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天体運航韻律再現譜 One of a Song of Imbolc  作者: 石田五十集(いしだ いさば)
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一八日目

 <大樹>の外で目を覚ますのはその日が初めてだった。絹のシーツの代わりに敷き詰められた落ち葉の上で寝返りを打つ度にぱりぱりと乾いた音が鳴る。仰向けの状態で瞼を開く。周囲の明るさだけは一二の単眼から絶えず認識していたが、その白黒の世界に色が乗るとようやく起きる気になった。食べ盛りとは思えない細い身体を横たえたままくるりと首を動かすと、アサギマダラの精の翅がすぐ傍で寝息に合わせて開いては閉じを繰り返していた。

 仰向けで寝ていられるのは芋虫の特権だ。腰に宿る鮮やかな翅を守るべくうつ伏せで眠るのは虫の精も鳥の精も共通の習性。その姿自体はフリョッハで見慣れていたものの、蝶の精ともなるとその繊細さでは比べものにならない。浅葱色の鱗粉が窓から差し込む朝日を受けてきらきら輝く。左の翅の下部には大きな穴が開いてしまっているが、それが却って細い輪郭を明瞭にしている。

「ふふっ、厳しいこと言ってても寝顔はかわいい。」

 目と鼻の先で覗き込んだ浅黒い青年の瞼がかっと開く。

「わわっ!!」

「お前が驚くな……朝からどうした。」

「あーびっくりした。心臓止まるかと思った。」

「虫の精に心臓はないだろ。」

「ほんと?初耳なんですけど!すっごいショックなんですけど!」

 掌で顔を押さえて光を遮り、もうひと眠りしようとする青年をパキリリェッタが揺さぶる。

「寝ないでー、どっか行こうよー」

「一晩止めるだけの約束だ。もう出て行け。」

「うっわいぢわる。リァンノーは毎朝花の蜜を集めに行ってたよ。」

「ならそいつの許に帰れば良い。」

「だーかーらー、それだけはないんだってば。それになんか元気もりもりなんだよね。ぜんぜん朝ごはん食べる気にもなんないし。」

「そりゃあれだけ食べればな……」

「え?」

 その日初めて見た蚕の精の顔はきょとんとしていた。身に覚えのない言葉に彼女自身反応のしようがなく戸惑っているようだった。

「忘れてるのか?ここで寝かせるまであんなに苦労させておいて、覚えてないってのか?」

「昨日なんかあったっけ。」

「俺が<大樹>から戻った後、桑の森に行っただろ。そこから途切れてるのか。」

「あー、そうだったかも。わたしが場所がわかんないから連れてってって頼んだんだっけ。でもその後森には行けたんだっけ……?」

「行ったさ。桑の葉を莫迦食いしただろ。」

 四齢を迎えた蚕の精はこれまでにも増して食欲旺盛になる。それこそその気になりさえすれば一日中際限なく食べていられるほどだ。最後の脱皮を無事に遂げるためにはそれほどのエネルギーを要する。そして五齢幼虫ともなると、羽化が始まるまでの僅か七日間で一生に食べる桑の葉の半分を食すことになる。脱皮を終えてから半日空腹だった彼女は枝という枝を覆い尽くす葉を見て本能のままに貪ったのだった。

「ちょっと恥ずかしいね。」

「で、食べてる内に夜になった。月を見たお前は絹色の光に心を奪われて導かれるまま夜の森を走って」

「さすがに冗談混じってるでしょ。お昼過ぎに出かけて夜まで食べ続けてたの?ずっと?」

「樹が一本裸になった。」

「月を見て走り出すとかさすがにうそ」

「夜行性の虫の精は月を目印にして飛ぶ。蛾の精とは言え芋虫のお前にもその習性があるとはな。俺の足が速くなければ捕まえられなかっただろう。その後も暴れるから寝かしつけるのに苦労した。」

「ぜんぶほんとだったとか……」

 つい昨日の自分の所業に呆れかえるパキリリェッタ。

「ってかヴェルちん面倒見いいね。」

「うるさい。」

 沈黙を遠ざけ話し続けようとするのは少しでもここを離れたくないから。それでもこれ以上留まり続けるのが正しくないことくらいはパキリリェッタも理解していた。

「<大樹>に戻れ。お前にはいるべき場所がある。一緒に行ってやるから。」

「ピォルモにそう言われただけでしょ。それにヴェルはいるべき場所にいないように見えるけど。」

「飛べない蝶なんか死んだも同然だ。特にアサギマダラはな。翅が破れた日から俺は集落に戻っていないが誰も捜しちゃいない。行くべき場所に行けない奴に居場所はない。」

「わたしもだよ。」

 起き上がって真剣な眼差しで説得する青年に対して少女は俯いてぶつぶつ呟くことでしか反抗できない。

「俺とお前は違う。心配してくれる仲間がいるのになぜ応えようとしないあの大きな樹の中に一人でも大事に思う人がいるなら、行って安心させてやれ。」

「……わかったよ。もう帰る。でも最後にひとつだけ聞かせて。」

「……言ってみろ。」

「その翅が破れたときのこと……それだけ聞いたらほんとに帰るから。」

「話すほどのことじゃない。聞いたってばかばかしいだけだ。」

「いいから。他の誰も知らなくても私だけは知っていたいの。そうすれば、ヴェルは解けた結び目なんかじゃなくなるから……」

 大きく溜め息をついたヴェルチンジェトリックスは再び枯れ葉の山に身体を埋めた。

「羽化している間の夢で俺は島に辿り着いた。そうして目覚めた時、多分あの時現実の方を夢と錯覚したんだろう。枝に留まった蛹から半分身体が出た状態で起きて、最初は眩しくて何も見えなかった。お前も知ってる通り、脱皮と羽化の直後は感覚が研ぎ澄まされるから……目が馴れて最初に見たのは<大樹>だった。あの島にはあるはずのないものだ。すぐに戻らなければ、そう決心して蛹から這い出て飛ぶ体勢に移ってた。すぐに翅を広げて森を抜けた。突き抜けるように青い空には太陽と薄ら見える昼の星々だけ。あの時俺は確かに飛んでいた。そしてそれが最後だった。」

 真剣に耳を傾けるパキリリェッタは静かに次の言葉を待った。

「羽化の直後に飛ぼうとしたのはあまりにも無謀だった。蛹から出てすぐの翅はくしゃくしゃに折り畳まれてるから翅脈に体液が流れ込んで少しずつ自然に広がっていくのを待たなければいけなかった。……破けて当然だ。これで充分だろう。<大樹>まで送っていく。


 昨日よりいくらか霧の晴れた森を歩く間も蚕の精は今聞いた言葉について考えていた。しかしあれきり無言になってしまった彼に無邪気に質問を投げかけるのはさすがに憚られた。

「……ねえ?さっき言ってた昼の星々ってどんな」

「何だあれは。」

 意を決して尋ねた言葉が容易く流される。

 <大樹>の周囲は異様な熱気に包まれていた。その中心には最長老のバラールブローメが玄関に押し掛けた無数の精達に圧倒されながらも混乱を鎮めようと躍起になっていた。

「どうか落ち着いて下さい。現在調査のために大勢を派遣しています。行方不明になった者の共通点を洗い出しているところです。新しい情報があればすぐに」

「弟が急にいなくなったんだ。どこかにさらわれてるんじゃないのか?!」

「小戦士たちは何をやってる?!もっと巡回を増やすべきだ。どこかでまたムカデが出たなんて話はないのか?」

 普段穏やかな人々が動揺する姿にパキリリェッタは唖然とした。知らない内に、一体何が起きたというのだろう。

「リエッタ……」

 声のする方を見ればフリョッハが来ていた。こわごわ近寄る彼女にパキリリェッタも手を伸ばして応じる。

 しかし突然感じた妙な視線に振り向かざるを得なかった。あれほど威厳ある最長老の制止を聞かなかった群衆が一言も発さずに蚕の精をじろりと見つめていた。<大樹>を取り囲んでいた者達だけでなく樹々の枝に留まっていた者達までもが。その突き刺すような目を向けられたのは彼らに親しまれ愛されていた彼女にとって初めてだった。

「そうか、全部あの蚕の精の仕業だ。」

 大勢の中の誰かが言った。

「あれが何の用もないのに地上に降りているから<大樹>がおかしな真似を始めたのだ。」

「雲の上にいるべきお方がここにいるせいだ。」

「だから昨日は一日嫌な霧で曇ってたんだな。」

「もう原因は分かった。尊きものの中でも最も尊きお方にはお帰り願おう。」

 慇懃な言葉とは裏腹に枝のように細い腕をがっちりと掴んだ男は蚕の精をハチドリの精ともアサギマダラの精とも引き剥がして<大樹>の中へと消えていった。


フリョッハは最上階へ行くことを許されなかった。潔斎を行うためであるらしいことが噂に流れた。歯がゆい気持ちをこらえて最長老に直訴を申し立てに向かうと、いつぞやのように緊急に長老会議が行われ、またも立ち入りを断られた。暖簾を架けただけの入り口で耳をそばだてれば焦りの混じった会話が聞こえた。

「前例のない問題だ。ほぼ時を同じくして何人も消息を絶った原因は掴めないのか。」

「何とも言えません。ただ、一人だけ姿を消す瞬間を見たという男がいます。単なる妄言かも知れませんが。それによれば妙な匂いのする花におびき寄せられた虫の精が突然地下から蔓が伸び出てその男を絡め捕ったとのことです。」

 長老の中では最年少のクロッテュフィガルが報告している。

「そんなことがあり得るのか?そりゃ今でもゆっくり成長しているのだろうが、活発に動くなんてことは……」

「ないでしょうね。」

「君は専門家としてどう考えるかな。誰が言い出したか定かでないが、ある蚕の精が最上階を離れたのが災いの原因だとの噂が人々の間に流れているようだが。」

「考えにくいでしょう。端的に言って。確かに島を作り出したのは白の人々かも知れません。しかしその子孫たる蚕の精が地上へ降りたのはもっとずっと後の話です。彼らは雲から降って来た。一方で<大樹>が気にかけるのは自分だけ、つまり私達だけです。外からやって来た者達には寧ろ無関心だと言えます。」


「それじゃあ最上階に閉じ込めておいたところでこの異変は収まらないのだね?」

「全くその通りでしょうな。」

 水上林の管理を担うハルヘッテフラウンが応答で会議は停滞した。望みのある解決策を誰も持ち合わせていないのだ。この間バラールブローメは一言も発していないが、それは意図的にそうしているのだろうとフリョッハは思った。どういうつもりでいるか知らないが、このまま黙っていたのでは嘘をついていることになる。パキリリェッタは自分が不当に扱われたことについて苛立ってもいた。

「行方不明の原因は最長老が知っています。」

 突然立ち入った娘に一同がぎょっとする。長老達は前回のようにフリョッハに対して一列でなくバラールを中央に据えてその両脇の席を他の長老達が占めている。

「フリョッハさん……?今は会議中ですよ。みだりに立ち入っては……」

「フリョッハ、今すぐ出て行きなさい。」

「いや、待たれよ。」

 バラールとクロッテュを制したのはハルヘッテフラウンだった。水上林の管理に携わっていたフリョッハにとっては一応の上司に当たる人物だ。

「彼女が礼儀を弁えているのを私はよく知っている。フリョッハ、君の知っていることを教えてくれないだろうか。」

 こくりと頷くと、緊張で高鳴る心臓を抑えて話し始める。

「何日か前、雨が降った日のことです。その日はリエッタの……蚕の精の脱皮でべたべたしてたので雨の音を聞いて外に」

「待ってくれ、なぜ君が脱皮した訳でもないのにべたべたになったんだ?」

 ハルヘッテの疑問は尤もだった。その場にいた全員が傾げていた首を縦に振った。

「それは……担当している子にせがまれていっしょに寝てたからです。朝起きたらその子の身体から出た体液が床を伝ってわたしまで届いたので……」

「なるほど。最近の世話係は大変だね。続けて。」

 そんなことをしているのは彼女だけだと訂正したいクロッテュではあったが、また話が中断するのを恐れて黙っていた。

「はい……それで一階まで降りていったら玄関に最長老が立っていて話していました。その相手は根の魔女です。」

「あのお方が来ていたと?」

「やはり問題は地下で起きているんじゃないだろうか?」

「もう結構です。」

 俄に騒ぎ立てる長老達にバラールがぴしゃりと言い放つ。

「根の魔女との面会について黙っていたことをお詫びします。弁解させて頂くなら言うべき機会を伺っていたのです。しかしこれも<大樹>の思し召し……であるなら今がその時なのでしょう。包み隠さずお話いたします。フリョッハさんもここにいて下さい。見張りとして、私が嘘をつかないよう……」

 自ら誓った通り、バラールは根の魔女との会話で知り得た情報を一切の脚色なしに話して聞かせた。古来の伝統と思われていた葬儀の方法が実はほんの数世代前に始まったものであったという事実は博識の老人たちを動揺させずにはおかなかった。そして、そのせいで地下生物が飢えているという現実も。

「……事情は分かりました。しかしもうひとつだけ教えて下さい。私には今後葬儀の方法をどうすべきか、今すぐにでも議論すべきであるように思えます。しかし本当は今日あなたは話すつもりではなかった。もしフリョッハが割り込んで来なかったなら、一体いつ話すつもりでいたのですか?」

 クロッテュの追及がまっすぐ最長老に向く。

「それについては謝るよりほかありません。ごく個人的な感情に囚われた末の過ちでした。まさか犠牲者が出るなどとは露ほども思わずに……。どうかそれだけは尋ねずにおいて下さい。お願いですから……」

 それ以上の追及は為されなかった。祭祀の諸々を司る聖なる人々との相談をすぐにでも取りつけることだけを決定して、会議は幕を閉じた。部屋を後にする長老達の中でバラールだけが座ったまま身じろぎひとつせずにいた。彼女を見つめて立ち尽くしていたフリョッハもクロッテュに手を引かれて退室した。暖簾の向こう側の寂しげな老婆の姿はもはや見えない。フリョッハはすべきことをしたに過ぎなかったが、彼女との約束を破ったことに変わりはないのだ。

「私が戻るまで、お前は家でおとなしくしていなさい。」

 妻に似たか細い腕をがっしりと掴んで離さないクロッテュが突き放すように言い放つ。

「まって、リエッタに会わないと……会議中に勝手に入ったのはわるかったけどそのおかげでわかったこともあったでしょう……?」

「最長老に対する礼節を欠いたことを言ってる訳じゃない。ここ数日のお前の行動は何だ。口喧嘩ぐらいで責任を投げ出すのなら、最初からやらない方がましだ。このまま役割を果たせないようなら解任も考えなければならないだろうな……」

「そんな……!おねがい、最後までやらせて、今からもう心を入れ換えるから……」

「とにかく、その話は今日の夜にしよう。自分の部屋できっちり頭を冷やせ。」

 それだけ言って、クロッテュフィガルは上へ上へと飛び立った。蚕の精の世話係を司る者としての職務をこなすためか、最年少の長老としての責務を果たすためか、フリョッハには知る由もなかった。本来歩くよりも飛ぶ方を好むハチドリの娘にはそんな元気もなくとぼとぼと螺旋階段を昇って行った。

 誰もいない部屋で一人寝台に身を横たえたフリョッハは、ふと遥か上の階層でパキリリェッタも自身の無力さに打ちひしがれているのだろうか、などと感傷的に空想した。風変りな蚕の精を槍玉に挙げてひとまずの気休めを得た人々は落ち着きを取り戻して談笑に耽っているようで、壁越しに歌も聞こえる。本当の問題には手をつけてさえいないと言うのに……。尤も、ほんの四歳の小娘に何かができる訳でもない。それは<大樹>の内外を飛び回る精達の誰にとっても背負い兼ねる難題で、ひょっとすると長老達にとってもそうなのかも知れなかった。

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