三五日目
あと二回の更新で完結となります。
無意識の海面へと意識が浮かび上がってくるにつれ、甘酸っぱい異臭が鼻孔に充満していることに気づく。居間のソファでぐっする眠り込んでいたブレンオーネンがむっくりと起き上がり匂いの元を探る。正体は間違えようもない。その花蜜酒の香りは、まだ彼女に弟や妹が産まれる前、彼女が一人娘だった頃父の醸造小屋へ連れ出されて小さな肺いっぱいに吸い込んだ思い出の残り香。数日前の<惨劇>以来、彼女は父の姿を思い出させる酒を口にしていなかった。
食卓のテーブルには少量の酒を詰めていたであろう竹筒が三本も、空になって転がっている。翼に変化した両腕で器用にそれを手に取ると、滴っていた赤紫色の滴を舌に垂らした。
「父さんのとは違う……よそから買って来た酒ね。ロッテュが飲んだのかしら。それにしても……」
彼女の推察通り、父の寝室で眠る弟の許へ行くと、一際酒の匂いが強まった。
「あんた、いつから酒なんか飲むようになったわけ?」
「…………昨日から……」
寝言のような呟きの中から辛うじてそれだけ聞き取れたものの、それでもまともな会話とは呼べない。短気なブレン自ら二対の翼をハチドリにしかできない速度で羽ばたかせ、発酵した花蜜と果肉の匂いと共に、うずくまるクロッテュを庇っていた掛布団を軽々部屋の隅へ吹き飛ばしてしまった。
「気に病むことじゃないでしょう?タリキットゥは島を元に戻すって宣言通りに改革を行っただけじゃない。それに、そうでなくたって前任者と血の繋がりがあるからなんて理由で有利になるようなことは、あってはならないのよ。」
「ふむんにゃんぐにゅむにゅむりゅりゅる……」
「お姉ちゃん……んふぁあーあ、朝からどうしたの?」
「聞いてよ、ロッテュがね……」
「ああ、フリョッハ、出歩けるくらい元気なようならバラールさんに会いに行ってあげてくれないか。」
「え?いいけど……」
「昨日会いに行ったらひどく落ち込んでいてね、何とか元気づけてあげたいんだ。」
「うん……わかった。」
「待ちなさいよ。」
平然と交わされる二人のやり取りにブレンが割って入る。
「あんた酔っ払ってたんじゃないの?私に嘘ついたわね!」
かくして取っ組み合いの喧嘩が――クロッテュが一方的に取っ組まれ捻じ伏せられているだけなのだが――が始まった。呆れたフリョッハはさっさと自室に引っ込む。
「二人ともわたしには優しいのに、二人だけになると昔に戻っちゃうみたい……」
生来の気性の違いのためにブレンとクロッテュには幼い内から個室が与えられていたと聞いたことがあった。そしてブレンがよそへ嫁ぎに行くまで、当時二歳だったフリョッハは彼女と相部屋だった。かつては両親の寝室だった部屋に、母との思い出を持たないフリョッハさえ母の温もりをかすかに感じ取れるこの空間で二人きりでいる間、ブレンは優しく、心底頼りがいのある姉だったことを昨日のことのように思い出した。
ひょっとするとこの騒がしくも幸福な日々は彼らよりひと足早く根の国へ赴かねばならない自分へのせめてもの贈り物、ないしは慰めなのかも知れないと、フリョッハはしみじみ思った。
その贈り主とは?それはもちろん、彼女から両親を奪った<大樹>に他ならない。
薄暗い森に分け入って老女の棲み処を訪ねるのは心細くはあっても難しくはなかった。<大樹>を取り囲む森を成す樹々の幹の上に築かれた家並みには再び住もうという努力の兆しが見え始めていたものの、バラールブローメが隠遁したという東の森に奇跡的に残されたまばらな家々は住人を失ったか放棄されたかして全く顧みられていないのだった。
<惨劇>の際に家が呑まれたことで幹だけが不気味に直立する森を進んで数軒の空き家を訪ねて歩き、そうして辿り着いた。
「ばば様……?」
家の中にまで立ち込める朝靄の陰鬱な湿気の中にかすかな生命の気配を感じ取ったフリョッハは恐る恐る玄関に架けられた青い暖簾をくぐった。
奥の寝台でうずくまっていた老婆が身を起こし来訪者を見定めようと目を凝らす。出入り口から射し込む陽射しが逆光となって鮮やかな鱗も彩度を失って見える。手で触れられる距離までやって来たところでようやく、それがフリョッハだと気づけた。
「いつからここにいたんですか?てっきり<大樹>にいると思ってわたし……」
「私はもう、<大樹>にいるべきではないのです。」
「自分のせいだと思ってるんですね。」
「ええ――」
口を閉ざしもの思いに耽るのをフリョッハは咎めなかった。かつての最長老は往時の面影を失ってすっかりやつれ果てていた。皺皺の顔でありながら溌剌とした印象を与えた彼女の今の姿は取るに足らない枯れ葉そのもの。毛髪の一本一本、羽毛の一枚一枚に至るまで艶を失っている。実際、風に弄ばれた末に枝から摘み取られ、はらはらと舞い散る一枚の葉と彼女の末路は全く同じだ。地面に落ちればたちまち呑まれ、跡には何も残らない。僅かな痕跡さえも。尤も、本人はそれを望んでいるようだった。いち早く忘れ去られることが彼女の犯した過ちを洗い流す唯一の方法であるなら、余生を孤独に過ごすのも彼女にとっては意味のないことではないのだった。
「向こうでは何か変わった動きがありましたか。」
「昨日新しい最長老が選ばれました。タリキットゥフェブリです。そのあと五人の長老の選出が始まって、たぶん今日もそれを」
突然大きく鼻から息を吸い込む音にフリョッハは驚いて口を噤み、自身の発言を思い返した。
「そっか、昨日兄さんからも同じ話を聞きましたよね、ごめんなさい。」
「ひどく落ち込んでいましたけど、今朝はどうでしたか?」
「朝からお姉ちゃんとけんかしてたから、元気になってきてると思います。自分のことよりもばば様のことを心配してました。」
「そうでしょう。誰もが誰かを想って生きている。己の欲に固執すればたちまち、悲劇が……」
その言葉は明らかにバラール自身の内省が漏れ出たに過ぎなかったものの、フリョッハは一瞬心を見透かされたような感覚に囚われ返事に躊躇した。
「お兄さんに言われてここへ来たのでしょう?」
「そうです。励ましてほしいって言われたけどわたし、なにを話したらいいか……」
「もっと近くへ……よく顔を見せて下さい。」
そう言われてようやく、フリョッハは寝台の脇の様子に腰を下ろした。底知れない魔性を内に秘めたあどけなさの残る顔を覆う黄緑色の鱗を老女のしなびた手が撫でる。思えば誰かに触れられるのは少し久し振りのことだった。パキリリェッタと睦まじく言葉を交わした春三〇日目以来だろう。
「ひとつの果実に四つの種。この意味が分かりますか?」
「ばば様、またその質問?」
冗談めかした調子で尋ねるバラールにハチドリの娘がはにかむ。道往く人にそう訊いて回るのが彼女の若い頃からのささやかな楽しみであることを、フリョッハも知っていた。
「私達をかたちづくるごく基本的な要素についての根源的な問いかけ。だからこそ人それぞれ答えが異なるのです。これまではあなたに尋ねるには幼過ぎましたが、今やもう大人の仲間入りも果たした。こうして死の間際に立って尚解を得られない私に、あなたの考えを聞かせて下さい。」
四つの種は四柱の精霊を表す。それは誰でも知っている。光、水、風。最後の一柱は誰も知らない。それは誰でも知っている。ここで答えるべきは、四番目の精霊の正体。誰も知らないものについて自分だけが知っていると宣言するのは勇気が要る。
伸びやかなハチドリの精は考え、思いを巡らした。そして自ら言葉を打ち出だし、歌い述べつつこう告げた。
風と水が雲から産まれた双子なら
光とそれも同じなにかから産まれたはず
それがなにかはわからない
わたしは海に問いかける
海は答えを持っていない
それはあまりにも古いできごとだから
海が産まれるより前のことだから
わたしは空に問いかける
空は答えを持っていない
それはあまりにも古いできごとだから
空が産まれるより前のことだから
わたしはわたしに問いかける
私の中の海原に、私の中の青空に
わたしの海は知っていた
わたしの空は語ってくれた!
太陽と月が産まれた瞬間を
腹違いの双子、その由縁を
海と空とが分かちがたく結ばれていた頃
星の核から光が打ち出され
雲を跳び越え淡く瞬いた
ひとつの月と千の星々
しかしそれではまだ足りない
さらに星は鍛造した
打ち出された火が雲を越え
激しく燃えて太陽に
こうして四精霊が揃うとついに
空と海とが分かたれて
昼と夜とが分かたれた
雲から産まれた水の精霊が海を創り
雲から産まれた風の精霊が空を創り
星から産まれた光の精霊が夜を創り
そうして最後に
星から産まれた火の精霊が昼を創った
娘が歌い終えるまでもなく、博識の老女バラールブローメは彼女が根の魔女としての素質を完璧に備えていることを悟った。表情においても言葉においても絶望に満ちた心境を隠そうともせず、老婆は吐き捨て断罪した。
「天の上の者達は問いかけはしても答えない。地の上の者達は答えを得ようとさまよいはしても決して得られない。いいえ、本心では辿り着いてはならないと知って敢えて脇道に逸れるのです。地の下の者達だけが謎を解き明かす。去りなさい、既に死んだ者よ。根の国こそがあなたの棲み処。陽の当たらない湿地こそ似つかわしい。雨の日にのみ姿を現せ、我らの過ちを正す時にのみ。<大樹>の怒りを買ったときにのみ!」
屈託のない賑やかさを取り戻しつつある<大樹>をさながら亡霊のようにゆったりと上昇していく。普段なら一段飛ばしで駆け上がる螺旋階段の一段一段が恐ろしく高く感じられたものの、決して翼に頼ろうとはしなかった。その瞬間を少しでも遅らせたくて、一歩一歩を踏み締めるように進んだ。
「おかえり、フリョッハ。バラールには会えたかい。」
刻一刻と赤みが増してゆく日没間近の陽射しを浴びて、クロッテュや彼のいる部屋、その他目には見えないはずの産まれ育った家での思い出全てが真っ赤に染め上げられ燃え上がっていくかのような錯覚に囚われ、自らの身体を押し倒そうとする立ち眩みに抗って立っているのがやっとだった。
「フリョッハ、……?」
「お兄ちゃん、わたし……」
妹の様子を怪訝な顔で見つめるクロッテュは、彼女が何かを言いかけて黙ってしまった間、その続きをいくつも想像した。ほんの一瞬のことのように感じられたが、それなりの時間が沈黙に費やされていたようで、その結果、妹の影が陽が沈むにつれて急速に伸びてゆく様を逡巡する意識の中で見つめることになった。
「わたし、魔女になるから」




