二八日目
まだ夜の明けきらぬ内から自室を抜け出したことを小さなハチドリの精は後悔していた。<大樹>の外で暮らしていた人々が一時的にせよ一人残らず越してきている現在、その様子はまるで様変わりしていた。要するに<大樹>が寝静まることはなくなった。
普段なら中央の吹抜けを颯爽と飛び降りるフリョッハだが今日ばかりは覚束ない足取りで暗闇の中を降りつつあった。遥か上の階ではきらびやかな体色が意味を成さない夜に出歩く小鳥を不思議そうに首をかしげながら見つめるのは、鳥ほど優美でない飛び方でばさばさと音を立てるコウモリの精や、フリョッハが階段を降りる度に飛び立つ小さな蛾達。闇に囁く全てがフリョッハの歩みを重くした。
それでも目的の部屋の前まで辿り着くと遠慮がちに呼びかけた。
「ドクター、少し話をしたいんだけど……」
彼女の声に応じて螺旋階段の広間と個室とを遮る厚手の暖簾の向こうから冷たい光が漏れ始め、明るさを増してゆく。そうしてがばっと捲られた暖簾の向こう側からぎょろりと目を剥いた老人の顔が突き出る。ランタンから発せられる光が鱗の代わりに彼の顔を覆う皺の一本一本を克明に照らし出した衝撃的に恐ろしい形相を前にして、少女はこらえていた悲鳴を一気に吐き出した。
鳥の声とも人の声ともつかない彼女の啼き声に驚いたのは老人の方だった。精達の身長に合わせて造られた部屋の中で背を屈めていたエメットはぎょっとして背筋を伸ばした拍子に天井に頭をぶつけ、挙句に転んでしまった。
「自分から呼んでおいてそれは酷いんじゃないのか……?」
「ごめんなさい……でもなんていうかあなたの顔ってわたしたちの誰より年取ってるみたいに見えるし、毛とか鱗とか剥ぎ取られてるみたいでグロ……」
「そこまでにしてくれ……。君達からすればそうなのだろうが、君の声もなかなかだったよ。何て言うか、ハルピュイアのようで。」
「ハルピュイア……?」
「何でもない。それよりこんな夜更けに来るぐらいだから余程の用事があって来たんだろう?」
その声はわざとらしいほど眠たげに聞こえた。
「うん……それもなんだけど、その光は?その透明な容れものに光の精霊が入ってるの?」
「まあ、それで良い。」
「夜はまっ暗にしてないとあぶないよ?闇の精霊が来るかも……」
「安心したまえ、根の魔女殿から賜った品だからそんなことは起きない。」
エメットの横柄な態度にフリョッハはむっとした。自分達が襲われたことやヴェルチンジェトリックスが身代わりになって昏睡していることなどを洗いざらい言いたくなったもののそれを口に出す前にこんな謙虚さのないよそ者は闇に呑まれてしまえという感情が彼女にそうさせなかった。聞きたいことだけを聞いて、さっさと家に戻ろう。そう思った。
「……うん、相談があるの。パキリリェッタのことで……」
彼の老いさらばえた顔は驚くべき豹変ぶりを見せた。パキリリェッタという名を聞いた瞬間それまでの余裕が吸い出され、代わりに絶望に満たされたのだった。
「表情豊かだね……」
「昼間のことは済まなかったと思ってる。本当に。」
「昼間のこと?」
「そのことで来たんだろう?私の無神経な言葉のせいで蚕のお嬢さんの気分を酷く害した、あの一件のことで。」
「それはたしかに謝ってほしい、けど今は相談に乗って。虫の精のこと、わたしに教えてほしいの。彼らに直接聞くよりもよそ者のあなたから聞く方が波風が立たないから。」
フリョッハは昨日の昼間、パキリリェッタの眼差しの中に見たものをありのまま話した。
「あのときのリエッタ、別人みたいだった……ただの例えじゃなくて、ほんとうに別人に見えたの。四回目の脱皮の後、ちょっと変だなって思うことは何回かあった。少し前のリエッタならやってたことをやらなくなったり、逆にやらなかったことを当たり前にやってのけたり……けどそれは成長したからなんだって思ってた。でも、昨日のあれはほんとうにちがう……」
「なるほど……」
椅子の上で小さく縮こまる妖精を眺めながら、老人はもの思いに耽った。以前彼女の父・クロッテュがあの子はまだ母親の死を乗り越えられていないと言っていた。蚕の精の早過ぎる成長に動揺し、長らく彼らを受け容れられずにいたのも無関係ではないだろう。
「……君達鳥の精が二足で歩けるようになるのは産まれてからどのくらいだね。」
「夏の日差しが蝉たちの心を恋で焦がすくらいの日数?」
「およそ七〇日か。君達がよちよち歩きもできない内に蚕の精は立派に成長して次世代に生命を託してしまう訳だ。彼らからすれば君達はとてもゆったり生きているように見えるだろうね。」
「うん……」
「彼らのあまりにも短い寿命の中で生きるために必要な知識の全てを自力で学び取るのは不可能に近い。だがそれは君達鳥の精も、ついでに言えば私も同じこと。他の大勢の人々と生活を共にしている以上、君は料理の仕方や市場での取引の方法などを誰かから教えてもらう必要がある。他にも島の成り立ちについて何遍も聞かされたはずだ。しかし虫の精達はこうした知己の伝承を、我々とは全く異なる方法で行う。」
島に漂着して二〇年が経過した人間のエメットは地下の文献の記述を諳んじた。島で生きる者達の間では暗黙の了解が成立しているこの事実も、これまで塞ぎ込んで暮らしてきた彼女には新鮮であったらしい。普段胡散臭い彼の話を聞く時の訝し気な表情も影を潜めている。
「我々が言葉を用いる代わりに、彼らは血を用いる。」
「血?」
「もちろん例え話だが、つまりは産まれ持った本能に文化的な生活を送るための知識が織り込まれているということだよ。信じられないことだがね。だが彼らを見ているとそうとしか考えられないんだ。蚕の精は別にしても彼らは親も庇護者もないまま食べ物を探し、ねぐらを見つけ、言葉を話すようになる。昔々の言い伝えも長老達より彼ら一人一人の方が詳しいくらいだ。」
フリョッハは酒屋のツマアカセイボウの精を思い起こしていた。パキリリェッタと出会う前から知り合いだったほぼ唯一の虫の精だ。彼の家系は三代前から知っているが、三人とも雰囲気も口調もよく似ていた。尤も、何十人といる兄弟達の中で最も先代に似た性向の者が店を相続してはいるはずだが……。
「でも……」
でも、違うのだ。セイボウの青年と話している間中先代の面影を感じてはいても、ふとした瞬間に全く別の誰かに見えるなどということは一度もなかった。彼が先代と固く結ばれてはいても彼は彼自身であって先代とは別人に違いなかった。
「君達鳥の精が一人前と認められるにはおよそ七年だが、我々人間は一五年から二〇年もかかる。」
「そんなに?」
「我々は同じ時間に生きてはいても時間の流れる速さまでは同じではない。それぞれの時間を生きるしかない。」
「ふしぎなやり方で知識が受け継がれてくのはわかったよ、でも……それでご先祖さまの人格までは受け継いだりはしないでしょう……?」
言葉以上に雄弁な老人の顔は是とも否とも発さなかった。代わりにランタンが照らし出すのは思索に耽る賢人の顔。
「今の説明を聞いて尚、君にはそう見えたのだね。パキリリェッタの顔に別の人物の貌を見たのだね。」
エメットは今や真剣そのものだった。若者を導く年長者としてでなく、貴重な証言を入念に取り調べる研究者として先住民の娘に向かい合って座していた。
「初めて蚕の精を見た時から長年同じ疑問を抱き続けてきた。この島に最初からいた訳ではない、いつ現れたか定かでない。ただ彼らは初めて現れた時から島の人々に崇拝されていた……」
「そう言えば、根の魔女さんは蚕の精がきらいみたい。」
「恐らく無関係ではないだろう。彼女の出自は蚕の精より遥か古に遡る……」
「……ねえ、ドクター。ずいぶん昔のことに詳しいね……?あなたってそんなに昔からこの島にいるの……?」
訝しむフリョッハに呆然とした表情を隠せるはずもなかった。彼女は自分が小さからぬ彼の秘密に触れてしまったことを察した。
突然立ち上がるエメットにつられてフリョッハも席を立つ。
「蚕の精に際立って高い霊能力があるとすれば特別な扱いを受けていることにも納得がいく。今日は興味深い話が聞けて良かった。朝までまだ時間がある。ゆっくり休むと良い。」
あれよあれよと追い返されて、気づけば螺旋階段の広間に締め出されていた。夜明けが近く、ちらほらと現れ始めていた光の精霊を手に取り昇っていった。昼行性の彼女はすぐにでも寝台に戻っていつもより遅くまで寝ていたいと願っていたが、同時に、きっと本当にそうすることはないだろうと思っていた。何しろパキリリェッタと今まで通り言葉を交わせる猶予はこれから先僅か三日間しか残されていないのだから。たっぷり惰眠を貪るのはその後で良い……
夢とも気づかぬ無意識の中で、意識の残響が静まった水面を波立たせる。
(そうだ、今日は早起きしなきゃって……!)
無意識の海の浅瀬に身をうつ伏せていたフリョッハががばっと起き上がって灰色の水面を突き破る。その余波は掛け布団を押しのける動きとなって現実に影響を及ぼした。
「やっと起きた。」
いたずらっぽい響きの混じった眠たげな声が跳ね起きた彼女の脇から聞こえた。見ればいつものようにパキリリェッタが横たわっていたが、その根姿はどこかなまめかしく見えた。身体のあちこちに絹のような肌の彼女が触れた温もりが残っている。
「わたし寝坊してた?」
「そうでもないよ。まだお昼前。」
「なっ……起こしてくれたってよかったのに……!試合見に行くの楽しみにしてたでしょ?今から行こ。」
「そんなに急がなくてもいいよ。明日もやってるし。」
「明日で終わっちゃうじゃない。」
寝台から降り立って初めて、小さなハチドリの精は自分が貫頭衣を着たまま寝ていたことに気づいた。少し前までは前掛け状の衣でさえ窮屈に感じて脱がなければ落ち着いて眠れなかったと言うのに。円形の大きな布の中心を丸く切り抜いて頭からかぶるタイプのこの衣はただの前掛けと比べれば遥かに布の面積が大きいにも関わらず、羽毛と布地が擦れ合う肌触りを心地良いとさえ感じた自分に、少しならず戸惑った。
「そう言えばリァンノー。」
暖簾をくぐりかける世話係を寝台に寝そべったままの蚕の精が呼び止める。
「夜の間、どこに行ってたの。」
「夜?夜って……?」
知らぬ存ぜぬを決め込もうとしたものの、それが通用しそうにないと見て取るやすぐさま聞き取れなかったふりに移行した。
「やっぱりなんでもない。すこし遅いけど朝食にして。わたしは先に食べたから。」
「ねえ、リエッタ……」
再びうとうとしだす白の妖精に、今度はフリョッハが呼びかける。
「どうしてわたしを二ノ名で呼ぶの……?」
言っている途中で、彩の妖精はその答えに自力で辿り着いてしまった。その憶測が果たして正しいのか、彼女には分からなかった。リァンノーと呼んだ少女が何者であるのか、寝息を立てて閉じてしまった瞼からは何も伺い知れなかった。




