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天体運航韻律再現譜 One of a Song of Imbolc  作者: 石田五十集(いしだ いさば)
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三〇日目

 全ての因果が収斂する運命の春三〇日目――


 ※毎回本編の後に続く「LEGACY」は、読んでいらっしゃらない方もいることと思いますが、次章の「LEGACY-0019」については本編に直接関わってきますので差し支えなければお読み下さい。と言うか、お読み頂かないと本編の理解に差し支えが生じるかと。

「原初の時、空には二つの太陽が輝いていた。その二つは同じ明るさで、今の月よりは明るいが今の太陽よりは暗かった。

 毎日産まれては死んでいく太陽は星の反対側を同じ速さで巡る兄弟の姿を見たくなった。自分達が眠りに就いた後再び目を覚ますまでの間に何が起こるのかを知りたくなったのだ。」

 太陽誕生祭の日には熟練の語り部達がこぞって太陽と月の起源説話を人々に語って聞かせる。例年通りなら島のあちこちに出払うものの、今年に限っては安易に<大樹>の外に出られないためまるで輪唱のように語り部の声が響き渡ることになった。

「二つの太陽は空と海がひとつに結ばれる場所から代わり番に産まれるために互いの顔を知らない。好奇心の旺盛な太陽は早く死ねばその分早く甦るだろうと考えた。早速いつもより速く空を駆け巡るとその分早く死んだ。目を覚ますとやはり思った通りもうひとつの太陽の後ろ姿が見えてきた。それを何度か繰り返して皿に近づく。尚も繰り返し、とうとう無邪気な太陽は兄弟の真後ろに追いついた。彼は自分が後ろにいても気づかない間抜けな太陽を驚かしてやろうと肩を叩いた。だがその瞬間怒った間抜けな太陽が振り向きざまに無邪気な太陽の右目を抉り取って食べてしまった!

 その時を境に無邪気な太陽の明るさは半分になり、今でも虚ろな眼窩がはっきり見える。そして残った左目から溢れた涙が暗くなった空に飛び散った。無邪気な太陽は月と呼ばれるようになり、涙は星になった。

 一方で間抜けな太陽は目を三つ持つようになり更に明るさを増した。彼だけがただひとつの太陽となった。これが太陽と月の起こり、昼と夜の始まり、天体の運航の始原である。」

 拍手と共にひと息ついた後、語りは更に続く。

「今でも太陽と月は競争をしていて、月は一年に一度太陽に追いつく。それが今日なのだ。両天体が出会う時再び争いが始まり地上を照らす光は失われる。

 天空の兄弟喧嘩はもうじき始まる。もうじき空の遥か下、地上の遥か上で休んでおられる二つの天体がお出ましになる。君はどちらが勝つ方に賭けるかね……」


 一年の中で最も盛大な祭りの日には普段素朴な身なりの彼らが持ち前のきらびやかな羽毛や翅に引けを取らない極彩色の衣装に身を包む。それぞれの種族や家系にのみ伝わる紋様と工芸品の数々で着飾った肌には衣に覆われて見えない細部に至るまで光の精霊の粉でまじないの印が施される。

 この日は新年を祝うと同時にこれまで受け継がれてきた文化が忘れ去られないようひとつ残らず思い出すことも重要な目的とされる。従って全ての歌、全てのまじない、全ての踊りを披露し尽くすまでこの饗宴が続く。その中には禁忌の呪いの言葉まで聞かれるが、戦いを前にして力をみなぎらせた太陽の下ではその効力は逆に作用する。即ち敵に幸運を授け更なる生命力を与える輝かしい歌となる。

 こうしてあらゆる色を束ねて白くなった日中の陽射しのように塔を満たした祝福は太陽の戦士と月の戦士が出番を待つ最上層にまで響いていた。


 スカラベの老戦士とカマキリの拳士は聖なる人々がせっせと準備を進める中で向かい合わせに座ったまま静かに瞑想していた。

 身ぐるみ衣を脱がされてされるがまままじないの印を全身に塗り込めた後用意された清浄な衣と鎧を身にまとう。毎年の儀式で手直ししつつ使い古されてきた品々だが、特に虫の精は種族ごとの体格差が大きいため小柄なスカラベの精に合う衣はさほど使い込まれた跡がなく古ぼけてはいても真新しかった。背が高く痩身のカマキリの精が身に着けた鎧は逆に使用頻度が高くかつての強者の気がまだ残っているとさえ思える見かけをしていた。

 顔にまで及んだまじないの印は下地に過ぎなかったのだと思えるほどの贅を尽くした装飾品で肌が覆われていく。

 他の支度が全て終わった後で、ようやく兜が持ち出される。太陽の兜の正面には紋様の施された三つの輪が鎮座しており、これが太陽の三つの目を表す。放射状に広がる意匠もそのまま陽射しのイメージである。

 対する月の兜にはひとつの輪。派手さはないが、花にも似た無数の装飾が夜空に瞬く星をかたどっており、見る者に繊細な印象を与える工夫がなされている。

 最後の仕上げに光の精霊から採取した光の粉を吹きかけた。次第に太陽の兜は金色の、月の兜は銀色の輝きを放ち始める。

 こうしてようやく両戦士は戴冠し、瞑想から醒め瞼を開き、己の敵と向き合った。


 最上階のひとつ下の階でこのような儀式が行われている間。雲である蚕の精達は太陽と月に敬意を表し最上階を離れ二つ下の階で支度を整えつつあった。

 元より白い肌の彼らにかけるまじないはない。八〇人の雲の精霊達はかつてないほど透明になり、あたかも光の精霊を胎内で飼ってでもいるかのように自ら光を発散していた。

 蛹化を直前に控えたこの日の蚕の精は朝からある種の夢遊状態に陥る。無意識の領域と有意識の領域とを何度も往き来して少し語ってはしばらく黙り込み、別の誰かが新たに語り出すという調子でなにごとかが紡ぎ出されるのである。そんなシャーマンが輪になって八〇人も座っているのだからただごとではない。辻褄の合ったひとつの物語を交代で語る訳でもなく、かと言って一人の言葉のみに耳を傾けたところで時間も空間も超越した幻像を混濁せず記憶するのは困難を極める。実のところ、聖なる人々と語り部とが常時三〇〇人近く養成されているのはこの日のためと言って良かった。下階で語りを行う年長者を除いた二〇〇人弱が蚕の精の言葉の聞き取りに徹するものの、それでも足りないくらいなのだが、この間、部外者は立ち入りを禁じられており、また蚕の精達がいかなる言葉を発したかについて聖なる人々や語り部が口外することも断じてあってはならないとされる。

 こうして蚕の精達が無意識の海から持ち帰った夢が彼らの口から出て聖なる人々の耳に入り、記憶に留め置かれて今後一年間の彼らの議論の題材となる。そうして紡ぎ出された叡智が常に古びていく伝承に活力を与え、語り部達の口を通して多くの人々に広まることになるのである。

 染色を施さず白いままの絹で織りあげられた貫頭衣で色とりどりの羽毛と褐色の肌を隠した聖なる人々には、自らが脱ぎ捨てた三枚の古い殻を縫い合わせた半透明の上掛けに身を包んだ蚕の精達が発する言葉の無秩序な羅列に必ずしも意味があるとも限らないと知りながらそれらから意味を汲み取り古い教えを更新することに対するためらいが全くなかった。彼らが言うように「新しい教えは空から降って来る」のであれば、それを受けとめようと両手を広げるのは虫や鳥でなく人間に由来する性質なのだった。


 蚕の精達がこの日最初の役目を果たしている間、世話係達は役目から放免され、人々に交じって祭りに興じることになる。どこへともなく蝶が舞い、どこからともなく花びらが散る<大樹>の吹抜けを精達が上へ下へと慌ただしく飛び交う中を、一年間寝かせておいた見世物道具が降りていく。組み立て式の大きな太鼓に幻獣に見立てた装束、彫り物を施した柱とそれらに架け渡す目にも楽しい組み紐の数々を、例年なら<大樹>の周りに広げていたのが安全な砂浜まで運ばなければならないのだから容易ではない。

 力自慢の男達の手で運ばれた品々は砂浜に立つ門を通るとにわかに生気を得たかに見えた。柱は独りでに立ち、楽器は独りでに奏でる。甘い花蜜酒の匂いと潮風の香りが溶け合う灰色の砂浜には節操もなく酔っ払ってしまった精達があちこちに立つ柱を囲んで踊り狂っていた。三本の木の幹が撚り合わされたかのような彫り物が丹念に施された柱の頂点には回転する輪が四つ嵌め込まれており、それぞれの車輪から白い絹の紐が一本ずつ伸びている。その内の二本は長く、それぞれを二人の精が持って飛び回り踊り回って近づいては離れるという一連の動作を繰り返す。二人は太陽と月を表している。短い紐二本にも水の精霊と風の精霊の役を担う精が就き太陽と月の邂逅を待ち侘びつつ踊る。

 これから始まる正規の儀式よりも多分に旧い要素を含んだ踊りを取り囲む精達もまた、旧い歌で踊り子を囃し立てる。



  太陽・三つ目の光の精霊よりも

 満月・ひとつ目の光の精霊がずっとよく、

  地上の気弱な光の精霊よりも

 天上で瞬く星々の方がずっとよい


  月よ、太陽を喰ってしまえ


  太陽よ、月を喰ってしまえ


  更に多くと結ばれよ

 地上を更なる光で満たせ

  四つ目の光の精霊、彼一人の方がずっとよい!



蚕の精達が世話係を必要としなくなったとは言え、語り部よりも博識になったとは言え、世話係の長であるクロッテュフィガルは彼らが無事に蛹化を果たすのをこの目で見届けるまで安心できそうになかった。万全を期すため、彼は数日前から小戦士達の長・バングラム=ボルーとの連絡を緊密にしていた。

「お前も感じているだろう。」

ハチドリの精と共に砂浜に降り立った老齢のハンミョウの精が前置き抜きに話し始めたのは彼の実直な人柄からでなく緊迫した現状に由来していた。

「島民全員を<大樹>に避難させたあの日からわしらは昼夜を問わず警戒を続けてきた。少しの異変も見逃さぬように。ムカデどもが派手に暴れて同胞を失いはしたが、あれ以来安静を保ってはいたのだ。だがそれも昨日までのこと。お前にも伝えた通り、夜になってシデムシが現れた。」

 シデムシ。生物の遺骸を<大樹>の蔓が届かない場所に置いた時にのみ現れる地下生物の一種。賢しく死を嗅ぎつける彼らが誰も死んでいない内から地上に出ることは一切前例のないことであり、それだけでただごとでないと分かる。

「今もそこかしこを這い回っていると報告が入っている。一〇匹二〇匹の話ではない。もっとだ。世にこれほどの凶兆はあるまい……」

「まさか手を下してはいないでしょうね。」

「分かっている。それだけはしてはならぬと念を押して伝えた。」

「奴らを殺せばその死体がムカデをおびき寄せることになります。」

 正直なところ、長老達にも講じるべき対策が出せないのだ。シデムシの大量発生など聞いたこともない。原因が資源の枯渇にあるのは紛れもない事実だ。だが、だがらと言って差し出せる生命は地上にはない。

「……本当に例年通り誕生祭を行うのが正しい判断なのでしょうか、場所を変えてまで?」

 ボルーが壮年と言うには若過ぎる男をまじまちと見つめる。

「天体の運航は再現されねばならない。万難を排して、必ずや。」

 断言する男の両眼には最後の戦いに挑む戦士の誇りが揺らめいていた。老齢の虫の精である彼は己の死期が近づいているのを悟っているに違いなかった。

「戦士達を可能な限り砂浜に集めましょう。とにかく蚕の精の安全が最優先です。彼らは飛べませんから、戦士達で輪を作り防衛線とするのです。シデムシの他にも地下生物達が現れるようなら全員の避難が完了するまで我々が持ち応えなければなりません。そのためにも……今からでも新しく戦士の募集はできますか。」

「それ自体は難しいことではない。だが群衆の不安を煽ることになるぞ。混乱を招かぬよう細心の配慮を要するだろうな。」

「今からでも万全の大勢に近づけましょう。」

「分かった。兵はこちらで搔き集める。お前はあれらが冷静さを失わないよういつでも支持が出せる場所で状況を把握しておくんだ。――それから、子供達は<大樹>から出させないでおいた方が良い。なるべくなら母親達も。万一に備えてのことだ。」


「ヨッハちゃあああんもういい加減起きよー?」

 寝台から這い出ようとしないフリョッハを幼い頃のように揺り動かして起こしにかかる。すっかり大人びて見えるアナイも祭りの賑わいをお預けにされては体裁を取り繕ってはいられない。

「パキちゃんのことでしょ?きっともうじき降りてくるよ。まさか一日顔合わせないつもり?」

「そうじゃないけど……」

「ここを出なかったらこの先ずっと後悔するって。……パキちゃんと話せるの、今日が最後なんだから……」

「……わかってる。」

 寝台の上でむっくりと起き上がるフリョッハ。

「そうじゃないけど、そうじゃないの……」


 混雑する吹抜けを避けて貫頭衣をまとった二人の娘が螺旋階段を降りていく。一人は着たくもない豪奢な装束を無理矢理着せられたことを隠そうともしない浮かない表情で。もう一人は見るからにこの日を待ち侘びていたと言った様子で白い肌にも緑と紫の鱗にもまじないの印が刻まれている。脚に巻きつけた装飾品の数々が階段を降りる度にからからと音を立てる。

「なんか、去年よりすごい。」

「ん?私?そりゃ今年に入るまで子どもだったもの。未来の旦那様を捕まえて来なさいとのお母様のお達しよ。」

 ぼふんっと顔を真っ赤にするフリョッハを面白がるアナイ。穏やかな時間を過ごす二人をよそに、階下では全く別の状況が進行しつつあった。


 螺旋階段は下へ行くにつれ、地上へ繋がる出入り口が塞がれたことで行き場を失った精達でごった返していた。先ほどまでの騒々しさとは異なる緊張が張り詰めている。苛立つ人々が行列を成す階段の最後尾に辿り着いたアナイとフリョッハは彼らの話し声から状況を理解した。

「子どもは行っちゃだめ……ってことは私たちは関係ないよね?もう五歳になるんだし。」

「関係ない……のかな?」

 未だ大人になった自覚の薄いフリョッハには自信がなかった。

 <大樹>の出入り口には警備に当たる戦士達が立っており、彼らの判断で外に出て良い者と残る者とが仕分けされる仕組みらしい。

「あっサリオちゃんたち。」

 アナイが指差した方を見ると彼女と同い年の娘達が丁度列の最前に行っていた。だが少し戦士の男と話した後外へは出ずにすごすごと上に飛び立ってしまった。

「待って!サリオちゃん。」

 更に上へ行ってしまう前にアナイが呼び止める。

「あー、アナイ。とヨッハちゃん。」

「こんにちは……」

「もしかしてだめだった?」

「そうねー、通すわけにはいかないって言われちゃった。もう砂浜に行った子もいるでしょ?って聞いたらその子たちにも帰るように促してるんだって。まあ、諦めるしかないでしょうね。」

「そっか……」

「あ、アナイ、上……」

 サリオフィダルナ、ゴシキセイガイインコの精が紅い瞳で気まずそうに目配せする。そこにはいつの間に来ていたのか、聖なる人々が二列になって並んでいた。最上層から階段を降りてきた彼らをアナイ達が足止めしてしまっていたのだ。しかし彼らは門をくぐったままあちら側にいる身。見てはならない。サリオが気まずそうにした理由もここにあった。

 アナイとフリョッハに続いて下を占める者達も速やかに道を開ける。しかし目に見えないことになっているとは言えサリオに促されるまで全く気づかなかったことに二人は少々ぞっとした。

 ほのかに青白い光のまじないで染め上げた肌を純白の装束で清めた聖なる人々の後にはまじないによってもはや太陽そのもの、月そのものとなった二人の戦士が続く。更にしばらく聖なる人々を見送った後、およそ八〇人の蚕の精達が階段を降りていった。

 この行列の中からパキリリェッタを見出すことはフリョッハにはできなかった。全員が同じ装束をまとい、同じように長い髪を整えていた。起きた時のままのぼさぼさ頭で儀式に向かう者は一人もいなかった。

「わたし……行かなきゃ。」

 誰の妨げもなく<大樹>を去る蚕の精達を見送った後、フリョッハが呟いた。

「今なんて?」

「リエッタに確かめなきゃならないことがあるの。こっちに戻って来てから話せるかどうかわかんないし……それに今はリエッタに会いたい。そばにいてあげたいから……!」

 わたしの心は動く、わたしの頭は考える、とフリョッハは古い歌を口ずさんだ。<大樹>の出入り口はひとつではない。雷で朽ちた本体を螺旋状に包む三本の幹の内の一本が気まぐれを起こして捻じれた末に穿たれた大穴があるではないか。自分の家に戻ればそれで良い、自分の部屋から出ていけばそれで良かった。

「……ヨッハちゃんって、あんな大胆なこと言う子だった?」

 飛び立ったフリョッハをぽかんと見上げるサリオ。

「そうね、昔からだいたいあんな感じ。」

「嘘っぽ。ぜったい仲がいいのアピールしたいだけじゃん……ってか上に飛んでどこ行くつもり?」

「それは多分……いや、なんでもない。」

アナイは口を噤んだ。今はただ、この島を守る戦士達が抜け道に気づかない間抜けであることを信じるしかない。

「がんばれ、ヨッハ。」



  愛する友よ、わたしの同胞はらからよ!

 美しい育ち仲間よ!

  さあ一緒に歌い始めよう

 共に語っていこう

  我ら二つの方角かたよりやって来て

 一緒に出会ったのだから

  稀にしか会うことはできないし、

  我らは互いに相手を知ったのだから!



 ありったけの速さで吹抜けを駆け抜けて二四階で直角に曲がり家へと飛び込み、更に窓から飛び出そうと走り抜けるフリョッハを、二本の細腕が引き止めた。


 聖なる人々を先頭にして鳥に乗せられた蚕の精達が飛来すると、子供達がいないのも相まって砂浜一帯に厳粛な空気が漂った。

 上空では間もなく南中する太陽に月が力を増しつつ接近していた。

 月食を間近に控えた空から太陽と月と雲が舞い降りると、二人の天体は人々が成した輪の中心へと向かっていく。八〇人の雲もその後に従う。中心では既に二人の踊り子が静止して待っていた。即ち闇の精霊を演じる鳥の精のツァヒルと謎の精霊を演じる蛾の精の老婆である。座ってうずくまる老婆の直上で男が両腕を交差させ両掌で作った円は宇宙全体を包み込む子宮にも似た闇のイメージを表す。

 白い装束をまとった人々の中に優美な木製の甲冑姿の二戦士を見出だすと、闇の精霊は踊り始めた。無言の内に紡がれるのは音が産まれるよりも前の物語。微動だにしない老婆の周りを右回りに巡る厳かな踊り子がつくり出した輪の中に太陽と月が、更に二人の雲が加わる。

 太陽と月は光の精霊の表れ。あまりに眩く輝く二人は交差させた両手でその素顔を隠しつつ器楽の音色と共に闘争心も剥き出しに激しく舞う。

 雲は風と水の産みの親。木の葉を舞い上がらせるいたずら好きの風の精霊と穏やかな波を湛える水の精霊、互いに別の踊りを行う双子によって輪が完成すると外側を巡っていた闇の精霊は徐々に遠ざかって離脱する。

 闇から産まれた四人の踊りは途切れることなく続き、その熱狂が不動の謎の精霊を揺り起こす。にわかに老婆が立ち上がり、優美な動きで両手を広げたかと思うと再び屈み込んだ。この一連の動きを繰り返す様は蕾が開く瞬間を際限なく再現しているようでもあったが、何を表しているのか、結局のところ誰も知らないのだった。(ならば知れ!)

 しかし年老いた虫の精にしか呼び起こせない古い踊りが無ければ精霊の踊りは完成しない。(知悉せよ!)

 そしてそれが果たされた今、天体の運航の韻律はかくもめでたく再現された。

 不毛の砂浜で五人の踊りと共に延々と鳴り響く器楽の音色に包まれる中で上空ではとうとう月が太陽に追いついた。二人の雲と謎の精霊が退場すると、地上の太陽と月も呼応して顔を隠していた両手を広げ次なる踊りへ移行した。素手で戦う月は既に臨戦態勢。対する太陽が踊りの最中に精の一人から受け取ったのは刃渡りの短い双剣。使い慣れた刀でなく月の戦法に近い得物を選んだ心意気は群衆を更に喜ばせた。

 支度を整えると、あろうことか二人の戦士はどちらともなくぴたりと静止した。この戦いは今までと異なり月が太陽の前を完全に通り過ぎる瞬間までに決着をつけなければならない。強者同士が踊るなら圧倒的に時間が足りないが、そのごく僅かな時間に全力が費やした末に勝敗が定まるのだ。しかし二人は今、両腕を広げて直立したまま微動だにしない。一見すればこれは愚かな時間の浪費だ。だがこの状況下での数秒に渡る沈黙は却って特別な意味を持ち始める。

 日食の進行と共に観客の緊張と興奮は限りなく最大に高まっていく。そして遂に、その時がやって来た。

 地上から光が消えた。上空では太陽と月がひとつに結ばれて、光の精霊の粉で人々の全身に施されたまじないの印はただ一人の例外もなく空へ戻りにわかに星空が現れた。そしてこの瞬間から地上の踊りが再開された。

 永遠のように感じられた一瞬の静止と一瞬に感じられた幾戦の激突。その勝敗は、まさしく月の輪郭が太陽からはみ出したその瞬間に定められた。

 僅かな隙を突かれた太陽は輪の外へ弾き出された。孤高の戦士、ひとつ目玉の月が輪の中心にただ一人。太陽を投げ飛ばした瞬間の姿のまま立ち尽くしていた。月は勝った。奪われた目玉を取り戻し、仕返しにもうひとつ目玉を取って自ら太陽となった。今上空で太陽を横切ったのは破れて月に成り下がったかつての太陽である。

 この時を以って精達は新たな年を迎え、誰一人例外なく一歳ずつ年を取ることになる。

「――かつてこの島に冬が訪れた時」

 バングラムの称号を勝ち取ったカマキリの精に惜しみのない賛美の雨を降らせた後、大いなる過去と繋がった蚕の精達が、間もなく造り変えられるその手で月を指差し、じきに縫い閉じられる口で紡ぎ出すのは春・夏・秋の淀みない経巡りを繰り返す<島>に一度だけ訪れた冬の歌。

「かつてこの島に冬が訪れた時」

 蚕の精にして雲の精霊の男でもなく女でもない凛とした声が響き渡ると、彩り鮮やかな羽毛や衣装に身を包んだ精達は一斉に彼らを見た。今や光の精霊の粉で描いたまじないが消えた精達には耳をそばだてる用意ができていた。

「かつてこの島に冬が訪れた時、空一面に立ち込めた白い雲から無数の白い精霊が舞い降りて<大樹>の最上階に安置された白い繭に降り注ぎ、その中で永遠に眠り続けていた彼の者達を目覚めさせた。」

「白い翅持てる蚕蛾達は、飛ぶこともなく、口がないために語ることもなくただ佇んでいた。」

「しかし、彼らの目覚めと共に厚く張っていた雲は掻き消え、慣れない寒さで凍えていた精達が待ち侘びていた春が訪れた。」

「我らこそ、冬を終わらせた春の使者。」

「我らこそ、死に瀕した島に第四の精霊を授けた救い主。」

「子らよ、結び目達よ、我らと結ばれよ。さすれば再び春は来よう。」

 ひと塊になっていた雲達は語り終えると方々に散らばっていった。人々が繭に入る前の蚕の精達と言葉を交わせる最後の機会である。ある者はそれを祈りと捉え、ある者は託宣と見なし、またある者は祝福として受け取る。

 蛹化を間近に控えて月のように青白く光る身体に触れようと、人々が波となって押し寄席、口々に呟く。

「偉大な(シフルフェヴェル)、偉大な、偉大な……」

 名詞を用いず無数の形容詞を重ね合わせることで事物を言い表す彼らは神秘に満たされた蚕の精を前にして言葉を失う。そうして千の形容詞が吹き飛ばされた後でも消えることのない不動にして遍在の言葉。島の至る所に見出だせる神秘を賛美する唯一の言葉。地上に降り立った雲を前にした彼らはそれを重ね合わせることを余儀なくされる。

「偉大な、偉大な、偉大な、偉大な……」


 精達に交じって砂浜へ来ていたエメットは核心を突いてはいてもありきたりな質問をした。

「一体君達はどこから来たんだ……」

 三人の蚕の精が点を指差し、西の水平線に目を移す。

「空と海とが結ばれる場所から。かつて空と海はひとつだった。」

「私達は風の精霊と水の精霊を産み、風の精霊は空を、水の精霊は海を創った。」

「四柱の精霊がひとつの果実から産まれ、再びひとつになった末に私達がいる。」

「私達の身体の中で風の精霊と水の精霊が結ばれている。」

「空と海とがひとつになっている。」

「私達はそれを伝えるためにここへ来た。」

 毎年同じことを尋ねても、一度として同じ答えが返って来たことはなく、微妙に変化し続けている。その速度は蚕の精から得た言葉を聖なる人々が完全に消化し終えるよりも早く、既に一般に流布している神話群と懸け離れてしまっている。

「光の精霊と風の精霊と水の精霊と、残るもう一柱の正体も知っているんじゃないのか?」

 至って真剣な面持ちで尋ねる老人に対し、三人の子童は顔を見合わせてさもおかしそうにくすくす笑う。

「あなたは毎年それを尋ねるのね。」

「この島のどこにもいない、私達の身体の中にしかいない精霊。」

「私達はそれについて考えを巡らせる。」

「でも私達はその名を知ってはならない。」

「常に正体を知りたいと思っているとしても必要としてるわけではない。」

「「「私達はその秘密によって生きる。」」」


 灰色の砂浜にはこの日のもう一方の主役も来ていた。人々の入り乱れる輪を外から眺めるアサギマダラの精の群れに蚕の精が二人近寄る。雲は水と風を産んだ。地上において水は知識の象徴。天から降り注ぎ<大樹>を生かす。そして風はアサギマダラの精に象徴される。風だけが島の外を知っている。旅立った風は再び島へ降り立ち雲に囁く。もうひとつの島のありようを。その変容を。

「長い旅が無事に果たされることを祈ります。」

 風色の翅持てる蝶は返事をする代わりに相手の丁寧に梳かれて肩の辺りまで伸びた髪を、さながら一陣の風が吹き過ぎるかのように両手でばさっと広げた。風の返事を受け取った雲は満足げに立ち去る。か弱い蚕の精に比べればアサギマダラの精は遥かに数が多いものの、<大樹>から離れた霧深い北の森で暮らしていることから精達にとっては馴染みの薄い存在だ。交流を嫌い会話を慎むために霧よりも深い謎に包まれた彼らは出発の時を静かに待っていた。

 だからこそ、いち早く異変に気づけたのかも知れなかった。

「まずい!全員退避だ!」

 クロッテュフィガルの焦りの滲んだ声とほぼ同時に女性の甲高い叫びが響き渡った。既に危険は目前に迫っていた。砂浜へ向かって群れを成したシデムシの対応に小戦士達の人数が集中したことで、その隙に多数のムカデが無人の防衛線を突破したのだ。元からして素早いムカデ達の動きは飢えによって一段と速く、荒っぽくなっていた。上空から監視していたはずの大クロッテュでさえ検出できなかったほどに。いずれにせよ潜在的な危険を恐れて祭りに酔い痴れていた人々は一瞬にして一人残らず、捕食者達の造り出した惨禍の中心に投げ込まれた。

 この事態に即座に対応できたのはやはり太陽の戦士と月の戦士だった。両者は全く別の場所にいたにも関わらず、叫んだ女精の許へ同時に駆けつけ、瞬く間に一頭のムカデを斬り伏せた。二人の露払いに遅れは取ったものの、群衆を囲う戦士達の輪が一気に狭まり臨戦態勢が整う。何人かは敵の急襲に恐れをなして空へ逃げたものの、それは直前に搔き集めた未熟な者に過ぎない。戦士達各々の判断によってある者はムカデに立ち向かい、ある者は老人や蚕の精を護りつつ空へと逃がす。最重要なのは蚕の精達だが敵の勢いを削ぎつつ八〇人もいる彼らを無事に帰すには戦士達に逃がす役目を負わせず戦いに専念させる必要があった。しかし戦いに馴染みのない者達の中に賢明にも蚕の精達を護ろうと動く者はそう多くなく、上空で啼き喚く鳥達はいくら呼んでも決して地上へ降りようとはしない。アサギマダラの精に至っては既に出立し遥か遠くに飛び去ってしまっていた。

 その一方で最初にやって来たムカデ達は奇襲のみを担った単なる尖兵に過ぎず、小戦士達による本格的な抗戦が始まると遥かに巨大な個体が群れを成して現れた。戦況は混乱を極め、元より機能を果たしていなかった命令系統は意味さえ消えてクロッテュも熟練の老戦士のボルーも一兵卒に成り下がっていた。クロッテュが携えた木刀を思いきりムカデの頭に叩きつけ、その動きを邪魔しない身のこなしでボルーが巧みに斬り伏せる。彼の得物も木刀に違いなかったが、その練度によって威力は格段に変わるのだった。

「ムカデ達は敵ではない!」

 身を寄せ合って蚕の子供達を庇っていた人々の中から悲鳴に混じってこんな叫びが上がった。その声はあろうことか蚕の精のものだった。

「ムカデ達は取りに来ただけだ!<大樹>は血を求めている。それもただの血ではないのだ。」

「女子供のでは満足しない。劣った男の血でもまだ足りない!優れた戦士の血でなければ!」

「生け贄を捧げるんだ!月の戦士を、カマキリの精を差し出せ!そうすればきっと静まるさ!」

 託宣者の放った狂気はたちまち伝染し、いくつもの眼球が贄を求めてさまよった。

「一体何を言ってる……気でも狂ったか!この脅威は我らの力で充分打ち倒せる!」

 バングラム=ボルーの声が狂気に囚われた心を鎮める前に男達の目は上空の標的を捉えていた。何も知らないカマキリの精がこちらに向かっている。今しがた二人の蚕の精を<大樹>へ届けた彼は勇敢にも線上に戻って来たのだ。

「誰か、彼を護衛しろ!無意味に血を流させるな!」

 正気を保った者達は波のように押し寄せる大型のムカデ達を抑えるのが精一杯で大クロッテュの叫びに応える者は誰もいない。そうしてまるで示し合わせたかのように、外からは更なる脅威が迫っていた。

 <大樹>と根を同じくする樹々で覆われた森から這い出て来るムカデを迎え撃つため海側は守りを薄くせざるを得ない。地下生物達は、化肉した自然の猛威はその隙を突いたのだった。まるでこの日ばかりは喰らい尽くすことのみを生きる目的とする彼らがその目的のために手段を講じる知恵を得たかのようだった。

「あれは何だ……?」

 真っ二つに斬り伏せても妖しく跳ね回るムカデをまた一頭絶命させた戦士の一人が木刀についた緑の血を払いつつ背後を顧みると霧の中に異物を見出だした。やはり他のムカデと同じように平たい甲殻らしきもので覆われてはいたが、それにしては体節の両側から突き出ているはずの脚がない。しかし上空からはその全容がよく見えたらしい。

 カマキリの戦士が飛行の最中に翅を畳み、取り残された精達の輪を崩そうと襲い掛かるムカデ目がけ勢いを増しつつ降り立った。凄まじい衝撃と共に濃緑の血が甲殻を突き破って吹き出す。

「あれは一体何なんだ?」

「見たこともないほど大きな多足類。それが夥しい群れを成してる。あれに呑み込まれれば生命はない。」

 カマキリの戦士が見たのは最も古い時代に最も強大化した多足類の一種、アルスロプレウラだった。ムカデでなくヤスデの一種ではあるが後代の洗練された種ほどの俊敏さはない。しかし肉を覆う甲殻は不恰好なほど大きなドーム状に発達しており、弱点である体節同士の繋ぎ目をほぼ完璧に隠すことに成功している。また、せめて脚を斬り落として動きを封じようにも脚もまた甲殻のドームの中でありその巨体を引っくり返しでもしない限り致命傷を与えることは不可能だ。完全な防御を誇る構造は寧ろグソクムシに近かった。

「くそっ、もう少しで全て倒しきれると思ったのに!」

「落ち着け、目的は彼らを殺めることでなく生きてここを出ることのはず。皆、最後の力を振り絞れ!一瞬だけで良い、残りの蚕の精を逃がすための隙を作……ぐっ!」

 勇ましく命令するカマキリの戦士に全員の注目が集まる中で、彼の首から黄緑色の血が噴き出した。

 いくら「踊り」の隠喩でない、本物の争いの渦中で混乱しようとも、敵と味方の区別を見失う愚か者はいない。その愚行は狂気に囚われた若者の手で行われた。

「貴様!何を考えて……っ!」

「こうするしかないんだ!どのみち俺はこのままじゃ助からねえ、なら賭けるしかねえだろ。こいつを捧げてあいつらの怒りが鎮まる可能性に!それが無理でもせめてこいつを俺の道連れにしてやる!」

 シジミチョウの青年の翅は地下生物との戦いの最中に無惨にむしり取られており、飛んで逃げるなど望むべくもなかった。

 いかに屈強な戦士と言えども致命傷を負って尚立っていられるはずはなかった。ただ片膝をついて倒れないよう踏ん張るのが精一杯である。

 こうして無敗の戦士は取るに足らない卑怯者のために敗れた。この騒動の最初の犠牲者は敵でなく味方に刺されたのだった。

 相変わらずムカデとの抗戦は続いており、うずくまる彼に駆け寄る余裕は誰にもなかった。黄緑色の無実の血は止めようもなく流れ、濃緑の血が染み込んだ砂の上に見る見る内に血溜まりを形成した。そして誰も経験したことのない現象が起きた。

「な、何が起きてる?」

「地面が……揺れてるのか?」

 円錐状に発達した<大樹>の根に支えられて浮かぶこの島は波に揺れることはあっても地震は起きない。しかし現に揺れ、地響きさえしている。その音はそれを聞いたことのない彼らには悲鳴にも怒りの叫びにも聞こえた。

「この音は何だ?声なのか?」

「一体どこから聞こえて……」

「い、いや……」

 腹部の気門で辛うじて呼吸を続けていたカマキリの精が力ない手で自身にまとわりつくそれを追い払う。誰もが目を疑った。

「おいそれ……黒黴じゃないか!どうして砂浜から……ここだけは安全だったんじゃないのか?!」

 勇敢な戦士達の心にいよいよ絶望の色が滲んだ。この不毛な砂の上でさえ、誰より貪食な<大樹>の口は大きく開かれていたのだ。

「や、やだ、誰か……助けて……いや、いやああああっっ!!」

 生きたまま黒黴に包まれたカマキリの精は断末魔を残してその足下から伸び出た<大>全員皆見ただろう、の根に連れ去られた。そうし全員て誰もが叫声を皆見ただろう、聞くまで、そ全員の戦士が女男(ファルナである皆見ただろう、全員ことに気づかなかった。彼女こそ、つてカマ全員皆見ただろう、キリ属の中で最もバングラム全員の称に近づいた皆見ただろう、女性の直系の全員子孫であったのだがそれを知る皆見ただろう、全員唯一の人は地上から消え血統も絶えた。全員

「皆見ただろう、全員退避だ!もはや安全な場所は空しかない!飛べる者は可能な限り蚕の精と怪我人を抱えて逃げろ!」

 ボルーが叫ぶ間にも黒黴が生者に忍び寄る。衰弱した怪我人から順に。あのシジミチョウの青年も例外ではなかった。

「フィガル、わしはここに残るよ。」

「何を仰るんです、これだけの騒ぎがあった。共同体の再興と人々の精神の回復にはどうしたって長老であるあなたの思慮が必要です。」

「ありがとう、だがわしにはもう翅がない。」

「私が抱えて運びます。」

「だめだ。全員を助けるのが叶わぬ状況でお前が救うべきはあの子らだ。己の本分を忘れるでない。亡き妻との約束をな。」

 クロッテュの返事も待たず、かの勇猛な老戦士は疲れも見せず敵の前に躍り出た。


 アルスロプレウラの群れが迫る中、無尽蔵に襲いかかるムカデを抑えつつ脱出を図るのは困難を極めたものの、それでも少しずつ成功する者達が現れ始めた。理由のひとつには黒黴の浸蝕を許した同胞にムカデが群がり出したことによる。翅が破れて飛べなくなった者達には助けが回らなかったものの、蚕の精だけは全員助け出すことができた。

 満身創痍、装束も破れかかったクロッテュフィガルが今、最後の蚕の精を二人抱えて<大樹>へ向かっていた。遥か下では逃げる猶予を逃した精達が飛び立ちはしても地下から伸びた蔓に絡め捕られ叩き落とされ、地下へ続く穴へ放り込まれるという凄惨な現実が展開していたが、彼はとうとう顧みることができなかった。

「父さん!」

 上空でそう呼ぶのは彼の長男クロッテュロナン。優しくはあっても軟弱な青年は父の無事を知って安堵の表情を見せた。しかし父に似て口には出さなかった。

「まだ向こうに蚕の精が?」

「いや、この子達で全員だ。」

「二人だけ……?」

 途端に表情が曇るクロッテュ。

「それじゃ数が合わない。もう一人どこかにいるはずです。」

 大クロッテュの顔からにわかに血の気が引いた。蚕の精の世話を司る者としての責任のためではない。娘のフリョッハを連想してのことだ。もしその最後の一人がパキリリェッタだったなら?もしその子が今でもいたずら好きなら充分あり得る。未だに脱走の名人なら尚のこと。彼女が悲劇に見舞われるようなことがあれば、ただでさえ脆い彼女の心に大きな傷を残すことになるに違いない。娘を思えばそれだけは避けねばならなかった。

「……この子らを頼む。」

 抱えていた蚕の精の一人を息子に、もう一人を後ろから来ていた精に預け、自らは惨禍へ舞い戻っていった。直視することさえ難しい、無秩序なまでの生命力が造り出した現実へと。


 自室の窓から飛び立つ間際、何者かに腕を掴まれたフリョッハは目まぐるしい羽ばたきの反動を制御しきれず、自らが起こした風によって部屋の隅に弾き飛ばされてしまった。

「あ痛ててて……」

 理不尽な苦痛のために状況を把握するどころではなかったが、目を開けた先に見えたものが彼女を更に混乱させた。

「リ、リリエッタ、どうしてここに?!」

 そこにいたのは彼女が今まさに捜しに行こうとしていた相手だった。今日だけは他のこと同じように髪を梳いて他の子と同じ白い前掛けをまとっているため一見すると見分けがつけにくいものの、彼女以外にはあり得なかった。

「フリョッハが呼んでる気がして。わたしのこと捜しに行こうとしてたんでしょ?」

「そうだけど……ちがうの、捜す手間が省けたとかそんな話じゃなくて!ここにいちゃいけないでしょ?みんなといっしょじゃなきゃ。」

「わたしには関係ないから。」

 まともに取り合う気のない言い方にむっとしたものの、どうやらその言葉にはもっと深長な意味があるらしかった。

 よく見てみれば脱皮の直前に見られるように身体は透明になってはいても眼だけはしっかりしていた。ついさっき他の子達を見たが、やはり神秘性の充満に伴ってどこを見ているのか分からない、虚ろで異様な光が瞳にあった。彼女にはそれがない。

「……じゃああなたはほんとうに……」

 フリョッハの小さな口を人差し指で封じる。

「あなたなんて呼ばないで。今までと同じに接して?」

「そんなの、むり……わたしの質問に答えるのが先。ここに来たほんとうの目的は?」

 溜め息と共に身体中の力が抜けたかのように窓の傍の寝台に腰かける。その芝居がかった動きに幼い頃の無邪気さの名残りが見えたが、今だけはフリョッハの警戒心を煽るだけだった。

「なにも話せなくなる前に、ぜんぶ話しとこうと思って。」

 フリョッハは腕を組んで口を閉ざしたまま。

「今日の午前中、わたしたちは円形に並べた椅子に座って夢と現実の間を何度も行き来したの。まるで深い海の底に潜って、でも息が続かなくなって陸に出て、また潜ってくみたいだった。砂浜の浅瀬で身体を洗ったことしかないのにそんなふうにはっきり体験できたってことは、あれもきっと古い世代の記憶だったのね……」

 聞いている間中、フリョッハは目の前の少女に気を許さないよう身構えている自分にほとほと嫌気が差した。ついさっきまで自分の方から彼女の許へ向かおうとさえしていたのに、この不自然な感覚は一体何なのだろう。

「ほかの子たちはもっとずっと古い記憶を持ち帰ってたみたい。だからどれも途切れ途切れで、結局いつ頃の、なんの夢なのかが自分でもわからないまま。でもわたしは違った。ほんの四世代前の記憶だから、砂に埋もれてても簡単に掘り起こせる。」

「それじゃあ、お母さんのことを……?」

「リァンノーがわたしに話した言葉も、ひとつ残らず思い出した。」

 淡々と述べ立てるパキリリェッタに対しフリョッハの顔に浮かんだ動揺の色はいよいよ濃くなる。

「聞きたくないの?それなら別に。無理に聞かせたりはしない。いやならみんなのところへ行って、適当にみんながしゃべるようなつじつまの合わないことを話してくるけど。」

「まって。」

 答えを急かすように立ち上がるパキリリェッタを呼び止めるフリョッハ。

「聞きたい……でもほんとにわたしなんかが聞いていいのかな。だってこうゆうのって聖なる人々だけが聞くのを許されてるって前に兄さんが……」

「まずいことなんて起きるはずない。もう誰も覚えてないお話だもの。それにね?わたしがちゃんと思い出したのはただの子守歌。他にもいろんな記憶の断片が散らばってたけど、ひとつだけでも完ぺきに思い出そうと思ってそれだけ拾い集めたの。フリョッハになにかを残してあげたくて……」

「リエッタ……」

「きっとリァンノーが生きてればこれを歌って赤ん坊のフリョッハをあやしてたと思う。」

 既にフリョッハは決心した。問題が起きたなら責任を取る覚悟を決めた。寝台で待つ彼女の隣にちょこんと座ると、この日初めての笑みを浮かべて言った。

「わかった……わたしに話して聞かせて?リエッタの口からその歌を聞きたい。」

「そう言ってくれるって信じてた。」


 少女に恋した花の物語を聞かせましょう

一輪の花になった気高い少女の物語を

 少女の暖かな眼差しが野の花に向けられると、白い花はぽっと紅く色づいた

 そんな奇跡も少女にとってはいつものこと

 足も止めずに通り過ぎる少女

花は意を決して声をかける

「もし野原を埋め尽くす草が残らず花を咲かせたなら

 もし草原が花で埋め尽くされたなら

そこをあなたが歩いたなら!

 きっと恥じらう花が紅い道を作るのに

 でももしそれだけの奇跡が起こせるなら

きっとあなたは鳥になって地上とおさらば

花の代わりに空を赤らめさせるでしょう

 それなら私は今のままがいい

私一人を赤らめさせるあなたのままがいい!」

 少女はおしゃべりな花を面白がった

花を紅くする力を持ってはいても

詩を編む力はなかったから


 それから毎日足を運んだ

千の花が待つ草原に

たった一輪の花を求めて


 花は少女にこいねがう

「どうかわたしをあなたのそばに」

「どうかそんなことを言わないで

 私の里は掘っても掘っても堅い根ばかり

か弱いあなたを養えない

 そうでなくてもか弱い根を掘り出せば

あなたはたちまち枯れるでしょう」


 ある夜少女は雨の音で目を覚ました

その夜乙女は風の音で目を覚ました

 いつから降っていたのか

いつになれば止むのか

 戸を開けば庭はすっかり水浸し

気にかかるはあの花ばかり

 己の足も気にかけず

少女は裸足で駆け出した

 堅い根の連なる道を

幼い頃のままの柔らかい足で


 その夜花は雨に撃たれた

その夜花は風に吹かれた

 少女は雨に打たれて野原に着いた

乙女は風に吹かれて花を見つけた

「優しい乙女、気高い少女よ

やがては賢い母になる娘よ

 どうか私をあなたのそばに

 雨に打たれ風に吹かれようと

私にとってはあなたが太陽

 花は太陽の下で咲くものです」

 少女は頷きぬかるみから花を掬い出す

ぬかるみから花を掬い更に駆け出す

 少女と花は雨に打たれた

乙女と花は風に吹かれた

 そのうち道を見失った

それでも黒雲は途切れない

夜の闇には縫い目さえなかった!

 少女は走るのをやめなかった

止まない雨を知らなかったから

明けない夜を知らなかったから

いつかは果てが見えると知っていたから


 やがて雲の果てに着いた

同時に夜の果てにも

 海が空に溶ける場所

空が海に溶ける場所

 陽射しの下で花は生を得たが

夜通し走った少女は地面に伏した

そうして最後の力を使い果たした

最後の奇跡を起こしにかかった

 里から離れた名も知らぬ土地で

不幸からはどこより遠い新天地で

 少女は花になった

人間より一層高貴になった

 二輪の花は永遠に沈まない太陽の下で

陽射しを浴びて幸福に

一度も散らずに咲き誇り

 やがて花が殖え

一面の花園になったと云う

 花の蜜には魔法が宿り

時たま訪れる蝶が口に含むと

たちまち人間になると云う

 そうして色とりどりの花の上で踊ると

足下に紅い道が残ったと云う



歌い終えたパキリリェッタは更にいくつもの思い出を披露した。彼女の曾祖父が直接見聞きしたものもあればミリティウリァンノーが彼に話したものもあった。しかしクロッテュフィガルとの馴れ初めについてのエピソードは甘酸っぱい恋に淡い憧れを抱くフリョッハにとっては少々刺激が強過ぎたようだった。

「あ、見て。」

 フリョッハが窓の外を指差した方角を見ると、今まさに皆既日食が始まりつつあった。二人の少女は寝台を腰かけにして床に寝そべったままこの瞬間を見届けた。

「もう一年経ったんだ……」

 その天変はパキリリェッタとのしばしの別れが間近に迫っていることを意味したが、それでも彼女の心はしみじみとした幸福に包まれていた。まるで産まれつきぽっかり開いていた心の穴が双子のように仲睦まじい親友の言葉によってゆっくりと埋められていくかのよう。

 太陽が死んで産まれ変わる瞬間を一日の始まりとする彼らにとって、一瞬にせよ太陽が姿を消す日食は一日の終わりでありこれを以って一年の終わりとする。

「すごい、太陽も月も消えた。夜じゃん。」

 フリョッハが遠慮がちに苦笑する。先ほどまでの詩情に溢れた語彙力はどこへやら、その率直過ぎる感想には幼い頃の面影がありありと感じられた。

「夜が明けたら、わたしももう五歳なんだ。」

「アナイも五歳、ピォルモは四歳、わたしは一歳。」

「そう、だね……みんな一歳ずつ年を重ねて――」

 フリョッハの瞳からこぼれた一条の涙が、彼女の肌から蒸発していく光の精霊の粉の光を美しく反射して頬を伝う。

「泣いてるの?」

 覗き込むように顔を近づけ、大胆にも小さな舌で涙の粒を舐め取った。

「えっ、くすぐった……」

「ふふ、しょっぱい。海の味がする。」

「やめてよ、恥ずかしい……」

「フリョッハの目って、ぱっと見灰色だけどこうやって近くで見ると深い緑色なんだね。ほんとうにお母さんにそっくり。」

「最後に……ひとつだけ聞かせて。」

 尋ねるべきか迷って二、三度虚ろな息を漏らしてからフリョッハは言った。

「お母さんはわたしのこと……なにか言ってた?」

 ややあってパキリリェッタが慎重に話し始める。

「リァンノーは産まれたての赤ちゃんに名前をつけるのが上手だったって、前に話したよね。ブレンもクロッテュもそう。まあお兄さんはパパによく似てたから、なんて理由なんだけど。リァンノーはほんとうにパパを愛してたからパパの面影のある赤ちゃんがかわいくてたまらなかったし、パパが男の子を望んでもいたし……」

 話題を逸らしつつ話し進める彼女の様子から、フリョッハはその内容が決してよいものではないことを予感した。

「フリョッハを産んでからしばらくの間は元気だったの。だから産まれたばっかりのあなたを見て名前を考えてた。ほかの人たちはもうお祝いムードで騒がしくなりかけてたけどわたしは聞いてたの。リァンノーとクロッテュが話してるのを。」

「二人は、なんて……?」

 震える声の主は太陽も月も消えた星空の下で今にもこぼれ落ちそうな涙を両眼に溜めていた。

「ずいぶん長い間フリョッハの顔を難しい表情で見つめてた。そりゃもう、産まれたてだから啼き叫ぶんだけどそれが啼きやんじゃうくらいの長い時間。普段明るくておしゃべりなリァンノーがそんなふうに黙ったままなんてめったにないから、クロッテュが耐えられずに聞いたの。どうかしたのかって。それでやっと話してくれた。この子はとってもいい子よ。きっと誰より優しい子になる。それだけは確か。でも……それから先が見えないの。この子の未来がぜんぜんわからない……って。」

 突然暗闇に投げ出された気分だった。覚悟していたほど悲しい内容ではなかったが、しかしどう受け止めるべきかがわからない。

「それで不安がるリァンノーにクロッテュは言ったの。ふつうは将来どんな子になるかなんて考えて名前をつけたりしない。将来どうなってほしいかで決めるもんだ。なんならもっと気楽に構えたっていい。例えば今の気分とか。それでリァンノーがやっと笑ってくれて、今の気分?って聞き返したから、調子に乗って例えば今日は蒸し暑くて喉が渇く、なにか飲みアスユ・ハ・フリョ・ッハがほしい。潤い(フリョ・ッハ)のあるものがほしい。じゃあフリョッハだって言ったらリァンノーが大笑いして、じゃあそれでって。」」

「え……?」

 フリョッハは呆気に取られた。いくらか涙も引っ込んだ。

「もしかして今のってわたしの名前の由来……?」

「うん。」

 名前の由来など考えたこともなかったし無口な父からは何も聞いていなかったが、まさかそんな適当な成り行きだったとは。

「喉が渇いたから潤い(フリョッハ)って……!」

 両眼に溜めた大粒の涙は笑い涙に変わった。その笑顔はパキリリェッタを安堵させ、またひどく懐かしい気持ちにさせもした。


 別れの時が刻々と迫っていた。たった一〇日間の別れならばまだ幸運だが、羽化を遂げられず、蛾に成り損なえば美しい繭の中で黄色い液体のまま腐ることになる。

「ねえ、フリョッハ。」

 その表情はいくらか強張っていた。

「どうしたの?」

「わたしのこと、好き……?」

「うん、好き。そりゃ、けんかもしたしいきなり昔のことを知ってるなんて言われたときはやっぱりびっくりしたけど」

「そうじゃなくて。」

 先ほどまでの浮かれた気持ちのままの返事をパキリリェッタがぴしゃりと撥ねのける。

「そういう好きじゃなくて。……ヴェルのことも好きでしょ?」

「え……どうしてそれを……?」

「えっそこから?あんなふうにもじもじしてたら誰だってそうゆうことかなって思うと思うんだけど……たぶんアナイとかも気づいてると思う……」

 想定外のところで顔を真っ赤にするフリョッハにパキリリェッタも調子を崩される。

「ってそうじゃなくて!ヴェルが好きだよね?でしょ?」

「う、うん……」

「でもわたしが好きなのとは違うんでしょ。」

「リエッタのことは小さかった頃から世話してたし……やっぱり妹ってかんじだよ……。身長が同じになった今でもそうだよ?

 喉の奥から湧き出る言葉を呑み込んで、目線を外へ投げかける。

「見て。」

「あれは……アサギマダラの精?もう旅に出たんだ。去年より早い気が……」

「あの人たちは一生をかけて旅をする。でもそれは本能に従ってるだけ。自分の意志はどこにも介在しない。虫の精はみんなそう。わたしもそうなんだって自分に言い聞かせてた……。フリョッハに惹かれるこの気持ちも自分のほんとうの気持ちなんかじゃなくって昔の記憶がそうさせてるだけ……」

 旅立つ蝶の群れを見つめたまま言い募るパキリリェッタが意を決してフリョッハの顔に目を移す。

「でも今はもう、そうじゃないってはっきりわかる。わたしはフリョッハが好き。あなたがほしい。この気持ちはわたしの……わたしだけのもの。ほんとうはちがうとしても、わたしはそう信じたい。なのに……」

 思い詰めた表情が一層曇るのを、フリョッハには止められなかった。

「フリョッハがわたしを愛してくれるのはわかってる。でもわたしがほしいのはそれじゃない。わたしがほしいのはフリョッハがヴェルに向ける眼差し。ヴェルを愛するようにわたしを愛してほしかった。」

 意図して感情を抑えるために淡々と話していたパキリリェッタの声に徐々に愛憎の渦巻く感情が混じる。フリョッハに握られていた手を振り解き更に吐く。

「わたしはヴェルを救う方法を知ってる。蛹になる直前のわたしの身体には魔力が満ちてるから。変身を間近に控えたあなたのと同じ。わたしの中にある光の精霊をヴェルにあげればそれでいいの。たったそれだけで彼を昏い眠りから醒ますことも、腐った翅を元に戻すことだってできる。でもわたしはそんなことはしない。もう一度あなたに……いいえ、これから先ずっとあなたといるために、羽化の妨げになることはぜったいにできない。」

 鱗に覆われたフリョッハの緑色の頬に噛みつくかのような接吻をして部屋を走り出ると、思い人の制止の声を振りきって螺旋階段を上へ上へと駆け昇って行ってしまった。

 理解が追いつかず寝台で座ったまま硬直していたフリョッハが後を追って広間に出る。

 彼女自身、この時になって迷いが生じるとは思わなかった。部屋を出るまではとにかくパキリリェッタを引き止めることしか考えていなかったはずなのに、橙色の暖簾をくぐった瞬間、意識は最上階へ連なる上ではなく遥か下に向けられていた。

 その時彼女の足を動かしていたものがなんだったのか、どこへ向かっているのか歩いている間中考えていても分からなかった。ある部屋の前で立ち止まって初めて、彼女は自分の考えを知った。

 暖簾をくぐった先にはただ一人島に残されたアサギマダラの精が、ここに担ぎ込まれた日と同じ姿で眠っていた。しかし既に左の翅は腐って抜け落ち、その根元を伝って身体だけでなく右の翅にまで症状が及んでいた。それでも表情に苦悶の色が浮かばず安らかなのは肉体から完全に生気が抜けてしまっているからだろう。もし外に放り出そうものなら死者と判断した<大樹>によって跡形もなく吸収されるだろう。生きているとも死んでいるとも言えない曖昧な存在を表す言葉を、彼らは持ち合わせていなかった。

 うつ伏せで眠るヴェルチンジェトリックスの男らしい広い右手に小さな両手を這わせる。彼の手はひんやりと冷たい上に異様に軟らかで触れていて心地良いものではないものの、彼女にとってはこの上なく愛おしく感じられた。

「そんなことをしたところであんたの心は救われないよ。」

 ぎくりとして振り返ると、部屋の隅に溜まった暗闇の中に根の魔女の姿を見出だした。

「いつからそこに……?」

「闇の生じる所にならどこにでも。光の差さない場所があたしの領域さ。そんなことより、本気なのかい。自分がやろうとしてることの意味が、本当に分かってるのかい。」

「それは……わかんない。でもそれでリックスが助かるならわたし」

「他人を助ける、だって?」

 老齢のブロデゥユンが意地悪く遮る。

「言葉で虚飾し心を偽るなんて人間のような真似をするじゃないか。正直に言ってごらん。あんたは自分が助かりたいだけだろう。」

「そんなこと……っ!」

「あんたはそれで自分の生命を差し出したつもりなのだろうがね、あたしに言わせりゃ自分に向けて自分の生命を差し出してるようなものさ。結局は自分のためでしかない。」

 反論したくても言葉に詰まって何を話すべきか定まらない。

「また目を開けて欲しい、元気に飛ぶ姿が見たい。そう思ってるのは確かなんだろうけど。その気持ちの中に自分の身代わりになった彼を元通りにして自分の罪悪感を帳消しにしたいという考えが、僅かばかりもないと本当に言えるのかい。自分の身を危険に晒してまで助けてくれたあんたに、彼が感謝して旅に出ずこのまま一緒にいてくれるなんて算段は、まさかないだろうね。」

 自分の姉と同世代に見える魔女に責め立てられるのは最悪の気分だったが、無意識の内に謀っていた卑屈な計画に気づかせてくれたのは確かだった。

「たしかに……わたしのリックスを生き返らせたいって気持ちは純粋じゃない。でもそれのなにが悪いの。リックスとは何回か話しただけだけど、また飛びたいって言ってた。その願いが叶うならリックスにとっても幸せなことに違いないわ。」

 未だ恥じ入ることを知らぬ少女は魔女の目を憚りもせず青年の口に接吻した。

 求めていた至福を得たフリョッハは彼女を迎えも拒みもしない虚ろな食堂の入り口を塞ぐ行為に随分長い時間を費やしたものの、やがて前と変わらず眠ったままの彼の許を離れた。そして暗闇に潜む魔女の方へ二、三歩進むとその場に倒れ昏睡状態に陥った。

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