二三日目
目を開ける前からひどく疲れていた。まだ寝ていたいと思っても眠りには就けそうにもない。何しろ彼女の肉体は脱皮の途上。それに伴い無意識の海の上に浮かんでいる意識の島も一部造り変えられているのだが、その過程でいくつか沈んでいくものがある。肉体が成長するにつれて精神が再構築されると同時に、不必要な部品は無意識の海の底へと沈殿し、やがて埋もれていく。無意識と一体化するまでの間、かつての意識の一部は目を覚ましたまま自分自身の無意識の領域に属する記憶を追体験することになる。新しく産まれ変わった精神が活動を始めるまで眠ることはできない。それ以上、深く潜ることはできないからだ。
今までの夢と比べものにならないほど鮮明であることに彼女はすぐに気づいた。前と同じく眩い光を背にして最上階を見渡していたが、ゆっくり降りていくと驚くべきことに床に着地できたのだ。裸足で触れた床板の感触まで確かに感じ取れる。だが、なぜそれがそんなにも不思議に思えるのかよく分からなかった。床をすり抜けて更に落下を続けるとでも思ったのだろうか。ここが奇妙な夢の中でもない限りそんなことはあり得ないのに。
ここに来るまでの記憶は定かではないが、何をすべきかは分かっている。
冷たく視線を走らせる。その先には二人の精がいる。虫の精と鳥の精。彼女の抱える理不尽な嫉妬と憎悪の対象。
「ねえねえおねえちゃん、あのお花のおはなし聞きたい。」
前にも聞いた男の子の声。自分とよく似た姿をしているが全くの別人だ。これは恐らく未来の景色。自分が死んだ後もフリョッハは世話係を続ける。そうしていずれわたしを忘れてしまう……。一体なぜこんなものを見せられるのかは分からないが、それは間違いないのだ。
「ほんとにパルチティナンはそのお話が好きだね。いいよ、話してあげる。」
小さな男の子が予期しない行動に出た。突然立ち上がってフリョッハの傍を離れるとパキリリェッタの真横に立った。それでも部外者の存在に気づいた様子はない。
「ちゃんとお芝居つきでね。」
「それは恥ずかしいから……」
思わず息を呑んだ。男の子に注がれる優しい眼差しの持ち主は、フリョッハではなかった。黒い髪、黒い翼、顔を覆う色鮮やかな鱗……鱗に覆われた顔のつくりはフリョッハと見間違えようもない。全くの別人。
パルチティナンと呼ばれた少年は再び世話係の膝へ戻った。
「最後まで聞いたらみんなといっしょにお昼寝してよ?」
「うん!」
別人と知った後でも声だけはやはりフリョッハそのものだった。それとも心に浮かんだ何らかのイメージに記憶が投影されているだけなのか?パキリリェッタには分からなかった。
「少女に恋した花の物語を聞かせましょう。花の恋慕に応えて一輪の花になった気高い少女の物語を。
女の子の暖かな眼差しが野辺に咲く一輪の花に向けられると、白い花はぽっと紅く色づきました。
そんな奇跡も女の子にとってはおなじみのことでしたから足を止める様子もありません。紅くなった花は一層頬を赤らめて声をかけました。
おしゃべりな花なんて初めて見たものですから、驚きはしたもののすぐに気に入りました。それから毎日足を運ぶようになったのです。
歌を教えあい、ささやかな秘密を教えあい、顔を見合わせては笑いあう中で花はことあるごとに言いました。
「お願いです、どうかわたしをあなたのそばに。」
決まりきった女の子の返事。
「どうしてわたしに残酷なことをさせようとするの。か細い根を掘り出せばあなたはたちまち枯れるのに。」
女の子が寄り添ってくれるだけで満たされた心には一番のお願いを聞いてくれないことで不満が募ります。
そんなある日、女の子が目を覚ますと夜から降り続く雨で道がぬかるんでいました。
「お花さんがたいへん。」
とは言え雨が止まないうちは外には出られません。背中の翅に雨粒が垂れると穴が開きかねないからです。その日は一歩も外に出られませんでした。
明くる日、朝一番に目を覚ましても雨は止みそうにありません。一日中窓の外を眺めていても、とうとう片時も晴れ間が差すことはなかったのです。
すっかり暗くなってから、女の子は決心しました。月も星も見えない夜の世界に飛び出しまっすぐ原っぱへ向かいます。吹きつける風にめげず注意深く見回してもあの花は見当たりません。途方に暮れているとその子の姿を見た月が憐れみ深く一滴の涙をこぼしました。涙はすぐに小さな星になって女の子のすぐそばに舞い降りました。そうして足もとに一輪の花を見つけたのです。容赦ない風と雨に踏みにじられた花は既に三枚の花びらが散り、最後の一枚も今にも散りそうでした。
「あなたに見られたくなかった……今のわたしは誰より惨めだから。」
「そんなことない。あなたは初めて会った時のまま、美しいままよ。ずっとわたしのそばにいて。」
それは、花が何より望んだことば。
細い根を丁寧に掘り起こすと、両手で大切に抱えて雨の中を走り出しました。しかし、どれだけ進んでも家には辿り着けません。星が辺りを照らしてくれますが、どうやら原っぱから出てもいないようです。とても長い間歩くうち、女の子は疲れ果ててしまいました。
びかびかっ……!!焦る女の子の目の前で空気を割る音を引き連れて雷が落ちました。とっさに花をお腹に抱えてうつ伏せになります。目を瞑っていても眩い光はいつまでも消えず、瞼の裏の闇を焼き尽くす。少しずつこちらに近づいてくるようです。
雷の白い手が女の子の丸まった背中に優しく置かれました。まるで嵐の目の中にいるかのような穏やかさで。
「わたしは君たちの命を奪うことができる。だが君が心から望むものを見せてくれるなら、君に一度だけ力を授けよう。」
厳かな声に言われた通り、女の子は芽を閉じたまま一心に念じました。すると先ほどまでの強烈な光がいくぶん薄らいでもっと暖かなものに変わりました。おそるおそる目を開けると相変わらず原っぱにいたけれど、さっきまでとは打って変わって空は雲ひとつない快晴です。どうやら雷に会う前、女の子は一晩中歩いていたようでした。星はいつの間にかいなくなっていました。
女の子は守っていた花を植えてやると、雷との約束を果たしました。
雷はずっと昔に地上から失われていた力を女の子に与えました。それは変身する力です。
足は根に、手は歯に。四枚の白い翅は花びらになってたった一枚の花びらを守り通した紅い花の横に仲良く並びました。
「わたしをあなたのそばに。」
その言葉に一輪の白い花がぽっと紅く色づきました。
その後、かつて一輪の花が孤独に咲いていた原っぱは一面の花畑になったということです。」
世話係が語り終えると、パルチティナンが満面の笑みで拍手した。聞いている間中、パキリリェッタは古い記憶を呼び起こされるかのような感覚に捉われていた。但しその記憶とは、自分が絶対に知り得ないものであるはずだ。
「これは未来のことなんかじゃない……ずっと昔に起こったことなんだ……」
彼女の声に呼応するかのように、世話係と周りの景色が塵になって消えた。パルチティナンが物憂げに立ち上がる後ろで再び何らかの記憶が構築されていく。
「そう。これは過去の記憶。そしてぼくは過去の君。」
「過去の、わたし……?」
与えられる言葉を繰り返すのがやっとの状態。
パルチティナンが所定の場所に立つと、完成した記憶の上演が始まった。
「「あなたがより多くと結ばれますように。」」
狭い部屋。居合わせた人々が口々に呟く、厳かな祈り。響き渡るのは産まれたばかりの赤子の啼き声。人間の声と鳥の声とが半分ずつ混じった不思議な音色。産婆が退くのに合わせて赤子を取り囲んでいた人々もいくらか散り、また別の人々が押し寄せる。パキリリェッタも交じって赤子を一目見ようと背伸びする。人混みの感触や体温には今更驚きもしなかった。これはかつて現実に起こったことなのだから。
ようやく彼女の順番が来た。母親に抱かれた赤子の姿にパキリリェッタは息を呑んだ。
「フリョッハだ……」
髪がなく、羽毛もなく、申し訳程度の鱗しかない真っ赤な肌をしていても、それだけははっきり分かった。目を転じると赤子を抱いていたのは先ほどの世話係だった。
「この子の名前は、どうするんだ?」
母親の隣で彼女の夫と思しき男が顔を綻ばせて彼女に尋ねる。それまで気づかなかったのが不思議に思えるくらいだが、、どうやら彼は若かりし頃のクロッテュフィガルであるらしい。パキリリェッタにはついぞ見せたことのない深い幸福を噛み締めるかのような表情をしていた。
「分からない……」
啼き声が小さくなり、落ち着き始めた赤子を抱きながら、暗い表情で冷たい言葉を発した。今さっき産まれた赤子の幼い姉弟もはっと母親を見つめた。
「え……?」
「この子はきっととても優しい子に育つ。それは分かるの。でもその先が見えない……その優しさをなにに向けるつもりなのか、なにをするつもりなのか……分からないの。」
「考え過ぎだ。」
深刻に言い募る妻にクロッテュは苦笑しつつ反論した。
「普通は赤ん坊がどんな子になるかを見抜いてそれに合うよう名づけたりしない。どんな子になってほしいかを考えるもんだ。なんなら考える必要さえない。」
「そうなの?」
初耳だわ、とでも言いたげなフリョッハの母。自分の軽口で妻の顔に明るい色が戻ったのに気を良くしたクロッテュが更に述べる。
「そうだな、例えば今日は暑い……ここ数日は干からびそうな天気が続いてる。」
「……それで?」
「喉の渇きを満たせるような名前が良い。喉の渇きで困らずに済むような名前が。この子はフリョッハだ。」
「潤いのある(フリョッハ)?」
ハチドリの女性は赤子を再び啼かせてしまう恐れも気にせず大笑いした。上品で、木琴を思わせる温もりのある声。
「もっとかわいい名前にしましょうよ?それじゃまるで夏至に産まれた子みたい。」
「そうそう、今は春だよ、お父さん。」
母の言葉に長女も加勢する。
「ブレンだって、君が決めた時は男勝りな名前だと思ったがそれほど男のようにはならなかったじゃないか。」
「そうだよね、お父さんは分かってる。」
「姉ちゃんが優しいって?父さんと母さんがいる時だけだよ。」
父と同じ名を与えられた弟が小気味良い言い合いに加わる。しまいにはうとうとしていたのを邪魔された赤子がいよいよ機嫌を損ねて啼きだす始末。
「はいはい、分かりました。この子の名前はフリョッハです。もう、決まり!」
幸せいっぱいの家族を少し離れて眺めていたパルチティナンが重々しく口を開く。
「この人の名は、ミリティウリァンノー。」
「リァンノー……」
その名には聞き覚えがあった。フリョッハが自分で自分に名づけた名前だ。そう言えばフリョッハからその名を初めて聞いた時にも初めて聞いた気がしなかった。
「混乱しているね。当然のことだ。だが君は受け入れなければならない。
今見てもらった二つの記憶は私にとって最も幸福な思い出だ。そして喜びを味わった後には、必ず悲劇が訪れる。」
窮屈な思いをしていたのが嘘のように人混みが消え、記憶が再構築されていく。再び広々とした最上階に遷移した。パルチティナンが自分の小胞へと歩いていく。小胞の脇には困った様子の青年が両膝をついた状態で凍っている。
パルチティナンが小胞の中に座って真に迫った膨れっ面を作ると上演が始まった。
「ミリティウさんは赤ちゃんのお世話にかかりっきりでここには来られないんです。代わりに僕と遊びましょう?」
「やだ。おねえちゃんがいい。どこにいるの?」
「教えられません。」
「彼が何か隠しているとすぐに分かった。だが何を隠しているのかは、自分の目で確かめねばならなかった。翌日、私は大人たちの目をかいくぐり部屋を出た。」
どこかピォルモに似た青年が塵になって吹き消え、再び狭い部屋に遷移する。だがさっきまでの賑やかな雰囲気はどこにもなく、光の精の灯りもどこか薄暗い。当時の彼の気分が反映されているのだろう。寝台には先ほどと同じくミリティウが横たわっているが、その顔色はぞっとするほど青ざめている。
「おねえちゃん、どうしちゃったの……?」
「坊や、ここに来ちゃだめって言われたでしょう。みんなと遊んでらっしゃい、ね?」
身体全体が異常な熱を持っていることが離れていても分かる。話すだけでも辛そうだ。
呆然として固まったまま、少年は大クロッテュに連れ戻された。螺旋階段を昇る間中押し黙ったままの彼の表情が全てを物語っていたが、まだ幼いパルチティナンは分かろうとしなかった。
最上階の出入り口に架けられた、向こう側が透けて見える薄い暖簾がまるで世界を隔ててしまったかのよう。それを二度くぐることは、彼にはできなかった。
「ミリティウがより多くと結ばれたと聞かされたのはそれから四日も経ってからだった。彼女は私が訪ねたあの日の夜に亡くなっていたのだ。伝えるのを遅らせたのは私の脱皮に障らないようにとの配慮であったらしい。君も知っての通り、最上階は薄い暖簾一枚で外と隔絶されているからね。
残酷な気遣いのおかげか、私は無事に五齢幼虫になった。そうして初めて彼女に対して抱いていた格別の感情の正体を知った。」
四齢から五齢への成長過程にあるパキリリェッタには、四齢幼虫の頃の意識の澱とでも呼ぶべき状態で無意識の海を漂う彼女にはまだその正体が分からなかった。
「恋心だよ。私はミリティウリァンノーを愛していた。幼児が母親に抱くのとは違う、生殖を意識した愛。それに気づいた時にはもう永遠に会えなくなってしまっていたがね。」
「わたしが……」
パキリリェッタが自信なさげに尋ねる。
「わたしがフリョッハに感じてるのもそれなの?」
「違う!」
突然の大声にぎくりとする。
「それは明確に違う。仮に君がフリョッハに恋心を抱いているとしてもそれは本物ではない。ミリティウリァンノーを愛していたのは私だ、フリョッハリァンノーを愛しているのは私だ!」
「そんな……!それじゃああなたがいなければわたしはフリョッハに見向きもしてなかったって言うの?!」
「その通りだ。」
「わたしがしょっちゅう外に出歩くのもあなたがそうさせてると?!」
「その通りだ。君はわたしのおかげでフリョッハと出会えたんじゃないか。」
確かにその通りだった。種族を超え、世代を越えた情動の残響が今生きている本来的な他者に本来なら選ぶはずのなかった選択をさせている。
「そろそろ糸が切れるようだな。新しい君が目覚めれば、私も君ももはや過去の存在。間もなく際限なく混じり合ってひとつになる。そう悲観するな。例え死んだとしても何も消えてなくなりはしない。血脈さえ途絶えなければ私達は永遠に生きられる……」
遥か上で太陽と月を合わせたよりも明るく光るものの正体をパキリリェッタはようやく理解した。今まさに造り変えられつつある彼女自身なのだ。
「へんな気分。あれもわたしだなんて……」
「ここは君の中だから、当然だろう?あれも君、私も君。ここにある全てが君の一部。海でさえ、空でさえも。」
意識が薄らいでいく中で彼女はもう一つの事実にも気づいた。現在のフリョッハが四歳、フリョッハが産まれ、ミリティウが亡くなった年にパルチティナンが生きていたのなら、彼の孫がパキリリェッタの父か母いずれかであるということになるのだった……
「――ぜんぶ、思い出した。」
長い眠りから覚めた蚕の精の第一声は心配していた世話係達を驚かせた。
「パキちゃん、起きたのね。よかった。もう……心配したんだから。」
「アナイ……ずっといてくれたの?」
「まあね。」
ほっとした様子の彼女の隣でピォルモも笑っている。
「……リァンノーは?」
「フリのこと?あんまり気にしてなかったけどやっぱり変だと思うよ、その呼び方。前みたくおねえちゃんって、呼ぶ年頃でもないか。」
すらりとした手足にようやく胴体の成長が追いつき、若枝を彷彿とさせるしなやかなシルエットは実に白い肌に似つかわしい。それに合わせて肌の感触も幼児のもちもちしたものから軟らかいながらもしなやかで張りのあるものに変わったことでその中性的な美を体現した肉体の内側で機能する内臓や筋組織と肋骨とをそれとなく意識させるのだった。まだ男でも女でもない幼虫だけが持ち得る性愛とは何ら関わりのない潔癖の美の極致。その魅力が幼年期を脱しつつある今まさに円熟したことを髪をまとわぬ形の良い頭蓋が証明していた。
「ま、フリが嫌がってないならそれでいいわ。あの子は今ここにはいないんだー。代わりに私と身体洗いに行こっか。もうみんな午前中に済ませちゃったんだよね。」
夢うつつの蚕の精は記憶を取り戻すにつれて、アナイの発言に夢で聞いた言葉と不吉な重なりを見出だした。
「リァンノー、からだの調子がどっかおかしいの?!それならごまかさずに教えて!」
「どうしちゃったの。だいじょうぶ、フリの方はなんともなかったよ。だから落ち着いて。」
突然立ち上がるパキリリェッタの両肩を押さえてなだめるアナイ。
「ごめんなさい、夢で怖いものを見ちゃって。」
「そう、ならやっぱり私じゃだめね。ピォルモ、わるいけど下までフリ呼びに行ってくれる?」
「は、はい!」
即座に駆けだしてキビタキの少年の姿が消える。
「素直ないい子。で?あなたも一皮むけて少しは素直になったのかしら?」
「そんなのわかんない……でもこの前までどうしてリァンノーにあんなにつらく当たってたかはわかったよ。だからもうしない。」
「そっか。じゃあ身体だけじゃなく心も一回り大きくなったわけね。」
「それより教えて。フリョッハの方はってどういう意味。誰かけがしたの?」
床の軋む音でフリョッハが椅子から立ち上がり振り返る。彼女の後ろで眠る病人から目を逸らしながらピォルモが告げる。喜ばしい知らせもこの部屋では暗い声で伝えなければならないような気がした。
「パキリリェッタさんが、目を覚ましました。」
「はあ、よかった。あれだけのことが起きたからもしかしたらと思ったけど……リックスのおかげだね。」
病床に伏す青年の耳に届くようにフリョッハが話す。
「……眠ったままなんですね。」
「さっきブロデゥユンさんが来てくれたんだけどね……。治療はできないって。あの人が言うにはきのうの夜、闇の精霊がリックスの身体に触れたとき、身体の中の光の精霊が消されちゃったんだって。それで死ぬことはないけど、ずっとこのまま……」
一度は乾いた涙の跡を再び一粒の滴が伝う。
「またわたしのせいだ……。リックスはわたしをかばってこんなことに……」
「フリョッハさんのせいなんかじゃ、ないですよ……」
「ううん、お母さんを殺したのもわたしのせい。リックスだって……」
「どんなことが起ころうと、起きてしまったのならそれは自然の摂理に従って起こるべくして起こったのです。誰のせいでもあり、誰のせいでもないんです。」
聖なる人々が好む高尚な言い回しで何を言われたところで、今のフリョッハには押しつけがましさしか感じられなかった。どれだけ賢くともやはりピォルモは年下。肉親の死の責任という重い罪を産まれながらに背負っていない以上彼にフリョッハの心情を察することは、ましてや気の利いた慰めの文句をかけてやることなどできるはずがないのだ。自分とピォルモとの分かり合えなさに気づいた瞬間、彼女の目から涙の潮が引いた。
「すぐリエッタのとこに行く。でも少しだけ待ってて。」
「わかりました。今、上にはアナイさんもいますから。相手してくれてると思います。」
「うん、ありがとう。」
ピォルモの言葉遣いの丁寧さは相手に対する敬意の表れというよりこれ以上近づくなという威嚇の意味が強い。時折見せる相手への理解に欠けた冷たい態度が何よりの証拠だ。
「一般論を聞かせてなんて誰も頼んでないから。」
病室を去るピォルモに浴びせるような視線を注ぎながら、そう小さく呟いた。
パキリリェッタは今でもまだあの海の底にいる時の感覚に囚われていた。あの場所では果てしない過去とただ一つの現在と限りない未来の凡てがいっしょくたになって、それでいて少しも混濁することなく(夢の中では常にそうであるように)当然のこととして感じられるのだ。名の知れない感情に掻き乱され波打っていたのが懐かしく思えるほど今の彼女の心は平静そのものだった。
だから、目の前にフリョッハが現れたところで別段驚きもしなかった。実のところ彼女にとって、自分の前に立つその鳥の精はフリョッハではない。重要なのはミリティウの血を引いていることであり、恋い焦がれている対象はフリョッハの顔立ちから感じ取れるミリティウの面影であり、恋い焦がれているのはパキリリェッタでなくパルチティナンであることを、彼女は理解していた。両者の血統が途絶えることさえなければこの図式は永遠に続く。パルチティナンの記憶が統合されたパキリリェッタは、永遠の愛を手にした喜びを手で触れられそうなほどの実感を伴って味わいつつフリョッハを眺めていた。
肉体の中で渦巻く葛藤の正体を知った今、重要なのは答えを知らずに済ませることだ。永遠の愛を次の代に譲り渡すにはフリョッハの、即ちミリティウのパキリリェッタに対する感情を答えさせないまま死ななければならない。
「リエッタ……?」
一糸まとわぬ姿のまま超然的な表情で直立する終齢幼虫を前に架けるべき言葉を見出だせない様子のフリョッハが助けを求めるような啼き声を発する。彼女の前に立つ蚕の精は今や身長が自分と同じにまで伸び、あたかも穏やかな水面に自分の姿を写し取ったかのよう。但しそこに映し出されているのは普段意識さえしない自身の意外な側面なのだ。
黙ったまま歩み寄るパキリリェッタにフリョッハは身を固くする。しなやかな白い腕に絡みつかれ、否が応でもじかに伝わってくるすべすべした肌の感触、体温、息遣いに彼女の小さな心臓は高鳴った。
「ごめんね、リァンノー……わたしのせいでヴェルが……」
台詞と裏腹に声には戸惑った響きがない。
「へいきだよ、ぐっすり寝てるだけでちゃんと生きてるから。それよりリエッタは、もうへいきなの?」
「なんともないよ。ただ、寝てる間中ずっとあなたに会いたくてたまらなかった。今こうしてあなたと話せて、あなたの体温をじかに感じられてわたし……」
蚕の精に抱きすくめられた褐色の身体がくすぐったそうにくすくす震える。
「どうしちゃったの?そんなにさみしくなるほど会ってなかったわけじゃないと思うけど……」
「わたしにとっては長かった……とても。もう片時も離れたくない。わかって。」
性別のない芋虫が自身の情動を理解したのに対し、肉体が成熟しつつある少女はアサギマダラの青年に抱く感情を知らないがゆえに蚕の精の言葉の真意を理解しなかった。
「とりあえず二人とも浜で身体洗ってくれば?って言うか、身体の洗い合いっこ?」
「ひきゃっ……」
空の小胞に腰かけたアナイエレーズがもう充分とばかりに満足げな表情を見せる。
「えっ……いつからそこに……?」
「そうねー、パキちゃんがフリに抱きつくとこから?」
「最初っからだね……」
「気にしないで、おかげでいいもの見れたし。なんかこっちまでどきどきしちゃった。
「……行こ、リエッタ。」
パキリリェッタが以前フリョッハが置いていった鮮やかな色彩の衣をまとうのを待って、二人は立ち去ろうとした。
「無視はひどくない?ここでパキちゃんが起きるまでいっしょに待ってあげたこと忘れないでよ?」
「ありがとね、アナイ。」
「そのうちお返ししてもらうからねー?」
本人の代わりにお礼を述べたパキリリェッタはアナイの声を背に受けて広間を後にした。
もうじき五歳になるハチドリの精と生後未だ三〇日に満たない蚕の精が手を繋いで階段を降りて行く姿は種族は違えども微笑ましい双子のような印象を与えた。その身に流れる血の色さえ異なる二人にとってそれは何よりの褒め言葉になっただろう。しかし、周囲の大人達は例によってそれどころではなかった。
地上からほど近い三階の病室で根の魔女を待つ間、フリョッハは昏睡するヴェルチンジェトリックスの手を握りしめながら一階の広間で行われたバラールブローメの告白に耳を傾けていた。既に事情を知っていた者達の予想に反して、大きな混乱は起きなかった。理由も分からず恐怖に怯えていた時よりも却って静まり返ってしまったほどだ。涙混じりにひたすら謝罪の言葉を繰り返す最長老の後をクロッテュフィガルが引き継ぎ、今後遺体を海へ送り出す葬法は一切禁止とし、必ず<大樹>の許へ還すことを伝えた。次の世代の糧になってこそ、私達は本当の意味で生を全うしたことになる、という言葉で締めくくると、集会はお開きになった。
地上へと続く最下階に辿り着くと、集会の時のように人々が群れをなしていた。但しその目は異端の蚕の精でなく曇りがちの空が広がる外へと向けられている。
「雲が育ち仲間の死を悼んでいる。今にひと雨降り出すだろうよ。」
しわがれた老女の言葉が人々の話し声と比べてもさほど大きな声でなかったにも関わらず二人の耳にはっきりと届いた。
<大樹>の目の前では、蚕の精の亡骸の最後の一体が今まさに地下から滲み出る黒黴に覆われつつあった。傍には誰もおらず、広間の中に身を隠す者達からは祈りの言葉も聞こえない。
鮮やかな装束を身にまとった白い幼精が臆する素振りもなく前へ進み出る。
「リエッタ……!あぶない……」
この日亡くなった蚕の精は二〇名。一日の内に失踪が確認された人数は最大でも五人程度なので今日のところは生者が襲われる心配はほとんどないと考えて良さそうではあるが、それでもパキリリェッタの大胆な行動にフリョッハの口からはそんな言葉が漏れ出た。
既に黒黴に厚く覆われた顔はその表情が安らかであったかどうかも確認のしようがない。軟らかな腹の上で組み合わされた手だけが辛うじて死者の肌の白さを知らしめている。
死者の左手を両手で胸に抱えると、二つの口で――桑の葉を食べる口とやがて然るべき時に糸を吐くことになる二つ目の口で――自身によく似たしなやかな手に交互に接吻した。
「……あなたがより多くと結ばれますように。」
間もなく地下から蔓が伸び、美しい言葉で祝福された亡骸は根の国へ運び込まれた。
恐る恐る地上に出たフリョッハが彼女の肩に優しく触れる。
「今ならこの祈りの意味がよくわかるよ。今までぜんぜん気づかなかった。この島は、世界はこんなに……」
「パキリリェッタが立ち上がり<大樹>に向き直る。
「生命に満ち溢れてたんだね……!」
歓喜の涙で滲んだ彼女の視界には<大樹>の枝葉に隠れ忍ぶナナフシやコノハムシにハゴロモ、樹皮に擬態した蝶蛾その他名も知らない虫達一匹一匹の姿が鮮明に見えていた。彼女が一体何を見ているのか、推し量りようもないフリョッハの胸中には前に一度だけ感じたことのある感覚――同い年のアナイが先に変身を遂げた時感じた、置いていかれてしまったという感覚――が広がりつつあった。
フリョッハが得意の縦笛で呼び寄せたハチドリにまたがって砂浜へと向かう間も、パキリリェッタは静かに楽しんでいる様子はあっても以前のような興奮の仕方は全くしなかった。
「……空を飛ぶの、思ってたほどじゃなかった?小さい頃はあぶなっかしくて乗せてあげられなかったけど……」
蜂のような羽ばたき音が絶えず風を切って進む中でフリョッハが乱れる黒髪を掻き分けて尋ねる。
「……昨日も飛んだし。」
「え……?」
「雲の上まで突き抜けて、太陽が沈んでくのを見たの。」
やはり昨日見た墜落する怪鳥と何らかの関わりがあったことを確信させる発言だった。だが追及する間もなく砂浜に立つ門の前に舞い降りてしまった。見慣れた顔の門番一人の他、門を撤収するための要員二人が並んで立っている。
「その話、あとでちゃんと聞かせてね。」
素直に頷いた彼女は翼を畳んで佇むハチドリに礼を言うと一人門をくぐっていった。
「あなたは雲の上まで飛んだことある?」
パキリリェッタが海水に浸かっている間、フリョッハはハチドリの言葉で同族の友に尋ねた。
「分かってて聞くなって。雲より高く飛べる鳥なんて聞いたこともないよ。そんなのがいるとしたら怪物か何かだ。」




