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天体運航韻律再現譜 One of a Song of Imbolc  作者: 石田五十集(いしだ いさば)
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一六日目

 ※この物語は純度100%のフィクションであり、夢と同じ原料でできています(なお、夢の主成分は現実での体験のようです)。

 昼近い頃合いになっても寝台にうずくまったままのフリョッハの耳許にノックの音が届く。

「どうぞ……」

 暖簾をくぐったアナイの表情は深刻さを帯びていた。

「パキちゃん、昨日は戻らなかったのね。ピォルモから聞いた。他の子たちといっしょに小胞で寝たって。」

「どうしてあんなこと言っちゃったんだろ……」


 脱皮の際の深い眠りから目覚める時を、フリョッハはアナイと共に小胞の前で待っていた。そうしてその瞬間が訪れた。

 悪夢から跳び起きたかのように息苦しそうに二つの口を開けて両眼を見開いたパキリリェッタがまだ力の入らない真新しい肢体をだらりと垂らしたままじっと一点を見つめる。そのぞっとするような視線はフリョッハに向けられていた。フリョッハもまた見つめ返すことしかできずにいたが、やっとの思いで身を起こした蚕の精はふっと目を背けると再びフリョッハに目を合わせようとはしなかった。

「リァンノー……」

 一度もそう呼んだことのない呼び方で世話係の名を呟くと、前回の脱皮後のようにまどろんで抱きつくどころか二人の制止を無視して螺旋階段を降りていく。最上階から地上に出るまでの長い道のりを進む間、充分乾く前の軟らかい身体の彼女に触れることはフリョッハ達にはためらわれた。何らかの意志に従って動いているようではあったものの、二人には見当もつかない。結局、彼女が制止を聞き容れることはなかったのだった。

 <大樹>の外で彼女が見たものは、脱皮を遂げられずにより多くと結ばれた蚕の精達の夥しい亡骸と、彼らを弔う人々の姿だった。

「なんなの、これは……」

 夕暮れの赤い日差しと黒い人影が蠢く風景の中に寂しく横たえられた白い肉体。その数三〇体。黒黴に覆われていくその様はまるで地面を漂う人の影が浸蝕していくかのよう。その中でたった一人生きたままの彼女は覚束ない足取りで恐る恐るその内の一体に取りすがる。

「まだ降りてきちゃだめよ。朝まで寝てらして。」

 影の中の誰かが優しく声をかける。それは世話する相手を失った世話係だったかも知れないし、子を持つ母親かも知れなかった。

「これは、なに……?どうしてこんなとこで寝てるの……?」

「蚕の精に限った話ではないけれどね、脱皮がうまくいかなかった虫の精は死んでしまうのよ。もうじき<大樹>に還るから、少し離れてないと危ないわ。」

「いったいなにを言ってるの……?ねえ、起きて、いっしょに戻ろ。」

 両肩を揺さぶっても粘液に覆われた身体は既に冷えてぴくりとも動かない。

「……ねえ、ひょっとしてあなた気づかなかったの?脱皮の度に蚕の精が減って小胞に空きができてたこと。他の子たちとずっといっしょにいたのに?」

 その言葉を聞いた瞬間、自分の身体に流れる血まで凍りついた気がした。言われてみれば確かにそうだった。最初の内は満室に近いほどの人数が小胞を埋めていたのに、今は半分もいない……

「そんなの知らない!ぜんぜん知らないもん!ねえ!起きてよ⁉」

「リエッタ、ちょっと、なにしてるの、どうしちゃったの?」

 追いついたフリョッハがパキリリェッタを死体から引き剥がすようやく離れた彼女の手には、透明な体液がべったりと付着していた。だがそれは、死んだ蚕の精が脱皮の際皮膚から分泌したものとは手触りが違った。

「……この子、どうして血が出てるの?なにがあったの?」

 人だかりの中の誰も答えようとしない。意を決した蚕の精は世話係の手を逃れ黒い黴に覆われつつある遺体を思いきり引っ繰り返した。

 透明な血液はぞの残忍な事実を何も隠そうとしなかった。今やその少年の背中を覆っていた軟らかい甲殻は剥ぎ取られ生々しい傷跡だけが残されていた。明かされた事実そのものから離れるかのように立ち上がるパキリリェッタ。

「こんな、こんなむごいことをされてこの子は……!」

「それは違うよ、この子たちは殺されたわけじゃないの。精霊の抜けたからだはじきに<大樹>に還るから、その前にこうやって使える部分だけはこうやって……」

「知ってたの?」

 敵意を露わにした低い声がフリョッハを突き放す。

「わたしたちが死んだらこうされるって、リァンノーは知ってたの?」

 無数の言い訳の言葉が頭の中で浮かんでは消える。呼び捨てにされたことさえ気づかなかった。

「……知ってたよ。」

 自室の表情で一歩二歩と退くパキリリェッタ。

「そりゃ知ってるよ。島中の人たちみんなが着てる衣はぜんぶ蚕の精が遺す繭をほどいた糸で作られる。雨具はコウモリの精の羽で、ナイフは鮫の歯で、太鼓は誰かの骨と皮で、楽器の弦は誰かの髪で編まれる。わたしたち鳥の精の羽と鱗だっていろんな飾りに使われるんだから、そんなの当たり前のことだよ。みんな知ってる。知らなかったのはリエッタだけ……」

「その辺にしといて、フリ。」

 アナイが仲裁に入ってようやく未熟な世話係は口を噤んだ。この世界を創り上げたことわりの一端に触れた少女は足元がぐらぐらと崩れる思いがしていた。<大樹>の根の上に築かれた地上の世界を踏み締める足の裏から言い知れぬ寒気が全身に立ち昇り、吐き気となって外へ出ようとするが空っぽの胃は何も吐き出さない。取り囲む誰もが嗚咽する少女に気の毒そうな表情を見せるものの、本当の意味で彼女の動揺を理解している者は一人もいなかった。誰もが当たり前に受け入れている真実を、彼女は受け入れなければならなかった。

 過呼吸気味に喘ぐ蚕の精は脱皮をし成長したことで目立つようになった吐糸口もぱっくりと開いて逃げるように<大樹>へと戻って行った。


 その日の晩を、フリョッハとアナイは気を揉んで過ごした。三階の入り口で二人を呼び止めたピォルモは、本人からの面会謝絶の意志を伝えた。結局一晩中眠れずに過ごしたフリョッハは昼近くになってうとうとし始めていたのだった。

「相当応えたでしょうね。あんなに素直で優しい子だもの。他の子なら同じことが起きてもこんなふうには……まあ、普通ならそもそも勝手に外に出ることもないけど……」

 深刻そのもののフリョッハは何とも言わなかった。

「普通じゃないと言えばパキちゃん、昨日脱皮から起きた瞬間から変だったよね。」

「うん、いきなりまっすぐ下に出て死んだ人たちのとこに行くなんて。まるで下で何かが起きてることに感づいたみたいに。」

「うーん、それについては行き当たりばったりだった気がするけど。」

「え?」

 意見の食い違いに驚くフリョッハ。

「起きてすぐフリョッハを見つめてたけど、すごいぎょっとしてたじゃない?」

「うん、こわかった。」

「まるで悪夢の中で遭った人がすぐ目の前にいて動けない、みたいに私には見えたんだよね。それで逃げようとして下に。」

「でも、それだとなんか……」

 薄い掛布団にくるまった身体を縮こませる。

「それだとわたしのせいっぽくない?」

「そうは言ってないよ。パキちゃんの夢の中でフリが何かしたからってフリのせいにはならないでしょ。とにかく脱皮してる間パキちゃんに何があったのか、本人に聞いてみるのが最優先ね。それが分からないことには何をしても逆効果になりそう。」

「うん……」

 これからのことを考えると、肌触りの良い薄い掛布団さえ重くのしかかっているかのように感じられた。


 フリョッハが重い腰を上げたのは、結局アナイとの昼食を終えた後のことだった。<大樹>の最上階に半ば強引に連れられて辿り着いた頃には昼食を終えた蚕の精達はそれぞれの小胞の中で寝息を立てていた。ただ一人、パキリリェッタを除いて。

 部屋に残っている世話係達はと言うと、蚕の精達の横で一緒になって寝ていたり裁縫や刺繍に勤しんだりと様々だ。

「ピォルモはいないのかな?」

「午後からみんなと桑の葉を採りに行ってると思うけど。」

 世話係の一人がアナイに答える。

「この間囮にされてたのを知って怒ってたけど、ちゃんとやってるんだ……」

「素直だからね、あの子は。囮役をやってくれるととっても助かるーとかうまいこと言いくるめられてまんざらでもなさそうな顔して出てったし。」

「素直な子に何してんのあんた達……」

 一方、六角形の小胞の壁にぴったり背中をつけて座ったまま手持無沙汰の様子のパキリリェッタは、フリョッハの姿を視界に認めるとそのすらりと伸びた足を組んでぷいと後ろを向いてしまった。その脇には昨日脱ぎ捨てたばかりの古い殻がもう一人のパキリリェッタのように力なく横たわっている。

「退屈なんじゃない?パキちゃんには。ここでの暮らし。」

 無言のパキリリェッタ。

「四齢にもなると授業の話もだんだん面白くなってくるんじゃない?今日のはどうだった?」

「……ちょっと外に出よ?ここでうるさくしてても迷惑だし。」

 アナイの質問に彼女の心は動じず、フリョッハの提案にも身体を動かそうとしなかった。少しずつ伸びつつある白い髪は赤ん坊の産毛くらいの長さになっていた。相変わらず手入れせずに撥ねるに任せている愛らしい綿毛だけが、一昨日までの彼女の面影を残しているようにフリョッハには感じられた。まるで人格を構成していた核とも言えそうな何かを狭くなった殻ごと脱ぎ去ってしまったかのよう。未だ軟らかいままの芋虫の甲殻とは正反対に真新しい心を固く閉ざしてしまっている。

「……帰って。」

「ちょっと待ってよ。急にどうしちゃったの?こんなに心配してるのにそんな……」

「ねえパキちゃん、少しでいいから私たちに話してみない?力になれることもあるかもだし。」

「そんなの欲しくない。わたしはここにいる。死ぬまでずっと。どうせあと三〇日くらいなんだから。なにをやってもむだでしょ。」

 無理矢理押し出すようにして発せられた言葉は到底パキリリェッタのものとは思えなかった。

「ほんとうに、そう思ってるの?」

 苛立ちに高鳴る胸を押さえるフリョッハ。

「わたしはリエッタに励まされてたよ。わたしはこの島が嫌いだった。虫の精もみんな。せっかく仲よくなってもすぐ死んじゃうから意味ないって。悲しいだけだって。でもリエッタがそうじゃないって教えてくれた。わたしひとりだったら知ろうともしなかったことにどんどん興味持って、この世界がどれだけすてきなものか教えてくれたのはリエッタでしょ?わたしをこんなにつくり変えて、それさえ無意味だって言うなら……もうリエッタなんて知らない!」

 フリョッハの大声に驚いた蚕の精達の視線から逃げるように彼女は部屋を出た。アナイもその後を追う。

「私はフリのそばにいてあげないと。パキちゃんも、どうか独りにならないで。」

 取り残されたパキリリェッタは、肺のない胸が冷たくずきずき痛むのを感じた。しかしそれがいかなる感情によるものであるのか、彼女には分からなかった。それはおよそ、本来蚕の精には縁のない種類のものであったはずだから。


 アナイが後を追っているのには最初から気づいていたものの、フリョッハは彼女の望み通りの行動は取らなかった。街に出たフリョッハは親友の呼びかけに応じず建物の陰に隠れたことを自分でも愚かだと思った。それでもアナイがどこかへ行ったのを恐る恐る確かめるとほっとしたのも事実だった。

 何も考えず足を動かした先は、春四日目にパキリリェッタと初めて会って彼女が飛び込んだ葦原だった。だが本人がそうと気づくには少々時間を要した。何しろ自分達の主食となる豊かな穂を実らせただろうその無数の葦は既に刈り取られて不自然に切り揃えられていたからだ。

「ほんとに、なにもかも変わってく。リエッタも……わたしも?」

 聖なる人々の偉大な探求によれば、自己とは即ち虚無であると云う。その肉体は四精霊の結びつきで成り立っているに過ぎず、その精神は他者との相互の関わりなくしては決して成り立たない。

 言うなれば個人とは、自己とは無数の紐が複雑に絡み合った結び目である。その一本一本を解いて純粋な自分自身を取り出すそうとして全ての紐を解いてしまったとして、尚残るものなど何もない。それは死を意味する。二つある死の内の<下の死>を意味する。

 他者との関わりで自身がかたち造られるのだから、他者が変化すれば自分もつられて変化せざるを得ない。パキリリェッタが変化すればフリョッハもまた変化する。だがそもそもパキリリェッタが変化した理由はフリョッハの中にあるのかも知れなかった。

「まったく、姉妹揃って森に迷い込むのが趣味なのか。」

 はっと我に返ったフリョッハが振り向くと浅葱色の青年が呆れた様子で立っていた。

「あれ、もう夕方?帰らないと父さんに心配かけちゃう……」

 赤みを帯び始めた太陽を背にそそくさと歩き出すフリョッハ。その後ろをヴェルチンジェトリックスは一定の距離を置いて追従する。

「……さっき姉妹って言ってたけど、それってブレンお姉ちゃんのこと?」

「誰だそれ。」

「いやいやいやいや、わたしにはお姉ちゃんはひとりしかいないんだけど。」

 唐突に妙な事を言われ振り返るフリョッハ。立ち止まった彼の様子からは冗談を言っているとは思えなかった。

「姉は君の方だろ。」

「まさかリエッタのこと言ってるの?」

「名前は知らないが。」

「どこをどう見てそう思ったのか知らないけど、わたしは鳥の精であの子は蛾の精だよ?からだの色もぜんぜん違うし……」

「そんなことを言ってる訳じゃない。俺達虫の精は触角でものを見る。君達はよく似てる。」

「そんなこと言われても……。よくいっしょにいるのはわたしがあの子のお世話係だからだし……」

「向こうはそうは思ってない。」

 背後の声の主を振り返るフリョッハ。

「君があの子の世話係なら、なぜこんな所にいる?」

「それは……」

 心境を見透かされているかのような気恥ずかしさから、返事をしにくくなり声も小さくなる。

「それは、けんかしたから……」

「ただの蚕の精と世話係の関係なら喧嘩なんてしないはずだ。君が彼女のために悩むのは、君が姉だからだ。……俺に分かるのはそれだけだ。」

「あなたって意外と相談に乗るの上手だね。」

 夕暮れの森に消えようとする青年をフリョッハが呼び止める。

「あなたのその翅のけがのこと……聞いてもいい?」

「……またいずれ。」

「それじゃああなたのこと、リックスって呼んでもいい?」

「……好きにしろ。」

 ヴェルチンジェトリックスが姿を消すと、不思議と街の喧騒が大きくなったような気がした。既に森を抜けたフリョッハはほんの少しだけ軽くなった足取りで人混みを通り過ぎようとしたものの、ある会話がその歩みを止めさせた。

「君のとこの甥っ子、いなくなったって本当かい……」

 それでも行列は立ち止るのを許さない。

耳に引っかかったまま進まざるを得なかった。その後<大樹>に着くまでの間、似たような会話を四回は耳にした。

「隣に住んでた爺さんが急にいなくなってさ……」

「真水を汲むために竹を伐りに行った途中、何人かが途中で消えちまったって話だぜ……」

「私たちどうしたらいいか分からなくって……心当たりは全部探したのよ?でもいないの……」

「森の奥で見たことのない妙な花を見たんだが、あれは一体なんなんだ。」

「俺は確かに見た。どうせ誰も信じないだろうけどね……。死体がある訳でもないのに<大樹>の根が出て来たかと思ったら歩いてた老人を地下に引き擦り込んだんだ!助ける間もなかった。この島はどこかおかしくなってるんだ……」

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