ううっ、だって朝起きてなんもすることなかったからー……」
小言を言いつつも紐を結んでやる。
「……わたしが着るには大きいものもあったでしょう?」
「うん。」
「この中の衣ね、ほとんどお母さんのお下がりなんだ。」
「そうなの?」
「リエッタとおんなじ。わたしも大きくなって着れるようになるのを楽しみにしてるの。」
「……じゃあ、わたしはおねえちゃんのお下がり着てもいい?」
「いいよ。この中の衣はぜんぶ。
さっ、もう行こ?みんな待ってるよ。」
パキリリェッタは箪笥の別の段を開けると折り畳んであったつばの広い葦藁帽子を取り出した。
「これでかんぺき!また髪が生えるまでは貸してね?」
懇願するような表情と甘い口調を聞いて、フリョッハは小言は言えても拒否など到底できそうにないと悟った。
最上階では若いオオルリの精の男の子が淑やかに座る蚕の精達に囲まれて椅子に座っていた。パキリリェッタの姿を見て手招きする。
「パキリリェッタさんですね。こっちです。」
鳥の精を中心とした扇状の集まりが四つ円形の部屋に散らばっている。教師を務めるのは将来語り部を志す若者達で、子供向けに神話を語るのも修行の一環と見なされている。一人が相手をする蚕の精は三〇人ほど。神聖な存在の蚕の精の相手をするのは特に優秀な者に任される。他の三つではもう既に授業が始まっているようだった。
「これで全員集まったようですね。」
「ごめんなさい、遅れてしまって……」
謝るフリョッハ。
「事情は聞いてますので、お気になさらず。後はお任せ下さい。……それでは、授業をはじめます。」
オオルリの精がすっと背筋を伸ばす。先ほどまでの柔和な面持ちに緊張が走る。始まりと終わりを結ぶ究極の存在に対する畏敬がありありと読み取れた。
「種は歌い、枝葉は踊る。精霊は歌い手、精は踊り子。これからお聞かせするはじまりとおわりを結ぶ歌は私達にとって最も重要な物語です。初めてなので分かりにくいとは思いますが、決して、くしゃみだけはなさらないように。質問は最後に受けつけます……」
(それじゃ、わたしは行くけどおとなしくしててね。)
パキリリェッタの耳元で囁く。こくりと頷いたのを確認すると、フリョッハはそろそろと離れていった。少しの間だけ心配そうに後ろを振り返っていたが、すぐに向き直ってもう振り向かなかった。きちんと訓練を積んだ者だけが成せる巧みな語りは、幼い蚕の精の心をもう既に釘づけにしたようだった。
螺旋階段を降りたフリョッハはすぐにピォルモを捕らえた。
「おまたせ。忙しいのにごめんね?」
「いえ、ぜんぜん。パキリリェッタさん、だいじょうぶそうでした?」
「うん、今日はびっくりするくらい聞きわけがよくて。助かっちゃった。」
「もともとフリョッハさんの言うことはよく聞いてましたけどね。脱皮して分別もつくようになったんですかね。それはそうと、まずはなにからお教えしましょうか。」
フリョッハは昨日の内に蚕の精の世話係の仕事を教えてもらう約束を、ピォルモに取りつけていた。それこそ、彼女の決意の表れだった。
「それはまだ海と空がひとつだった頃のこと。果てしない青の中にまず種が浮いていました。堅い殻にひびが入り、とうとう四つに割れるとその瞬間、輝く種から四柱の精霊達が飛び出しました。水の精霊が海に、風の精霊が空になり光の精霊が二つの太陽、そして千の星々となりました。その後で、種は芽を出し根を張りました。芽は長い長い時間をかけて太陽を目指しました。青かった茎は太く堅い幹となり、樹と呼んでも良い姿になりました。もうこれ以上伸びると太陽に触れてしまうというところまで成長すると、樹はこんもりと傘を広げました。そして枝葉よりずっと広く深く伸びた根がこの大きな樹を支えました。これこそが、」
「<大樹>?」
「そうです。」
語りが熱を帯びていたところにパキリリェッタがぼそっと呟く。明らかに不満げな顔で軽く咳払いすると、青年は気を取り直して先を続けた。
「最初の樹、ひとつの樹を取り囲むようにして渦巻く根から新たに樹が生え、じきに森となりました。充分に育つと、初めて<大樹>は果実を実らせました。赤くて大きな果実。ひとつの果実には四つの種が入っていて、地に落ちるとその四つの種が結びつき合ってひとつの精になりました。その姿は様々で絶えず形を変えていましたが、充分に成長すると彼らは独りでに子を産みました。<大樹>が果実を落とすかのように。ひとつの腹から四つの子。そのうちのひとつは女と呼ばれ、ひとつは男と呼ばれ、ひとつは女男と呼ばれ、最後のひとつは男女と呼ばれました。四つの子供達は姿を変化させる力を失い、その多くは複数の生物の形質が混じり合ってどれとも言えない姿のままに留め置かれることになりました。
ひとつのものから産まれた子供達は単体では子を産むことができなかったので他の三つを求めましたが、同時に四つのものが結びつき合うことは許されません。そうして四つの内の二つが結びつき合って私達の先祖が産まれました。この時から<大樹>を中心とした生命の輪は回り始めました。この循環は永遠に続くでしょう。しかしそれは四つに分かれた不完全なもの達が再びひとつに融合する試みが失敗し続けていることを意味します。
私達は<大樹>の恵みによって生き、死んで<大樹>に還り果実となって誰かが生きる糧となる。凡ては<大樹>から産まれ<大樹>に還る。始まりと終わりを結び合わせる歌は淀みなく続き、私達は踊り続ける。
私達は踊りが永遠に続くことを望む。同時により多くと結ばれることを、願わくばひとつになることを望む。しかしそれらは決して両立し得ない。私達は、どちらを選ぶべきなのでしょう。」
はじまりとおわりを結ぶ歌を語り終えた時、終わったと言ってはならない。はじまりとおわりを結ぶ歌を語る口は静かになった。実体を伴わない精霊の動きを表現する身振り手振りはある程度型が決まっており、それらを語りとどう結びつけるかが語り部としての腕の見せ所となる。
「おにいさん、いつの間に立ったの?」
パキリリェッタが呆然と尋ねる。若い語り部が言葉を紡ぎ終えた時、彼が座っていたはずの椅子は後ろに倒れていた。
「君が目で見るのをやめた時から。」
倒れた椅子を元に戻すと、彼は間を置いて言った。
「他に質問は?」
窓のない<大樹>の内部では光の精霊が頼りだが、その日は彼らの数が多く隅々まで照らされていた。雨の日はいつもそう。
外に出られないほど降るでもなく、かと言って止みもしない空模様の中、フリョッハはピォルモと共に桑の葉の調達に出向いていた。
南西の方角には<大樹>と根を分かつ昏い森の中に桑の木が茂っている。葉の形や枝の伸び方など何もかも<大樹>のものとは異なっており、また葉から塩を分泌しないことから<大樹>とは全くの別物と考えられている。この島ではこのようなものは他にない。
桑の葉は二日分程度の量を貯めておいて使いきった時には手空きの世話係達が調達する。ピォルモとフリョッハの前には六人の世話係達が列を成して歩いている。
「あれ、このへんの樹どうしたの?」
青々と茂っていた森が突如終わり、葉の散ってしまった木々が寂しげに広がる一帯に出た。
「ああ、ぜんぶカレハチョウの精のいたずらですよ。葉を散らせた森に迷い込んだ人をからかうための。」
「お話では聞いたことあるけど、こんなに大がかりなんだ。」
裸の森に入ると茶色の葉で覆われた枯れ樹が一本だけ立っていることがある。実はその枯れ葉の一枚一枚が擬態したカレハチョウの精達で、それを目印に進むとあらぬところに再び枯れ樹が現れ同じ道をぐるぐると回っている錯覚に陥り延々と寂しい森の中で迷い続けることになる。飛んで樹々を上から見渡せばどうということもないのだが夜にやられるとかなり怖い。最近は桑の葉を集めるため頻繁に森に分け入る蚕の精の世話係達を相手にすることが多く、桑の森をぐるりと囲むように裸の森が広がっているという用意周到ぶり。桑の葉を持ち帰らねばならない世話係達は集めた歯を捨てて飛ぶわけにもいかず、良い遊び相手になってしまっている。
「今日はさすがに雨なのでたちの悪いいたずらもお休みみたいですね。助かりました。」
「そんなに大変なの?」
「そりゃもう!相手はいたずらの達人ですからね。大人数で歩いても少しずつ離れ離れになっていつの間にか一人で迷子になってたりしますから。」
「えぐい……。なにか対策できないの?」
「目印になる何かを等間隔に置きながら、とかですか?」
こくりと頷くフリョッハ。
「置いた先から回収されました。桑の木に縄を縛ってまっすぐ進もうとしたらいつの間にか解かれてたりします。なまじ頼りにするものがあるとかえって迷っちゃうんですよね。あの時は日が暮れてからようやく解放してくれました。」
「まさか、朝からずっと?」
「朝から夕暮れまで。ずーっと迷子でした。」
フリョッハが目を丸くする。自分がそんなことをされたら、きっと桑の葉なんてとっとと捨てて手ぶらで帰ってしまうだろう。
「ピォルモは生真面目だからカレハチョウの精達もからかいがいがあるんでしょ。」
二人の話を聞いていた前の小鳥の精が口を挟む。
「そうそう、ピォルモが来てくれるとそっちにばっかりけしかけに行くから私たちは早く帰れるんだよねー。」
「え、なんですかそれ!まさかそのために刈り出されてたんですか?!」
前の二人は顔を見合わせて笑うばかりで答えない。
「また損な役回りになってたんですね……知らず知らずのうちに……」
葉の散った森を進んだ先に桑の木が青々と茂っていた。六枚の葉をひとまとめにして葉柄を縄で縛る。おおよそ一人当たり三つ四つ持つと桑の森に挨拶をして去る。
「あなたがより多くと結ばれますように。」
桑の葉を<大樹>に持ち帰る頃には正午になっていた。集まった世話係達がフロア内で適当にばらけると、担当する蚕の精達を集め五枚程度、一食分の桑の葉を手渡す。去年の春の終わりに一人の蚕の精が遺した卵を一人の世話係が一手に引き受けるため、輪になって座る子供達の顔はみなよく似ている。親が同じなのだから当然だが、両手で掴んだ大きな葉をむしゃむしゃ(パキリリ)と口に運ぶ仕草までそっくりで不思議な気分にさせられる。生殖機能を得るのは羽化してからなので男女の違いも存在していない。
ピォルモの許にはすぐに五人の蚕の幼精が集まった。やはり似ている、と言うか、
「リエッタが、五人いる……」
髪が伸びてくればパキリリェッタはぼさぼさに、五人の方はさらさらになるだろうから判断しやすいが、今はみな赤ちゃんの産毛ような髪なのでその差すらない。
「昼食はどこで食べても構いませんけど、せっかくですしパキリリェッタさんもいっしょに食べませんか?」
「そうさせてほしい、けどリエッタどこ行ったんだろう。」
一人だけ違う衣をまとっているのだから見渡せばすぐに見つかった。小胞が縦横に並ぶ壁に寄りかかってつまらなさそうに俯いている。フリョッハにはとても心細そうに見えた。彼女のすぐ傍まで歩くと、孤独に立ちすくむ幼精はようやく顔を上げた。
「これからお昼ご飯だけど、どう?食べられそう?」
「うん……」
「午前中の授業、あんまり楽しくなかった?」
「そんなことはないけど……」
「けど?」
白い子は首を横に振ると口を噤んでしまった。小さな左手が甘えたそうにフリョッハの右手に絡みつく。
「おまたせ。」
パキリリェッタを連れたフリョッハがピォルモの脇にちょこんと座る。パキリリェッタは兄弟たちと意図的に距離を取っていた。
「パキリリェッタさん、平気ですか?なんだか元気ないみたいですけど。」
「うん、へいき。待ってもらっちゃってごめんね。食べよ?」
他人に気遣いを見せるパキリリェッタをフリョッハは初めて見た。間違いない、この子は相当参ってしまっている。
「「あなたがより多くと結ばれますように。」」
祈りを済ませて各々食べ始める。世話係達にはキャタとポルが配給される。
「初めての授業はみなさんどうでしたか?」
「「楽しかったよ。」」
五つの口から同じ感想が出力される。
「最初だからはじまりとおわりを結ぶ歌ですよね。けっこう難しかったと思いますけど。」
「「でも先生がよく説明してくれたし。」」
「それにパキリリェッタさんがいろいろ質問してくれたから私たちだけだったらきけなかったようなことまで聞けたよ。」
「へえっすごいじゃんリエッタ。勇気あるね。」
落ち込むパキリリェッタを少しでも元気づけてやろうとフリョッハが大げさに褒める。
「だってどういう意味なのかほうとうにわかんなかったんだもん。」
「素直に質問できるのはいいことですよ。」
それでもパキリリェッタは不服そうだった。
「いろいろ聞いても半分くらいおんなじ答えだったよ?空と海がひとつってどういうこと?っとか太陽が二つ産まれたっていうけどひとつしかないこととか<大樹>の実から動物が産まれるってほんと?とかきいても『それはべつの歌です』ばっかり。意味わかんない。」
「それは確かに、がっかりだったね……」
フリョッハも苦笑するしかない。
「でもそれは語り部の方の言う通りなんですよね。これから色んな歌を聞かせてもらっていけば少しずつ分かってくると思いますし。」
「そういうもんなのかなあ……」
あちこちで食事を終えた蚕の精達が立ち上がり自分の小胞に戻っていく。白い身体に白い衣の彼らの姿はいつ見ても現実味がない。却って足が生えているのが嘘のよう。
ピォルモの担当の五人も「ごちそうさまでした」とだけ言って小胞に入った。五人横並び、パキリリェッタの小胞の左隣だ。
「この後はあの子達はなにするの?」
フリョッハが尋ねる。
「お昼寝です。」
「え?」
「はい?」
フリョッハが戸惑う理由をピォルモは理解できなかった。
「蚕の精って……お昼寝するの……?」
視線を右隣のパキリリェッタに移す。
「わたしお昼寝なんかしないもん。」
「えーっと……それは、どうなんでしょうねー……?」
ピォルモも対処に困っているようだ。
「それよりわたしお外出たい。今日まだだれにもちやほやされてないし。」
「まあリエッタならそうしたいよね……」
あざとい発言には敢えて触れずに軽く賛同の意を示す。
「うーん……パキリリェッタさんは他の子とは違いますもんね。そのためにフリョッハさんがいるわけですし。一応聞いておきますけど、ほんとうに眠くないんですよね?」
「うん、ぜんぜん。」
「それじゃ、お二人は出かけてきて下さい。誰かに聞かれたら僕が答えておきます。」
「ありがとうピォルモ。だいすき。」
「あわわわわわ……」
うぶな小鳥の精を残して一人だけ緑と茶の衣をまとった蚕の精は自分の小胞の奥から葦藁帽子を掴むとするすると螺旋階段を下りていった。
その日の午後の授業にパキリリェッタが出席することはなかった。いつものように市場を散策している内に同じくらいの背丈の虫の精の子供達と知り合って遊んでいたのだった。日も暮れ気まずくなったフリョッハはパキリリェッタを連れて二四階に帰った。
「ふぃーっ、つかれたあ。」
寝室に戻るなり寝台に仰向けに跳び込むパキリリェッタ。
「授業さぼっちゃって平気だったかな……」
生来真面目なフリョッハはやるべきことは面倒でもきっちりと済ませる性格。
「いつまでもくよくよしてたってしかたないよ。わたしは他の子たちとはちがうのです。」
「一応リエッタのことを心配してるんだけど……気楽でいいね、リエッタは。」
日中開け放っていた窓の戸を閉める。夜の間中開けておくには春の初旬はまだ肌寒い。普段なら夕食にする時間だが、今日は一緒に遊んでいた虫の精の家で御馳走になったのだった。後はもう帰るだけ。
「おねえちゃん……」
うつ伏せになったパキリリェッタが暗く呼びかける。
「あした、授業出なきゃだめかな?」
「理由によるかな。」
「えー……」
それ以上は言葉を費やしたくないと言った様子の幼子の脇にフリョッハが座る。
「そんなに授業つまんなかった?」
「結ばれざりしもの……」
「え?」
枕に擦り付けていた顔をフリョッハに向けるパキリリェッタ。
「解けた結び目がね、出たんだって。みんなも見たって。」
「みんなって、今日遊んでた子たち?」
「そう。」
解けた結び目。フリョッハも何度か聞いたことはある。島の住人達はみなそれぞれ結ばれ合っていて、互いに面識がなくとも必ず共通の知人がいる。無数の糸が撚り合わされ重ね合わされることで丈夫で美しい布に仕上がるようなもので、誰もがより多くと結ばれることを望んでいる。
ところが、そうでない者が時折現れる。誰とも結ばれることのないただ一本の糸のままの存在。姿を見せず、何も語らず人知れず死んでいく不可解不可知の存在にして有形の非存在。
「おねえちゃんは見たことある?」
「べつに、ないけど……」
パキリリェッタの大きい瞳がきらっと輝く。
「見たくない?」
「やだよ、なんかこわいし。」
「今回のはなんかとっても足が速いんだって!さがしに行こうよー。」
まったく、この愛らしい生き物は自分の願いを相手に聞き入れさせる方法を熟知していた。絶妙に困ったような表情を小さな顔の上に作り上げる。
「いいでしょ?おねがーい……」
「わかったよ。勝手にいなくなったりしないでね。」
「やったっ!」
「それと、午前中は授業に出てもらいます。」
「えっ」
「遊ぶのは午後からね。それでいいでしょう?」
「わかったよぉ。」
仕方なさそうに身を横たえるパキリリェッタ。その姿を照らしていた光の精が不意に吹き消え、手探りで寝台に腰かけると着ていた衣の紐を解き幼子の傍に横になった。鳥の精は翼を傷つけないよう必ずうつ伏せで眠る。より繊細な翅をもつ蝶の精やトンボの精も同様。
「おねえちゃん、ありがとね。」
「うん?」
パキリリェッタがフリョッハの耳許で囁く。
「わたしのためにがんばってくれてるんでしょ?ピォルモにおしごとのこと教えてもらったりとか……」
「ん、まって。どうしてそれをリエッタが
知ってるの?」
灯りのない部屋でフリョッハの顔は<大樹>の果実のように真っ赤になっていた。
「じつはわたしも聞いちゃった。」
「あー、アナイが話しちゃったんだね。あれでいて口が軽いとこあるから……」
「ちがうの!わたしも聞いてたの。あのとき。夢の中で。」
「えっ、それじゃあ半分起きてたってこと?」
「そう、なのかなあ。よく覚えてないけど夢であの三階のお部屋にいたよ。水の中みたいに浮いたり沈んだりしてたけど、その部屋にわたしとおねえちゃん二人っきりだったの。それをわたしが上から見てた。」
「それで、わたしたちの話し声が?」
「もっと上のまぶしいところから声が降ってきたの。」
「それって、もしかして……」
半ば躊躇しつつも、フリョッハは尋ねた。
「もしかしてぜんぶ聞こえてた?」
「うん。」
「そっか……」
恥ずかしい気分を超えて脱力感が全身を巡る。
「おねえちゃんが今までおせわがかりをやらなかった理由……」
「あー、話したねそういえば……」
しばしの沈黙。大きなあくび。
「あんまり思いつめないでね?わたしは今の、おねえちゃんのままで、いて、ほしいから……」
それだけ言い残して、パキリリェッタは再び夢の中へ――脱皮の際の夢に比べれば遥かに浅い夢の中へ――潜っていった。フリョッハが可憐な花を慈しむように彼女の頭を撫でる。繊細な細く透き通る髪はもう既に軟らかな頭皮を覆いつくしている。暗闇の中でその儚い感触を確かめている内にフリョッハも眠りに落ちた。