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天体運航韻律再現譜 One of a Song of Imbolc  作者: 石田五十集(いしだ いさば)
21/47

一七日目

昨晩本文の第一稿が全て完成しましたー!!長かった……二年かかった……!!今後はPCへの打ち込みに専念してがんがん更新していく所存であります。その後印刷した場合のページ数などを調節しつつ推敲を行います。大きく書き直す部分もあるはずです。特にこの章は……。一通り書いたおかげで世界観も大分はっきりしてきましたので、この勢いのまま進めていきます!進捗等はTwitterにて→ @acrylyric

 島の中央に聳え立つ<大樹>は、伝説によれば一度雷の直撃を受けて枯れてしまったと云う。しかしその根元から三本の幹が新たに伸び、立ち枯れて空洞になった古い幹を支柱にして螺旋を描きつつ生長し今に至る。精達が<大樹>の内側に棲むようになるのはその後のこと。語り部たちは若々しい三本の幹がそれぞれ光の精霊、風の精霊、水の精霊であり、中央の立ち枯れた幹が忘れ去られた四つ目の精霊であると解釈する。我々の肉体には得体のしれない何かが宿っていて、それが三柱の精霊を御すのだと。当たり前のことほど忘れやすく、真実を見失いやすい。正体を見失った今、せめてその存在まで忘れてしまわないよう、絶えず語り考える必要があると彼らは言う。

 見た人に畏敬の念を与えずにはおかない威容を誇りながら、その生長に他者の介在が加わると強靭な生命力は影を潜め忽ち自分の力だけでは生きられなくなってしまう。北の砂浜を緑地化する計画は、全ての生命の源である<大樹>に一切手を加えず木材を調達可能にできるという点で名案であり、また常に手入れを必要とする広大な水上林を造ってしまったという点で将来の人々に重荷を課したとも言えた。

 <大樹>の若々しい葉を水面に浮かべておくと葉柄からゆっくりと根が生え、葉の上を無数に走る葉脈が独立して上を向いて伸び更に待つとやがて若木に生長する。<大樹>の驚くべき生命力を証明するこの事実はかなり古くから知られていたようだが、子供の遊びに使われるだけで実用されることはなかった。しかし一〇世代ほど前から木材を調達する目的で北の砂浜での意図的な植樹が開始された。若木がある程度生長すると幹の重さと水に浮かべた葉の支える力の大きさが逆転して引っ繰り返ってしまう問題や雨で陸地にできた一時的な水溜まりはじきに<大樹>の根に吸収されてしまう問題、ある程度生長した状態でも海に浮かべるとすぐに波にさらわれてしまう問題など、様々な問題が山積していたはずなのだが、それらを解決した逸話はほとんど伝わらず堂々とした佇まいの広大な水上林だけが遺された。ハルヘッテフラウンを始めとする樹林の管理を担う者達が知っているのは今ある樹々の世話の仕方だけである。フリョッハが任されていたのもそうした仕事の一部だった。

 水上林の密集した樹々の間には藻類が繁茂しやすい。放っておくと水の流れが滞って根腐れを起こす原因になる。この場合は盥に掬って陸に捨てるが、藻を苗床に蔓草が伸びると少々厄介だ。


(手直し予定)


 そう大きくもない島の中で失踪が相次いでいる。帰り道を急いでいたフリョッハは敢えて尋ねもせずに家へと戻ってしまったものの、やはり心に引っかかる。誰も彼もが知り合いという状況で突然姿を消すのはそう簡単ではない。彼女のこれまでの四年間の人生の中でそんなことは一度としてなかった。

「誰も知らないところでなにかが起きてる。」

 周りに誰もいないことを知っていてぼそりと呟いてみたが少し恥ずかしい。それを隠すように手を動かす彼女の耳に声が届いた。屈めていた腰を上げて耳を澄ませると聞き慣れたピォルモの声と分かった。ばしゃばしゃと波を起こして居場所を知らせる。

 ややあって深い霧の向こう側から幼いキビタキの精が現れた。ハチドリほど上手にホバリングできない彼はフリョッハの脇の樹に降り立った。

「たいへんです!パキリリェッタさんが……!」

 息せき切る少年の慌てようにフリョッハもただごとでないことを察する。

「リエッタが……?」

「いなくなりました。朝ぼくらが最上階に入ったときにはもう……」

 あの子がいつまでも狭い小胞に閉じ籠っていられるはずがない。フリョッハには良く分かっていた。それでいて放っておいたのは拒絶されたことに苛立ち世話係としての責任を放棄したためだ。

「どこか心当たりはありませんか?パキリリェッタさんが気に入ってた場所とか。」

「わからない……」

「知ってますよね?脱皮と羽化以外で蚕の精の身に良くないことが起こると雲の運航が狂うんですよ。黒い雲ばかり湧いて島中水浸しになったなんて話も……」

「もうわからないの!リエッタの考えてることがわかんない……どうしてあの子だけおかしなことばかりするの?どうして……わたしを選んだの?」

「……お二人がけんかをしたことは聞きました。でもそれがなんです?もし万一仲直りできないまま別れてしまったら、フリョッハさん一生後悔しますよ。」

 普段これ以上ないほど温和な彼が焦りに身を震わせている。彼女のためにまっすぐ向けられた感情の受け取り方を、フリョッハはまだしらなかった。ただ黙って俯くことしかできなかった。結局また元に戻ってしまった。パキリッリェッタと出会う前の自分に……。自分で自分を嘲っている間にピォルモの羽音は遠ざかる。日が昇っても濃いままの霧はいつしか彼女の心さえも包み込んでしまったようだった。


 始めから戻る気がないのなら、濃霧の中を探索するのは気分を明るくするのに役立つ。朝方の薄らと黄色い光が白い霧に拡散されて無限の色彩を放つ。太陽の方角へ、東へと進む間中蚕の精は自分の真っ白い身体が霧に溶け込むのを楽しんだ。フリョッハのお下がりを着るのをやめてしまった彼女は他の兄弟達と同様白い絹の前掛けを身にまとう。以前より背は伸びても幼げなふくふくした肌の質感は変わらない。ほっそりと伸びつつも柔らかいままの太腿に巻きつけた鞣し革の茶色いベルトだけが幽霊のようなパキリリェッタをこの世に繋ぎ留めている。

 辺りに誰もいないことを確認してベルトからぶら下げた啼き笛を抜き取る。朝早く抜け出して来たのはフリョッハから借りたこれを試したいからだった。今頃彼女の不在を知ったピォルモの慌てる様を想像して少々気味良く思いながら、小さな口で――下顎の裏から覗く吐糸口でなく食事を司る口で吹き口を咥えて改まった心持ちで勢い良く息を吹きかける。

 ぽへぇーーっっ!!

「?!?!」

 自分で発した音に驚くパキリリェッタ。細い木の筒をまじまじと眺める。

「もしかしてこれ、めちゃめちゃ難しい……?」

 よく考えれば笛の演奏を見たことは一度もなかった。街でどこからともなく聞こえた時も音の源を探すことまではしなかった。何なら息を吹き込めば勝手に曲になると思っていたくらいだった。

「朝から何の音だ。ムカデでも呼ぶ気か?あるいはシロアリに俺の家を食わせるつもりじゃないだろうな。」

 機嫌の悪そうな調子で冗談を言う声は上から聞こえた。彼女の背後の樹から声の主が跳び下りる。

「うわ、ほんとに呼べた。鳥じゃなくて蝶の精だったけど。」

「笛の音で操られた訳ではない!」

「ちぇっ、誰もいないから失敗しても恥ずかしくないやと思ってたのに。ヴぇるちんレアキャラのくせになんでこういうときだけ出てくんの?」

「人の家の前で吹く莫迦の方がよほど稀だと思うがな。」

 青年が寄りかかっている樹の上は、確かに枝葉が茂る代わりに家が載っかっている。

「うっわ、わたしほんとにばかじゃん。もしかして他にも近くに家がある?」

「いや。」

「レアキャラを一発で引き当てるなんて今日は冴えてるよ。」

「知るか。」

 気を取り直して再び笛を構えるパキリリェッタ。

「待て待て、また吹くつもりか?俺の家の前で。」

「だめ?」

「そもそも虫の精は吹奏楽器が苦手なんだよ。呼吸器系の構造上鳥の精より呼吸の効率が悪い。誰か上手い人に教われば多少ましだろうな。いないのか?」

「……リァンノー。」

「誰だそれ。」

「おねぇ……じゃなフリョッハだよ。」

「なら教われば良い。」

「いやなの。リァンノーには教わりたくない。」

「君の姉は君を心配してた。」

「……話したの?」

「昨日、少し。」

「……レア感薄れてきてんじゃん。がっかりだよ……ほんと……」

 破れた翅をはためかせて玄関へと繋がる梯子を登る。彼の姿は再び見えなくなった。

「話せ。俺は誰とも繋がってない。俺に話すのは誰にも話してないのと同じだ。」

 家の根の瘤の上に座り幹に背中を持たれかけるパキリリェッタ。大切な啼き笛を両手でしっかりと握りながら、彼女は意を決して口を開いた。

「ヴェルは脱皮したことある?」

「四回した。」

「脱皮の途中で変な夢見なかった?」

「ああ、俺はずっと同じ夢だった。」

「どんな……?」

「空を飛んでた。芋虫の内は飛ぶのがどんな感覚か分からないから、まるで水の中で浮かんでるみたいだった。それがだんだんはっきり想像できるようになってくる。俺は誰よりも高く飛んだ。それで、三回目の脱皮でカラルを見た。」

カラルって、ここ(カラル)のこと?」

「いや、こことは別のどこか(ルラ・カラル)。俺達アサギマダラの精が長い旅の末に辿り着く場所だ。なぜかは分からないが間違いない。俺の心は一層旅に駆り立てられた。その思いがよりはっきりした夢を見せる。そうして俺は確かに島に辿り着いたんだ。」

「え……?」

 思わず見上げるパキリリェッタ。しかし幹から放射状に延びる斜材が見えるばかり。

「羽化の時にも見たんだ。あの島には<大樹>がなかった。地面は砂浜の砂のようなものに覆われていて信じられないほど多くの種類の木と草花で溢れていた。」

「動物も?たくさんいたの?」

「この島とは真逆なんだろう。この島の植物は<大樹>だけ、向こうの動物はアサギマダラの精だけ……」

 彼の声が明らかに暗くなる。翅を失った彼には、夢に見た未来は訪れない。

「君も見たのか?似たような夢を。」

「ううん、違う。でもわたしも未来を見たんだと思う。ヴェルのよりずっと残酷な未来……」

「話したくないなら、話さなくても良い。」

 小さく首を横に振って、遠慮がちに話し始める。

「わたしとリァンノー、二人きりでいたの。<大樹>の最上階でなにか話してた。それをわたしが空中に浮かんで見てる。でもこの間の脱皮でそこにいる蚕の精はわたしじゃないって気づいた。リァンノーは今よりずっと大人だったし……あの夢はわたしが死んだ後の未来……。ほんとならすぐおかしいって気づけそうなのにね。自分のことを遠くから見てるなんてありえないのに。」

「君は心から姉を愛してるんだな。」

「愛……?ぜんっぜんそんなんじゃないよ。リァンノーはわたし専属のお世話係なんだから他の子のお世話なんかしちゃいけないの。わたしの後だってそうしてもらわなきゃ。」

 彼女の心は未来の自分の子孫に対する嫉妬に囚われている、とヴェルチンジェトリックスは思った。彼女のフリョッハに対する思いが肉体の成長とともに姉を慕う妹のそれから彼でさえ未経験の段階に移り変わりつつあることにも気づきはしたものの、それを諭したところで彼女は否定するだけだろう。実のところパキリリェッタは幼年期の無垢で未分化な欲求を満たしさえすれば幸福を得られると信じ込んでおり、しがみついたままはなれようとしないのだから。

 霧の向こうで俄にパキリリェッタを呼ぶ声がした。蚕の精が行方不明となればどんな騒ぎになるかくらいは彼も知っていた。人々の捜索の手もいずれこちらまで及ぶだろう。

「そろそろ戻ったらどうだ。何度も同じことをしてると、その内飽きられる。」

「<大樹>には戻らないみんなきらい。」

「まったく、聞き分けがないな。甘やかされて育った証拠だ。」

「ねえ……ここってさ、ヴェルちんひとりで住んでるんでしょ?」

 恐る恐る梯子を登るパキリリェッタが蝶の青年と目を合わせる。

「……それがどうした。」

 まずい予感に身じろぎする青年。

「このお家、どーぉ考えてもひとりで住むには広すぎだよね。もうひとり増えたところでぜーんぜん困らな」

「断る。」

「ちょっとは考えてよ!」

「考えるまでもない。厄介ごとに関わるつもりはないぞ。」

「わたしを置いとくといいことがあるよ!」

「俺の世話でもするつもりなのか。」

「いいことその一!わたしのお世話ができる。」

「甘やかされ過ぎたようだな。」

「いいことその二!女の子をいっぱい連れてきてあげる。」

「友達まで呼び込むつもりなのか。」

「あーでもそれはさすがにリァンノーに悪いかな。ヴェルちんのこと好きっぽいし。」

「自分の足で帰れないなら俺が送り届けてやる。」

「あー待って待ってあとひとつ。ヴェルちんの翅のけが直したげる。これいいことその三ね。」

 梯子から顔を出すおてんばに数歩近づいた彼は、その言葉にたじろぎ翅を閉じて隠す仕草をした。

「……その冗談は笑えない。」

「冗談なんかじゃないもん。」

「そんな方法はない。それなりに手は尽くした。」

「でもなんかしらやり方が……」

「他に話がないなら、もう出て行け。」

 取りつく島もなく家の中に退くヴェルチンジェトリックス。玄関には他の家と同様厚めの生地で刺繍が施された暖簾が掛かっているだけなので入ろうと思えば入れたものの、パキリリェッタにはできなかった。

「お願いだよヴェルちん、あっちには戻りたくないの。それはヴェルちんもいっしょでしょう……?」

 梯子を登りきって玄関前のバルコニーに寝転ぶパキリリェッタ。今日は一日、霧は晴れそうになかった。


 蚕の精がいなくなったとはいえ、そんな緊急事態も二度目ともなるといくらか冷静さを保ったまま対処されるようだった。何にも増して、彼らは適応するのが得意な種族なのだから当然ではあった。

 <大樹>の最上階でも普段と変わりなく授業が行われていた。語り部見習いがひたすら話していること自体は同じであるものの、身体だけでなく精神的にも成長しつつある白い子供達から少しずつながら質問が出るようになっていた。

「私たちがより多くと結ばれるのとただいなくなるのとでは、そんなになにかが違うんですか?どっちも姿を消すことでは同じでしょう?」

 尋ねたのはパキリリェッタの同腹の兄弟の一人だった。それを受けたオオルリの青年は瞼を閉じ、何から話すべきか吟味した。青い羽毛と青い髪が交じり合う首筋に触れるのが、彼が話し始める前に必ずする癖だった。

「そう……とある聖なる人々の思索によれば、自己とは、その本質とは虚無であるそうです。自己は肉体と意識が結びつくことで初めて孤独を感じられるようになります。その二つは別のものを源としています。四柱の精霊が肉体をかたちづくり、何らかの作用が起きて意識が与えられる。四精霊の内どれかひとつが欠けていても私達は私達に成り得ない。四精霊が互いに結びつき合うことで肉体がかたちづくられ、肉体と意識が結びついてわたしがかたちくくられる。しかし、それでもまだ不充分なのです。肉体を得た意識は孤独という衝動から仲間を得ようと歩き始める。そうして他者と結ばれる。更により多くのものと結ばれることを求める行為は自身が精霊そのものであることを再認識し、肉体を得たまま世界の一部になれる可能性を暗示します。私達の肉体と意識をつくりあげたのは精霊という他者であって、私ではない。私の身体は私のものではない。意識でさえも。その意味において、虚無が自己の本質であるのです。そうして自己と世界のあらゆる事物の凡てが同じ四つの精霊から成り立っていると知る時、有限の肉体に認識を狭められた意識に閉じ込められていようとも自己とは世界そのものであると気づくのです。

 翻って、死はそれ自体が世界の一部に還る究極の手段です。肉体と意識が解けて精霊達が<大樹>に取り込まれる。それは凡てと繋がることを意味します。それこそ、私達の望むものです。単にいなくなるだけでは、このようなことは起こり得ません。何しろパキリリェッタさんは生きているはずですし、他者との関係性を蔑ろにした点で生きていないとも言えるでしょう。」

「パキリリェッタは悪い子?」

「良い人も悪い人もいません。誰もが人ですから。半分だけね。ただ、ひとつ言えることは彼女は悩んでいます。解決策を持つ者はここにはいない、彼女がそう判断したのならそうなのでしょう。願わくば良い方向に向かえば良いですが、そればかりは分かりません。」

 話し終えたところで、午前の授業は終わった。ピォルモを含む数人の世話係はパキリリェッタの捜索に出向いているため、普段よりも一層静かな昼食となった。


「いつまでそうしてるつもりだ。」

 浅葱色のはぐれ者の呆れた声が玄関の壁にもたれかかってうとうとしかけていた蚕の精を目覚めさせた。

「だってっこ、やり過ごすにはちょうどいいんだもん。ぜんぜん見つかんないし。」

「もう昼過ぎだぞ、さすがにまずいだろ。俺は<大樹>に報告して来る。ここを動くんじゃないぞ。」

 梯子を降りようとするヴェルチンジェトリックスの足に滑り込むように掴む。

「お願い、ここにいさせて?このまま帰ったらわたし、あの部屋にほんとに閉じ込められちゃう……」

 厄介ごとに巻き込まれつつあることを理解しつつも、目の前の少女の願いを無下にすることは彼にはできなかった。

「……明日には出て行けよ。」

「へ?」

「俺はお前の世話はしない。桑の葉も、自分で採って来いよ。」

「やるやる!なんでもやる!ありがとヴェルちん。」

 座ったまま足に抱きつくパキリリェッタを悩ましく眺めながら、これからすることを考えて憂鬱になった。

「取り敢えず俺はお前の無事を報告しなけりゃならない。絶対に、ここを離れるなよ。」

「了解です!ね、ね、入ってもいい?」

「散らかすなよ。」

「うっわー!散らかそうにも!ものがありません!殺風景!」

 生活感皆無のワンルームを隈なく見渡して叫ぶおてんばは、すぐに部屋の隅に落ち葉の山があるのを見つけた。

「ねえヴェルちん、これは?」

「布団。」

「これが?!何言ってんの?」

「失礼だな。寝てみれば良さが分かる。」

 微妙に形の残った山にぼふっと身体を預けてみる。乾いた落ち葉の独特の匂いと暖かさが彼女を包む。

「なにこれー!ふっかふかー」

 枯れ葉を舞わせてはしゃぐ幼精をよそに彼は<大樹>へと向かった。今回ばかりは走らなかった。誰に申し出るべきか知らないが、説得するのに苦労することは間違いなさそうだった。


 悩みを振り払うように仕事に勤しんだフリョッハが街へ戻ったのは夕方のことだった。朝誰も起きていない内から出かけた彼女にとっては特に変わった様子もなく見えたが、それは日中の混乱を知らないからに過ぎない。行方不明の蚕の精が無事に見つかったことを知って取り乱していた人々もようやく落ち着きを取り戻していた。

「ねえフリ、まさかあんたふつうに仕事してたの?」

 後ろから呼び止めたのはアナイ。その声色に内心ぎくりとして振り向く。足に水が滴ったままの彼女の姿を見れば、自分と同じ仕事をしていたとアナイには分かる。

「もぉ、今日一日大変だったの知ってる?ずっと捜してたんだよ?一回家にも行ったし……」

「ごめん。」

「またパキちゃんがいなくなって、フリの姿も見えなかったから私はてっきり二人一緒かと思って。……パキちゃんのこと、聞いた?」

「うん、また脱走したって」

「それじゃなくって。<大樹>に戻らないから、誰かの家に泊まるとかって。何て名前だったかな、ヴェル、チ……?」

「ヴェルチンジェトリックス?!」

 思いがけない名に驚きを隠せない。

「そう、それそれ。知ってたの?」

「うん、昨日も会った……けどどうしてそんなことに?」

「そこまでは知らないよ。さっきそのヴェルなんとか君が来てフリのお父さんと話してた。本人も一晩だけで良いって言ってるから許可したみたいだけど。」

「すっっごい心配……」

「今更何言ってんの。フリが投げ出したからこんな妙なことになってるんでしょ。」

「だって、なにか間違いが起きたら……」

「フリ……」

 怒りと呆れとおかしさが一度に押し寄せてよく分からない声が出る。」

「いっくらフリがうぶでも芋虫の身体に生殖器官がないことぐらい知ってるよね?男でも女でもない、と言うかどっちになるかも分かんないような子相手にどんな間違いが起こると」

「そ、そんなへんな意味で言ってないし……!」

 親友の突飛な発言にフリョッハの頬が一気に紅潮する。

「蚕の精のお世話っていろいろ気をつけなきゃいけないこと多いし、ちゃんと食べさせてもらえるか心配で……」

「あー、私の心が汚れてたってわけね。まあパキちゃんは平気よ。大体のことは説明してたし、フリも今日はもう休んで明日仲直りする方法をじっくり考えなさい。」

「うーん……」

「迷ってられるほどの時間はないよ。」

「それは分かってるけど……」

 俯くフリョッハを置いてアナイは足早に南への通りを走り抜けた。その先には彼女を待っていた同世代の友人達が。共に寝起きしている彼女達は郷へと帰って行った。人生の次の段階へ進んだ育ち仲間の後ろ姿を見送って、フリョッハも<大樹>へと戻った。変身さえ済めば自分も親許を離れ郷で暮らすことになるのだが彼女にはまだまだ先のことのような気がしてしまっていた。まだそれを経験していない者にとって、自分の側と向こう側とには決定的な断絶があると思い込みがちだがいざ済んでしまえば取り立ててどうということもない。そんな程度のこと。それでも少なくとも彼女にとっては大きな壁となって立ちはだかっているのだった。

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