絆を喰う悪魔
夕暮れの中、血の海に沈む両親を、少年は呆然と見つめていた。
しかし、母親がピクリと動き、かすれた声で自分の名を呼んだことで、少年も母のことを呼びながら力なく倒れ伏す母親に駆け寄った。
息子が無事だったことに心底安堵した表情を浮かべた母に、少年は縋り付き、死なないでと必死に訴えた。
しかし、母親は安心した表情のまま、ゆっくりとその瞼を下ろした。
少年は、刻一刻と死に近付いていく母親を何とか引き留めようと、必死に声を張り上げた。
お母さん死なないで、誰かお母さんを助けて、そう半狂乱になって叫ぶ少年に、誰かが声をかけた。
「わたしなら、その人を助けてあげられるよ?」
驚いて声のした方を見た少年の目の前には、黒い少女がいた。
光を吸いこむような漆黒の長い髪、本能的な恐怖を呼び起こす暗くよどんだ瞳、浅黒く小柄な身体を、闇を切り取ったかのような黒いワンピースで包んでいた。
異様な雰囲気の少女に一瞬息を呑んだ少年は、しかし次の瞬間にはその少女の言葉に食いついていた。
本当に?本当にお母さんを助けてくれるの!?そう問う少年に、少女はこともなげに頷いた。
「うん。ただし対価として君の大事なものをもらうけどね」
いいよ、何だってあげる!だからお母さんを助けて!躊躇なくそう叫んだ少年に、少女はその口を三日月形に裂いて笑った。
「契約成立。対価は―――
君とその人の絆だよ」
* * * * * * *
目覚まし時計がけたたましく朝を告げる。
俺は窓際に置いてあるそれを素早く叩いて止めると、そのままカーテンを引き開けた。
窓から朝日が差し込み、俺の中から少しずつ眠気が追い出されていくような気がした。
あくびを噛み殺しつつ自室を出ると、キッチンに立つ母親に挨拶をする。
「おはよう、母さん」
「おはよう、彰人」
そのまま洗面所に向かい、顔を洗うと、リビングで母親と一緒に朝食を食べる。
朝のニュースを見ながら朝食を食べ終え、部屋で高校の制服に着替えると、鞄を持って玄関に向かう。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
俺はそのまま家を出て学校に向かう。
親子ではあれど、必要最低限の会話しかしない。いつも通りの朝の光景だった。
5年前、当時小学5年生だった俺の家に、包丁を持った男が侵入した。
詳しくは知らないが、仕事関係のトラブルで親父に恨みを持つ人間だったらしい。
その男に体のあちこちを何度も刺され、親父は死んだ。
休日でたまたま友達の家に遊びに行っていた俺は無事だった。
そして家にいた母さんも、犯人に見逃されて無事だった…ということになっている。
というのも、俺はそれが違うということを知っている。
母さんはあの時、父さんと一緒に刺されたのだろう。
そしてまだ息がある内に、家に帰ってきた俺に発見され、“あいつ”の力で一命を取り留めた。
なぜこんな曖昧な言い方をするのかというと、俺にはその記憶がないからだ。
俺には、その事件以前の母さんの記憶がない。
親父のことは覚えているのに、一緒にいたはずの母さんのことは一切覚えていないのだ。
そして、それは母さんもだった。
母さんは、あの事件以前の俺のことを覚えていない。
俺個人のことを覚えていないどころか、自分がおなかを痛めて子供を生んだことすら忘れてしまったのだ。
当時、事件の被害者家族として警察に取り調べを受けている時にそのことが発覚し、病院で緊急検査を受けた。
しかし、俺も母さんも脳には異常は見られず、結局事件のショックで一時的に記憶障害が起こっているのだろうということになった。
だが、5年が経っても俺たちが互いのことを思い出すことはなかった。
それも当然だろう。俺の中にあった母さんの記憶と、母さんの中にあった俺の記憶は、“あいつ”に喰われてしまったのだから。
その事件以来、俺たち親子はずっとぎこちない関係のまま暮らしている。
本来ならば、たとえ記憶がなくとも、もう5年も一緒に暮らしているのだ、もう少し親子としての関係を改善すべきなのかもしれない。
しかし、母さんには俺と近しく接することに対して迷いがあるようだ
事件直後、母さんはかなり精神的に不安定になっていたため、幼い俺に当たり散らすことがしばしばあり、どうやらそれが母さんの中で負い目になっているようなのだ。
そして、俺はそれとは全く別の理由で、母さんとの距離を詰めるつもりはない。
― 悪魔と契約した人間は不幸になる ―
そんな言葉をどこかで聞いたことがあるが、俺の場合は少し違う。
俺の場合、不幸になるのは俺自身ではなく俺の周囲の人間だ。
そして、不幸が訪れる前には、いつも死の匂いがした。
その匂いがする度に、俺はいつも目の前の誰かに向かって手を伸ばし、しかしいつも間に合わない。
不幸が降り注いだその誰かの近くに佇む俺の元に、必ず“あいつ”はやって来る。
そして、その口を三日月形に裂きながら言うのだ。
「わたしなら、その人を助けてあげられるよ?」と。
最初は俺の幼稚園からの幼馴染、その次はクラスで仲良くなった女の子、そのまた次は父親を亡くした俺に親身になってくれた担任の先生。
次々と不幸が降り注ぎ、そして皆俺を忘れた。
俺は相手に関する記憶を失うが“あいつ”と契約したことは覚えている。
だから、契約直後に目の前にいる人間が、失った相手だというだけは分かった。
そして、周囲の人間に聞けば、俺とその相手がどんな関係だったかも分かるということだ。
何度もそんなことが繰り返され、俺はやがて誰かと仲良くすることをやめた。
しかし、中学生になって、今までとは違う形で再び不幸が降り注いだ。
相手はどうやら、俺に絡んできた学園の不良グループらしい。
もっとも、俺が覚えているのは、機材が落下した廃工場で“あいつ”と契約したことだけだ。
まあ大方、誰とも仲良くせずに本ばかり読んでいた俺を、すかしたいけ好かないやつだと思って、廃工場で軽くシメてやろうとしたところに機材が落下して下敷きになったというところか。
この一件で、俺に近付く人間は、それが好意からか悪意からかに関係なく不幸になるということが判明した
それ以来、俺はなるべく空気になるようにした。
いてもいなくても変わらない存在。
誰にも関心を向けられない存在。
名もなき登場人物A。
そうしていた方が皆幸せだった。
* * * * * * *
「広瀬彰人!あなた悪魔に憑りつかれているわ!」
突然手紙で呼び出された校舎の裏庭で、俺は女生徒にそんな宣言をされた。
はあ?と言いながら、俺は、目の前で俺に向かってズビシッと音がしそうな勢いで指を突き付けている少女を見た。
女性にしては少し高めの身長、意志の強そうな少し吊り上がり気味の目、化粧っ気のない顔はそれでもかなり整っていて、肩ぐらいまである黒髪を一部だけ後ろで結っていた(ハーフアップというのか?)。
見たことも会ったこともない相手だったが、俺は彼女のことを知っていた。
なぜなら、今朝方下駄箱に入っていた手紙に名前が書いてあり、それがかなり有名な生徒の名前だったからだ。
普通、異性から手紙で人気のないところに呼び出されれば、恋愛漫画でありがちな告白イベントを期待するかもしれないが、差出人の名前を見た時点で俺はそんな予想は全くしていなかったし、実際そんな色気のあるイベントではなかった。
成宮薫子。
それが彼女の名前だ。
この学校は中高一貫校で、彼女のような内部進学組と、俺のような編入組は教室がある校舎が違うので、同じ1年生でありながらこれまで接点はなかった。
しかし、彼女の噂は、教室で空気と化している俺の耳にも届いていた。
曰く、学園でもトップクラスの美少女でありながら、稀代の変人だと。
彼女以外ほとんど幽霊部員のオカルト研究部の部員であり、ガチのオカルトマニア。
過去に同級生に悪霊が憑りついているとか、先生に何か悪い予兆が見えるとか言い出して、軽い騒ぎになったとか。
しかし本人は至って大真面目で、今では学園全体が彼女を悪い意味でヤバい奴だと見なしていた。
普通、これだけの美少女がそんなことをしていれば、周囲の気を引きたくてしょうがないイタイ女だと思われて他の女子にいじめられそうだが、彼女の場合、そんなレベルを超越して却って誰も関わり合いになろうとしないようだ。
そんな彼女に呼び出され、何事かと思って来た途端、先程の発言が飛び出したわけだ。
しかし、口でははあ?と言いながら、内心で俺は驚愕していた。
こいつ、ただのオカルトマニアじゃなかったのか?と思っていると、成宮は俺の様子を気にすることもなく、こちらのことを見透かすような目で見ながらこう言った。
「だから、あなたは悪魔に憑りつかれてるって言ってるのよ。そして、あなた自身もそのことを自覚してるんじゃない?」
「……」
「黙るってことは肯定ってことでいいわよね?」
どう返すべきか迷っているうちにそう見抜かれてしまい、俺は観念してため息を吐きながら返した。
「…だったら何だよ?悪魔祓いでもしてくれるってのか?」
「そうね。できればそうしたいと思っているわ」
「……」
予想外の言葉にまた言葉に詰まってしまったが、何となくそんな簡単に言う成宮にカチンときて、俺はまたため息を吐きながら踵を返した。
「お前が何でそんなことをしようとしているかは知らないけどな…」
そのまま、肩越しに突き放すように言葉を放る。
「興味本位とかそんな軽い気持ちで関わろうとしてんならやめとけ。俺の事情はそんな生半可なもんじゃねーんだよ」
そのまま振り返らずに家路に着いた。
しかしその翌日、俺が登校すると、教室の前に成宮がいた。
「おい…」
間違いなく俺待ちだろう。そう思って声をかけると、成宮はこちらを向いた。
「おはよう、広瀬君」
「…おう」
「その…昨日はごめんなさい」
律儀に挨拶した後で、成宮は俺に向かって頭を下げた。
別校舎の成宮がいることにチラチラこちらを気にしていた教室にいるクラスメートや廊下の生徒が、何事かとざわつき出した。
「あなたの事情を詳しく知らないまま、軽々しいことを言ってしまったと反省したわ。でも、私は本気であなたのことを何とかしてあげたいと思っているの。だから…もう一度きちんと話をさせてもらえないかしら?」
予想外の誠実な態度に俺が何も言えないでいると、成宮は「放課後にオカルト研究部の部室で待ってる。気が向いたら来て欲しい」と言うと、そのまま自分の教室に帰って行った。
― その日の放課後
俺はオカルト研究部の部室前に来ていた。
自分でもなぜ来たのかはよく分からない。
ただの気まぐれかもしれないし、他人との会話に飢えてたのかもしれない。あるいは…“あいつ”のことを話しても信じてくれるであろう人間と初めて会って、話してみたいと思ったのかもしれない。
部室のドアをノックすると、中から成宮の声で返事がしたのでそのままドアを引き開けた。
夕日が差し込む部室には、成宮以外誰もいなかった。
「いらっしゃい。来てくれたのね」
「…まあ、な」
オカルト研究部というからには、見るからに怪しげな謎の物体がずらりと並んでいるのかと思ったが、意外にもそんなことはなく、中央に長机とその周囲に椅子が何脚か置いてある以外はほとんど何も置いてない殺風景なものだった。
成宮に着席を促され、成宮の正面の席に座ると、俺は成宮に聞かれるまま、これまでのいきさつを話し始めた。
「まあ、こんなもんだ。何か分かったか?」
「うーん…」
一通り話し終え、成宮に尋ねると、成宮は腕を組んで上を向きながらしばらく考え込んだ。
その姿には、やはり俺の話を疑ったり笑い飛ばしたりといった様子はなく、ただ真剣に話を吟味しているのが伺えた。
「とりあえず聞いた限りでは、その悪魔にあなたに対する悪意はなさそうね」
「悪魔に悪意も何もあるのか?」
「もちろん。悪意を持って近付いている悪魔なら、もっとえげつないものを対価として要求するだろうし、あなたに危害を及ぼそうとした人間を害したりしないはずだもの」
「…やっぱり俺の身の周りで起こる不幸って“あいつ”が原因なのか?だとしたら自作自演じゃねえか」
「その可能性は高いと思うわよ?私の知る限り、霊的存在が関与していない純粋な不幸体質の人間なんて存在しないもの。あなたが感じる死の匂いとやらは、悪魔の力か何かを感知しているんじゃないかしら?」
「…ふーん。で、悪意がないんだったら、何で“あいつ”は俺の周りに不幸を撒き散らすんだ?」
「それは…」
成宮は少し言いにくそうに言葉を濁した後で、どこか憐れむような表情で俺を見た。
「その悪魔…あなたのことが好きなんじゃない?」
「…………は?」
あまりにも予想外な言葉に絶句した俺に、しかし成宮は大真面目に自分の推測を語った。
「私があなたの話を聞いて感じたのは、あなたに対する異様な執着心と独占欲よ。だってそうじゃない?あなたと周囲の人間の絆を奪って、その悪魔に何の得があるの?苦しませたいだけならもっと他に方法があるし、あなたをいじめようとした人間に害を及ぼす必要はないもの。むしろ、自分だけがあなたの特別でありたい、あなたの頭の中で自分が一番大きな面積を埋めたい。そんな歪んだ想いを感じるわ」
呆然と俺は言われた言葉を考える。たしかに、俺はことあるごとに“あいつ”のことを意識しているし、いろんな意味で“あいつ”は俺にとって特別な存在だ。だが、だからといって俺が“あいつ”のことを好きになるわけがないし、俺自身“あいつ”に好かれる理由が分からない。というか…
「…ならお前も危ないんじゃないか?」
「私はたぶん大丈夫。ちゃんと魔除けも付けてるし」
そう言って持ち上げた右手首には、何やら文字が書かれた小さい木片を連ねたようなものが巻き付けられていた。
「…効くのか?それ?」
「少なくとも今までの悪霊とかには効いたわね。悪魔に狙われたことはないからよく分からないけど」
「悪霊と悪魔は何が違うんだ?」
「悪霊は死霊であれ生霊であれ人間が原因となって生まれたものだけど、悪魔は元々人間とは無関係に存在しているわね。まあ、私がそう区別しているだけだけど」
「効くかどうか分からないって…大丈夫なのかよ」
「さあ?でも安心して。私に何かあってもあなたのせいだなんて思わないから」
肩を竦めながらこともなげにそんなことを言う成宮に、俺は思わず尋ねた。
「何で…俺のためにそこまでしてくれるんだ?」
そう言うと、成宮は一瞬目を見開いた後、泣き笑いみたいな表情で言った。
「別に…ただ、放っておけないじゃない」
* * * * * * *
それから、俺は成宮と毎日オカルト研究部の部室で話し合うようになった。
「やっぱり、あなたに対する悪魔の執着心をなくすのが一番手っ取り早そうね」
「そんなこと言われても、具体的にどうすればいいんだよ?」
「うーん何とかして嫌われてみるとか?」
「お前なんて嫌いだ、死ね!とでも叫べばいいのか?」
「やってみたら?」
「…考えてみたら、俺“あいつ”の名前知らないわ」
「とりあえず悪魔でいいんじゃない?」
「…ここでやるのか?」
「この辺り、今の時間は人来ないから大丈夫よ」
「お前がいるじゃん」
「別に笑ったりしないわよ」
「でも…はあ、分かったよ。おい!悪魔!俺はお前なんか嫌いだ!顔も見たくない!死ね!」
ピロン♪
「おい!てめえ何撮ってんだ!?」
「え?SNSにアップしようかと」
「てめえが悪魔か!」
「はいこれ」
「これ…魔除けか?」
「うん。私のお手製」
「おい…この木片何で繋がれてるんだ?まさかこれお前の髪の毛か?」
「ペ、ペアルックだね?」
「可愛くねえよ。つーか髪の毛って…何かなあ…」
「私みたいな美少女の髪の毛なんて男子高校生にとったら垂涎の的でしょ?」
「自分で言うな。というか日本全国の男子高校生に謝れ」
「まあそれはそれとして…ほれ」
「…何だよその手は」
「3千円になります」
「金取んのかよ!」
「むしろ何で無料だと思ったし」
「…お前俺に会った時、助けになりたいみたいなこと言ってなかったっけ?」
「無償だなんて誰も言ってないし」
「…え?マジで金取んの?」
「うん。あっ、今なら5千円でもう1つ付いてくるけど」
「テレビショッピングか!」
「それでどう?両腕に付ければ少しは効果が高まるんじゃない?」
「……」
「女の命である髪の毛を切ってまでこれを用意した私の気持ちを無にするんだ?」
「あぁーーーーっ!!もう!分かったよ!払えばいいんだろ払えば!」
「毎度あり~。まあ抜け毛を集めて作ったから髪は切ってないんだけどね」
「金返せ!」
いつしか、俺たちは“あいつ”のこととは無関係に一緒に過ごすようになった。
成宮と一緒にいても、死の匂いがすることも“あいつ”が現れることもなかったのも大きいが、何より、成宮と過ごす時間が俺にとっては本当に楽しかった。
最初は、結構律儀で真面目な人間だと思っていたが、慣れてくると普通に冗談も言うし、人をからかうのが好きないたずらっ子な面もあるんだと分かった。
「なあ…」
「ん~?」
「最近“あいつ”関連でなんもやってなくないか?」
「あ~そうは言っても、悪魔本人がいないんじゃあ予防策くらいしか取れないしねぇ~」
「まあそれはそうかもしれんが」
「まあいいじゃん。最近は出て来ないんでしょ?出て来ないものを過剰に気にして時間を奪われるなんてバカバカしいじゃん?」
「なんか深いことを言われた気がする。激しくそれをお前が言うのか?って感じだが」
そうするうちに、成宮は自分のことも話してくれるようになった。
「私、今一人暮らしなんだよね」
「は?家族は?」
「いないよ。私って昔から霊感みたいなのが強くて、色々見えちゃう子だったんだけど、両親はそんなことないのよ。むしろかなり現実主義のお堅い人たちだったから、私みたいなのとは合わなかったのよね。小さい頃にまあ…色々あって、母方のおばあちゃんの家に預けられたんだ。それ以来もうほとんど会ってないかな。おばあちゃんが亡くなった時にお葬式で会ったけど、なんかもう親だと思えなくって。おばあちゃんが私に家を遺してくれてたから、今はそこで一人暮らししてるんだ」
「この力を持って生まれたことでよかったことなんてないかな。小さい頃から同級生には気味悪がられるし、大人にもおかしな子扱いされるし」
「言わなければいいんじゃないか?」
「そりゃその方がいいに決まってるけどさぁ…。本人に伝えずに、避けられたかもしれない不幸を見過ごすことになるのは後味悪いじゃん?」
「お人好しめ」
「自分でも損な性格だって分かってるんだけどね。……ねえ」
「あ?」
「私たちって…友達だよね」
「あぁ~…まあ、そうなんじゃね?」
「そっか、うん。…よし、彰人!君には特別に私の名前を呼ぶという権利をあげよう!」
「はあ?てか俺の名前…」
「さあ呼ぶがいい!薫子と!」
「…はあ、分かったよ…薫子」
「う、ん」
「……」
「……」
「…何とか言えよ」
「…ごめん。普通に照れてた」
「ハズイこと言うなよ!」
「あはは…いや~名前呼ばれるのなんておばあちゃんが亡くなって以来だからさぁ……あっ、男子に呼ばれるのって何気に初めてかも」
「…あっそ」
「私の初めて…彰人にあげちゃったね?」
「とりあえず黙れ」
「………訂正。1つだけいいことがあったよ。」
「ん?なんか言ったか?」
「なぁ~んで~もなぁ~い」
…楽しかった。
「なあ、薫子」
「ん~?」
「俺たち付き合わないか?」
「ほあ?」
「いや、だから、ああもう!好きだ!俺と付き合ってくれ!」
「う…あ…その……はい。よろしくお願いします…」
「マジで!?よっしゃあ!」
「お、おお、こんなテンション高い彰人見るの初めてかも」
…本当に、楽しかったんだ。
「おっそ~い」
「いや、ちゃんと5分前に着いただろうが」
「初デートは期待と緊張で眠れないまま、寝不足で1時間前に来ちゃうのがお約束でしょ?」
「そう言うお前は全然眠そうじゃないが?」
「うん。普通に二度寝してきたし」
「おい!?」
「嘘、ごめんホントは五度寝」
「そこまでいくと逆にすごいな」
「存分に惰眠を貪ってから約束の10分前に着きました」
「俺と5分しか変わらないじゃねえか」
「初デートに彼女を待たせといて詫びの一言もなし?」
「…悪かったよ」
「いや、ここは女子力全開で『ごめ~ん、待ったぁ~~?』ってやってくれないと許さない」
「誰がやるか!!」
「じゃあ帰るわ」
「おおい!本当に帰ろうとするなよ!分かったよ、やればいいんだろ!」
「じゃあそこの曲がり角からね」
「…ちっ、言っとくが撮るんじゃねえぞ?」
「撮らんし笑わんよ」
「……ごめ~ん、待ったぁ~~?」
「…うわぁ」
「ドン引いてんじゃねえ!」
「すいません。人違いです」
「他人の振りすんな!」
「信じられるか?これ、私の彼氏なんだぜ…?」
「てめえがやれっつったんだろうが!」
「まあもういいや。じゃあ行こうか?」
「俺はもう帰りたい気持ちでいっぱいなんだが?」
「じゃあ帰る?」
「帰らねえよ!おら行くぞ!」
…楽しくて、楽し過ぎて、俺は忘れてしまっていたんだ。
俺が ―――――― 悪魔に憑りつかれているってことを。
夕焼けの中、俺たち2人は歩いていた。
「あのシーンはよかったよね。私もちょっと涙ぐんじゃったよ」
「たしかに俳優の演技がよかったよな。原作組としては少し不安だったんだけど、イメージが崩れないでよかったぜ」
「ああ、原作小説持ってるんだっけ?」
「おう、家にあるぜ」
「今度貸してよ」
「じゃあ明日持って行くわ」
「やった!……あっ」
「どうした?…あっ」
見ると、薫子の魔除けが切れて、木片がバラバラに散らばってしまっていた。
「あちゃあ、バッグの金具にひっかけちゃった」
「大丈夫か?俺のやつ片方付けとくか?」
「いや、それは彰人用のやつだし。大丈夫、予備を持ち歩いて…学生鞄の中だった」
「おいおい大丈夫かよ?」
「う~ん、まあ念のためうちまで送ってくれる?」
「それはそのつもりだけどよ」
「送り狼にならないでね?」
「なるか!」
「そう?ちょっと残念」
「なっ……」
思わず動揺してしまった俺に、薫子はくすくすと楽しそうな笑い声を零した。
「……ちっ」
このまま薫子に遊ばれっぱなしなのも癪なので、俺は薫子に無言で右手を差し出した。
「…何?」
「手を繋いどけば少しは魔除けの効果が移るかも知れないだろ」
「あ…うん」
少し恥ずかしそうな薫子の様子に、俺は反撃してやったぜ!と内心ガッツポーズをとっていたが、次の瞬間、重ねられた薫子の手の柔らかい感触にそんな感情は吹き飛んでしまった。
「…帰るか」
「…うん」
何となく、それからはお互い無言のまま薫子の家に向かった。
「今日はありがとね。楽しかった」
「おう、また明日な」
辿り着いた薫子の家は、平屋の日本家屋だった。
その門のところで、薫子と別れる。
薫子が玄関に入ったところを見届け、俺は踵を返すと、自分の家に向かった。
そして、薫子の家の、塀の角を曲がったところで ――― 死の匂いがした。
久しぶりに感じたその匂いに、俺は一瞬思考停止し、次の瞬間薫子の家の方をバッと振り返った。
そして、振り返った俺の視界に…薫子の家の割れた窓ガラスが映った。
嘘だろ?おい、嘘だろ!?
そう小さく呟きながら、全力で今来た道を戻る。
玄関までの距離がひどく長く感じる。
足をもつれさせながら、転がるように玄関まで辿り着き、勢いのままに扉を引き開けた
…分かっていた。もうずっと前から知っていた。
俺はいつも間に合わない。俺の手はいつも…届かない。
玄関に飛び込んだ俺の目の前で、薫子が…覆面を被った男に刺された。
絶叫を上げながら駆け寄って来た俺を見て、おそらく空き巣であろうその男は慌てて割れた窓の方に逃げて行った。
しかし、俺はそちらを気にすることもなく、ふらりとよろめいた薫子に駆け寄ると、その体を抱き止めた。
「薫子っ!!」
薫子は、俺の呼びかけに答えることもなく、呆然と自分の胸に突き立った包丁を眺めていた。
しかし、不意にその視線が俺とは逆の方に流れた。
そして、そこには…“あいつ”がいた。
あの日と同じように、不吉な色の夕暮れを背負いながら、口を三日月形に裂いて笑っていた。
「てめえ……っ!!」
抑えきれない憤怒に塗れた俺の声にも怯まず、むしろその笑みを深めながら“あいつ”は言った。
「わたしなら、その人を助けてあげられるよ?」
ふざけるな!そう叫びたかった。だが、薫子を救えるのはこいつしかいない。
ギリギリと歯を食いしばりながら、絞り出すように契約をしようとしたところで、
「…やめて…」
薫子の声が聞こえ、そっとその手が俺の右手首の魔除けに触れるのが分かった。
その途端、魔除けの文字がうっすらと光り、“あいつ”は一瞬驚いたような表情を浮かべて、すうっと消え去った。
「薫子っ!!」
色々言いたいことがあった。大丈夫なのか。なんで“あいつ”を追い払ったんだ。“あいつ”と契約しないとお前は死ぬんだぞ。
しかし、薫子は全て分かっているという表情を浮かべると、力ない声でゆっくりと言葉を紡いだ。
「ごめん…油断した」
「謝るなよ!俺が…」
「いいの」
「えっ…」
「もういいの。私、この頃ずっと幸せだった。たぶん、人生で一番。彰人に会えて…本当に楽しかった。だからもう…いいの」
「いいわけあるか!忘れたって構わない。俺は何度だってお前を好きになる!だから…っ」
「だめだよ…。私…忘れたくない。だって忘れちゃったら…私の中の“彰人”は死んじゃうもの。だから…お願い」
ハッとした俺に、薫子は死にかけていることを忘れるほど強い視線を向けると、静かに言った。
― 私の中のあなたを殺さないで ―
― あなたの中の私を…殺さないで ―
そう言うと、薫子は最後の力を振り絞るようにして上体を持ち上げて、そっと……俺にキスをした。
ファーストキスは、死の味がした。
― ごめんね。ありがとう ―
そんな言葉を最後に、薫子は力尽きた。
俺はただ、腕の中で眠る薫子を抱き締め続けていた。
どのくらい時間が経ったのか、やがて俺の両手首の魔除けが光を失い、同時に役目を終えたかのようにばらけると、床に散らばった。
それと同時に、どこか呆然とした声が俺にかけられた。
「どうして…」
ゆっくりとそちらを見ると、声と同じでどこか呆然とした表情の“あいつ”がいた。
「どうして?君の中にはわたしだけがいればいいのに。君に一番近いのはわたしなのに!君のすべては、特別は!!わたしだけなのに!!どうして!?どう「黙れ」
静かに、一切の温度を宿さない声でそう言えば、“あいつ”はビクッと震えて黙り込んだ。
さっきから今まで見たことのない姿ばかり見るが、それを気にすることもなく、淡々と俺は告げた。
「俺の一番は薫子だ。俺の特別は薫子だけだ。俺はもうお前とは契約しない。俺の周りの誰を不幸にしようと無駄だ。薫子だけは絶対に奪わせない。だから…」
「失せろ」
その瞬間、“あいつ”は大きく目を見開くと、声にならない絶叫を上げながら激しく身悶えし、そのまま体にノイズのようなものを走らせると、全身が引きちぎれるようにして消滅した。
静寂が戻った家の中で、俺は静かに冷たくなっていく薫子の体を抱き締めていた。
* * * * * * *
時が流れ、俺は大学生になった。
あれから、俺の周りで不幸が起きることも、“あいつ”が現れることもなくなっていた。
でも、今の俺にとってはどうでもいいことだった。
あれ以来、俺は以前にも増して味気ない日々をただ漫然と生きていた。
そんなある日、俺は授業で4人グループを作ることになった。
一緒になった3人は皆いい奴で、常に他人と一線引いて接する俺にも気にせず仲良くしてくれた。
特に、1人だけいた女子の丹波美野里とは本の趣味が合って、よく本の感想を言い合うようになった。
お互いの授業が終わったら学内のカフェで落ち合い、日が暮れるまで本について語り合う。
そのやりとりは、形は違えども、毎日放課後にオカルト研究部の部室で雑談に興じていた薫子とのやりとりと似ていた。
グループ発表が終わっても、その3人とは仲が良いままで、俺は薫子以来の友人を手に入れた。
やがて、3人と出会ってから1年が経った頃、俺はいつものカフェで美野里から告白された。
しかし、俺はそれに頷くことが出来なかった。
美野里のことは好きだったが、脳裏に薫子と“あいつ”のことがよぎったのだ。
結局断ってしまった俺に、美野里は少し悲しそうにしながら、ずっと待ってると言ってくれた。
美野里もきっと分かっていたのだろう。俺が過去にあった何かを引きずっているということを。
結局、俺が一歩を踏み出せたのは大学卒業間近のこと、薫子の死から6年が経とうという時だった。
それまで、美野里はずっと友人として俺の傍にいてくれた。
大学4年で一緒の研究室に入り、研究や就活、卒業論文と、たくさんの苦楽を共にした。
そして、卒論発表が終わり、同回生と打ち上げをした後の帰り道で、俺は美野里に告白した。
美野里は少しだけ驚いた表情を浮かべた後に、本当に嬉しそうに笑った。
そして、社会人5年目の今日、俺は、薫子の墓参りに行き、その墓前にずっと大事に保管していた魔除けの残骸を供えると、その足で美野里の元へ向かい、美野里にプロポーズした。
友人関係も恋人関係も美野里からだったが、最後くらいは俺から行くべきだと思ったのだ。
美野里は俺がなけなしの給料を貯めて買った婚約指輪をはめて、少し涙ぐみながら嬉しそうに笑った。
その翌日、俺は大学時代の友人2人にも美野里と婚約したことを伝え、久しぶりに4人で集まって居酒屋で飲んでいた。
「いや~2人とも長く続いてんなあと思ってたけど、とうとう結婚かよ~」
「偏に丹波さんの努力あってのことだね。僕はいつ彰人がフラれるかとハラハラしていたよ」
「嘘吐け。ワクワクしていたの間違いだろ?」
「ははっ!まあそうなっていたら超面白かったね」
「お前相変わらず性格歪んでんなあ」
「これでも会社では優良社員で通ってるんだよ?僕がこんな感じなのはこのメンバーだけさ。つまり愛故ということだね」
「いらね~その愛」
4人で大いに盛り上がり、思い出話に花を咲かせ、2人に美野里とのことをからかわれ、あっという間に時間が過ぎた。
「じゃあ彰人、ごっそさん」
「ゴチになりま~す」
結局今日の飲み会は俺持ちになった。
美野里は半分出すと言ってくれたが、ここは俺が出すべきだろう。
美野里に気にしないよう伝え、先に外に出るよう促すと、俺は財布を取り出した。
4人分の会計を終え、店の出口に向かって1歩を踏み出した瞬間。
死の匂いがした。
一瞬にしてかつてのことがフラッシュバックし、俺は慌てて外に飛び出した。
そこには、美野里たち3人に向かって突っ込んでくるトラックと、それを地面に根が生えたかのように呆然と眺める3人の姿があった。
それを確認するや否や、俺は全力で走った。
今までは届かなかった。
でも今度は、今度こそは。
そう念じ、立ち尽くす美野里の背中に手を伸ばす。
― 届け!
― 届け届け届け届け届けぇーーーっっっ!!!
人々の悲鳴が聞こえる。
視界の端で、逃げ遅れた友人2人がぐったりと倒れているのが見えたが、そちらを気にする余裕もなく、俺は、腕の中で俺の胸に顔をうずめている美野里に声をかけた。
「美野里!大丈夫か!?」
届いた。今度こそ間に合った。そう思いながら焦燥に満ちた声をかけると、美野里はゆっくりと顔を上げた。
その顔には、車に撥ねられそうになったことに対する恐怖も、助かったことに対する安堵も浮かんでいなかった。
美野里はただ嬉しそうに、心底嬉しそうに、その口を ―― 三日月形に裂いた。