雨音を贈る
降り止まない雨音を聞いていたら、ふと、この壮大で単調なオーケストラをイコにも聞かせたくなって、私は電話をかけることにした。
雨の降らないキットンケットに、雨の音。
きっと素敵な贈り物になるだろう。
それとも 「意地悪だね」 とむくれるかしら。
三度目の呼び出し音で、イコは電話に出た。
「はい」
「イコ? 元気にしてた?」
瞬き五回の沈黙。
「……ああ。誰なのかちょっと考えたよ。うん、元気」
明るい声にホッとしたけれど、水分が十分にとれていないせいか、久しぶりに聞くイコの声はずいぶんとかすれていた。あの澄んだ歌声は、もう聞けそうにない。
「珍しいね。電話嫌いのあんたが電話をしてくるなんて」
「そうかな」
「そうだよ」
電話嫌いと言われて、そう言えばそうだったわねと苦笑する。電話嫌いを忘れてしまうほど、誰にも電話をしていなかった。
「何かあったの?」
「あ、うん」
私は受話器を耳から離して、窓へと向ける。
「――聞こえる?」
「聞こえてるよ。相変わらず綺麗な声でゾクゾクする」
「私の声じゃなくて、もっとべつの音」
「音?」
「そう」
受話器の向こうが沈黙する。耳を澄ませて音を聞こうとしているのだろう。
私は受話器をさらに窓へと近づけて、雨の音を取り入れてやる。
「……なんか、サーサーいってる」
「うん」
「なんだろ。西風の音?」
「はずれ」
「あっ、砂人魚の泳ぐ音?」
「そう言えば、ちょっと似てるかも。でも、はずれ」
「ヒントはないの?」
「ヒントは… そうだなあ。イコは初めて聞く音だよ」
「初めて聞くって。それ、わかりようがないじゃん」
「でも、絶対にわかる。キットンケットにはない音だけど、キットンケットの誰もが聞きたがる音だもの。これもヒントよ」
それも、 ほとんど答えのような。
イコは音を聞き分けようと息をひそめ、耳をすませている。
私は受話器を窓へ向けたまま雨空を見上げ、キットンケットの乾いた青空を思い出す。
静かな時間。
「――ああ」
ずいぶんと長い沈黙のあと、イコは、深い、吐息のような声をもらした。
「わかった?」
「うん。……意地悪だね」
「そうかな」
「そうだよ」
「電話、切ろうか?」
「……もう少しだけ、聞かせて」
「うん」
私は赤錆びた窓を少しだけ開いて、受話器を外へと出した。
強い雨が、たちまち私の左手を濡らしていく。
「どう? 良く聞こえるでしょう」
返事はない。それが返事。
息をひそめて受話器を耳に押しつけているイコの姿を想像したら、思いのほかチャーミングで笑ってしまう。
言ったら、きっと怒るだろうけど。
雨は、日付が変わる頃になってふいに止んだ。
「……じゃあ、切るね」
私は雨音の余韻に浸っているイコの邪魔をしないように、それだけを言う。
「――また」
「ん?」
「また、聞かせてくれる?」
かすれ声の囁きが、私の耳をくすぐる。
「いいよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「絶対?」
「絶対」
「約束だよ?」
「うん。約束する」
そんな他愛のないやりとりを繰り返したあとで、
「じゃあ、おやすみ」
先に電話を切ったのはイコだった。
「おやすみなさい」
届かない言葉を返して、私も受話器を置く。
気まぐれでかけた電話なのに、ずいぶんと長電話になってしまった。
と言っても、話なんてほとんどしなかったけれど。
「あーあ。手がひどいわ」
私は窓を閉めて、雨にぬれた左手を振りながら化粧台の前に腰をおろす。
引き出しを開けて取り出したのは、小さな瓶。中身は半透明のクリーム。
今ごろイコは、ベッドの中で眠りについているだろう。
キットンケットでは聞くことのない雨音を、夢でうっとり聞きながら。
愛らしいイコの寝顔を思い浮かべて、私は半透明のクリームを左手に塗り込んでいく。
「……帰りたいな」
そんなバカみたいなことをつぶやいて、溶けた皮膚へと擦り込んでいく。
了