一日目
アダムとイヴが去った後のエデンの園で繰り広げられる妖精達の恋の物語、完結――
一日目
待ちに待った日がやってきた。島の上で暮らす人々にとって。<大樹>の麓に棲む者達にとって。八〇日間に及ぶ秋は天の上の者達の孵化を以て終わりを告げ、生けるもの全てにとって喜ばしい季節が再び訪れる。間近に迫ったその瞬間を一目見ようと押しかけた人々で最上階に至る階段はごった返していた。普段静まり返った聖域もこの日ばかりは歓喜の声で溢れる。
誕生の奇跡は日々島のあちこちで起きてはいるものの、蚕の精の孵化はやはり特別だった。それは雲の化肉を表象し、自然との交流を図る重要な手がかりのひとつだった……自分の中に世界が内包されているという思想が語られていた頃と比べれば熱狂の度は更に激しくなっていた。このようなある種の崇拝が発生した背景には自分と環境を切り離し相対化する考えが広く浸透していることを意味した。
<大樹>を縦に貫く吹抜けを一陣の風が駆け抜ける。アサギマダラの精達が最上階へ向かっているのだ。
秋の始め頃ルーラッカで産まれ育った親達が長い旅の末カラルに戻り、産み落とした卵から孵化した彼らだけが蚕の精の卵に謁見することを許される。
壁を埋め尽くす六角形の小胞はおよそ九〇〇の卵のために蜜蝋を塗り替えられており、一帯にほんのりと甘い花の香りが漂う。ひとつの小胞にひとつずつ据えられた卵はどれも幼い身体と世界とを隔てる薄い膜が今にもはち切れそうに膨らんでいる。それぞれに宿った四精霊が結びつきを強めつつある中でアサギマダラの精達が彼らの誕生を祝福する舞踊を捧げた。風の使いが無言で言祝ぐ中で、雲から降り立った聖人自ら世界を隔てる殻を破った。卵から孵った幼児は、羊水から流れ出た胎児は、いずれも全身を黒い毛で覆われていた。透き通るような白ではなく、尚も風色の翅の踊り手は舞い続ける。半狂乱になりながら、それでいて一言も発することなく旋回し続けた。
大気から直接酵素を取り込むことに慣れてくると、ようやく子供達は目の前の他者に注目した。微細な黒い体毛の隙間から覗かせてた黒い両眼と六対の単眼には眩暈を誘う踊りはどう映っているのだろうか。ただ不思議そうに見つめる八〇〇人の兄弟達の表情からは読み取れない。
やがて黒い子供達は再び苦しみ始める。産まれてきた時のように。足許も覚束ないまま再び深い内的世界の海に投げ込まれ、そうして最初の脱皮を経験するのだった。眠りから覚める頃には全身の毛はすっかり抜け落ち、馴染みのある白い姿に産まれ変わるのだ。
正午を過ぎても、<大樹>の中は春を寿ぐ歌を唱和する陽気な妖精達で溢れ返っていた。寧ろ蚕の精達の目覚める時が近づくにつれて熱気が高まっていくかに見えた。今日が最大の盛り上がりであるにはしても数日はこんな調子が続く。あまりの賑やかさに嫌気が差した者はすごすごと出ていくしかない。アオミミハチドリの精も、追い出されるようにして街に出た一人だった。
「お祭りは好きでもお祭り騒ぎは好きになれないんだよね……」
軒並み休業の市場を歩きながらそう呟いt。
両手を後ろに組んで当てもなくふらつく少女だけが、その時空を見ていた。白い雲から覗く朗らかな春の晴れ間を、突然湧き出した黒雲が埋め尽くし、やがて空全体を黒く染め上げてしまった。
「なんでなんで?!こんなことって……!」
言い終えるが早いか、雨の滴が顔を濡らす。その後は滝のようだった。
「落ち着いて。いつまでもこのままってわけじゃないから。」
突然の声に少年の混乱は頂点に達した。辺りを見回しても誰もいない。だが地面から黒黴が湧き出るのは見つけた。死者を迎える蔓が伸び、その中から何者かが現れた。
「あんた、もしかして……」
語り部の伝承で聞いたことがあった。地の底に魔を統べる魔王在りと。髪を掻き上げるかのような仕草で身体に付着していた黴が払われると、ようやく全貌が露わになった。
「知ってる……地下にいるものたちの中でわたしたちみたいな恰好をしてて言葉の通じる人が一人いるって……あなた、魔王でしょ。」
「なんですって?」
「でなきゃ魔王の娘。王と呼ぶには威厳が足りないし。」
不意を突かれはしても聡明な少女はすぐに事態を把握した。長い間地上に顔を出さなかったために地上の伝承が変容したのだ。
「あなたにだけ教えといたげる。根の国にいたのは二人よ。それで、ついこの間わたし一人になった。そんなに驚かないで。根の国も世代交代するの。あなたたちほど頻繁ではないにしてもね。ついでに言えば、わたしは魔王なんて呼ばれたくない。わたしは根の魔女のフリョッハ。」
凍りついたままの少女にでこぴんをお見舞いして魔女は歩き始めた。一歩進むごとに豪雨は弱まり、雨は縮んでいった。やがて先ほどまでの心地良い陽射しが戻る。
「うそ、あなたが雨を降らせたの?そんなことができるの?」
自分より背の低い少女に少年が詰め寄る。
「わたしの心は常に悲しみの中にある。」
言葉の意味を考えて少女は再び立ち止まったものの、重大なことに気づいて再び駆け寄った。
「この方角って、まっすぐ行ったら<大樹>じゃない。地の下の者は中に入れちゃいけない決まりになってる。」
「でもなぜそうなのかはわからない。でしょう?」
かつての親友の面影をかすかに残す少女は魔女の皮肉に沈黙した。
「タリキットゥフェブリは望み通りに改革を施したようね。でも失敗。不都合な迷信を捨て去っても、いずれ新しい迷信に囚われることになる。真理から更に遠く離れた、甘美な虚構に。」
「タリキットゥ……?それって確か四、五代前の最長老の名前?なぜあなたが……」
<大樹>を前にして、ずぶ濡れの根の魔女は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気で小さな肺を満たした。
後を追う少女は深まるばかりの謎を扱いきれず悲鳴を上げるかのように疑問を口にした。
「もうずっと前から誰もあなたを見てなかったはず。なのにどうして、今日、ここに……?」
ハチドリの魔女自ら言葉を打ち出だし、歌い述べてこう告げた。
「甘美な虚構の中にも確かなものがあるなら
わたしはそれを抱いて生きていける。
永遠の愛が虚構の中にしかないとしても
成就を願う心は確かだから
想いだけが時を超える
目に見えないものだけが永遠なの
太陽の生涯は短くとも
太陽の軌道は不変であるように
月も同じ
わたしの中に太陽があり
あの子の中に月がある
必ずまたいっしょになれる
今日がその日……」
歌の途中で魔女は言葉を噤んだ。彼女のふくらはぎに懐かしい感触が伝ったからだ。足許を見れば、白い幼精がいたずらっぽい笑みを浮かべて抱きついていた。その眼差しには確かな覚えがあった。
「はじめまして、パキリリェッタ。」
「おね、ぇさん、だあれ?」
拙い言葉で尋ねる蚕の精。身体を洗いに砂浜へ行く途中で脱走したのだろう。遠くで世話係と思しき女精が叫んでいる。
「わたしはフリョッハ。仲良くしてくれる?」
「うん!」
その純真無垢な笑顔に魔女の顔も綻びた。こうして、天体の運航の韻律は永い時の果てにかくもめでたく再現されたのだった。
本作はこれにて完結となります!最後まで読んで頂いてほんとうにありがとうございました!!
これから推敲して、終了次第製本してコミティアなどの即売イベントで頒布を行いたいと思います。
本作は春の物語。夏、秋、冬の作品も書き上げて初めて完成としたいと思っていますので、これからも気長にお付き合い頂けると幸いです。
本作はこれにて完結となります!最後まで読んで頂いてほんとうにありがとうございました!!
これから推敲して、終了次第製本してコミティアなどの即売イベントで頒布を行いたいと思います。
本作は春の物語。夏、秋、冬の作品も書き上げて初めて完成としたいと思っていますので、これからも気長にお付き合い頂けると幸いです。




