二〇日目
聖域は朝から物々しい雰囲気に包まれていた。一番の早起きであるパキリリェッタが朝食の時間になっても一向に目を覚まさないのを心配したフリョッハが年配の世話係を呼んだのだ。
「呼吸は落ち着いているが、眠っているにしては妙に脈が早い。これは……」
腹部の気門の辺りに触れたリョコウバトの精には思い当たる節があるかのように天井を見上げた。
「その子は深い瞑想の中におる。」
威厳ある声の響きに皆が振り向いた先には聖なる人々が三人立っていた。中央の老人が昏睡するパキリリェッタに歩み寄る。その艶やかさでは蚕の精と比べ物にならないものの、彼の長い髪はすっかり綺麗な白に染まっている。
階級の存在しない聖なる人々にとっては髪の長さだけが徳の高さを表す指標となる。基本的に年齢と修行の年数でおおよその長さが決まるのだが、どれだけ徳を積んでも地面に着くほど長くしてはならないとされる。三人の中では中央の老人が最も長く、膝の上辺りまで伸びている。聖なる人々は長老に選出されてはならないという決まりがあるため、彼らの中には最長老より更に齢を重ねた者がいるのだが、彼もそうした一人かも知れなかった。
「蚕の精の中には時折研鑽を積む資質を持った者がおるでな、騒ぎを聞いてもしやと思ったのだ。」
「ああ、なるほど。これがそうでしたか。初めて見ました。」
「最近はこんなことはめっきり起こらなかったからの……」
周りの大人達だけで納得している空気にフリョッハは少し苛立った。
「それで……リエッタはだいじょうぶなんですか?」
「この子は深い瞑想の中におる。こんなにも幼いのに、わしらが一生かかっても辿り着けるかどうかの高みに易々と登ってしまわれた。だがわしの知る限り独りでに瞑想を始めたのはどんなに若くとも五齢幼虫になってからのことだ。四齢の内にこの境地に達したのは、ひょっとすると初めてかも知れん。」
「すごいね、新記録だってよ。」
一つか二つ年上の世話係が気が気でないフリョッハを安心させようと囁く。」
「そんな新記録いらない……どうしたら元に戻せますか?」
「元に戻す、だって?そんなことをしてはならん。外から揺さぶろうものなら精神に混濁を来す。そっとしておくしかない。」
「でも……」
集まっていた人々は少しずつ散り散りになって再びフリョッハだけが残った。幼年期を脱しつつある美しい寝顔を眺めていると、言い表しようのない気分が込み上げる。
「こんなにすぐそばにいるのに、どこにいるかわからないなんて……」
彼女の言葉に応じるかのように、パキリリェッタの細い上半身がふっと持ち上がった。
「ああ、リァンノー……」
「うわっびっくり、聞こえてた?」
「なにが?」
「ううん、べつに……」
気まずい沈黙が二人の間を流れる。広間のあちらこちらで既に授業が始まっている。語り部の発する言葉が何かしらの行動を促しているかのように、フリョッハには聞こえた。
「……よく眠れた?」
「寝てないよ?いつもの時間には起きてたけど。」
「そっか……」
瞑想というのがどんなものかフリョッハにはぴんと来ていない。だが、今の言い方からしてパキリリェッタにそんな高度なことをしている自覚があるとは考えにくかった。
授業の様子を遠巻きに眺めながら、パキリリェッタは終始無言のまま遅い昼食を済ませた。手持無沙汰でも兄弟達と並んで座るつもりはないらしい。退屈そうな溜め息をつくと蜂の巣と同じ六角形の小胞の壁にもたれかかって瞼を閉じてしまった。
「外に出たいよね。わかってるよ。一応ばば様にはお願いしてはいるんだけど……なかなか許してもらえなくて。ごめんね。」
やはりフリョッハの持ち込んだ衣には手をつけず白い衣をまとった蚕の精は不機嫌に鼻を鳴らしただけだった。呼吸器官が収められた腹部が規則正しく伸縮を繰り返す。
「……また来るから。」
耐え難い沈黙から逃げ出すフリョッハの後ろ姿を一二の単眼が受容するぼやけた白黒の視界で追った。
「あーあ、わたしにも翅があればいいのに。」
「翅さえあれば、お前さんは自由か?」
老人の無邪気な声が気難しがりの娘に応える。
「そりゃそうだよ。こんなとこさっさと出てってどこへでも行きたい場所に行けるもん。」
「それはどうかな。時が来れば我らは行くべき場所に行く。本人がそれを望むかどうかは別の話だ。」
「わたしの場合はどこにも行けないのが運命ってわけ?」
「運命!そうだな、お前さんの運命の日は間近に迫っている。時が来れば偉大な旅を経験することになるだろう。」
「旅?わたしどっかに行くの?アサギマダラの精みたいに?」
「あの者らのしていることだけが旅ではない。あれらは遠くを目指して進むがお前さん達は深く深く下っていくのだ。」
「よくわかんない。」
旅に出るなんて言われて少し期待してしまった。
「せっかくなら遠くに行きたいな。ねえ、昔は鳥さんだったんでしょ?わたしを外に連れてってよ。」
老人はしわがれた声で笑っただけだった。




