二二日目
「例の蚕の精、また逃げ出したって本当なのか?」
「なんでも、ほんの一瞬目を離した隙にいなくなったらしい。」
「だが、部屋を抜け出したところで地上に行くまでは相当距離があるだろう。誰にも見つからずに逃げるなんて……」
「前なら出来たかもしれないが今はみんなが神経質になってる。」
「今度こそまずいんじゃないのか。なんたって今日は彼らが最後の脱皮をする日なんだぜ……」
市井の人々が動揺するのも無理なかった。既に夜は更けて月が高く昇っている。他の蚕の精達はみな脱皮直前の休眠状態に入っていた。忽然と姿を消したパキリリェッタは今どこにいるのか。話は数時間前に遡る……
彼女の安らぎを奪ったのは、束の間の安らぎを与えた小胞の壁が放った些細な一言だった。
「言いづらいのだがね、お前さんは……もうわしの所へは来ない方が良い。」
「えっ……」
老人の言葉に動揺しつつも、彼が朝からよそよそしく振る舞っていたのはこのせいだったのだな、と聡明なパキリリェッタは思った。
「どうして、そんなこと言うの。」
「儚い者よ、わしと話している間、時間が経つのが恐ろしく早いことに気づいただろう。それは、お前さんが一時的に<大樹>と一体となって時間の流れの感じ方が変わったからなのだ。……悔いのないよう生きることだ。<大樹>に還って悠久の生を得るまではな。最後の脱皮に備えなさい。」
「でもわたし……大人になんてなりたくない。」
自分の意識が<大樹>から締め出されようとしているのを薄らと感じた。それでも樹皮のような質感の老人にしがみついて必死の抵抗を試みる。
「お前さんがそこまで未来を畏れる理由が何かあるのかね。大きな悩みを抱えているような気がしてならないが、とうとうわしには教えてくれないのか。」
尋ねられた瞬間、ここにもいられないとパキリリェッタは思った。しがみついていた手を緩めた。凄まじい勢いで波が引いていく砂浜に立っているかのように、老人の姿が遠くなる。言うまでもなく、瞼を開ければいつも通りの退屈な景色が広がっていた。それでもどうやらフリョッハはいない。他の世話係達も脱皮前の繊細な蚕の精にかかりきりで手が離せないようだ。今なら……
「だめですよ、パキリリェッタさん。また逃げようとしてますね。」
螺旋階段に足をかけた彼女を半ば呆れ気味のピォルモが呼び止める。
「よりにもよって脱皮の日に抜け出すなんて勘弁してください。二度目の脱皮のときたいへんだったじゃないですか。」
「もう、よく覚えてないし……」
すごすごと小胞に戻る彼女の姿に一抹の罪悪感を覚えた。背恰好だけなら自分より年上に見えるパキリリェッタに注意するには仕事と割り切って対処する必要があった。
邪険にしているとは言え、昼食を終えてもフリョッハの姿が見えないことを少々訝しく思った。脱皮が始まるまでに会いに来ないつもりなのだろうか……などとパキリリェッタが考えている間にも地上ではまたしても問題が持ち上がっていた。遥か上にいる者達にとってそれを知ることは不可能に近い。パキリリェッタはフリョッハの不在だけで、異変に気づかなければならなかった。
冴え冴えと下青緑の樹幹の真下に精達の姿が見当たらないのは夜中から降り続く雨のせいばかりでもなかった。尊くも儚い生命が<大樹>の暴走に晒された事件と風変わりな蚕の精とが何の関わりもなかったことを日月と星々の経巡りが証明したのだ。おちおち外を歩き回ってもいられないと知った人々ははっきりした理由が分かるまで各々の家に引っ込むことにしたらしい。生い茂る葉を伝って垂れる雨粒がまっすぐ<大樹>の根に染み込む。普段なら精の中でも開けっ広げな性格の者達が衣を脱ぎ捨てて水浴びし始める頃合いだ。だが外へ踊り出ればたちまち地の下にたゆたう闇に引っ立てられてしまうかも知れない。激しい雨音が、却って静けさを強調する。
<大樹>の異変とパキリリェッタとの間に最初に因果関係をこじつけたのは群衆の中の誰かだった。それが瞬く間に伝染し、彼女を小胞に連れ戻すことが総意となった。だが賢明であるはずの長老達までもが賛同すべきでなかったことは、今となっては明らかだった。人々の誤りを正すことにこそその責がある指導者たちへの尊敬は今や失墜したも同然だった。
早朝から長老会議が行われている部屋の外では噂でも迷信でもなく真実を求める気になった人々の群れが押しかけていた。その中にはフリョッハの姿もあったものの、大勢とは求めるものが違っていた。パキリリェッタの外出の許可を、脱皮が始まってしまう前に最長老から言い渡してもらわなければならない。生きる希望を失ってしまったかのような今の状態では古い皮に包まれたまま二度と目を覚まさない可能性さえある。どうにかして多くの人に真実を伝え、パキリリェッタを開放してもらわなければ……。だが、腰抜けの長老達は果たして真実をありのまま詳らかにしてくれるだろうか?
「わたしが話したところで誰も信じてくれないだろうし……そっか、根の魔女さんに来てもらえれば……」
老齢にして若々しいままの根の魔女から地下の異変を聞いたのも丁度こんな雨のそぼ降る朝だった。彼女なら誰にも気兼ねせず本当のことを話してくれるだろう。ハチドリの少女は人だかりを離れ<大樹>の中央を貫く空洞を通り抜けて一階へと降り立った。
根の魔女の呼び方なら誰でも知っている。用意するのは一枚の板と一本の枝だけ。雨の日に板切れを地面に置き、枝の先をその板に立てて両手でくるくる回してこすりつける。そして魔女を招く歌を歌うのだ。それでどの程度の確率で来てくれるのかは全く分からないものの、方法はそれしかない。
召喚の手順を反芻しながら外へと向かうフリョッハの脇を小さな人影が通り過ぎる。ずぶ濡れの頭から雨の匂いを漂わせぽたぽたと垂れる水滴が細い足跡を写し取る。はっとして振り向けばやはり見覚えのある麦色の髪。
「はいはいどいたどいた、根の魔女様がじきじきに来てあげたのよ。燃やされたくなきゃさっさとヘイブリッチを出すことだ。猶予はあたしの髪が乾くまで。」
ケツァールの高貴な翼がふわりと二階へ舞い上がる。おずおずと引き下がる人々の間を通ってずかずかと会議室の暖簾をくぐった。誰も押しかけはしても入ろうとまではしなかった部屋に躊躇なく。フリョッハは再び群衆の一員となってずっと後ろでことの成り行きを見守った。
「ヘイブリッチ、あんた達がもたついてる内にまた元気なのが五人送られて来たわよ。まああたしは構わないのだが、それでもムカデ達の餌はぴくりとも動かないやつで充分なことくらいははご存知だろう?」
「私はバラールブローメです。一体何代前の最長老と勘違いしてるんですか……」
高齢のバラールにはいつまでも若々しい魔女と張り合う気力はなかった。
「やっぱり長老達は何か隠してるのか?」
根の魔女に続いて何人かが部屋に足を踏み入れる。
「ちょっと!あんた達は引っ込んでなさいよ。」
威嚇するような啼き声と共に突き出した細い指から熱気がほとばしる。怯む男達。
「一体何だ?!今のは?」
火を扱う習慣どころか火を見たことさえもない彼らには何をされたのか理解できなかった。要するに、これこそがこの島で彼女だけが持つ力の内のひとつなのだ。
「長老達と話したい。不憫なあんた達の代弁者としてね。でも今は離れててちょうだい。あたしの手の届かないところにね……」
意味ありげに右手をひらひら動かす。根の魔女を怒らせてはならないことだけは誰もが知っている。部屋に踏み込んだ者達もすごすごと退散する。一転がらんとした廊下にフリョッハだけが残された。
「あんたは見覚えがある。」
「はい、ばば様の後ろでお話を聞いてました。」
「まあいい、あんたも入りなさい。」
恐る恐る近づきはしたものの、部屋には立ち入らなかった。長老達の中に父であるクロッテュフィガルの姿があったからだ。
根の魔女が話を切り出す。
「地上の者達が相次いで姿を消した原因を知りながら何の処置もしなかった理由を言ってみなさい。」
「長老としての義務を怠っていた訳ではありません。私達の誰一人として。ただ、皆に伝える機会を伺っていたのです。」
魔女の毅然とした態度は言い逃れを許さない決意を明示していたが、バラールは飽くまで言葉を濁すつもりでいるらしい。一歩も譲らない様子では同じでも、落ち度がある以上形勢はバラールに不利である。
「真実を明かせばいくらかの混乱は起きるでしょう。だがそれを恐れるべきではなかった。恐れるべきは、原因不明の恐怖に怯えた者達が思いも寄らない行動に打って出る可能性。そっちの方が余程危険。」
「ええ、それは――その通りです。」
「はっきりしない言葉ばかり並べるのは、何かを隠し通そうとしてるからなのかしら。」
雁首揃えて黙り込む長老達より遥かに齢を重ねたブロデゥユンは何もかもお見通しのようだった。
「この手の悲劇はいつでも起こり得るものよ。公事に携わる者が私事に囚われるなら。要するにあなたは自分のことで頭がいっぱいなのよ。」
「そんなことはありません。」
「ええ、あなたはいつだって理性的に振る舞ってきた。そんなあなたでさえ、あたしの話には動揺した。」
「そう言えば……」
それまで口を開いたことのなかった老人が呟いた。
「最長老は以前、私に自分が死んだら<大樹>に還してもらうのと海に送り出してもらうのとどちらが良いかお尋ねになった。私は<大樹>に還る方が良いと言ったが……」
「バラールはそうではなかった。」
魔女の言葉に頷く老人。
「全く、この騒ぎを大きくしたのはあなたのごく個人的な理由にほかならなかった。しかも本質的に、あなた自身とは無関係な事柄。あなたが死んだ後、その亡骸をどうされようと何の関係もないのにね。それは飽くまであなただったものであってもはやあなたの一部でさえない――」
「さすがは魔女、冒涜的なことを平気で言ってのけるのですね。」
悪態をついた後、バラールはとうとう敗北を認めた。
「そう、私は確かに公の立場を蔑ろにしました。私が死ぬよりも先に、舟での葬儀が廃止になっては困る。理由はそれだけです。しかしもどかしいものですね。とっくに死期を悟っていると言うのに、その時はまだ来ない。」
「罪のない者達を陥れたという罪悪感が、あんたを生かすのよ。」
「罪」も「罪悪感」も、長老達には馴染みのない言葉だった。フリョッハにとっても、島にいる全ての人にとっても。
雨でずぶ濡れだったはずの髪は魔女自身の体内から発する熱ですっかり乾いていた。」
「時間切れ、ね。あたしは戻るから。」
「ま、待ってくれ。」
長老の一人が引き止める。
「<大樹>の根の渇きを癒すには、どうすれば良いのです。まさか、生贄を捧げろと?」
「ことによると、それだけの犠牲を払うことになるかもね。でもその判断はまだ先で良い。明日の朝には<大樹>に還る者達が出て来るでしょう。ざっと二、三〇人かしら。」
簡単な計算だ、と言わんばかりにあっけらかんと提案する態度に、フリョッハは目眩がしたそれでも橙色の鱗に覆われた両耳はきちんと言葉を聞き容れていたし、頭も考えるのを拒まなかった。
「待って、その二、三〇人って……蚕の精たちのことを言ってるの?」
「ご明察。」
端整な顔に屈託のない残酷な笑みが浮かぶ。
「ひどい……あなたにとってはなにもかも量の問題なんだね。」
思いつく限りの皮肉をぶつけても、ブロデゥユンにはなんの効果もないようだった。
「白い亡骸を残らず捧げればいくらかの足しになるでしょう。でもそれも時間の問題……全ては時間の問題だ、お嬢さん。誰かが死ななければ、誰も生きることを許されない。<大樹>の根の上ではね……」
冷ややかな言葉を浴びせかけて、根の魔女は階下へ飛び降りた。若々しい老女の言葉は、純朴な少女の価値観を造り変えるには充分過ぎる刺激だった。
最上階に向けて飛び立つその一瞬に、バラールに向けた目にはそれまでとは違う輝きが籠っていた。
「待って下さい、フリョッハさん――」
「リエッタに外の空気を吸わせてあげます……もうあなたにお伺いを立てたりしない。」
即座に娘の後を追おうと立ち上がるクロッテュをバラールが引き止める。
「彼女の言う通りです。私はパキリリェッタさんを利用した。あの二人が私の身勝手な指図に従うべき理由は最初からなかったのです。」
「ひとつだけ教えて下さい。」
威厳のある声をバラールに向けるクロッテュ。
「なぜそうまでして舟での葬送にこだわるのです。いえ、責めている訳ではありません。最長老、これまであなたがしてきたことには必ず意味があった。その理由の如何によっては舟での葬送を廃止にした後もあなたの場合に限っては執り行うように私が進言しても良い。名誉にかけて約束を果たしますよ。」
「ありがとう……最初からあなたを頼るべきでしたね。」
蚕の精の世話に関する一切を取り仕切る役目は、本来であればミリティウリァンノーが負っていた。だが彼女は三人目の子を産んで死んでしまった。妻を失って悲嘆に暮れていたクロッテュに彼女の家系が代々継承してきた仕事を引き継ぐよう勧めたのはバラールだった。最長老の親身な助力が無ければ妻との別れの悲しみから立ち直るにはもっと長い時間を費やしたろうし、その後長老に選出されることもなかっただろう。
「……それでも私の固執が身勝手なものであることに変わりはありません。八年前に亡くした夫を船に乗せて弔ったから。私もその後を追いたいと、ただそれだけなのです。」
八年。鳥の精にとっては気の遠くなるような年月だ。およそ生涯の半分の期間に相当する。尤も、クロッテュにしても妻と死に分かれて六年になるのだが。
クロッテュフィガルはすぐさま<大樹>に棲む者達を可能な限り多く集めるよう命じた。夕方、バラールの口から真実が告げられるとの知らせを添えて。
どの虫の精にとっても最後の脱皮は特別な意味を持つ。蛹の期間を経ないトンボやカマキリの精等にとってはそれが大人になるための通過儀礼を兼ねる。そして、最後の脱皮が最も命を落としやすい。
陽の光に赤みが増して光の精霊が徐々に姿を消し始める頃、蚕の精達は一人、また一人と透明度を増した身体を気だるげに小胞に横たえた。世話係達も二言三言励ましの言葉を告げてその場を離れていく。彼らのためにしてあげられることなど、何もないことを誰もが理解していた。彼らは深い眠りの中で一晩中孤独な闘いを強いられることになる。
円を描く壁を埋め尽くす小胞のあちこちで残り少ない光の精霊達の放つ光をその透明な身体の中で乱反射させてぼうっと青白い光が灯る。だがもちろん、暗いままの小胞の中にも蚕の精はいる。何人かは脱皮をする前に命を落とすことになるのだろう。ピォルモはそうした小胞の内のひとつの前で立っていた。何をするでもなく、ただそうしていた。彼が担当している兄弟達は皆脱皮に取り掛かった。ただパキリリェッタだけが、鈍い白色のままうずくまっていた。経験は浅くとも聡明な彼の見る限り彼女の様子は他の者達とは異なっていた。脱皮を間近に控えて一際強まった生命力を発散させようとせず、手狭になった殻の中で押し殺しているかのように見える。脱皮の準備に移ってさえいないのに呼吸だけが荒い。
「パキリリェッタさん……なにか気にかかることがあるんですか?どうして脱皮を拒むんですか?」
幼い彼の声には困惑の色がありありと見て取れた。幸運にも彼はまだ、自分が受け持った子供達を失った経験がなかった。それゆえに自分がどうあるべきかを知らなかった。
白く濁った古い皮の内側で輝きを失った黒い瞳がむっつりとこちらを向く。それでもピォルモを見たのではなかった。鋭敏になった彼女の触角はもっと遠くの熱を捉えていた。
かすかな羽ばたき音の後でふわりと舞い降りたフリョッハがまっすぐパキリリェッタの許へと向かう。ぺたぺたと裸足で歩く音が聞こえるようになって初めてピォルモも気づいた。
「リエッタ、今すぐここを出よ。脱皮が始まる前に。」
「いきなりなにを言い出すんですか、もう始まりますから、ここにいなくちゃ。」
「リエッタの脱皮は始まらないよ。このままだと。」
「え……?」
「あんなに出歩くのが好きだったリエッタがずっと閉じこもったままでいるんだもん。リエッタが最近不機嫌なのもきっとそのせい……」
本人を抜きにした憶測に基づく会話が二人の間で繰り広げられていく。空々しく思いながらリエッタは鬱陶しいほど鋭くなった両耳で聞いていた。ほんの一瞬でも気を許せば意識が遠のきそうになる。身体の中で一点に凝集させた生命力が身体中に流れ出ようとしているのがはっきりと分かる。抗いがたい衝動を堰き止めておくことが愚かであることくらいは承知していたが、それでも素直に脱皮を始めることは彼女にとって敗北を意味する。だが何に対する敗北なのだろう?それはもはや分からなかった。
「ああ……消えたい……」
べったりとした暗闇の中で目の前に老人が立っていた。初めて見る顔だがそれが醸し出す雰囲気のような体温には馴染みがあった。老人が差し伸べた節くれ立った手にパキリリェッタが小さな手を重ねた。懐かしいほどに温かく、急き立てられていた心が不思議に安らいだ。
「ねえ、リエッタもなにか言って、よ……」
言い合いに夢中になっていたフリョッハがふと向き直った、小胞には、誰も横たわってなどいなかった。
「リエッタ……?」
住人を失った他の小胞のようにがらんとした空間に呼びかけたところでその空虚さを確かめることしかできなかった。
「いなくなった……?まさか下に行ったんでしょうか?」
いくら二人が口喧嘩に集中していたにしても抜け出すのを気づかないとは思えない。
「……ピォルモは下を見て回りながらわたしの父さんに知らせに行って。わたしはほかの小胞に隠れてないか見てみるから。」
パキリリェッタの三度目の脱走。しかし三度目の捜索を開始するまでにはささやかならざる混乱を経ねばならなかった。
それは全く不意のできごとだった。柔和な表情の老人が誰なのか、差し延べられた手が一体何を意味していたのか、実のところパキリリェッタは本当の意味で理解できている自信がなかった。
老人の左手に触れた瞬間か弱い少女は一瞬にして現実に引き戻されたものの、目に飛び込んできた光景には見慣れた点がひとつもなかった。まず感じたのは引力。星の中心へ引きつけられる感覚に苛まれて瞼が開けず、六対の単眼が現像する白黒の視界で堅固に風雨から守ってくれていたはずの樹皮の壁があたかも枝が葉を散らすかのように敗れ去ったのを認識したのはその後のことだった。雲の上から投げ出されて凄まじい風に呼吸もままならないままひたすら落下する内、島より大きな白い雲に飛び込む――あまりの速度に思考が追いつかない――そう、確かに最上階は雲よりも高い場所に位置している――
――あなた方蚕の精は雲の化身なのです。地上に降り立った雲そのものなのです。在るべきでない場所に現れるという点に於いてあなた方は寧ろ精霊に近い――
若い語り部の声が突風と共に下から上へと突き抜けていく。あの諭すような優しい声も、茫々と風が吹きすさぶ中では罵っているかのように聞こえた。まるで、お前の居場所はここではないと言わんばかりに。
雲に触れたところで、光の精霊が日光に晒された時のように消えてなくなりはしなかった。空にさえ居場所のない身体は更に落ち続けたが、信じがたいことにその勢いはいくらかずつ和らいでいった。
何かふわふわと柔らかいものが身代わりになって風を受けてくれている。その得体の知れない羽毛の塊にしがみつきながら、暮れかかる太陽を横に受けてその正体を確かめにかかった。
手触りは羽毛そのものだが、見た目には堅い樹皮に見える。落下する速度も見る見る落ちて遂には心地良い滑空に移行した。大きな身体の両側には翼と思しき軽やかな構造物が見える。
「もしかしてあなたって……おじいさん……?」
「全てはお前さん次第。戻るも戻らないも。だが戻るのは、ほんの少し楽しんでからでも良い。」
無邪気なしわがれ声の主は風に任せきりになっていた身体の主導権を取り戻して風を支配し始めた。数万年ぶりの自由を得たハイイロタチヨタカは荒れ狂う風を乗りこなし、時に大きく身を翻しながら島の周囲を大きく旋回した。西から東へ、東から西へ。普段よりも格段に大きく見える太陽がより多くと結ばれていく姿には見る度感じていた寂しさや惨めさなど微塵もありはしない。ただ、従容として運命を全うすべく降りて行くのだ。パキリリェッタの頬を一条の涙が伝う。
「おじいさん、わたし決めたよ。わたしも運命を受け容れる。」
夕陽を浴びた白い肌を橙色にきらめかせる蚕の精の心に広がったのは抗うことのできない死に対する諦めなどではなく、そんなものを超越したものだった。
島を四周したところで太陽は完全に海に沈んだ。東の空の星々に続いて西の空の星々も輝きを増していく。そして、太陽のすぐ傍にいたために目立たなかった月も、沈む直前になって青白い輝きを取り戻した。パキリリェッタの六対の単眼と一対の眼球は絹色の光に釘づけになった。
「お嬢さん、手を離したら危ないぞ。」
西から東へ旋回する中で離れていく月を捕まえようと振り向いて両手を広げる。それがどれだけ危険なのか判断する能力は、幻覚に囚われた蛾の精には既になかった。たわむ枝から青い果実をもぎ取るかのようにいとも容易く、ちっぽけな芋虫が虚空へ落下した。突風が突き落とす手助けをした。
フリョッハの指示でクロッテュフィガルを尋ねたピォルモは、彼に命じられるままある家を訪れていた。
ヴェルチンジェトリックスが人気のない寂れた家に戻ると、家を支える柱に寄りかかるピォルモの姿を見出だした。
「お前は確か、この間<大樹>にいた……ここで一体何をしてる。」
「待ちくたびれましたよ?すぐにでも戻りたいのにいったいいつ帰って来るのか、それとも帰って来ないのかそわそわして気が気でなかったんですから。」
「質問に答えてくれないか……」
いくらか落ち着きを取り戻した少年はパキリリェッタの三度目の失踪を告げた。
「前回はあなたを頼ってここへ来たので、またいるんじゃないかと思ったのですが……」
「前だって別に俺を宛てにしてここに来た訳じゃなかった。全部成り行きでそうなっただけだ。今回だって成り行き任せにさまよってるんだろう。ここじゃないどこかを。」
「そんな他人事みたいに……」
向かっ腹を抑えて冷静に尋ねる。
「どこか心当たりはないですか?パキリリェッタさんが気に入っていた場所とか。」
「知らない。何も知らない。」
三歳の少年より遥かに大人びて見える生後八〇日前後の青年はまともに取り合う様子さえ見せない。
「わかりました。ご協力いただきありがとうございました。」
形式的な挨拶を溜め息混じりに吐き出して、<大樹>の方角へ歩き出す。
「……待て。」
「なにか思い当たりました?」
「お前の欲しがってる類いの情報ではないが、ひとつだけ言っておく。蚕の精がみんなそうかは知らないが、あいつは月の光に惑わされる体質だ。捜すなら急いだ方が良い。」
「見当がつかないのなら、最も危険な場所から探すのが最も安全だろう。」
「それって」
「根の国を除けば、カレハチョウの森。」
生真面目な少年の顔には答えを聞く前から絶望の色が滲んでいた。
「ま、まあそっちの方面には誰かしら捜しに行ったと思いますし。」
「あの森に進んで入る奴がいると思うか?結構広いぞ。しかも絶えず奴らが迷わせにかかるから完全に捜し尽くすには朝までかかるだろう。」
「いくらカレハチョウの精がいたずら好きだからって、捜索に協力してくれますよ。」
「あれが行方不明になったことを奴らは知ってるのか?例え見つけたところでいたずらの標的にするだけだろうな。」
「そんな……ぼくに行けって言うんですか?無理ですよ、ぼくが行ったところでいたずらから抜け出せなくなるだけです。」
ピォルモが渋るのにもそれなりの経験があってのことであるとヴェルチンジェトリックスは何となく察した。そうこうする間にも日没は間近に迫っていた。行動を起こすべきは彼の方であるようだった。
「今夜は晴れるぞ。上空の気流が激しくて雨雲はじきに全て吹き飛ばされる。」
「明るい夜には闇の精霊が出ますね。」
「時間がない。」
「でもぼく一人で行ったところで……」
「一人じゃない、俺も行く。俺の足ならカレハチョウだろうと闇の精霊だろうと振り切れる。」
「うっわすごい自信……でもちょっと頼もしいです。」
「明るい内に捜し出す……少し急ぐ、しっかりついて来いよ、」
言うが早いか、アサギマダラの青年はきらきらした憧れの眼差しを向けるピォルモの視界から一瞬で消えた。
「えっうっそ……ちょ、待ってくださー……あー、待たせちゃだめだ、ぼくが急がなきゃ」
軽い助走をつけて、キビタキの精も飛び立った。東の海岸線に近いこの場所から南西のカレハチョウの森までは、かなりの距離があった。
パキリリェッタは心地良い温もりの中で目を覚ました。他には何も感じ取れない。意識がはっきりしてくるにつれ、このままこうしていてはいけないような気がしてきた。
「わたし……たしか落っこちて……」
離れがたい柔らかな羽毛を押しのけると簡単に外に出られた。どのくらい眠りこけていたのだろう、雲ひとつない完璧な星空が、頭の中でちかちか光る幻と融け合って見たこともない景色を浮かび上がらせていた。実は墜落したのは二日前のことで、一日眠り続けていたのだと言われてもすんなり信じられる。
「お嬢………ん……」
ひどく疲れ切った声が両肩に覆いかぶさる。
「おじいさん……!そうだよ、わたしおじいさんから落っこちて、その後……」
「わしが急降下して拾い上げたのだ。だが再び上昇するのは間に合いそうもなかった。結局墜落してしまった……森の中へはすに切り込んで勢いを削いだのが幸いしたな。助かって良かった……」
眠そうな笑い声がかすかに漏れる。樹皮のような質感の身体のあちこちに染み込んだ鮮血。は、以前立ち会った蚕の精の葬儀を思い出させた。育ち仲間の身体にべったりついた透明な体液の感触は今でも忘れられない。自分も脱皮したてのときはぬるぬるした体液で全身を覆われていたものの、自分のものと他人のとでは明らかに感触が違っていた。だが老人の血は<大樹>の果実の果肉のように赤く、透明な体液に触れた時脳に刷り込まれた気味の悪さと同じ感情は起きなかった。ただ、もっとずっと欠かすことのできない大事なもののように思えた。
止めていた息を一気に吐き出して老人は倒れ込んだ。彼女が目覚めるまでの間彼は樹に寄り添って同じ株から分かれ出た幹に擬態し、厄介な生物達の目をくらましていたのだった。
「けが、痛いでしょ?待ってて、みんなを呼んでくるから。」
「いや、良いのだ。わしの役目は終わった。」
「なに言って……わたしのせいでこんなことになったのに……」
「わしはお前さんのせいで死ぬ訳ではない。お前さんがわしらの領域に入った時、時間の流れが大分ゆったりしていただろう。今はその逆のことが起きているのだ。お前さんらの領域に踏み込むにはわしは歳を取り過ぎていた……。
こんなくたびれた体で外に出ればじきに朽ちるのは分かりきっていた。それより、とうに飛べないと諦めていたが、お前さんのおかげでもう一度飛ぶ勇気を持てた。こっちの方がよほど大切なことだよ……わしは死ぬ。<大樹>の一部となって悠久の時を生きた末にお前さんと出会い、お前さんに救われ、わしもお前さんを助けた。何も案じることはない。また<大樹>に還るだけのこと。前とは少し違う在り方になるだろうがね……」
「それって、もう会えないってこと?」
肺を持たない虫の精は横隔膜の代わりに腹部の気門をひくつかせて涙する。
「そんなのいや、ずっとわたしがついててあげる。わたしも根の国に行く!」
「気をしっかり持て……良いか、落下の衝撃でお前さんの身体の中で進んでいた脱皮の準備が引っ込んでいる。それでもじきに脱皮が始まるだろう。一旦始まれば終わるまで身動きが取れん。だから、今の内に<大樹>まで戻るのだ。わしには分かる……この方角にまっすぐ歩けば必ず辿り着ける。」
力ない嘴で老人が方角を指し示す。二人を取り囲む樹々はそのいずれもがカレハチョウの精達によって葉がむしり取られ寒々とした姿を星空の下に晒していた。
「もうしゃべらないで……だいじょうぶ、わたしがいてあげるから。」
老人に添えた小さな白い手に黒い黴が付着したことにすぐに気づいた。死にゆく老人の身体が黴に覆われて闇に溶け込もうとしている。
「やめてよ、かびなんか、かびなんか……!」
「ああ……思い出した。」
狂ったように黴を払い退けるパキリリェッタと対照的に、老人の声は恍惚としていた。
「わしの名はティルケ。そう確かにその名だった。永い間忘れておった……そう、とても……永い、永い間……」
もう既に少女の泣き叫ぶ声は彼の耳に届かなくなっていた。静寂の中で枯れた木立の下から見え隠れする短命な星々の光が彼の見た最後のものとなった。
「約束してくれ、決して忘れぬと……トァンの物語を、わしらの物語を覚えていてくれると……」
どの星よりずっと長生きしたティルケの、ゆっくりと暗闇に溶け込むかのような最期は、それでいて太陽に似た気高さを湛えていた。
死は凡てと結ばれる手助けをしてくれる。死は孤独ではない。孤独なのは残される側だ。
老人の亡骸が速やかに地下に引きずり込まれた後、彼がそこにいたという確かな証拠は何ひとつなくなってしまった。彼がどこへ行ったか尋ねる声があれば蚕の娘は喜んで証言しただろう。だが誰もいない。もの言わぬ星だけがそこにあった。たった今一人の老人がより多くと結ばれたことをはっきり認識するために、パキリリェッタは泣き叫んだ。
辺りを注意深く見回しながらも一向に速度を落とさず走り回るヴェルチンジェトリックスに対し、ピォルモは自分がはくれないよう追いつくだけで精いっぱうだった。カレハチョウの森に入ってしばらくのこと、アサギマダラの精が突然立ち止まった。ピォルモは彼を避けた末に地面を転がった。
「突然止まらないで下さいよお……」
「聞こえるか?」
突っ伏したまま聞き耳を立てると、確かに遠吠えのような音が枯れた木立ちに響き渡っている。
「聞こえますね。なにかが……いや、誰かが啼いてる……?」
「俺じゃ声の方角までは分からない。お前、分かるか?」
蝶の聴覚器官は前翅の内部にある僅かな空洞で捉えた音を増幅して認識する。不足する情報は触角で補うため普段の生活に支障はないものの、音だけを頼りにしなければならない場合には心許ない。
「でも、もしかするとカレハチョウの精のいたずらかも知れませんよ。」
「かもな。だがあれは紛れもなく手がかりだ。急がないと奴らに追いつかれる。」
「わ、分かりましたよ……」
アサギマダラの精に代わってピォルモが黄色の耳羽に覆われた耳をそばだてる。
「こっちです!」
先ほどまでよりいくらか慎重に進んだ二人はとうとうパキリリェッタを発見するに至った。青白く光る彼女の傍には一足早く辿り着いたフリョッハが彼女の背中をさすってなだめていた。
「パキリリェッタさんにフリョッハさん、ですか?そうですよね!」
うずくまる二人に駆け寄るピォルモ。よく知った声を聞いてフリョッハの顔にも安堵の色が浮かぶ。
「二人とも、こんな場所まで捜しに来てくれたの?リエッタのために……」
フリョッハとピォルモが言葉を交わす間もヴェルチンジェトリックスは気分が落ち着かないままだった。よく晴れた夜には注意が必要なのだ。しかもすぐ傍には脱皮の準備が再開して青白く光り始めた蚕の精までいる。
「よく目を凝らせ……」
月と蚕の精によってぼうっと照らされた景色の中では暗闇も薄い。だが空中に黒々とした点が一滴垂らされたのを青年は見逃さなかった。フリョッハが佇む真後ろで、まるで水面に波紋が及ぶように不自然な暗闇が広がる。
「闇の精霊だ!」
言うが早いか、ヴェルチンジェトリックスが三人の許へ走り出る。日の出ている内にフリョッハの影を盗んだと思しき精霊は彼女とそっくりの姿に成長すると本人に覆いかぶさろうと両手を広げた。
「させるかっ……!!」
持てる力の限りを尽くしてフリョッハを突き飛ばす。倒れたまま顔を上げた彼女は驚きのあまり目を丸くしていたが、青年に声をかける猶予は与えられなかった。
ヴェルチンジェトリックスはフリョッハの身代わりに闇の精霊の餌食となった。




