三一日目
自分自身を海中に漂う泡とするならその泡が生じた昏い海溝の最深部とでも呼べそうな場所へ潜るのは虫の精には容易くとも鳥の精には到底真似できることではないものの、肉体の変容を普段よりも細やかに感じ取ることならばできた。
伸びやかなハチドリの精は熱を感じていた。揺らめく光を感じてもいた。瞼を閉じても残像のようにじんわりと光が見える。だがこんなものは島にはないはずだ。熱と言い光の色と言い太陽に似ているが、それは手を伸ばせば届きそうなほど近くにある。そして奇妙なことに、もし手に触れれば熱さのあまり痛みを生じることも経験的に知っていた。しかし夢の中では常にそうであるように、些細な矛盾には気づきもせずぼんやりと眺めていたのだった。
じきに、夢での体験はより差し迫ったものになり始めた。今や身体中で熱を感じていた。どうやら眺めていたあの光は自分自身であったらしい。その熱さは形容のしようがなかった。だが言葉に言い表せないほど熱かったと言ってしまっては適当ではない。そもそも言い表すべき言葉を持ち合わせていなかったからだ。この熱を経験することを言葉の方が考慮していなかった。
虫の精であったならもっと早く見つけられたかも知れない。鳥の精の彼女でさえもう少しで思い出せるところまで来ていた。意図せずして原初の記憶を手繰り寄せつつあった彼女だが、やはり夢が常にそうであるように目を覚ました瞬間忘れてしまったのだった……身体が燃えるように熱かったことを。
寝台から跳ね起きた少女は自分の息遣いの荒さに内心驚いた。呼吸を整え滴り落ちる汗を軽く拭うとようやく膝の上に乗った光の精霊に気づいた。そうして思い出した。夢で見た熱のある光を。
「あなたが……悪さしたの?」
尋ねたところで返事はないものの、フリョッハは最初からそうではない気がした。光の精霊が放つ光は太陽よりも月のそれに近い。
貫頭衣はいつ脱いだのか、寝台の傍の机に畳まれて置かれていた。鱗に覆われ、羽毛に包まれてはいても彼女は裸だった。
視線を薄っすら広間からの光が差し込む出入り口に向けると、その影の中に見出だした存在によってようやく大切なことを思い出した。根の魔女を見た瞬間、全身の羽毛が逆立つのを感じた。
「リックスはどこ?」
「風色の翅の青年は、処女の接吻で息を吹き返した男はもう出て行ったよ。旅立った育ち仲間の後を追って、故郷の島を顧みることもしないで。」
「そんなはずない。なにも言わずに行くなんて!あなたが余計なことを言ったんじゃないでしょうね。」
「確かに二言三言述べはした。だがそれが余計だったとは思わない。あたしは求めに応じて説明したまでのこと。怪我が快癒した理由と倒れた乙女について。それらが同じできごとだったと話してやった。聞いた上であのろくでなしは仲間を追って旅に出たのさ。取り返しのつかない犠牲を払ったあんたに礼を言いもしないで。毎日けなげに看病したあんたを寝台に寝かせもしないで!」
「そんなの嘘よ!」
啼き声混じりの叫びを上げる少女に、魔女はおもむろに真水の入ったコップを勧める。
「今のはなに?わたしになにかしたの?」
「あんたの心を掻き乱しているのは、心を焼き焦がすのは火の精霊の仕業で、怒りの源泉となるものさ。身体まで焼かれずに済ませるには水の感情で鎮めるしかない。」
訝りながらも両眼に涙を溜めたフリョッハは勧めに応じてコップを受け取り飲み干した。いくらか気分も安らいだ。
「そう、その調子。」
彼女の興奮が治まったのを見て取ると、ブロデゥユンは自らが施した治療について語り始めた。」
「光の精霊が二つに分かれたのを見たことがあるかい。」
「いいえ。」
「だろうね。彼らは決して殖えない。消えたらそれっきり。あんた方の身体をかたちづくる光の精霊も同じさ。光を失った誰かを助けようと自分のを差し出せば、今度は自分が光を失うことになる。あたしだけが、悲劇の連鎖を止められる。」
深淵を知る魔女の目を覗き込むには勇気が要るが、今のフリョッハには難なくできた。魔女の金色の瞳には確かに異様な光が宿っている。だが今ならそれが光でなく炎なのだと容易く理解できる。
「島にいる誰も知らないほど昔、あたしでさえ朧にしか伝え聞いていない遥か古の時代、地上には五柱の精霊がいたと云う。その内の一柱である火の精霊は他の四柱の精霊達が千年かけて育んだ広大な森を一日と待たずに灰にしてしまったことから疎んじられ、龍によって地下に封印された。火の精霊を貯め込んだ彼らは無尽蔵の活力を得て生きたまま永遠の眠りに就いた。その内の一頭が<大樹>の真下で眠っている。龍の血を吸ったから<大樹>はああも大きく成長したのさ。おかげで今はもうその龍は骨だけになってしまったが。あたしはその後釜って訳さ。」
「龍の代わりに、あなたが火の精霊を護ってるってこと……?」
「そう。光の精霊と違って火の精霊は際限なく殖えるし大きくなる。だから目を離す訳にはいかない。誰かが絶えず見張っておく必要がある。」
今の話だけで一体いくつ初耳の情報があっただろう。もはや自分の想像しているものが正しいかさえ自信がない。だがその程度のことは魔女にはお見通しのようだった。
「まあ良い、理解するのは後だ。今あんたが頭に入れるべきは三つ。火の精霊を身体に宿した以上あんたが今まで通り地上にいられるのは一〇日が限度。それもさっきみたくいたずらに火の精霊を騒がせれば短くなる。あんたが感情を制御できないばかりに島が燃えてなくなる可能性がこれから先ずっとある。分かったね。」
「えっ、ちょっちょっとまって」
ひとつ目が重大過ぎ残り二つを聞き流したフリョッハには魔女の口を止めるのがやっとだった。
「ようやく自分の置かれた立場を飲み込めてきたようだね。」
「まって、わたしは……」
その言葉は口にするのも恐ろしかった。
「わたしは……根の魔女になるの……?」
ヴェルチンジェトリックスの病室を這い出るように立ち去ったフリョッハは、身体の中に感じる熱と裏腹に冷や水を浴びせられたかのように凍える心のまま父の待つ家へ続く階段を昇った。真夜中の<大樹>はしんと静まり返って物音ひとつなく、気まぐれについて来ている光の精霊だけが頼りだ。意思の疎通も不可能な精霊も今だけは心配してくれている気がした。
二四階まで歩いて昇るのは飛行に適して進化し足の退化したハチドリの精にとって楽ではなかったものの、心の整理をするには丁度良かった。だが整理などできようはずもない。
――一〇日後に根の国へ行く。奇しくも蛹となった蚕の精が羽化を果たすまでの期間が一〇日間である。地上を発つその日にパキリリェッタと再会して、それっきりなのだ。彼女の短い一生の最期を見届けずに済むことはこの場合、救いにはならなかった。
上昇と共に高まる苦悩に頭をもたげねばながらも、フリョッハは家に辿り着いた。暖簾をくぐると、予想に反して兄のクロッテュロナンがいた。窓から霧を通して白くきらめく朝焼けの光が差し込んではいるものの、まだ夜中と言って申し分ない。それなのに彼は食卓を囲む椅子に座っている。
「兄さん……?」
「フリョッハ。どこかに行ってたのかい。」
「アナイのお家。お祭りの間砂浜に行けなくて、一人でいるのさみしかったから。」
「そうか――」
彼の目に失望の色が浮かぶのを妹は見逃さなかった。どうやらとっさに思いついた嘘は小クロッテュに対して彼女の想像とは異なる効果を与えたらしかった。
「実はね、フリョッハ。」
「ねえ兄さん、父さんはどこ?」
「フリョッハ、落ち着いて聞いて欲しい。」
「いるんだよね?いつも通り、自分の部屋で寝てるんでしょう?!」
「フリョッハ、父さんはやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて




