二七日目
パキリリェッタが最後の脱皮を終えてからと言うもの、目覚めたフリョッハが最初に目にするものは再びパキリリェッタの美しい白い顔になった。以前のように独りでに起き出していたずらそしかけることもなく安らかな寝息を立てる彼女の寝顔は何にも増して愛らしく感じられた。だが、この幸福な時間に一抹の名残惜しさを感じながらも、二人で眠るには手狭になった寝台の上で貫頭衣を着込むとフリョッハはそそくさと出て行ってしまった。これがここ数日の彼女の毎朝の習慣だった。
こっそり目を覚ましていたパキリリェッタは彼女の気配が遠のくと、まるで芝居から解放された役者のように気だるげに上半身を起こした。貯蔵庫の方で食糧をまさぐる物音もじきに止み、辺りには再び静けさが立ち込める。ぼんやりとまどろんでいる内に、今度はクロッテュフィガルが起床する。寝室から這い出た彼は一足早く食卓に用意された簡素な朝食を眺めた後娘の部屋を覗いた。
「おはよ、リァンノーならヴェルのとこ行ったよ。」
「……リァンノーと呼ぶのはやめなさい。」
「どうして?」
「思い出すから。」
「思い出してあげて。」
シニカルな言い合いも毎朝の恒例。クロッテュが食卓に戻ると、パキリリェッタは今日これからについて思いを馳せた。
脱皮のショックから回復した後の数日間は彼女にとって最良の思い出となった。危険の及ばない範囲での外出が許され、フリョッハとの気ままな散策を心ゆくまで楽しんだのだ。緊張が続いているとは言え間近に迫った太陽誕生祭の準備は例年通り着々と進められており、相変わらず不用意に地上を歩く者はいないものの、街は慌ただしく飛ぶ精達によって活気を取り戻しつつあった。無事に年を越すという共通の目的に向かって様々な努力がなされる。その内のひとつが今日から始まると云う。
フリョッハから借りた橙から黄色へのグラデーションが美しい前掛けをまとって食卓に出向くと、お決まりの祈りを捧げてどっさり積まれた桑の葉を食み始める。
「今日から戦士を決めるための予選が始まるって聞いたけど。」
「ああ、太陽の戦士と月の戦士を選ぶために毎年一二〇名を超える小戦士達が角を突き合わせる。フリョッハと見に行くと良い。」
クロッテュが食事の手を休めて会話に応じる。小戦士同士の試合のこととなると、男性は誰しも発する言葉の端々に心に秘めた闘争本能を滲ませずにはいられない。角を突き合わせるなどという、角を生やした種族がごく少数になって久しい現在では古めかしく感じられる言い回しを使ったのもそのせいだ。野蛮な衝動を慎む現在の生活に馴染む言葉では、微細なニュアンスを表現しきれない。
だが試合を見たことのないパキリリェッタにとってはいささか面倒なこの話題を持ち出したのはフリョッハが不在であるがゆえの気まずい沈黙を手軽に解消できるからに過ぎなかった。
「パパはだれを応援するの。」
「今年はあまり強いのが育ってないらしいが戦い(踊り)方はトンボの精が好きだ。他の種族にはない俊敏さがありながら決して後ろに引かない潔さが良い。」
「ふーん。」
構わず桑の葉を蚕食するパキリリェッタ。
「だがカマキリの精も捨てがたい。俺は密かに今年こそカマキリの精が勝ち残るんじゃないかと思ってる。俺がまだ産まれる前の話だが、カマキリの種族に天才的な武術家が現れた。しかも女女だ。彼女は一切の得物を持たず素手で戦う(踊る)術を編み出した。持ち前の鎌腕こそ最強の武器という訳だ。一代で独自の流派を築いた彼女にはとうとう最後まで誰も勝てなかった。」
「じゃあ、その年の戦士に選ばれたんだ。」
「いや、彼女は夏に産まれて春を待たずにより多くと結ばれた。歴代のバングラムを凌ぐとまで評された彼女の強さなら間違いなく選ばれたとは思うが。」
「そっか……」
予期せず死にまつわる話を聞かされて、未だ悟りきれない繊細な心は虚しさに駆られた。
「だが彼女の流派は受け継がれ、ゆっくりと成果を挙げつつある。去年に至っては、あと一息で月の戦士に選ばれるところまで勝ち進んだんだ。」
「それは……すごいね。じゃあ今年が運命の年になるかも知れないんだ。」
「かも知れない。」
満足した大クロッテュはとコリのキャタを掻き込んで立ち上がるなり玄関へ向かった。
「パパも試合見に行く?」
「私は最終日だけで充分だ。太陽の戦士と月の戦士は明後日の試合で決まる。」
脱皮を終えてから彼女の食べる桑の葉の枚数は目に見えて多くなった。何しろ一生涯の食事量の内の八割を五齢幼虫でいられる七日の間に摂取してしまうのだから、その量は尋常ではない。クロッテュが仕事へ出かけた後もペースを落とすことなく口へ運び続け、平らげてしまう頃には<大樹>の上も下も早朝から降り続く小雨にも構わず賑やかになり始めていた。一年の中で最大の規模を誇る祭りに向けて浮足立つ人々につられて、パキリリェッタも螺旋階段を下った。
喧騒の中でも内側からひんやりとした空気が漂う部屋の前で蚕の精が立ち止まる。厚手の暖簾の向こう、フリョッハはこの一室でヴェルチンジェトリックスの看病をしているはずなのだ。
あの夜以来、パキリリェッタは彼と顔を合わせていない。実のところティルケの死と脱皮の開始を抑える苦しみであの夜のことは悪夢のようにしか覚えていない。それでも彼がなぜ寝たきりになったのか、その責任が誰にあるのかは誰に尋ねるまでもなく理解していた。何より許せないのは彼を不幸に突き落とした自分の身勝手な行動ではなく、彼の今の状態を心のどこか奥深くでほくそ笑んでいることを内罰することもできないほどに卑小化された役立たずの良心。実際、彼の犠牲に対する心の痛みは自身の倫理的な正しさを実感するためのまやかしにすぎないことも同時に理解していた。
真に迫った沈痛な面持ちを貼り付けると、深緑色の暖簾をくぐった。光の精霊がぼんやり瞬く薄暗い部屋の中で寝台の前に立つ小柄な鳥の精は、しかしフリョッハではなかった。
「そこで何してるの。」
「何という訳でもない。ただ、雨が降っていたから地上の様子を見に来ただけよ。」
後ろ姿が違うと気づくより先に、漂わせる雰囲気の異質さが目についた。振り向いた根の魔女・ブロデゥユンが声を固くして尋ねた蚕の精を見るなりずぶ濡れの髪を掻き分け眉をしかめる。
「天の上の者が、地の下の者に何のようだい。」
「べつに。ひとを探してるだけ。……あなたは、根の魔女?」
「ご明察。」
「見たことはなかった。でも覚えがある。途方もなく古い記憶……」
根の魔女が目を細める。相手の脳の中で何が起ころうとしているかを見極めようと試みるかのように。
「はっきりと覚えているのは、立ち枯れた<大樹>を再生するために地上の者達が喜んで生け贄になったこと。そのときには……あなたはまだ地下にいなかった。」
「あなたがその物語を知るはずはない。」
魔女の言葉には相手を拒絶する意志が見て取れた。
「そう、わたしは知らなかった。ティルケが語って聞かせてくれた。もう根の国に行ってしまったけど……あなたに殺された。」
「それは違う。そのティルケという人物と話したのがどれだけ前のことか知らないけれど、彼の死はあたしとは無関係よ。あたしが司るのは死ではない。あたしは再生を司る者。」
魔女の麦色の髪が完全に乾きつつあった。もう戻らなければならない。
「……あなた、危険よ。深淵を覗き込む者は必ずや心を囚われて深淵に身を投げることになる。……良いでしょう、あたしが言わなくてもじきに勘づくだろうから教えてあげる。この青年の救い方。」
パキリリェッタが寝台の上のヴェルチンジェトリックスを一瞥する。破れて使い物にならない翅を今でもいたわって仰向けになって眠っている。
「それならもう知ってる。」
「そう。でもそれをやったらどうなるかまでは知らないでしょう。闇の精霊に光を消された彼を救うにはあなたの身体に宿る光の精霊を与えてやれば良い。でもそれをやれば今度はあなたが光を失うことになる。で、あなたが助かるかどうかはあたしの気分次第。あまり期待しないでちょうだいね。」
「せっかくの忠告ありがたいけど……」
整った美しい顔が皮肉に歪む。
「わたしにはヴェルを助ける気なんかない。と言うより、ヴェルにはここで寝ててもらわなきゃ困るの。」
「そう、見かけによらず身勝手なのね。魔女をも欺く偽善ぶり、恐れ入った。でもその方が良い……自己犠牲なんて美しくもなんともないから。」
根の魔女は去っていった。後に残された病人にそろり近づくと、まるで小石を投げ入れられた魚のように踵を返して外に出た。とうとう顔は見なかった。
水を汲んだ桶を運ぶフリョッハが階段を昇る途中でパキリリェッタと行き会う。
「おはよ、今日は早かったね。」
「うん。おもしろいのが始まるって。リァンノーも行くでしょ?」
「もちろん、けど先にリックスの看病をしてこないと。今年は安全のために砂浜で試合するって。アナイも下にいたから、急げばいっしょに連れてってもらえるかも。」
「わかった。」
淡々としたやりとりを終えて人混みに紛れていくパキリリェッタを見送ると、フリョッハは上へ向かった。病室ではさっきと変わらず光の精霊が瞬いていた。
「おはよう、リックス。」
布巾を朝の冷たい水に浸けて絞りうつ伏せにうずくまる青年の脊椎に息づく翅に触れないよう身体の汗を拭う。
――闇の精霊は光を奪いはしても命までは取らない。目覚めることもないけどね。それより翅の傷の方が問題だよ。もう腐り始めてるじゃないか。傷が身体まで蝕む前に、切り落としてしまうことだ――
芋虫に食まれる木の葉のように日に日に朽ちていく翅を見る度、先日の根の魔女の言葉を思い出す。それでも彼の翅が無事なのは一重にフリョッハが反対を押し通したからだ。この翅は、希望。恨めしそうに空を見上げていた彼にとっての。それを奪うことなど、誰にもさせない。許して良いはずがない。だが彼を再び目覚めさせ、尚且つ翅の傷を癒さなければ他ならぬその希望が彼を死へと追いやるだろう。だが彼を救う方法は、長老達の知る限り存在しないのだ。
「今日から小戦士の試合が始まるんだよ。去年はカミキリムシの精が太陽の戦士で、マルハナバチの精が尽きの戦士に選ばれたけど今年はどうなるのかな……。あ、その頃にはリックスはまだ産まれてもいなかったんだよね。ええっと、太陽誕生祭の日に二人が戦って来年がどんな年になるかを占うの。それが終わったら……」
それが終わったら。太陽誕生祭を見届けた後蚕の精は羽化のための眠りに就き、アサギマダラの精は茫漠たる海へと旅立つ――四日後、ヴェルチンジェトリックスは人生を懸けた旅に出る機会を永遠に失うことになるのだ。
砂浜では退位を表明したバラールブローメの代わりに他の長老による開会の儀が終わろうとしていた。観客を見下ろせる程度の高さの台に立つ長老の前に試合に参加する小戦士達が二列に並ぶ。種族も様々な虫の精達は<大樹>の大きな葉を一枚胸に抱えている。
「それでは戦士諸君、摘んだ葉を再び枝に。」
長老の号令に従い、彼らの前に置かれたトーナメント表――二股の枝を繋ぎ合わせて作られたいびつで大きなオブジェ――に一人ずつ進み出てその末端に自身の葉を紐で括りつける。葉には爪で引っ掻いた跡が残っており、これと同じものが葉の持ち主のかぶる兜にも刻まれている。これが戦士を見分ける目印となる。
予め決められていた対戦相手の組み合わせが発表されるにつれ観客の興奮も高まっていく。最後の一人が葉を縛りつけると自然と拍手が起こった。
「太陽と月の名において我、テッファトンクテが今日より四日間に限りこの島での争いを容認する。」
旧い言い回しが使われ続ける内に誤解を招きかねない表現になってしまっているが、この宣誓を合図に思い思いの甲冑を着込んだ戦士達が対戦相手と共に散り散りになっていった。ある程度人数が絞られるまで告知なしに試合が行われることになる。
――勇敢な小戦士
冠をかけて剣舞する
彼らのために歌を唄おう
立ち上がるか倒れるか
立ち上がるか倒れるか!
勇敢な小戦士
冠を賭けて円の中
同じ目的、同じ旗
誇りを得るか浮かんだまま※か
誇りを得るか浮かんだままか!――
※年老いて翼を使わず歩きがちになる、という慣用句の意味が転じて「貫禄がつく」「名声を得る」を表すようようになり定着した。上記の意味でこの慣用句を用いた場合翼で羽ばたいている状態を表す言葉は「未だ名声を得ていない」ことを表すことになる。
誰ともなく口ずさみ始めた勇壮な歌声と太古の音色がパキリリェッタをぎくりとさせる。
「ん?パキちゃんどうかした?」
隣のアナイエレーズが尋ねる。
「この歌は……たぶん聞いたことない。」
「そりゃそうだよー、小戦士達を応援するための歌だからこの時期しか歌わないからね。」
違う、そういう意味ではない。何代前とも知れない古い記憶を辿っても覚えのない旋律に心細さを感じたのだ。この数日間、彼女は前世の経験に頼り過ぎているところがあった。
「風のように木立ちを吹き抜ける太鼓の音が聞こえるか!朝靄のように空を埋める歓声が聞こえるか!」
振り向けば久方ぶりのエメットブラウンの姿があった。このお祭り騒ぎにひどく浮かれた様子だ。呆れた調子でアナイが答える。
「あら、とっくに<大樹>の肥やしになったものと思ってたけど。」
「残念だったね。私はそう簡単にはくたばらんさ。」
初めて彼に会った時から比べれば随分身長も伸びたが、それでも彼は大きかった。彼はこの島の誰よりも背が高い。翼も鱗もなく、代わりに耳の穴を囲むように小さなヒレのようなものが生えている。
「蚕のお嬢さん、向こうの売店はもうご覧になったかな?」
「ううん、まだ。」
「普段とは品揃えが違うぞ。戦士達の武器や甲冑のレプリカが買える。お気に入りの参加者を決めたら買ってみると良い。」
「そんなおもちゃ買わないし……エメットテンション高すぎ。」
「そりゃそうとも。何たって一年に一度の盛大な祭りが間近に迫ってるんだ。……あの光景は何度見ても飽きない。本当に。」
「わたしにとっては一生に一度だけど。」
夢見心地の老人にパキリリェッタがこれ以上ない冷や水を浴びせる。感じたことが思わず口に出てしまったかのように、ぼそっと。
「まあまあ……そんなことを言わずに……」
かける言葉が見つからないと言った様子の老人の横を通り過ぎ人だかりに分け入っていく。
「もう、パキちゃんここ最近ブルーなんだから言葉に気をつけてよね。」
「そんなつもりで言った訳では……」
アナイの責め立てる声が遠くから聞こえると思えるほど、人々の熱気は凄まじかった。と言っても先ほどまでの騒々しい歓声は既に止んでいた。声を発する者は一人もいない。中央で静止する二人の戦士に向けられた観客達の眼差しが人だかりの輪の外の音を遮るのだ。
子供の背丈でも見える位置まで割り込んでいくと、戦士達の間に漂う緊張感がパキリリェッタにまで伝わる。マルピーギ管の辺りにびりりと痺れる感覚が走る。
「これが、争い(踊り)……?」
直立する戦士の一方はゾウカブトの精。木製の大太刀の柄を両手で構え、その切っ先は地面すれすれの位置で左右に揺れている。対するもう一方はスカラベの精。若々しく大柄な体躯を誇るゾウカブトの精に対し艶のない甲殻の彼はかなりの老齢であるようだった。産まれて半年は経っているに違いない。そんな彼が手にする得物もまた弱々しい老人に似つかわしい細身の剣。ゾウカブトの精の動きにぴたりと合わせて刀身を揺らめかせる。初めて踊り(フディークィーニー)を見たパキリリェッタには分からなかったが、主導権は完全にゾウカブトの精が握っていた。
「爺さんには悪いが、この試合はノイガの勝ちだろうな。」
すぐ脇から聞こえた冷ややかな囁きにパキリリェッタは内心むっとした。彼女は老人を応援することに決めた。
ノイガが機先を制す。太刀の切っ先が半円を描いて天を衝く。老人も追従する。ゆっくり脚を開いたノイガが右に進む。それをきっかけに更なる動きが繰り出される。四歩進んで静止していた太刀がもう半分の弧を描き流れるがまま左足を軸に二回転、すかさずしゃがみ込み立ち上がりざま逆向きに一回転……と、相手に休む間を与えず展開される舞を通じて大きく右に回っていく。スカラベの老人は飽くまで彼の動きを水面に映し出されたノイガ自身の如くぴたりと追従しなければならない。決して遅れを取って追いつかれてはならない。しかし彼は今のところ息切れもせず完璧に模倣していた。それでも大半の観客達の評価は歳の割によくやっている、という程度のものだった。
それまで丸い背中に折り畳まれていた鞘翅を展開し不穏な羽音と共にゾウカブトの精の巨体が浮遊する。曲芸は更に高度なものとなり、固唾を呑んで見守る観客達の口から歓声が漏れる。それに応えるかのように、右回りの踊りが加速していく。二人の戦士が描き出す輪が次第に狭まっていく……
勝敗は決しつつあるかに思われた。ノイガの果敢な攻勢に老人は防戦一方であったからだ。
だがこの有利な状況が油断を生んだ。逆手で軽く構えた大太刀を軸にしての宙返りという大技を終えた時、ノイガは着地に失敗した。左足を挫いて体勢を崩した彼を労連の戦士の手厳しい一線が襲う。倒れ込みながらも太刀で退けたノイガだったが、逆転した形勢を変えることはできなかった。
弾かれた剣を手にひらりと退いた老人は切っ先の届く距離を保って左向きに回り始めた。彼の持つ剣よりもノイガの大太刀は長かったが反撃を仕掛ける前にあらゆる動きの起点となる肘や肩、腰に抜け目なく剣戟を加えられるために完全に動きを封じられるのだった。
老人の無骨な踊りは尚も続き、着実に若武者の体力を消耗させていく。そうして追従すべき動きに次第に後れを取るとスカラベの老戦士はゆっくりと輪を狭めていった。鮮やかな回転斬りの猛攻を前にしてノイガは無様に防ぐことしかできない。そうして極めつけの一閃が彼の手から大太刀を奪い去った。
静寂は長かった。だが次の瞬間にはそれまで静かに湛えられていた興奮が一挙に歓声の渦となって不毛の浜に木霊した。今やスカラベの老戦士は英雄だった。ついさっきまでノイガの勝利を信じて疑いもしなかった見知らぬ男が臆面もなく老人を讃えている。しかしそんなことは気にならなかった。今まで感じたことのない感動が彼女の心臓のない胸に広がっていた。
「やっと見つけた!」
二人の戦士も去り散り散りになった輪の中心で立ち尽くすパキリリェッタをアナイが呼び止める。その横にはフリョッハも連れている。その代わりと言うべきかエメットの姿はない。
「どうだった?すごかったでしょ。」
苛立ったような声色はすぐに影を潜め青と紫のグラデーションの美しい鱗で覆われた愛らしい顔に無邪気な笑みが浮かぶ。フリョッハと同じ背丈のパキリリェッタにとってアナイはまだいくらか背が高いため、彼女自身は無意識に姉のように接するのだろう。
「さっきの試合、みんな話題にしてるよ。初日からあんな試合はなかなか見られないって。次のバングラムはあの人に決まりだなんて言ってる人まで。」
「それは気が早すぎじゃない?」
二人の戦士が向かい合えば彼らを中心にたちまち人だかりの輪ができ上がる。そうしてあちこちで集合と散逸が繰り返される内に優秀な者達が選り抜かれていくのだ。
「あ……」
アナイとフリョッハの会話にパキリリェッタが遠慮がちに口を挟む。
「あ……わたし、カマキリの戦士の試合見てみたい。」
その素直な感情の表れに、フリョッハはほんの一〇日前までの彼女の面影を見た。そう、今のが本当のリエッタだ。どこまでも無邪気で、知識の足らなさを旺盛な好奇心で補えてしまう豊かな感性。そう、今の彼女こそ……であるなら、ここ数日の彼女の何気ない発言や仕草から受ける言い表しようのない違和感は一体何だったのだろう?フリョッハはその答えを最後の脱皮を通して成長したのだというただ一点に求めていた。だが彼女は今ここにいる。むき出しのまま白いままの魂こそがパキリリェッタだ。ならば、魂を覆い隠す衣は一体何だと言うのだ?
「通なところ突くわねえ。誰かから聞いたの?」
「パパから。」
「フリのパパもかなりの争い(踊り)好きだもんね。さすが、分かってる――確か二、三人出場してるはずだよ。一日目で敗退することはないと思うけど、ちょっと捜してみよっか。」
アナイに身を委ねて蚕の精が人混みの間を通り抜けていく。去り際に後ろを振り向きフリョッハを一瞥したが、その眼差しが誰のものなのか、彼女には判別できなかった。




