一九日目
昨日の昼頃連れ戻された最上階はその殺風景ぶりにいくらか変化が加えられていたものの、それも昨日の内に見飽きた。飛べない芋虫がここを出て行くにはどうしても螺旋階段を降りなければならず、そうなると必ず誰かしらに捕まってしまう。脱走計画はことごとく失敗に終わっていた。
入居者が死んで空室になった小胞はどういう訳か黴が生えやすく衛生的でないため、秋が目立つようになったここ数日の内にあらかた取り壊されていた。まだ入居者のいる小胞が点々と残された様は何だか急かされているかのように感じて、まるで早く死んでくれといわれているみたいだ、などと不愉快に捉えるのはどうやらパキリリェッタだけであるらしい。
いつもの通り最初に目覚めた彼女は、光の精霊が湧きだす前の闇に包まれた窓のない空間を見渡して今まさに脱走する好機を手にしているのだと実感していたものの、しかしぼんやりと目を開けたまま動き出す素振りも見せない。逃げ出したところでまた無理矢理連れ戻されてしまったのでは意味がない。もっと完璧な方法でなければ。善良で、迷信深く、愚かな人々は行方不明者が続出した今回の事件の原因をどうやら本気でこの無力な芋虫に帰すつもりでいるらしい。
「意味わかんない。わたしのせいなわけないじゃん……」
口に出すでもなくぶつぶつ寝言のように呟いて、もうひと眠りしようと大きな目を閉じる。それでも白い顔に星のように散らばる一二の単眼は何かがきらりと光るのを見逃さなかった。
「光の精霊……?」
口に出すまでもなく彼女は知っていた。光の精霊は太陽の差さない場所に表れるが、太陽が東の水平線から顔を覗かせもしない内から現れることは絶対にない。
上から三段目の自分の小胞から用心深く跳び下りる。真っ暗な広間を通り過ぎる間も慎重に、誰も起こさないように。光った辺りを目を凝らしてまじまじと見つめるが、小胞が取り壊された後の古びた樹皮があるだけだった。
「ま、そんなおかしなことが起きるわけないか……」
自分に言い聞かせるように呟いた後も、密かに期待してじっと見つめる。
長いような短いような間を置いて、何やらあくびのような音と共に壁の一部がもぞもぞと動いた。まるで寝返りを打つかのように、外から見えるべき樹皮の柄が裏返って室内から見えている。
「ほらやっぱり!ぜったい動いた!」
叫んだ後に両掌で口を押さえるがもう遅い。
「朝からいったいなにをしてるの。君が変わり者だってことは知ってるけど……」
「な、なんでもないもん。」
すぐ傍の小胞で眠っていた蚕の精が尋ねるのをむきになって返すパキリリェッタ。他にも何人か起きたようだがそれ以上は誰も詮索しようとしない。
みんなが再び寝静まるのを待ってから残った小胞を登って裏返った樹皮の傍までやって来た。やはり見間違いなどではない。恐る恐るこつんこつんと軽く叩いてパキリリェッタが注意を促す。
「……もしもし<大樹>さん、なんだか裏返っちょになってるよ……?」
声が聞き容れられたのか、さっきよりいくらか慌てた様子で寝返りを打って周りの壁と完全に同化した。それで、異変は治まってしまった。親切にしたのをいくらか後悔して自分の小胞に戻ると、さっき光った辺りをぼんやり眺めた。
「ご親切に、どうもありがとう。」
「わっわっ!」
驚きのあまり跳び上がるいたずらっ子にまたも集めたくもない注目が集まる。
「ごめんってば、もう静かにするから……」
再び寝静まると、壁の方から話しかけてきた。
「驚かせて済まないね。」
「もう、ほんとだよー。ただでさえ変な子だと思われてるのに。」
「悪かったよ。」
短い言葉の中に深い慈しみを感じ取れる声だった。軽く深呼吸すると改まった口調で尋ねた。
「それで……あなたは<大樹>さんなの?」
「<大樹>?わしがか?滅相もない。わしはそんな大層なものではないよ。恐れ多いことだ。ある意味ではその通りとも言えるがね。」
「……どっち?」
「どちらでもあるし、どちらでもない。どちらか一方ということは絶対にないな。いや、それすらもあり得る。」
「なんか先生みたいな話し方だね。」
「ほう。そうなのかね。」
「いろいろ教えてくれるけど結局よくわかんないかんじ。」
「なかなか手厳しい評価だね。だが真実とは見極めようとすればするほど移ろいやすいものだから仕方がない。それこそが真実なのだろうな。」
「ね、ね、それよりさ。さっき壁が光ってたけどあれはなに?」
「寝返りを打った拍子に位置がずれて外の光が漏れたんだろうな。わしらは樹皮の一枚一枚だから。」
「えっ、それって外に出られるってこと?」
しわがれた笑い声が木霊する。慌てて壁を押さえるが、周りに聞こえている様子はない。
「なかなか酔狂なことを言うね。ここがどれほどの高さか知っておるか?雲よりも高いんだぞ?よほど翼に自信がないと鳥の精でさえ安全に地上に降りる前に力尽きて墜落することになる。」
「うーん、だめかあ。」
「期待に沿えずすまないね。だが素晴らしいものを見せてやろう。」
広げた翼を閉じるかのように壁の一部が脇により、縦長の間隙がいびつに開く。べったりと黒く塗り込められた小胞に突然差し込む暖かい光に思わず目を背けるが慣れてくるにつれその壮大な景色に釘づけになった。
<大樹>の傘形の枝葉がこんもりと盛り上がった丘の頂上に突き出した塔がパキリリェッタのいる<大樹>の最上階。白い雲は遥か下に広がり緑の丘にぶつかって砕けては二手に分かれて伝ってゆく。果てしない雲海の仄暗い水平線から半分だけ顔を覗かせた太陽が今まさに産まれようとしていた。ちっぽけな少女の白い身体が暗い橙色に染め上げられ、徐々に暖かな色彩に変貌する。
「偉大な(シフルフェヴェル)、あまりにも偉大な光景だ。これほどの奇跡が毎日起きているなんて、君は信じられるかね?」
「でも……」
圧倒的な光を前にして盲いてしまったかのように暗い表情を浮かべるパキリリェッタ。
「でも、太陽は一日で死んじゃうんでしょ。」
「確かに。それで悲しんでるのかい?」
黙り込む蚕の精に老人は<大樹>の慈しみを体現した声で語りかける。
「君は優しいね。太陽はあんなに大きくて強そうなのに、わしらは太陽の死に涙すべきなのかい?」
「そうだよ。みんなおかしい。誰かが死ぬことに慣れちゃっておかしくなってるんだ。」
「それは確かに一理あるかも知れぬ。だが君にとって皆の態度が冷淡に見えるのはその先に起きる奇跡を知っているからなのだよ。」
「その先……?」
「リエッタ。」
聞き慣れた声にどきりとして振り向く。と、フリョッハが気まずそうに立っていた。顔を戻してもあの壮大な光景が繰り広げられていた窓は消え、退屈な壁に戻っていた。夢を見ていたのではと思い始めた。
「遅くなってごめんね。なかなか入れてもらえなくて……。」
「なにしに、来たの。」
「まだ喧嘩中であることを強く意識して、意図的にきつい口調で話した。自分でも幼稚に思いながら。
「またいっしょに暮らしてほしい。」
思いがけない言葉に思わずフリョッハを見つめる。不安に満ちてはいても真剣そのものの表情にパキリリェッタは反論しようと開きかけた口を閉じた。
「……でもリエッタはそうは思ってないよね。一応衣も持ってきたよ。リエッタに似合いそうなやつ……。でもこれも要らなかったらせめて謝らせて。自分の考えを押しつけてばっかでぜんぜんリエッタのこと考えてなかった。リエッタ、今までずっと素直だったから……急になにも話してくれなくなって動揺しちゃってたんだと思う。でもよく考えたらそれって当たり前のことだよね。お姉ちゃんに相談したらそういうの反抗期って言うんだって、教えてくれて……。リエッタは嫌かも知れないけど、最低限のことはさせてね。世話係として……」
言葉が続かなくなったフリョッハと何も言い出せずにいるパキリリェッタの間を流れる気まずい沈黙を破ったのは、やはりと言うべきか離れて聞き耳を立てていたピォルモだった。
「さ!仲直りも済んだことですし、パキリリェッタさんもいっしょに昼食どうですか?」
「えっもうそんな時間……?」
珍しくぐっすり寝てましたね。一応起こしてはみましたけどぜんぜんだめで。」
「まあ、昨日も慣れない場所で寝てたみたいだし、よく眠れてなかったのかも……」
「かもですね。それじゃあパキリリェッタさん、こっちへどうぞ。」
促されるまま車座へと導かれ、促されるまま山盛りの桑の葉を口へ運ぶ。この頃ともなると他のおとなしい蚕の精達も以前より格段に食欲を増し、終始無言で食べ進めていた。それでも食後はすぐに昼寝に就くのは変わらない。
「外に出たいんじゃない?」
フリョッハの気遣いに対して首を横に振るパキリリェッタ。
「ううん、やりたいことあるし……」
「そっか。それじゃあわたしはみんなと桑の葉を取りに行ってくるから。……誰にも言わずに出てくのだけはやめてね?」
「もうしない。」
他の一〇〇名程度の蚕の精達と同じように小胞へと戻るが、その目的は昼寝ではない。世話係達が全員昼寝をするか広間から出て行くかするのを見届けた後で、パキリリェッタは古ぼけた壁を優しく撫でた。
「お前さんはあの子を大事に思っとるようだな。」
数万年ぶりに話し相手を得た老人は無邪気に話しかけた。
「いろいろ複雑なの。それよりおじいちゃん、けっこうおしゃべり?」
「ああ、お前さんと話してる内にいくらか思い出してきた。昔<大樹>が雷に撃たれたことを知っておるか?」
「うん、先生から聞いたよ。おんなじ株から芽が三つ出て枯れた幹を支えたんでしょう?」
「それで?」
「それでって言われても、おしまいだよ。」
「それだけ?たったそれだけしか伝わっておらんのか。」
「ほんとは違ったの?」
「今の話で正しいのは<大樹>が雷に撃たれたというところだけだ。」
「ぜんぜん違うね……」
「これだけは話しておかねばなるまいな。あれは遠い遠い昔……真夜中の闇が朝になっても太陽を覆い隠したまま酷い雨をもたらした日のことだった……。
とにかく不気味だった。かつて風の精霊と水の精霊が悪さをした時、闇の精霊が懲らしめたというがまさにそれを思い起こさせる光景だった。或いは闇が風と雨を味方につけて迫って来たかのような。そうして島で暮らす者達の不安と混乱が極致に達した瞬間――一筋の閃光が襲ったのだ。」
「雷のこと……?」
「そう。黒雲は光を生み出すと忽ち掻き消え太陽が照りつけ出したが、その時になって失ったものをまざまざと見せつけられた。わしらは全てを失った。悉く、全てを。」
感慨に耽っているのか、老人は黙り込んだが幼い聞き手は再び言葉が紡ぎ出されるのを待った。突然あのいびつな窓が開く。
「わしらは自分自身を失ったと言ってしまっても良い状態だった。実際その通りなのだ。
あの太陽をごらん。あれはついさっき産まれた太陽だ。だが今ああして輝いていられるのは昨日産まれて死んだ太陽があったおかげだろう。昨日の太陽が産まれて来られたのはその前の日にもやはり太陽が産まれて死んだからだ。遥か昔から、太陽は今と変わらず輝いていた。新しくもあるが同時に畏ろしく古くもあるのだ。カゲロウより短命でありながら<大樹>より長命でさえある。
太陽や月や星々が偉大なのは、その絶え間なき無限の産まれ代わりを自分一人でやってのけてしまうことだ。だが同じことはわしらにもできる。」
「え?」
初耳だそんなことを言ってのけた人を他に知らない。
「勿論<大樹>を通してのことだがね。わしらは死んで<大樹>に還る。そうして根を介し幹を通って枝までやって来るとひとつの果実となり、地に落ちると再び産まれるという訳なのだ。」
「おじいちゃん、果実から産まれたの?」
「何度もね。わしらの仲間はみんなそうだった。尤も、今はもうそんなことはできないが。」
「なーんだ。」
「一瞬の閃光がわしらの永遠の営みを台無しにしてしまったのだ。果てしない年月を生きた古木でありながらつい昨日葉をつけたばかりの若木のように生命力に溢れていた<大樹>は……既に死に、無惨にも空洞になってしまった。島全体を覆った絶望は雷をもたらした黒雲よりも厚く底知れなかった。」
「それでも……そのうち新しい幹が生えたんでしょう……?」
「いや、あの時<大樹>は決定的に死んだ。じきにわしらも飢えた。<大樹>なしで生きていける者は島に一人としていないからな。果実は成らず、葉は散り、根は腐った。上から逃れる方法はただひとつ。仲間を食うことだ。」
肉を食べて暮らすのはムカデぐらいしかいない。草食の蚕の精には想像もつかない。小さな身体は見えざる語り部の迫力を前にしてわなわな震えた。
「実際、わしらはそれをやる一歩手前まで来ていたよ。それほど追い込まれていたのだ。だが、あと一歩というところで踏みとどまれた。
その頃のわしらには変身する力が備わっていたからね、牙や爪で互いに威嚇して譲歩の余地もないところに一人の男が現れた。名を、トァンと言った。」
「トァン……」
その素っ気ない名前を口に出して呼んでみる。彼が一体、何をしたと言うのだろう。
「その男は毛くじゃらでもなければ牙も爪もなかった。背丈も……そうだな、君達の中で一番背の高いものより頭三つ分ほど大きいくらいか。それでもわしらの中では一番小さかった。
「翅もないの?」
「そう。翅も翼もない。わしらが鳥や獣の姿をしている中でただ一人、人間の姿だった。」
人間なら一度だけ見たことがあった。エメット・ブラウンの姿が思い浮かんだ。
「わしらが持っているものは何ひとつ持っていなかったが、彼には誰よりも巧みに歌う口があった。恐ろしい姿をした者共に少しも怯む様子を見せないで前に進み出ると、島中に響く声で言った。
『いとも猛々しき獣達よ!肉を求めて牙剥く者達よ!思うままに争うが良い、最後の一匹になるまで!だが勝利者も間もなく死ぬことになるであろう。追うべき獲物を失った時、お前は自らの肉に噛みつくだろうから。愚かなお前達には惨めな最期gが良く似合う。
だがお前達を救う方法がひとつだけある。私は恵みの雨をもたらす気はない。私がもたらすのは光、但し永遠に光り輝く閃光だ。いずれにせよこの方法でも誰一人助からない。だが永遠の救済を約束しよう。』
そこまで話してトァンは群衆の反応を見た。だからわしは言ったのだ、その方法とは、と。わしも愚かな獣の内の一頭だった。彼の言葉に苛立っていた者達も後に続いて尋ねた。口を閉ざしてしまったトァンの底知れなさに気圧されて、徐々に懇願するかのような声色に変わっていった。
トァンは、この中の誰一人として<大樹>を甦らせることはできないだろうと言った。だが我々が一人残らずその身を捧げるなら、或いは息を吹き返すかも知れない。そうすれば果実は再び実るようになり、産まれた動物達で島はかつての活気を取り戻すだろう、とも。
彼の提案は、互いに滅ぼし合うより余程素晴らしかった。結局誰一人助からないとしてもだ。だから、わしらは喜んで犠牲を払ったよ。最も大きな三頭の獣達が立ち枯れた<大樹>に抱きついて、最後の変身をした。<大樹>と一体になって三本の切り株になると、他の者達もその上に連なって見る見る内に蔓が伸びて太く堅い樹木になっていった。もう登るには高くなり過ぎていたので途中からは鳥になって更に上を目指した。この階を覆っている者達は、その身を捧げた最後の者達だ。」
パキリリェッタはもはや何も言えなかった。目の前の世界がまるっきり塗り替えられた気分だ。
「そんなことが……」
「だが話はこれで終わりではない。本当の意味で<大樹>の一部になったは良いものの、<大樹>が再び息を吹き返すかはまだ分からなかった。永かった。閃光が落ちたあの日以来雨が降らないまま、ひどい暑さと寒さを何度となく耐え忍び、その果てに待ち侘びた雨が降った。枯れて朽ち始めた枝が生気を取り戻し、懐かしい緑の葉が芽吹いた。<大樹>は甦ったのだ。こうなったらわしらの望むものはひとつだ。だがそれもじきに叶った。雨が止んで太陽を浴びると、あの尊い紅い果実が実った。わしらは皆、一体何が産まれるのかわくわくした。充分に熟れた果実が地に落ちると……」
「……落ちると……?」
「さあ、その後から記憶が曖昧なのだ。だが全てを覚えている。」
「出ったー、だからどっちつかずはやめてってば。」
「<大樹>が新たな生命を紡いだ瞬間を以ってわしらの意識は個人の肉体を失い<大樹>の中に偏在するようになったのだ。だから果実が地に落ちた瞬間をその遥か上から眺めてもいたし、間近で見てもいたし、最初の果実から産まれた他ならぬ本人として経験しもしたのだ。わしは<大樹>そのものであり、その後に生まれた全ての命でもあった。」
「そういうのはいいからさ、最初に生まれたのはどんなかっこしてたの?」
「もはや姿形など問うほどのことでもないがね。そう、最初に産まれた<大樹>の子は、トァンだった。まさしくその人だった。」
「トァンが?でもあなたたちはもう産まれ変われなくなったんでしょう?」
「その通り。飽くまでも顔だけの話だ。その人とも獣とも男とも女ともつかない存在は産まれながらにして老人だった。<大樹>の叡智を受け継いだ頭からは地面に就くほど長い白髪が伸び、額には立派な牡鹿の角、背中には厚い甲殻で、他は鮮やかな鱗と羽毛で全身を包まれており肩から腰にかけて四対の優美で大きな翼が折り畳まれておる。尻から先にはカマキリに似たすらりとした腹部が静かに息づき、二本の脚と本の腕にはそれぞれ六本の指が、それも器用な人間の指がすらりと」
「盛りすぎ。さすがにうそでしょ。」
「嘘なものか。とにかく、復活したトァンは全てを具えていたのだ。それでも鱗に覆われた顔に星のように輝く緑色の瞳だけは少しも変わっていなかった。ひょっとするとあの男は産まれ変わる前から<大樹>の意志に従って動いていたのかも知れん……」
「あんまりうまく想像できないんだけど……って言うか牡鹿って誰?どんな人……?」
「だから、かたちにこだわってはならんのだ。牙も爪もない人間の時からトァンは全てを持っていたし、全てを知っていた。それが現実にかたちを得たというだけの話なのだ。それで<大樹>の第一の子トァンは、トァン・マッカラルは、前にも増して美しく研ぎ澄まされた声で<大樹>に、島に、自分自身に告げたのだ。彼の声は美しい音というより光そのものだった。その言葉は眩いばかりの天井の音楽……
『もはや名乗る必要もあるまい。わたしはあなた方でありあなた方はわたしなのだから。我らの願いを思い出せ。より多くと結ばれ、やがて凡てと結ばれることだ。その叶えがたき願いは全てを台無しにした恐るべき閃光によって成し遂げられた。これが我らの終着点。だがこのままではいけない。生きとし生けるものにとって終わりと死を意味する。我らの犠牲は新しく始めるためにこそあったのだ。これより後果実から産まれる者達は変身する能力を失う。果肉を肉に、芯を骨に変化させるだけで精一杯だからだ。じきに変身しないままの果実も産み落とされることだろう。だがその不能を恥ずべき必要があるだろうか。この不能は我らの美しい犠牲の残響である。<大樹>と一体となって二度と変身しないと誓った我らの意志の表れである。
何も知らず産まれ落ちる者達にこの島の全てを、我らの全てを譲り渡そう。真実も、譲り渡さねばなるまい。遥か昔何があったのか、最後に何が起きたのか。それを伝えることこそ我らの使命である。そうして初めて、我らは安らかな眠りに就ける。全く新たな生命として産まれることができる。
あなたがたが、より多くと結ばれますように。」
ひとつの時代の終わりと始まりの目撃者、当事者から直接話を聞いているという事実を幼い、あまりにも幼いパキリリェッタは受け止めきれないまま耳を傾けていたが、老人の語った歴史の地続きに自分達は生きているのだという実感が沸々と湧いてきた。
「あなたがより多くと結ばれますように……って、トァンの言葉だったんだ。」
「そうだとも。それだけはきちんと伝わっていたのだな。」
「うん。みんなが決まって言うあいさつだよ。」
「その願いさえ忘れていなければ上出来だ……。」
すっかりくたびれた様子の壁が眠そうにあくびをする。窓から見える景色にはもう太陽がない。
「えっ?!もしかしてもう夜?!」
「ああ……本当に太陽の一生とは儚い夢のようだな……」
「それにしたってあっという間すぎない?感覚的にはまだ夕方にもなってないんだけど。」
「老人に夜更かしは酷だぞ。わしはもう寝る……」
わたしも寝ようかな、と思った瞬間知的興奮冷めやらぬ若い頭にある疑問が湧いてしまった。
「トァンって、ずっと昔のことも知ってたの?」
「勿論。宇宙の始まりからお前達蚕蛾の精の先祖がはじめて島に訪れた時のことまで、ありとあらゆる凡てを知っておる。それらを伝えた歌も、地上ではもう失われてしまったようだがね……」
「おじいちゃんも知ってる?」
「勿論。わしは<大樹>でもありトァンでもあるから……知っていて当然……」
「わたしにも教えて。」
「……いかん、それだけはいかんぞぉ。おまえさん達の使命は古い歌を歌うことではない……蚕の精の使命は新しい歌を歌うこと……」
「でもね、はじまりとおわりを結ぶ歌ってちょっとおかしなとこがあるんだよね。おじいちゃんのを聞けばひょっとすると分かるかもだし……ねえ、聞いてる?」
どうやら本当に寝てしまったらしかった。返事がない以上諦めるしかない。
話し相手を失ってしまうと目と鼻の先のただの壁に向かってぶつぶつ話しかけているという危うさに自分でも気づく。後ろを振り向けば夕食分の桑の葉が積まれていた。何枚か頬張って嵩張る葉の山を処理する内にその後ろで穏やかな寝息を立てるフリョッハの姿を認めた。暗闇に慣れた目にはいくらか雑に脱ぎ捨てた絹の脇に二着の衣が折り畳まれている。明日の自分の分と、もう一着はパキリリェッタの分だろう。
四齢幼虫になって以降、フリョッハの優しさを素直に受け止められずにいた。どうしてもあの未来の夢で別の蚕の精をかわいがる世話係の姿が重なって見えてしまう――同一人物なのだから当然のことではあるのだが。それでも前時代の証言者が語った高潔な犠牲と転生の物語のおかげで前ほどはその違和感に戸惑わずに済んでいる。しかしフリョッハとの関係を以前のような無邪気なものに戻すことなど、もうできないとパキリリェッタは理解していた。前時代の人々にもたらされた最終的な、究極の結末を迎える幸福を得る奇跡など、期待してはならないのだ。大抵の場合理想的に単純なものは内部で次々に分裂して対立しあい、時に部分的な融合を果たすにしても複雑にもつれる一方でしかない。未来という不確定なはずの要素を決定づけられてしまった少女の心が安寧からほど遠いとしても無理もなかった。
桑の葉を数枚残して食べ終えた無力な蚕の精は辺りを包む暗闇に身を委ねることしかできなかった。ほんの一瞬にしても宇宙の真理の一端に触れた後でさえ、それは変わらないのだった。




