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天体運航韻律再現譜 One of a Song of Imbolc  作者: 石田五十集(いしだ いさば)
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一二日目

 その日の朝食はパキリリェッタが用意していた。暖簾をくぐって居間に出たクロッテュフィガルはすぐに理解した。フリョッハの真似をしているようでいて、彼女はやること為すこといちいち独特だ。やたらと皿を使いたがるのはその例のひとつと言える。ハチドリの精の二人の朝食は毎朝キャタとポルのみ、パキリリェッタは桑の葉を食べるので合計五皿で充分のはずなのだが、丸いテーブルの上にはまんべんなく皿が敷かれていた。大小様々、およそ二〇の皿の上にはキャタとポルが少量ずつ載っていたりいなかったり。妙な夢から目を覚ますために二度寝しに戻りたくなるような光景だ。

「フリョッハパパ、おはよー。」

「……皿洗いはフリョッハがするんじゃないのか?」

「うん。」

「手伝いなさい。一度に下まで運べないだろう。」

「えーっまた授業おやすみー?」

「自分のしたことは自分で始末をつけるものだ。」

 クロッテュが席に着くのを見てパキリリェッタも座る。しかしフリョッハの姿は見当たらない。

「フリョッハ、起きなさい。朝食は用意してくれた、パキリリェッタが。一応はな……」

 彼女の寝室から返事はない。事情を知る蚕の精が言い出しづらそうに、半分呆れた様子で口を開く。

「あー、それがね……おねえちゃんしばらく起きてくれないかも。あれのことで。」

「あれとは……デリケートな問題か?女性特有の?」

 そんなはずはない、と思いながら慎重に尋ねるクロッテュ。<変身>を迎える前の女性は肉体的には子供のまま。年頃とは言えまだ当分先のはずだ。

「じょせーとくゆー?そうなの?男のひとは歯が抜けないの?」


 父は無遠慮に暖簾をくぐった。

「フリョッハ、聞いたぞ。乳歯が抜けたって?良かったじゃないか。あと一本で全部生え変わるんだろう?」

「リエッタの口はトンボの翅より軽い……」

 薄い掛布団に顔をうずめたフリョッハはぶつぶつと悪態をついた。

「嬉しくないのか?お前は今日で大人の仲間入りができるんだぞ?」

「今日?!ちょっと待って、てことは今日最後の一本も抜くってこと?!」

 がばっと跳ね起きるフリョッハ。

「ああ、早速執祀官に予約を入れて来よう。」

「やめて、せめて明日……ううん、あさってにして。おねがい!」

「ブレンもそう言ったがな、その通りにしてやったら部屋に籠りっ放しでずるずる渋り続けて執り行ったのは六日後だった。それでロナンの時は抜けた次の日に執り行った。こういうものはすぐ終わらせるに限る。」

「覚えてるよ。お兄ちゃん大泣きしてたもん……」

 温厚ではあっても人前で泣かない彼が人目を憚らず泣いたのは後にも先にもあの時だけだ。この成人のための儀式は、それほどまでに恐ろしい。

「せめてお兄ちゃんとおなじにして。明日にしてよ……」

「フリョッハ……」

 娘が横たわる寝台に腰かけると、父は何とか不安な気分を取り除いてやろうと優しく語りかけた。

「これは誰しもが必ずやらなければならないことだ。でなければいつまでも大人になれない。」

「ずっと子どものままでいいもん……」

「お前はいつまでも私の子供だよ。」

 眉を寄せる小さな額にキスをする。

「にしし、おねえちゃんがこんなに気弱になってるなんてちょーきちょー♪」

「リエッタもそのうちやるんだからね!」

「虫の精は蛹の中で身体を造り変える時に歯も溶けて新しくなる。」

「そーなんだ。そーゆーことだよ、おねえちゃん。」

「たった今みんながやることだって言ってたのに!」

「お前は世話係としてもっと勉強しなさい……」


 姉のブレンほど強情でもないフリョッハは早々に観念して地上に降りた。クロッテュの後に続く彼女には逃げようなどという気もない。その更に後ろにはパキリリェッタもくっついていたが、一部始終に付き添うことまでは、、クロッテュは許さなかった。

「パキリリェッタさんはぼくにお任せください!きちんとお世話しますから。」

 いつでも初々しい雰囲気のピォルモが頼もしく請け合う。

「よろしくね、たいへんだとは思うけど……」

「おねえちゃんにはわたしが必要だよ!そんなにおっかないことするならわたしがそばにいてあげなきゃ。そしたらあんしんでしょ?」

「うんうん、いいですね。美しい姉妹愛ですね。」

「ピォルモの言うことをよく聞いておとなしくしてくれてるのがいちばん安心だし。」

 離れまいと必死のパキリリェッタに素直に感心するピォルモ、ばっさり切り捨てるフリョッハ。いつも通りのやりとりが済んだところでパキリリェッタはピォルモに引き摺られ<大樹>の中へ、大クロッテュとフリョッハは父に連れられ執祀官の待つ南東の森へ向かった。

 執祀官と面会するにはいくつか手続きをする必要がある。<大樹>の最上階付近に寝起きする聖なる人々は血縁の有無を問わずまとめて巫族と呼ばれるが、用がない限り彼らの居場所に足を踏み入れてはならない。用事のために彼らを訪ねても、決して口を利いてはならない。姿を見てもいけない。巫族の誰かが気づいてこちらを見ているのを確認した上でただ「阿」の口を開く。声は出さない。それで、あちらの世界にいる彼らに声が届いたことになる。そうしてこちらの世界とあちらの世界を往来する執祀官が三名、祭儀の場へと赴く。彼らを呼ぶために、クロッテュは既に別の者を頼んでいた。

 つい先日行ったばかりの場所、東南の森の中の開けた場所で大抵の祭儀が行われる。前に来た時には平野の中央にあったエメットの小屋が端の方に移動している。

(あの小屋、きっと丸ごと地下に呑みこまれたんだろうな……腐ってたし。)

 汚い小屋の代わりに聖なる人が三名、平野の中央に立っている。自身の背丈の三倍はあろうかという丸太を手にしているのがはっきり見えた。二人は彼らの許へと向かう。父は空を見上げて、娘は下を俯いて。徐々にフリョッハの足取りが重くなっていく。

「あの人達を見てはいけないよ。話しかけるのも向こうからだ。」

「はい、父さん……」

 そのくらいの決まりごとはフリョッハも知っている。だが我が子が見るからに不安がっている時でも決まりきった言葉しかかけてやれないのがクロッテュフィガルという男だった。

「やあ、クロッテュじゃないか!いつぶりだろうな!」

 耳聡く気配を察知したエメットが遠くの小屋から這い出て近づいて来る。元の布より継ぎ接ぎした部分の方が多そうな服を着ている。

「まだ生きてたか……」

 父の悪態をフリョッハは聞き逃さなかった。

「やあやあクロッテュ、しばらくだね。前にも増して威厳のある面構えだ。それにこちらは……フリョッハじゃないか。この間はどうも。またいつでも遊びにおいで。そしてあちらに見えるは聖なる執祀官じゃないのか?これから何か始まるのかい?厄除け祈願?まさかこの子が結婚とか?」

「け、けっこん?!」

 意表を突く言葉にフリョッハが顔を紅潮させる。クロッテュよりも頭二つ分は背の高いエメットは、しかしそのへらへらした態度のせいで頼りなさげに見える。精達の中でも背の高い部類に入るクロッテュは体格もがっしりとして対照的に映った。

「この子はまだまだ先だ。ロナンでさえまだだと言うのに……」

「そうか、分かったぞ。さては成人式だな。そんな年頃に見える。」

「正解だ。分かったらこの子の視界に入らない所で黙って見ていてくれ。大切な儀式なのに、気が散る。」

「見てても構わないのかい?」

「そのためにわざわざここに住んでるんだろう。」

「君達の文化を研究するのにこんなに適した場所は他にないからね……」

 早口で呟いた後、フリョッハと目が合うと彼女の目の高さまで屈んで囁いた。

「実は私は君のお父さんの成人式も見てるんだ。」

「ほんと……?」

「そんな話を娘にしないでくれ。」

 フリョッハの手を引っ張って父は進んだ。さっきよりも足早に。その手には冷や汗が滲んでいた。

「あの人いったい何才なの?」

「七〇過ぎだ。全くあの耄碌もうろく、余計な話を……」

「人間ってそんなに長生きなんだ。それじゃあ今の話もほんと?」

 返事はなかったが、歩みは更に速くなった。これ以上速くされては心の準備が追いつかない。娘は口を噤んだ。

「私の新しい服、頼んだぞー!」

「そんな話は聞いていない。」

(お願いされたこと伝えるの忘れてた……)


 平野の中央に辿り着き、それぞれ一本ずつ丸太を携えた三人の執祀官が目と鼻の先という距離まで接近しても、二人は適当に視線を逸らしていた。それでも三人の目が(その内一人はイトトンボの精で、他二人の鳥の精より多くの目を持っていた)じっとこちらを見ていることはしっかり感じ取っていた。深緑の厚手の上着についたフードを目深に被っており、その表情は伺い知れない。

 合図もなしに、三人は仕事を始めた。左右の男がそれぞれ両手に持っていた柱を縦に寝かせ、中央の男が二本の柱の上端部に横向きに架ける。慣れた手つきで梁と柱を結び、門は完成した。

 左右の男がそれぞれの柱を同時に持ち上げて立たせる。柱の下端は鋭利に削られて杭になっており、これもまた合図なしに地面に突き立てた。そのまま二人は柱の脇で静止した。毅然とした佇まいで静止していたもう一人のツァヒル――アーケオプテリクスの精が厳かな足取りで三歩進み、四歩目で門をくぐった。そうしてようやく、フリョッハとクロッテュは目の前の執祀官を見た。あちらの世界からやって来た聖なる人はまず頭を覆い隠していたフードを取り去った。両手でフードの端をつまんで後ろに追いやる。落ち着いた赤紫色と白色の羽毛が顔全体を隈なく覆っており、額からは二本の角が生えていた。一見すると枝のようにも見えるそれは途中で三叉に分岐しているが、しかしまだ成長途中の小さなものでかわいらしくもあった。秋に抜け落ち春に生え替わるこの角はアーケオプテリクスに由来するものでも人間に由来するものでもない。既に滅びた別の生物から受け継いだもので、このようにひとつの身体に三種の生物が宿っている者を禰巴ディクルグスと呼ぶ。非常に珍しく、ある種浮世離れした雰囲気を持つ。

「四精霊の結び目たる幼き娘、その何と解けやすいこと、何と健やかなること!しかし選ぶはふたつにひとつ。直ちに解けて全てと結ばれるか、ひとりの人と成って貫頭衣を纏う資格を得るか。選択の時が来た。」

 儀式は既に始まっていた。彼らには何も伝えていない。何のために呼んだのかも、誰の試練を執り行うのかも。それでも彼らは無言の「阿」から全てを聞き取る。

「クロッテュフィガルの娘フリョッハ。こちらへ。」

 父の手と繋いでいた左手を離す時になって初めて、自分がかなり強く握っていたことに気づいた。執祀官に促されるまま四歩進む。

 三歩進んで四歩目にはあちら側。

 門をくぐった瞬間、地面を踏み締めた足に痺れが走った。次いで軽い目眩。あちら側に行く際にこんなことが起きたのは初めてだった。

「どうすべきかは、分かりますね?」

 こくりと頷くフリョッハ。あちら側ではなるべく言葉を慎まねばならない。

 自らの長い黒髪を一本抜き取って屈んだ執祀官に渡す。受け取った執祀官は控えめに開かれた小さな口に手を伸ばす。彼女の小さな下顎に並ぶ歯の頭を撫でて左の奥歯を探り当てる。今朝抜けたばかりの歯がこれまでの四年の間納まっていた場所の隣に最後の乳歯があった。既にぐらついている歯に髪の毛を結びつけると、今度は本人の番。右手に握り締めていた最後から二番目の乳歯を毛のもう一端に結びつけて、儀式の準備は終わった。

 導く者は立ち上がり、試練に立ち向かう者は膝をついた。水面に釣り糸を垂らすかのように、口の中の乳歯と結ばれた髪を地面に垂らす。波紋は生じないが、それでも異物の存在は地下に伝わっている。

 耐え難い静寂が幼年期を脱しつつある小さな身体にのしかかる。それでも地面に落ちた白い歯から目を逸らしてはならない。心細さから無意識の内に母の形見を、左の太腿に納めていた縦笛を握っていた。

 照りつける午前の太陽の下で、地の下から黒いかびが湧き上がり、忽ち小さな歯を包み込む。身構えるフリョッハ。

 平野全体を覆い尽くす葦の隙間から細い蔓が四、五本伸び黴に包まれた歯に絡みつく。一本の糸で結びつけられた先に佇むフリョッハが瞬きしかけた次の瞬間、勢い良く力強く地下へと引き擦り込んだ。

 当然、糸で繋がれた口内の乳歯もぎりぎりと引っ張られる。その痛みは尋常ではない。思わず閉じた瞼を薄く開ける。葦の生え出た深淵な闇を、地下へと続く死へと続く永遠の穴を見た。その瞬間、力に耐えられなくなった最後の乳歯が口の中から零れ落ちた。死への引力から解放された身体が一気に後ろに投げ出される。

 尻もちをついたフリョッハに執祀官が手を差し伸べる。修行に身を捧げた者の指はアニフのようにほっそりとしていた。

「精霊達の見守る中でよく耐えました。あなたは今凡てが眠りに就いた地下へ還る誘惑を断ち切り地上に残る道を選んだ。あなたはもはや四精霊の束ではなくひとりの人と成った。あなたがより多くと結ばれますように。」

「あなたが、より多くと結ばれますように……」

 フリョッハはまだ恐怖の只中にいて、その身は小さく震えていた。地下への誘惑?そんなものは最初からなかった。執祀官の高らかな宣言は試練が終わったことを実感するのにいくらか役に立ったものの、次に何をするのか全く思い浮かばない。その様子を見て執祀官が口添えする。

「次に二ノ名を決めましょう。一ノ名は親から与えられるもの、二ノ名は自ら選び取るものです。予め決めてあるのでなければ私がいくつかあなたに合う名を」

「いえ、もう決めてあります。」

 自らにどんな名前を与えるのか、クロッテュも気になるところだった。彼は命名に関して相談を受けてはいなかった。

「では精達に、精霊達に聞こえるようはっきりと、名を告げて下さい。」

「わたしの名前は、フリョッハリァンノー。一ノ名をフリョッハと言い、二ノ名をリァンノーと言う。」

 父は虚を突かれた思いだった。見てはならないあちら側にいる娘の後ろ姿をまっすぐ見ずにはいられなかった。その名は、彼女自身を呪う名であった。

「……リァンノー。宜しい。母親の名は末の娘が受け継ぐに相応しい。今日からのあなたはもはや昨日までのあなたとは違う。これを以って亡き母との結びつきは一層強くなった。決してほどけることはないでしょう。」

 振り返って門をくぐった時、少女は初めて一滴涙を流した。もの哀しくも満足げな表情が亡くなった妻と重なって見えた。それでも抱き止めた彼女の背丈は彼の肘辺りまでしかなかった。

 二人が去った後で、仕事を終えた三人の執祀官達はさっきと逆の手順で門を解体し始めた。

 フリョッハが父の許を離れたのは彼の身体の向こう側に姉のブレンオーネンと兄のクロッテュロナンの姿を見たからだった。それまでの間、父娘は長い間抱き合っていた。クロッテュフィガルにはそれしかしてやれなかった。

「お前にしては静かにしていたな。」

 妙な足取りで近寄るエメットにクロッテュが軽口を投げつける。

「ミリティウリァンノーから採ったのだろう?リァンノーという名前。」

「あの子は母親を欲している。ミリティウの死の責任が自分にあると思い込んでるんだ。自分が私達家族から妻を、母を奪ったと。はっきりと言葉には出さないが……同じ名を持ったところで、本人になれる訳でも代わりになれる訳でもないのに……」

 二人の男は仲睦まじい三人姉弟を見つめた。


「フリョッハが成人する時には必ず呼んでねって頼んでおいたのに。まさか抜けたその日のうちにやろうだなんてね。」

 挨拶もそこそこに、長女のブレンオーネンが話題を明るい方向に持っていく。

「父さんけっこうそういうとこあるよね……」

「確かに。僕の時もそうだったけど。」

「あんたは大泣きしてるのを無理矢理連れてかれたもんね。」

「まあそうなんだけどさ……」

 幼い頃から勝気な姉にロナンはいつでもたじたじだった。二人の間に挟まれたフリョッハは心細い試練を経てようやく安心して笑うことができた。

 姉はアニフで兄は男女ツファンナ。フリョッハ自身は女男ファルナである。橙色の尾羽に黒い縁取りがあることでは雌雄共通ではあるものの、雌の身体は黒の部分が多く折角の橙が塗り潰されてしまっている。他にも全体的に色が薄く地味な印象だ。だがブレンだけは<変身>を経て生まれつき両肩に巻きついた羽毛が成長して指先まで伸び腰の翼と合わせて二対の翼を成していた。

「フリョッハは偉かったね。ぜんぜん泣いてなかったじゃん。」

「えー?そんなことないよ。こわかったもん。」

「すごいことだよ。将来は私より強い女になるね。」

「それはむりかな……」

「それは困るな……」

「ちょっとそれどーいう反応?それじゃあ私が強いって言うよりガサツなだけみたいじゃない?!」

 殆ど同時に否定する弟妹に姉の威厳が崩れ去る。

「上も下も強くなられたら僕の居場所がさ……」

「あんたがどれだけ嫌だろうと私たちの間に挟まれててもらわないと困るのよ。」

「うーん嬉しい言葉のはずなんだけどぜんぜんありがたくない。」

「いつでも三人一緒に仲良く……母さんと約束したんだから、いてもらわなきゃ困るの。」

 ぼそりと呟いた一言に、二人も沈黙するしかない。

「そうそうこれ、忘れないうちに渡しとくね。」

 ブレンから葦の茎で編まれた籠を手渡される。

 籠の上から覗く黄色と赤の柄には見覚えがあった。

「これって……」

「覚えてる?私が成人した時最初に袖を通した衣。お母さんのお気に入りでよく着てたのを覚えてる。今日からフリョッハのものよ。」

「いいの?」

「もちろん。」

 ふわりと折り畳まれた衣がずっしりと重くなったように感じられた。

「家まで戻るのは面倒だし、醸造小屋で着替えちゃいましょ。」


『いともたゆけきどどめ色~♪』

 <大樹>の最上階まで戻って来ると、室内では楽しげな歌声が響き渡っていた。昼食までのしばしの自由時間、もの静かな蚕の精達の中で大声で歌っているのはもしかしなくてもパキリリェッタだ。

「へんな歌歌ってる……」

「子どもってああいうの好きだもんねー。私も歌ったなー。『我が愛しのぼこぼこの根っこ』とか。」

『<大樹>の一の子プラナリア~♪

 ゆったり這ったその跡に~♪

生気染み出し横溢す♪

 足を失くしてなお歩む~♪

死をも逃れてなお歩む~♪』

 つき合わされている幼精達も呆れ気味だが、本人は気にも留めていない。

『かくも露けく粘る肌~♪』

「「ごめん、ちょっともう無理。」」

 パキリリェッタの五人の兄弟達の口から同時に制止の声がかかる。

「えーどうして?おもしろくない?」

「「頭の中でプラナリアさんが無限に増殖してくイメージが離れなくなっちゃって。」」

「そっかあ。」

 その原因が自分にあるとは露知らず聞かせる相手を捜して辺りを見回すと入り口でフリョッハ達が立っているのが目に留まった。黒い瞳をキラキラさせる彼女に内心ぎくりとしたものの、傍に駆け寄って来る頃にはその勢いは薄れていた。

「おねえちゃん、その衣って……」

「へ?こっち?」

 身構えたフリョッハも若干拍子抜けだ。

「今日からわたしもおとなの仲間入りだから、貫頭衣を着るんだよ。すてきでしょ?お母さんのお下がりなの。お姉ちゃんから譲ってもらって、さっそく着てきちゃった。」

「おねえ、ちゃん?」

「はじめまして、あなたがパキリッリェッタちゃん?フリョッハがお世話になってるんだって?」

 脇に立っていたブレンが愛くるしい白の幼精を前に心からの笑顔で挨拶する。

「ちょっと、お世話してるのはわたしだよ?」

「ただの冗談じゃないの。もう大人なんだからそんなに膨れてないで。

 それよりほんっとかわいい!蚕の精っていつ見てもみんなかわいいけどあなたは髪がほかの子と違うのね?くしゅくしゅになってるのは生まれつき?」

「これはただの寝ぐせ……髪の手入れがきらいでやらせてくれないの。」

「いいじゃない、似合ってるもの。どこにいるかすぐに分かるし。」

「そういう問題じゃ……ん……?リエッタ?」

 会話に加わらないのを訝しんだフリョッハが視線を戻すと、ぼんやりした様子のパキリリェッタが応える。

「その衣、見覚えがある。」

「まさか。」

 成人した後の精はそれまでの前掛け状の衣を脱ぎ去り多少厚手になった貫頭衣をまとうようになる。身体と精神を構成する四精霊は衣を嫌うが人は違う。これからは存分におしゃれをすることが許される。彼女の衣は黄色と赤を基調とした刺繍の入った布が幾重にも重ね合わされて複雑な非線形のシルエットを成しており、動きやすさ、飛びやすさを保ちつつ晴れの日に相応しい装いとなっていた。

「それは妙だな。これだけ豪華なものだと一点物のはずだけど。」

 それまで黙っていたロナンが口を挟む。

「街で似たのを着てる人を見かけた訳じゃないってこと?」

「わたしの部屋のたんすで見たのと似てたんじゃない?たしかに色合いが似てるのを持ってる。」

「そういうかんじじゃないんだけど、そうなのかなあ……」

 ロナンの意見にもフリョッハの意見にも納得しないパキリリェッタ。

「それからね、今日からフリョッハはもうフリョッハじゃないのよ。」

「え?」

 きょとんとするパキリリェッタにフリョッハが解説を加える。

「成人するとね、ふたつ目の名前を自分でつけられるの。それで、わたしの名前はフリョッハリァンノー。」

「リァンノー……」

 繰り返した彼女の目はどこか遠くを見ているかのようだった。どこか心を掻き乱される響き。


 間もなく昼食の時間となりロナンとブレンは部屋を出た。

「フリョッハが世話係をやるなんて聞いた時は心配だったけど、意外とうまくやってるみたいね。」

 螺旋階段を下る途中でブレンが言う。

「これがフリョッハにとって良いことなのか僕にはまだ分からないけど。」

「あの子は優し過ぎるものね。ひとりじゃ抱えられないものまで丸ごと引き受けようとしてしまう……ねえ、今思ったんだけど父さん、ゆくゆくはあの子を跡取りになんて思ってないわよね。」

 伝統家業は本来なら末の娘が継ぐのが望ましい。蚕の世話を取り仕切っていたのは元々ミリティウリァンノーの家系であり、クロッテュフィガルは彼女が亡くなった後彼女の仕事を引き継げる者がその家系に一人もいなかったために引き継いだに過ぎない。彼の家系は元々酒の醸造を営んでいた。大クロッテュの次の代を小クロッテュでなくフリョッハに継がせることができれば本来女性が就くべき官職をミリティウの面影を強く受け継ぐ実の娘に返還することにもなり、体面的には穏やかではあるのだ。

「それは確かに父さんが考えそうなことだ。」

「あの子にはぜったいに無理よ?!立ち止まって振り返るブレン。蚕の精だけじゃない、虫の精と話す時はいつも悲しそうだったのを覚えてる。パキリリェッタちゃんと別れる時、あの子がどうにかなりそうで……」

「父さんには僕からも言っておく。大丈夫、きっとうちの家系は代々男が継ぐ運命なんだよ。ちょっと珍しいけどね。」

 どうということもないと言うように肩をすくめて見せるロナン。ブレンは再び階段を下り始めた。

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