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天体運航韻律再現譜 One of a Song of Imbolc  作者: 石田五十集(いしだ いさば)
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三四日目

進捗状況、裏話、その他色々はTwitterにて。


https://twitter.com/acrylyric

(このままだと……まずい……!)

 寝台にうずくまるフリョッハは焦りを感じ始めていた。ブレンの言いなりになるがまま自室に引っ込んで三日目の朝。雑な性格ではあっても面倒見の良い姉は帰る素振りも見せず、相変わらず居間で寝起きしている。体調が回復するまで看病すると言って聞かないが、それでは困る。彼女の体温が下がることは決してないのだから。

「正直に打ち明けるのが何より良いさ。」

「うわっ、わ!」

自分しかいないはずの部屋の箪笥の影から根の魔女のブロデゥユンが立ち上がる。

「いつからそこに……?」

 陽の射さない場所があたしの領域。闇があたしの潜む場所。全ての物影が通り道。殊更あんたの闇は深い。火の精霊を容れて尚隅々まで照らせないとは。」

「ねえ、それよりどうしよう。このままだとわたしおしっこするとき以外に外に出られないんだけど。」

「対処の仕方ならとっくに教えたさ。」

「それはまだ心の準備がさあ……わかんない?」

「鈍い子だね。とっくに言ったろう。」

 そう言われてようやくフリョッハは思い当たった。確かに既に習っていた。

「火は水でしか鎮められない……」

 火を宿した処女は瞼の裏の闇の中で己の内面に目を向けた。

「リヨッハ、もう起きたのー?」

「しっ、集中するんだ……貝殻を耳に当てた時のことを思い浮かべる。あたしの中に海があり、あたしの中に空がある。あたしの海に波はなく、あたしの空に雲はない。」

「私の中に海があり……」

 姉の声にいくらか動揺した心を落ち着けて魔女の歌を口ずさむ。

「って言うかブロデゥユンさん、このままだとお姉ちゃんに見つかっちゃうよ?」

「あたしのことを気にしてる場合かね。至高の叡智に境はなく、あたしの中に凡てがあり、凡ての中にあたしがある……」

「至高のえいちに」

「さっきから聞こえるの独り言なの?誰かと話してるみたいに聞こえるけど……」

 丹念に雑巾がけされた床板の上を裸足でぺたぺた進む足音が段々と近づいて来る。魔女はフリョッハの耳許で相変わらず歌を囁いている。そうして姉の艶やかな体躯が暖簾越しにちらりと現れると、たまらずがばっと跳ね起き、出入り口の前で立ち止まった。

「お、おはよ!お姉ちゃん。」

「おとなしく寝てないと熱上がっちゃうでしょ?」

「へ、へいきだもん!もう下がったよ。」

 寝台に寝ころんだままの根の魔女を庇って背伸びするフリョッハの不自然な仕草を疑わしげに思いながらも体温を測るため妹の愛らしい額を隠す柔らかい前髪を掻き分けようと手を伸ばす姉を、透かさず振り切る。

「ほ、ほんとにだいじょうぶだから。」

「さてはリエッタちゃんに嘘のつき方を教わったわね?ほら!逃げてないでちゃんと立つ!」

 あまりの迫力に言われるがままその場に直立するフリョッハ。手指の先までぴんと伸ばしたその姿に苦笑しながらも膝を屈めて右手を自分の額に、左手を妹の額に当てて体温を測る。その間、両眼を閉じたフリョッハは必死に魔女から教わった歌を唱えていた。

「……ほんとだ、嘘みたいに下がってる。」

「嘘じゃないってば。」

「昨日飲ませた薬が効いたのかしら……でも一晩寝ただけで?」

「あたし出かけるね。」

「だめだめ、治りかけでぶり返すのが一番重症になりやすいんだから、まだ寝てなきゃだーめ。」

「心配しすぎだし。これ以上寝てたらかえってぐあい悪くなっちゃう。」

 出入り口に立ち塞がる姉をすり抜け居間に躍り出たフリョッハが自分の失態を悟った時にはもう遅かった。

「もう、お布団が起きた時のまんまになってる。誰に似たの?ほんと……」

「そっちは」

 寝そべる魔女を無視してぐちゃぐちゃの掛け布団が丁寧に整えられていく。

「あたしの姿はあんたにしか見えない。」

 その言葉の意味を飲み込めはしなかったものの、ぼんやり立っていてはまたブレンに捕まってしまう。そう思い直して玄関を出た。

「朝から喧嘩してたの?」

 ほとぼりの冷めた頃を見計らって父の寝室で寝ていたクロッテュが顔を出す。

「あんな小さい妹相手に喧嘩なんかしないわよ。すっかり元気になっちゃって、さっさと遊びに行っちゃった。」

「元気になったなら良かったじゃないか。」

「あんたはあの子に甘すぎ。リヨッハがいつまで経っても甘えんぼなのはあんたが原因よ。父さんも悪いけど。」

「分かった分かった。」

 本人が元気になったと言うのも聞かずに寝ているよう命じるのは甘やかしでなければ何だと言うんだ、とは幼い頃から勝ち気な姉との喧嘩で勝てた試しのない弟は決して口にしなかった。彼女が得意とするホバリング飛行を駆使しての飛び蹴りがぎりぎり届かない間合いを保ちつつさらりと話題を変える。

「最長老の候補者は五、六人しか出なかったらしい。午前中に誰が選ばれるか発表があるとクィリナッハが言ってた。」

「そ。で、あんたはどうするの?最長老が決まったら残りの空席を埋めてくことになるはず。」

「うん……今は無理でも、ゆくゆくは父さんのように長老を任される立場になりたい。今までずっと蚕の精の世話係を統べる長老は女性の仕事だった。その道を男性にも開いてくれたのが父さんだ。父さんが母さんの遺志を継いだように、僕は父さんの遺志を継ぎたい。」

「そう。せいぜい頑張んなさい。」

 しんみりした空気に不慣れなブレンはこのむずむずした居心地の悪さを解消すべく、油断しきった弟に軽い飛び蹴りをお見舞いしたのだった。


「わたしの中に海があり、わたしの中に空がある……」

 フリョッハの見立て通り、北の砂浜には誰もいなかった。空を覆うように発達した<大樹>の枝葉によって一日を通して海水が温まることがない上、中枢機能の混乱によって水上林の世話をする者さえいない有様である。万一浜を歩く人に見つからないよう林を挟んだ向こう側の沖合に、彼女は潜っていた。

「わたしの海に波はなく、わたしの空に雲はない……」

 自身の発する熱で絶えず火照っている彼女にとって、普通であれば凍え上がるほど冷たい水もひんやりとして心地良い。しかしまともに光の射し込まない昏い海の中では心を鎮める歌はいくらか利き過ぎてしまうようだった。気づいて歌をやめても指先の感覚が戻らない。

 そこで伸びやかなハチドリの精、自ら言葉を打ち出だし即興の歌を述べた。巧みな魔女への意趣返しのつもりだった。

「わたしの中に太陽がある

わたしの中に三つの目玉が

 月を三つ合わせたほどの明るさで

千の星々を合わせたよりも熱く」

 心臓の辺りがかっかした。全身を血が巡るにつれ寒さは消え、夏の陽射しに晒されているより熱く感じられた。

「力試しはその辺でおやめ。」

 はっとして目を見開くと目と鼻の先にケツァールの精がいた。根の魔女の言葉で我に返ったフリョッハはようやく、辺り一帯がぶくぶく泡立っていることに気づいたのだった。

「魔女さん、これって……?!」

 海面に顔を出したフリョッハが息継ぎの末尋ねる。

 火のない島の上で水が沸騰する様子を見たことなどあるはずないのだから困惑して当然だった。

「途轍もなく熱い物質が水に放り込まれるとこうなる。水の中ならまだ安全だが。地上でこんなことするんじゃないよ。」

 冷静に述べ立てる魔女にフリョッハは疑わしげな眼差しで両手を組み合わせて水鉄砲を作り、その真剣な顔に遠慮なく水をぶちまけた。

「……どういうつもりだい。」

「わたしの寝台にいるときはまるで透けてるみたいになってたから、今もそうなのかなって。」

「さっきのは光のベールが剥がれ落ちたあんたの視界にあんたの心の闇を通してあたしの姿を投影しただけのこと。今はあんたの心の闇を通ってここにやって来た。いずれ見分けがつくようになるさ。」

「わたしにもそんなことが、できるようになるの?」

「実践は最後の総仕上げだ。その前に覚えるべき事柄が山とある。」

 泡が収まり、静けさを取り戻した海で揺られながら頭に浮かんだ迷いを白状すべきかかんがえていたものの、とうとう返事を聞きたい欲求が喉の奥から押し迫り舌の上で跳ねた。

「どうしても根の国に行かなきゃいけない?」

「永遠の生を地上で享受することもできた龍が自らの生命を犠牲にして火の精霊を封印したことの意味をよく理解することだ。愚かな娘、あんたは身勝手な欲望のために光の精霊を唾棄し、自ら望んで燭台となった。重い罪には重い罰を。これ以上身勝手な考えを起こすんじゃないよ。」

「あなたもずっと昔にわたしと同じ過ちを?」

「あたしは人間として正しい行いをしたまでのこと。あんたと一緒にしないで欲しいね。」

「どっちにしても同じことだね。」

「生意気言うんじゃないよ。」

 魔女の姿はブレンより一つか二つ上に見える。魔女になった由縁が身勝手であったにせよ、その願いは純粋だったことだろう。フリョッハの心は彼女に対する同情と共感で満ちていた。自分でも驚くことに、何もかもを置き去りにして地下へ退くことにさほどの未練を感じていないのだった。ただひとつ、心残りは……


 <大樹>の一階では中央のみに円い空白を残してそれを取り囲むように人だかりができていた。その波は螺旋階段を埋め尽くし、はたまた<大樹>の外にまで押し流されていたものの、その目は新しい最長老の登壇を今や遅しと待ち構えていた。

 実のところ、彼らは誰が就任するのかを既に知っていた。議論する声は暖簾の架かった出入り口から何の妨げもなく漏れ出て通りすがりの人々の耳に入ってしまっていた。そうなればもう一度口から出ていくのは時間の問題。公然の秘密と言うにはあまりに周知された事実が公表をされるのを待ち侘びる人々の姿は滑稽を通り越してひたすら律儀だった。

 会議が催された一階の一室から鳥の女精が歩み出た。夕焼けが海の下へ沈む際に放つ光の最後のひと雫を垂らして染め上げたかのように気だるくも鮮やかな明るい茶色の髪を耳の上で切り揃えているため、その横顔は黒い羽毛で縁取られた切れ長の目が与える理知的な印象を強く与えた。決意に満ちた表情からは多くの経験を重ねたことを示す慈愛の心と若々しい活力の両方を見て取ることができた。

「全ての人々のために尽くします。」

 使命を果たすために立ち上がった者に特有の力強い足取りで中央の円い台に登壇すると、拍手が鳴りやむのも待たず宣言した。

「全ての人々が再び平穏な暮らしを取り戻せるように。私達は長年誤った考えの者を指導者に据えていました。私利私欲を満たすため、自然の摂理に反していることも顧みることなく行動し続けた。最初は取るに足らないほど些細でごく個人的な変化だったのでしょう。でもそれを地上の全員がやり始めたら?長い間誤りを許容し続けたら?その答えを、私達は知っています。結果を、私達は目の当たりにしたのです。

 あの日、尊い生命が犠牲になりました。誰もが誰かを失いました。私は二人の子供を。彼らは一体何の犠牲に?私達より前の世代の過失の犠牲でしょうか?断じて違います!」

 亡くなった大クロッテュとさほど年齢の変わらないように見える。女精の燃え上がるが如き剣幕に圧倒され、聴衆からは祖先や年長者を貶める彼女に対する非難の声は全く上がらなかった。さながら波のない海のように静まり返っていた。

「彼らの過ちがいかに愚かであろうと、今回の被害はあまりにも甚大です。死にゆく枯れ葉はことごとく呑まれ、それだけでなく、育ちゆく若枝までが刈り取られた。なぜでしょうか?それは、今回の犠牲は、過去への償いだけではないからです。取りも直さず、未来の繁栄のため。更なる豊かさのためなのです。より多くと結ばれた人々が産まれ変わって再び地上を訪れるまでに、私達はこの世界を正しい姿に戻さねばなりません。痛ましい悲劇を繰り返さないために、美しい世界を次の世代へ譲り渡すために!」

 ルリガラの精、タリキットゥフェブリ、新たな最長老は述べ終えた。彼女の演説をどう評価して良いやら、人々が顔を見合わせている間に彼女は聴衆の間を横切り元いた部屋に引っ込んでしまった。大きな拍手と歓声が沸き起こったのはその後のことだった。彼女が自分自身によって提示した強いリーダー像は多くの人にとって見慣れないものではあったものの、不安に囚われた彼らにと手はこれほど心強く感じられるものは他にない。新最長老は人々の熱狂の内に迎えられた。だが遥か上の階で遠巻きに成り行きを眺めていたクロッテュロナンだけは、彼女の主張に織り込まれた「元に戻す」と「未来の繁栄」という、矛盾の見られる言葉に一抹の危うさを感じていたのだった。


 かくして新最長老を交えての五人の長老を定める会議が催された。最初に話し合われるのは何を差し置いても蚕の精の世話を統括する者について。予め何人か候補が挙げられ、さほどの時間は費やされずに一人の女性に定められた。前任者の子息であるクロッテュが推されることはなかった。若過ぎる年齢と役職が特定の家系の出身者に独占されることが望ましくないことからも、それは当然のことではあったものの、最長老が締め括りに言い放った言葉が彼の希望を打ち砕いた。

「痛ましい災いの原因はいくつも見出だせますが、その内のひとつは蚕の精の世話という、極めて繊細な作業に男性ツァヒルが起用されたことにあります。養い育てる役割は本来女性が担うべき責務。単なる世話係ならともかく、今後蚕の精を管理する長老の座を男性が占めることは決してあってはならないと、この場を借りて申し上げます。

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