四日目
2018/05/26 最初の部分を書き直しました。修正前VER.も一応別に残しときます。
かつて空と海とがひとつだった頃、泡立つ波から白い雲が沸き起こりその上には白の人々がおられた。白の人々は嘆いていた。凡てが美しく調和した楽園は今や崩れ、あちこちに散らばってしまった。嘆き合い慰め合う間にも空は高く、海は深くなっていく。
「終わりの時が来た。やがては全て沈むだろう。」「あるいは浮かぶか。」
「月のない夜でも星がひとつあれば明るく暮らせます。」「幸い天には千の星々。」
「ささやかな明かりで昏い海を照らせようものか。」「海は呑み込む、海は闇!」
「ならばこちらはいかがでしょう。」
取り出したのは黒い種。消えゆく楽園から持ち出された最後の一粒。それは世界がふたつに割れた今でもひとつのまま。決してふたつに分かれない。青年の掌の上で転がるそれははじまりとおわりをひとつに結んでいた。手にした者は永遠を得る。いきり立つ老人が青年に迫る。青年は種を手放した。何のためらいもなく。雲から落ち海へと吸い込まれたそれは、浮かぶでもなく沈むでもなく、生きるでもなく死ぬでもなかった。永遠の閃きを一瞬の内に解き放った種の中から偉大なる四精霊が飛び出す。白の人々は雲の上でどうすることも出来ず眺めていた。
「見よ。死すべき世界に命が宿りましたよ。これははじまりではない。おわりでもない。死してまた甦るのです。はじまりとおわりは結ばれた!精霊の恩恵のかくもめでたきこと!」
「ならば貴様も死んで甦るが良い。」
怒りに任せて老人は青年を雲から突き落とした。空は尚高く、海は尚深く。下へ落ちる青年が死ぬのを食い止めるかのように海も遠ざかっていく。かくして青年は永遠に虚空を落下し続けることになった。これが、種を手にした青年の得た永遠だった。青年は灰色の空と灰色の海とがひとつに結ばれる彼方の水平線から太陽が昇るのを見た。それは新しい世界の夜明けであった……
四日目
島があった。霧に包まれた広大な島。朝の日の光が拡散して全体がぼんやりと輝く中から山のように突き出しているように見えるのは、島の中央に天高く聳える<大樹>と呼ばれる古木。遥か昔に立ち枯れて既に役目を終えた幹を支柱にして三本の太い幹ががっちりと絡み合い、空を覆わんばかりに使用を伸ばしている。幹の半ばには一本の枝もなく頂点に全ての枝が放射状に広がり、分岐し、葦に覆われた大地に丸い影を落とす。血液の動脈のように生長した枝に葉が肉のように連なってその異様さをある程度和らげている。
立ち枯れた幹は外からは殆ど見えないが、その内部は空洞。しかし空ではなかった。外界から遮断された空間は生き物達にとって恰好の棲み処となる。根元から末まで住人で溢れる幹の内側では中央を吹抜けとして円状に張られた床が何十層も重ねられている。その中の一室で、一羽のハチドリの精が目を覚まそうとしていた。
彼女とその家族が住む一角は、<大樹>を構成する三本の内の一本がどういった気まぐれかぐにゃりと歪んでいる。従ってこの家には外からの直接の出入り口と窓が設えてある。
朝日が窓から顔を覗かせているとは言え、おきるにはまだ早い時刻。彼女には皆が起きる前に済ませておきたい仕事があった。気を抜けばすぐにでも閉じようとする瞼をこすりつつむっくりと寝台から起き上がる。
枕元には昨晩の内に畳んでおいた衣が変わらず置かれている。ぼんやりしたままその薄い前掛け状の装束を広げて体の前面に垂らすと背中と腰の辺りに付いた紐を結んで身に着ける。
衣を着るのは起きている間のみ。まだほんの子供でしかない彼女は衣を鬱陶しく思ってあまり好まない。大人への<変化>の時期を迎えてはいるものの、まだ人間の感性、裸を恥じらう感情を持ち合わせてはいない。それに、精霊が体に入って間もない子供の内は衣を着せて窮屈な思いをさせると精霊が逃げてしまう。
幼げな褐色の顔と表情を隠すかのように無雑作に掻き分けた漆黒の髪、かすかにふくらんだ胸から生殖器にかけての曲線と伸びしろのある両手足。ハイバラエメラルドハチドリの精がもつ人間らしい部分は、しかしそれだけだった。その顔には光沢のある緑色の鱗と羽毛が敷き詰められ、下顎から額にかけての一帯には白から橙のグラデーションが広がっている。また、腰には小さな肩甲骨を起点として髪と同じ黒い翼が畳まれており、そして背骨の延長線上には黒く縁取られた鮮やかな橙色の尾羽が十枚生え揃う。
寝台から降りた少女は朝焼けの指す掃出窓の脇に置かれた二つの木桶に手を伸ばす。
幹にぽっかりと穿たれた穴に合わせて取り付けられた円形の窓を覗くと、<大樹>よりはるかに小さいが同じ傘状の枝を広げた木々の形づくる森が広がる。
一歩外に出れば、そこは昨日とはちがう世界。でも理は変わらない。芽吹いた種は花を咲かせるが、それもじきに枯れてしまう。彼女はこの上なく美しい世界を見渡して溜め息をついた。
朝の冷えた空気を小さな肺いっぱいに吸い込んだ裸足の幼精は腰の翼を畳んだまま神経質に部るりと震わせ、跳び降りた。驟雨のようにまっすぐ地上へ。障害となるものは一切ない。ぐんぐん加速して森に落ちる。
地上に達する直前小刻みに震わせ温めておいた翼を広げて葦原を撫でるように滑空する。蜂に似てせわしなく飛ぶハチドリにはあまり適した飛び方とは言えないものの、そんなことを注意する者は朝の森にはいない。
<大樹>の真下には木々を模倣した傘状の家々が連なる。それらは全速力で飛ぶうちにすぐにまばらになり、やがて森も途切れ見渡す限りの芦原が広がる。
背の高い葦に紛れて咲く花々の内の一輪に目をつけると、ハチドリの精は速度を落としつつホバリングで姿勢を整える。絶えず羽ばたく翼はあまりの速さに殆ど見えなくなっているため、遠くから彼女を見れば何の助けもなしに虚空を歩き回っているように見えることだろう。
その花の名前は?名づけは人間の仕事だ。それらを記録するのも。ただひょろりと伸びた茎の先に淡い黄色の花が昨日とは違う場所に咲いていた。それで充分。
身長の四倍はある花の中央に据えられためしべに狙いを定めつつ慎重に花びらに乗る。重みで花が少し頭をもたげる。目指す蜜はめしべの柱頭の内奥に湛えられている。先端のすぼまった小さな穴に木桶を突っ込んで蜜を探る。桶の底が粘性の液体に触れたのが分かる。蜜はあるにはあるが、彼女の腕では僅かに届かない。意地になって身を乗り出す。
「……わ!わ!」
蜜で満たされたことで重くなった木桶に重心を取られ体勢を崩す。そうしてぶんぶん羽ばたく翼がおしべに触れる。
「……は…へ…ぅっくしゅん!」
おしべの先に付着する花粉が盛大にぶちまけられ辺り一面に飛び散ってしまったのだった。ハチドリの精でありながら、彼女は紛れもなく花粉症だった。
二杯の桶にたっぷり花蜜を汲んだものの、花粉を全身に浴びて鼻をぐずらせながらの帰り道は気分の良いものではない。
(ううっ……帰ったらちゃんと洗わなきゃ……)
頭についた花粉が舞い散って目に入る。町に入った所で降り立ち、ぶるぶると頭を振ってはくしゃみの繰り返し。涙で視界の滲んだ彼女にとって、それは全く不意の出来事だった。
通りを横切る途中、家並の陰から小さな何かが飛び出した。思わず避けようとステップを踏む。が、既にその白いふわふわした何かが突っ込んで来る。流れに任せるまま両手で抱きかかえるようにして背中から倒れ込んだ。
「いててて、ててー……。おねーさん、だいじょーぶ?……泣いてる?」
四方に発散した白い髪の下からつぶらな一四の瞳が彼女の顔を覗き込んだ。大きな一対の目の他に額や頬に六対の単眼が散らばっている。そして縦に並んだ二つの口。その子はほんの数日前に孵化したばかりの蚕の精だった。額から生えた細い触角がハチドリの精の顔を探索する。
「あなた、蚕の精でしょう?名前は?」
蚕の精がむっくりと起き上がる。しかしハチドリの精には乗ったまま。離れる様子もなく首を傾げるだけ。
もちもちした白い肌と堅い甲殻とが混じり合った肩の辺りには眼状紋と呼ばれる恐ろしげな眼玉模様が彼女を睨みつけている。
短命な虫の精達の中でも彼ら蚕の精の成長は著しく早い。孵化した翌日の最初の脱皮が行われる。産まれたばかりの時は全身を黒い短毛で覆われていた彼らはそうして、白い肌と白い髪を手に入れるのだ。しかしいかに早熟とは言え、彼らには、四,五人に一人の割合で世話係がついて<大樹>の中で大切に育てられる。朝早くからこんな場所にいる筈はない
ハチドリの精の訝しげな表情に気づいた幼精ははっとして跳び下りると一目散に駆け出した。
「え、待って待って!何で逃げるの?」
訳も分からないままその後を追う。幼い子が<大樹>から離れてしまうのは何より危険だ。特にこの先は……。
歩けるようになって間もないためまだ角質化していない、やわらかな白い足は思いの外すばしっこかった。走るより飛ぶ方が得意なハチドリの精は追いつくのに一苦労だ。
すぐに町を過ぎ、彼女の身長より高い葦が辺り一面に茂る場所まで来てしまった。もしこの中に紛れ込まれてしまったら、連れ戻すのはずっと大変になる。何としても思いとどまらせなければ。
殺風景な葦原が風になびく。初めての光景を前に蚕の幼精は呆然と立ち尽くしている。息も切れ切れのハチドリの精は一呼吸置いて声の大きさから高さから、何もかもを慎重に話しかけた。
「ね……ねえ、怒らないから訳を聞かせて?」
タンポポの綿毛のように風にそよぐ髪をのせた頭が眩しそうに振り向く。黒い目がきらりと光ったかと思うと、生まれついてのいたずらっこはひょいと葦原に跳び込んだ。
「あ!ちょっと!」
焦る気持ちを抑えて飛び立ち、葦原の上から追いかける。姿は見えないので葦が不自然に動くのが頼りだ。じぐざぐに、町から離れていく。
「おねがい!止まって!」
声を聞きいれたのかぱたりと動きが止まった。だが今度は彼女がどこにいるかが分からなくなってしまった。葦は囁くように風に吹かれるだけで何も教えてくれない
「みんなが心配してるよ。戻ろう?わたしもいっしょに謝ってあげるから、怖がらないで出ておいで。」
耳羽に覆われた耳たぶのない耳で音を拾うが返事は聞こえない。空中で立ち止まった彼女には、この先に何が待ち受けているのかが見えていた。
島で真水を得るには、竹が吸い上げた地下水を汲むより外ない。眼前の竹林はまだ低いものを残してほぼ全て薙ぎ倒されていた。恐らくカエルの精達が仕事をしたのだろう。彼らは乾燥から身を守る為に定期的に竹林を伐採して水を得る。その余剰分が皆のために提供されるのだ。問題はその後。彼らが去った後も水は沸き続け、湿地を形成してしまうのだ。水に溺れた葦は腐って不安定になり、泥に足を取られる危険がある。蚕の精の前には、まさにそんな沼が待ち構えていた。
ハチドリの精は最後に葦が動いた辺りに降り立った。
「どこに隠れてるの?」
かさかさ、と落ち葉を踏む音。振り向くが、そこにいたのはダンゴムシだった。甲殻に黄色の斑点があることから雌と分かる。彼女の腰の高さほどもあるそれは触角の感覚を頼りに進み、彼女のふくらはぎに触れて立ち止まった。襲われる心配はない。しゃがんで右手を触角に差し出してやりながら油断なく辺りを見回す。ここはもう町の外。いるのはおとなしい生き物ばかりではない。焦る気持ちを抑えて方針を変えてみる。
「ねえ!こっちに来て。」
――無音。
「ダンゴムシがいるよ。」
――風。
「見たことないんじゃない?かわいいよ。」
――葦の囁き。
ハチドリの精が溜め息をついて立ち上がると、出番を終えた女優はそそくさと去って行った。そんな時だった。
「わっ!」
――悲鳴。水に落ちる音。
「クロッテュ。」
「見つかったか?」
ハチドリの精のクロッテュファーガルは厳しい面持ちで駆け寄る青年の言葉を待った。
「いや。だが町全体に連絡し終えた。住人全員がパキリリェッタを捜してる。リトルソルジャー達には町の外に向かった。」
早朝から続けられている捜索の甲斐も空しく孵化して間もない蚕の精は見つかっていない。ただごとでないと勘づいたのか、他の大勢の蚕の幼精達も<大樹>の入口近くでひそひそと話し合っていた。もどかしい気持ちを紛らわそうにも、クロッテュはしかし、指導者としてその場を動く訳にはいかなかった。
「……一体、どこに隠れてる……。」
今年で一六歳になるクロッテュは蚕の精の養育に関する一切を取り仕切る立場を父から譲り受けて九年が経とうとしていたが、このような事態は未だかつて一度もなかった。なぜ逃げ出したのか。何かが起きたのか。それとも起ころうとしているのか?今後の対応に考えを巡らせているところに人々の声が彼の耳にも届いた。
「戻って来た!」
はっとして声のする方角に目をやると、木製の防具で身を固めたリトルソルジャー達に連れられる二人の人影があった。今朝から行方が分二人のからなくなっていた蚕の精と、どういう訳か彼の次女・フリョッハが手を繋いでこちらに向かって来る。二人の前掛け形の衣はぴったり体に張りついてぽたぽたと水滴を垂らしている。全身びしょ濡れのようだ。
腕を組んで立ちはだかる父の許までやって来ると、フリョッハはパキリリェッタを世話係のピォルモに託して先に行かせた。パキリリェッタは心配そうに手を振るが、彼女は答えない。黙然とする父から目を逸らさずじっと見つめる。それでもきゅっと結ばれた口の端から不安が漏れ出す。父は彼の身長の半分ほどしかない四歳の娘の濡れた髪に触れた。手を通して体から発する熱が伝わる。放っておくと風邪を引いてしまいそうだ。
「フリョッハ。お前も身体を拭いて温かくしていなさい。」
「はい、お父さん。」
父娘の会話はそれだけだった。パキリリェッタとピォルモに続いてフリョッハも<大樹>の中へ入って行くのを見送ると、野次馬達は離れて行った。
「湿地のぬかるみに落ちたパキリリェッタをフリョッハが助けたそうです。」
「確かか?」
「パキリリェッタ本人からそう聞きました。フリョッハもその通りだと。」
クロッテュファーガルの長男・クロッテュロナンが経緯を伝える。
「最長老には私から報告しておく。何のお咎めもなしという訳にはいかないだろうな。こんなことは、あってはならないんだ。」
「ごめんなさい。」
パキリリェッタは彼女の髪を櫛で梳かすフリョッハに目の前の塗り壁を眺めたまま謝った。
<大樹>の内部の中央は螺旋階段を巡らせた吹抜けとなっており、空飛ぶ妖精たちはそこを伝って自分の家と一階の出入り口とを行き来する。窓のある家は非常に少なく、出入り口は基本的に一階にあるのみである。各界の空間はざっくり八か一〇に間仕切られ、その内の一つが一家族に割り当てられる。しかし、蚕の精だけは事情が異なる。彼らには三階を丸ごと宛がわれる。間仕切りはなく、部屋の代わりに円状の壁にびっしりと築かれた無数の小胞が蚕の精達一人一人の空間となる。小胞とはミツバチの精が蜜蝋で塗り固めて作った六角形の個室で、それが隙間なく床から天井まで、六段も重ねられているのだ。彼らが成熟しても窮屈でないよう設計されているため、生まれたばかりのパキリリェッタには広々と感じられる。水を拭き取った二人は今、着替えを終えて彼女の小胞にいた。
「ぜんぜん気づかなかったの。水びたしになってるところに近づいたらいきなりずぼって足を引っぱられて……」
「じゃあひとつだけ教えてあげる。」
閉ざされていた口から発せられた声は固かった。
「初めてでわくわくするのは分かるよ。でも今回みたいにおぼれたら大変だし、あのへんにはムカデとかシロアリトカあぶない生きものがいて」
「そーなの?!」
大きな目を見開いてぱっと振り向く。頭には驚いたフリョッハが手放した櫛が刺さっている。その輝かんばかりの表情は「見てみたい!」と叫んでいた。
「そういうところだってば!パキリリェッタさん。最後まで話を聞いて!」
ふと視線を感じてこわごわ振り向くと、小胞の入り口でピォルモが葉を散らした竹のようにつっ立っていた。
「すみませんぼくノックもしないで入ってしまって……」
もう一度小胞から出てやり直そうとするピォルモを引き留めて小胞に入れる。彼は盆に載せたスープ皿を持って来ていた。温かい粥が盛られている。遅い朝食だ。
「びっくりしましたよー、フリョッハさんがあんなに大きな声出すの初めて見ました。」
「……。」
「あっちっっ!」
早速舌を火傷させてしまうパキリリェッタ。
「もう、気をつけてって言ったのに……」
ぼやきつつ彼女が両手で持っている皿を自分のスプーンで掻き混ぜ、一口掬ってパキリリェッタの口に運んでやる。
「ほら、ふーってして。」
「ふぅーっふぅーっ」
微笑ましい光景にピォルモがくすっと笑う。
「……なによ。」
「いえ、別に。フリョッハさんって意外と面倒見良いんですね。」
「ピォルモ……怒るよ……?」
一歳下の男の子に笑われるのは気分の良いものではない。それでも彼は蚕の精の世話係になって二年目、今年からは見習いを卒業して一人前の仕事をこなしているのだから優秀なのだ。
「はは、冗談ですよ。それよりさっきはお二人で何を話してらしたんですか?」
「今日のことがどれだけ危険だったのか教えようとしてたんだけど……」
「そうそう!ムカデってどんなかたちしてるの?シロアリは?」
「なるほど。フリョッハさんが一番苦手な奴ですね。」
一通り言い終えるとパキリリェッタは再び吹いては食べ、を繰り返した。
「でもパキリリェッタさん、今日は本当に危なかったんですよ?普段は穏やかな生き物でも運悪く空腹の時に出くわしたら襲われることだってあるんですから。」
「ふーん。」
あからさまに興味を失った蚕の精を前に、ハチドリの精とキビタキの精は顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。三本の幹に包まれた<大樹>の内側は妖精達のささやかな安寧の地。危険は外にある。しかし危険に包まれていることを忘れさせてくれるほどの安全と平和がここにはないことを、彼女は知らなければならない。
再びノックの音。戸のない小胞の入り口にはハチドリの精が、正確にはアオミミハチドリの精が立っていた。フリョッハの幼馴染のアナイエレーズだ。黒っぽい体色に色白の肌が映える。
「盛り上がってるとこごめんなさい?フーリ、パキリリェッタちゃん。最長老がお呼び。」
立ち上がるフリョッハの前掛けの端をぺたんと座ったままのパキリリェッタがつまむ。推し量るまでもなく不安そうなのが伝わってくる。
「おこられちゃうのかな?」
「当然よ。震えて待ちなさい。」
「ちょっとアナイ?!」
大人びた顔に意地の悪い笑みが滲む。昨年<変化>を迎えた彼女は実際大人として認められたのだが、生来のいたずら好きは健在のようだ。
「だいじょうぶだお。たぶんくわしい事情をたずねられるだけだと思うし、いざって時はわたしもいっしょに謝るから。」
先ほどと打って変わって目を潤ませる幼精をなだめるフリョッハ。
「うーん……と言うか、叱られるのが嫌なら最初から脱走しない事ですよ?」
「ううん、それはべつにいいの。ただ……」
「いやいやいやいや、良くないですから!ぶっちゃけ怒られるの世話係の僕ですからね!」
アナイが案内したのは螺旋階段を降りた先の、二階の一室だった。一階は個室のない大広間となっているが、二階から四階は栄誉ある年長者達のための空間だ。妖精たちが慌ただしく吹抜けを往来するにも関わらず常に静けさが保たれているのは年長者達への配慮からなのだが、実はそれだけではない。
「呼び出されるのはじめて……」
戸のない開きっぱなしの入り口の前で、フリョッハは浮かない面持ち。
「私は、最後に呼び出されたのは前の新月の頃ね。<変化>が終わったから二ノ名をもらいに。」
「ぼくは昨年世話係の仕事を任される時が初めてです。同級生も大勢一緒でしたけど。」
アナイとピォルモも回想する。
「まあ、ここに問題児はいないから当然よね。いたずら好きな子達はしょっちゅう呼び出されてるみたいだけど。」
三人の視線が自然とパキリリェッタに向く。
「どったの?いかないのー?」
先ほどの不安はどこへやら、躊躇の色も見せず入ってしまった。」
「ああっまだ心の準備ができてないのに……」
「だっだいじょうぶですフリョッハさん、一緒に怒られましょう!ぼく呼び出されてないですけど!」
「私は案内を仰せつかっただけだからここで。」
アナイの裏切りを経て、三人は会議室に臨んだ。
「「失礼します。」」
窓のない部屋の各所で皿に入った光の精霊が来や青に明滅して部屋中を隈なく照らし出している。やたらにぴかぴか光って捉えどころのない彼らは手のひらに収まる程度の大きさで、窓が殆どない<大樹>の中では照明として重宝されている。
長テーブルの奥に座した七人の人影の内、中央の年老いた女性が立ち上がった。彼女こそ<大樹>を治める最長老のバラールブローメだ。
「よく来てくれました。そこにおかけになって。」
慈しみに溢れた声で、ミツスイの精はそう言った。中央には予め丸椅子が一つ置かれていた。たった一つだけだ。試しているな、とフリョッハは思った。彼女は普段から無言の問答をしかけてくる。深い意味があるのか、単なる気まぐれなのか。実を言えば年長者達が敬遠されがちなのはこれのせいなのだが。真意こそわからないもののここでの所作が結果に影響を及ぼす……そんな気がする。
フリョッハはピォルモに目で合図し、パキリリェッタを座らせた。無難だろう。今回の騒ぎを起こした張本人なのだから。良しとしたのか、最長老も座り直した。
フリョッハは気を落ち着けるつもりで長老達を見渡した。まずバラールブローメ。最長老は代々女性が務めてきた。賢く冷静で経験豊富な彼女は全ての妖精達の母でもある。
バラールの右隣はハルヘッテフラウン。ウミスズメの精の男で、浮島全土の植物の管理及び土地の拡大を担っている。他に彼女に分かるのは右端のクロッテュファーガルだけだった。彼もまた若くして蚕の精の養育を一手に担っているのだから傑物と呼んで差し支えないのだが、実の父親となるといまいちぴんと来ない。
しばしの沈黙の後、クロッテュがバラールに目で尋ねる。最長老は頷いた。
「君達には今日の騒ぎに関していくつか答えてもらう。
明朝、ピォルモ含め世話係達が三階に行ったところ、パキリリェッタが小胞から抜け出していたのを発見した……」
立ち上がった父が朗々と説明する傍ら、フリョッハは何となく自分が当事者ではないような気がしていた。意識は既にこの取り調べが終わった後に向いていた。
明確な身分など存在しないこの小さな社会で、蚕の精は他の妖精達とは明確に区別されている。緑や黄色や赤や、その他派手な色が散りばめられた妖精達のは対照的に、彼らは白い肌に白い甲殻、(<変化>を遂げれば)白い翅と一四の黒い瞳を持っている。単に外見の特殊さだけでなく、その五〇日という短い寿命の内、その誕生は春の訪れを、その死は春の終わりと夏の訪れを象徴している。即ち彼らは春の化身であり、春そのものであり、彼らをもてなしより多くと結ばれるよう取り計らうことは花の恩恵に感謝し花に水を与えるのと同等の行いなのだ。蚕の精に対する神秘的な印象はそうした理由に端を発している。だからその時つまり、フリョッハには蚕の精なら何をしても許してもらえるんだろう、という気がしていた。思いがけない出来事はじきに終わっていつも通りの日々に戻れるのだろうという確信が、フリョッハにはあったのだ。
「……以上の経緯を、わたしはクロッテュロナンから聞いた。クロッテュロナンはフリョッハとパキリリェッタから聞いたと言っている。フリョッハ、間違いないか?」
「はい、まちがいありません。」
「パキリリェッタ、間違いないか?」
「あ、はい。」
「状況の説明は以上です。」
気のない返事のパキリリェッタを無視して、クロッテュが着席する。
「ありがとうございました、クロッテュファーガル。これで双方に事実の誤認がないことがはっきりしました。あなた方に問いたいのは、パキリリェッタを今後どう世話していくかということについてです。」
愕然としたのはピォルモだった。
「慈母・バラールブローメ、どうかもう一度だけパキリリェッタさんの世話係をさせて下さい。」
「あなたが熱心に仕事をしているのは私の知るところですよ。クロッテュファーガルも同じ気持ちの筈。」
宥めるバラールの声に嘘はないようだった。
「行動を改めるべきはピォルモでなくパキリリェッタ。あなたです。
クロッテュファーガルから事の子細を聞いた時は私も耳を疑いました。蚕の精とは元々活発な種族ではありませんからね。時にはあなたのような変わり種が生まれるのもそう悪いことではありません。それが<大樹>の思し召しであるのなら。」
「しかし心が活発でも身体が追いつかないでしょう。」
左隣の老人が口を挟む。
「そう、その通りです老・テッファトンクテ。私が憂慮しているのもまさにそこなのです。社交的な心に内気な体。どちらを気遣うべきかは明白でしょう……」
バラールの言わんとするところがフリョッハにも理解できた。最長老は既に処分の方法を決めているのだ。だが彼女はその言葉をパキリリェッタ自身から引き出そうとしている。
「……やだ。」
強く噛んだ下唇の奥から拒絶が漏れる。
「どうか分かってください。誰より繊細なあなた達蚕の精に外の世界は危険過ぎるのです。」
「最長老の仰る通りです。今日みたいなことが合ったら僕だけでは助けられません。」
「やだ、やだ。ピォルモなんかきらい!おねえちゃんがいい。」
丸椅子から立ち上がったパキリリェッタはフリョッハの足にすがりついた。光の精霊が発する青い光を反射して一層冷めざめとして見える。この部屋に彼女の味方は一人もいないのだ。
わたししか、いないんだ。
「慈母・バラールブローメ、失礼ですが問うべき質問を一つ忘れています。」
「それは何です。」
その響きは僅かに硬かったが、決して苛立ってはいなかった。
「パキリリェッタ。あなたはどうして外に行きたかったの?」
フリョッハは膝をついて彼女と目を合わせてからそう尋ねた。
「それは……」
思いがけない質問をされて当惑しつつも、小さな口からぽつぽつと返事が零れ落ちる。
「ねてたら急にまぶしくなったから、なにかな、と思ったらすぐそばに光の精霊がいて。私を外に連れ出してくれたの。たぶん……お日さまを見せたかったんだと思う。」
「太陽を見て、どう感じたの?」
「まぶしくて、大きくて、あったかくて……いいにおいがしたよ。でも……」
「でも?」
「教えてくれた光の精霊がいなくなっちゃったの。それでさがしてるうちに帰れなくなっちゃって……」
最長老達はしばし沈黙を保っていたが、その佇まいからは先ほどまでの強硬さは抜けていた。
「きっとその光の精霊は太陽に還ったのでしょう。精霊はいるべきでない場所にしか現れません。光の精霊は日の当たらない暗闇を好み、水の精霊は乾いた砂地を気に入るものです。」
バラールブローメが独り言のように呟いた。
「お許し下さい、パキリリェッタ。私達は誤解を犯していたようです。主に心情の面で。ですが、しかし……何しろあなたのような蚕の精は初めてでどう接すべきなのか……。
フリョッハ、あなたはどうすべきだとお考えですか?どうやらパキリリェッタの気持ちをよく理解しているのはあなたのようです。」
「えっ……」
ここに至って未だ当事者意識の薄いフリョッハにとって意表を突く問いかけだった。
「この子は、その……ほかの蚕の精とはちがうと思います。」
「その通りです。しかしそれは他の誰についても言えることです。」
「今本人が言ったように、この子はただ少し好奇心が強いだけです。部屋に閉じ込めるような真似をしなくても、きちんと言い聞かせて見ていてあげれば……」
「それが難しいのだよ、フリョッハ。ピォルモはこの子の他に三人の世話をしている。」
諭すような口調でクロッテュが口を挟む。思いつきでは説き伏せられない相手にフリョッハは更に思いつきを重ねる。
「なら、専属の世話係をつけるのはどうですか?そうすれば目を離した隙に見失うこともないはずです。」
「確かに、良い考えですね。しかし今年は蚕の精の出生率が例年より高くて世話係が足りないくらいなのですよ。それに、伝統的に途中で世話係が交代することは望ましくないとされています。」
「わたし、おねえちゃんがいい。」
「本人が望むなら、話は別ですけれど。」
パキリリェッタの出し抜けの言葉にバラールブローメがにっこり微笑む。
「著、ちょっと待ってください。わたし世話係をしたことなんて……」
代々世話係に携わる家系の生まれでありながら、彼女は植物の管理の仕事をしていた。仕事を任されるようになる三歳の誕生日の時、世話係になるのを拒絶したためだ。
「もっと他に向いてる人が……ほら、世話係は人気のある仕事だから募集すればだれかが」
「あなたはパキリリェッタにとって良き理解者になれると思いますよ。きっと他の人ではこうはいかないでしょう。それにもう、パキリリェッタはあなたに懐いてるようですし。」
哀れな蚕の精は離すまいとしてより一層フリョッハにしがみついた。褐色の脚から直接白いやわらかな両腕の感触が伝わってくる。撥ね退けることなど、彼女には出来なかった。
「話はまとまったようですね。評議は以上とします。フリョッハにはパキリリェッタの専属の世話係を命じます。ピォルモ、あなたはフリョッハの先輩として色々教えてあげなさい。」
「えっ……はい!」
「それでは解散とします。あなた方がより多くと結ばれますように。」
「あなたがより多くと結ばれますように。」
七人の長老達は会議室を出て行った。たった一つ用意された丸椅子には、誰も座っていなかった。
「えへへ、これからよろしくね!おねえちゃん!」
長々と続くかに思えた評議は、こうして思いいがけない結果をもたらして幕を閉じたのだった。