第三話 至福のひととき
2017.4/1 更新分 3/7
翌日の昼休み。
真琴が美術準備室で息をひそめて待ちかまえていると、やがて窓の外に羽柴レオナが姿を現した。
周りをきょろきょろと見回しながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきている。真琴を捜しているのではなく、また覗き見をされているのではないかと警戒しているのだろう。
それを驚かせてしまわないように、真琴は十分に距離が空いている内に窓を大きく開いてみせた。
が、そんな気づかいもむなしく、羽柴レオナは「わー!」とわめき声をあげる。
「やっぱりいた! まさかとは思ったけど、あんた毎日そんなとこで弁当を食べてんの?」
「あ、はい、ごめんなさい。……羽柴さんも、これから昼食ですか?」
「昼休みに入ったばっかなんだから、当たり前だろ!」
不平の声をあげながら、羽柴レオナはずかずかと近づいてくる。真琴のほうが屋内にいる分、少しだけ彼女を見下ろす形になっていた。
「あんた、美術部を退部したんだろ? なのに、どーしてそんな場所に居座ってんのさ!」
「え、えーと、教室にいるのは落ち着かないので……それに、絵の具の匂いが好きなんです」
「……あんたはその隣の美術室で馬鹿教師に襲われかけたんだろ? トラウマとか、そーゆーのは大丈夫なの?」
羽柴レオナの切れ長の目が、ちょっと気がかりそうな光を浮かべる。
それをひそかに嬉しく思いながら、真琴は「はい」とうなずいてみせた。
「美術部は退部する羽目になっちゃいましたけど、わたしは何も悪いことをしたつもりもありませんし……だったら、これぐらいは好きにさせてもらおうかなって思って……」
「ふーん。意外と神経が太いんだな。ま、そーじゃなきゃ、あたしにあんな馬鹿げた頼みごとはしねーんだろうけど」
スポーツバッグを抱えなおしながら、羽柴レオナは肩をすくめる。
「だけどさ、あたしもこのあたりで弁当を食うのが日課だったんだよ。……まさか、ずっと前からあたしのことを覗き見してたんじゃねーだろうな?」
「は、はい。気づいたのは昨日が初めてです。それまでは、窓の外を見ようなんて思いもしませんでしたし……」
「へー。そんじゃあ壁一枚へだてて、毎日おんなじ場所で弁当を食ってたんだな。なんか、気持ちわりー」
「あはは」と真琴は思わず笑ってしまった。
羽柴レオナは、うろんげに眉をひそめている。
「気持ちわりーとか言われて、なんで笑ってんの? あんた、ドM?」
「い、いえ。羽柴さんには避けられているのかと思っていたから、普通に喋ってくれるのが嬉しくって……今日は朝から無視されちゃいましたし……」
そう、今日も彼女は二時限目の途中ぐらいから出席していたのだが、休み時間に真琴が近づこうとしても、すぐに席を立ったりして回避し続けていたのである。
羽柴レオナは片方の手を腰にあてて、「ふん!」と鼻息をふいた。
「学校の馬鹿どもに目をつけられたらヤバいって言っただろ? あのクラスにだって、あたしを目の敵にしてる馬鹿どものツレがいるんだからさ。そんな連中に目をつけられたら、卒業するまでビクビクしながら生きていくことになるんだよ」
「そうなんですね。……でも、どっちみち教室とかは落ち着かないので、こういうときに羽柴さんとおしゃべりできたら、わたしは嬉しいです」
「別にあたしは、あんたとおしゃべりしに来たわけじゃねーんだけど」
羽柴レオナは、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
「あたしはただ、いつも通りに弁当を食いに来ただけだよ。ここは元から、あたしのナワバリなんだからな」
「それじゃあ、あの……こっちで一緒に食べませんか? ここなら、誰にも見つからないと思いますし……」
ドキドキと高鳴る胸もとをおさえながら、真琴はそのように述べてみせた。
そっぽを向いていた羽柴レオナは、横目でちらりとこちらを見てくる。
「……本当に誰にも見つからねーのか?」
「はい! もう半年もここで昼食をとっていますけど、誰とも出くわしたことはありません!」
「こんなとこに半年も引きこもってたのかよ。陰気なやつだなー」
そのように言いながら、羽柴レオナは窓から室内の様子を覗き込んできた。
「……ほんとだ。絵の具くせーや」
「で、でも、慣れればそんなに気にならないと思います!」
羽柴レオナはしばらく口をへの字にして考え込んでから、やがて窓の棧に手をかけてきた。
もう片方の手は、スポーツバッグにかけられたままである。そうして彼女は地面を蹴ると、一メートルぐらいの高さを軽々と乗り越えて、美術準備室に侵入を果たした。
「は、羽柴さん。あの、土足……」
「んーだよ。めんどくせーな。靴下が汚れんだろー」
文句の声をあげながらも、羽柴レオナはデッキシューズを脱ぎ捨ててくれた。
その間に、真琴はカーテンと窓を閉ざす。
「ふーん。ここがあんたの、ささやかな隠れ家ってわけか」
羽柴レオナは、物珍しげに室内を見回していた。
画集の詰め込まれた本棚に、絵の具や教材の詰め込まれた収納棚。さらにはデッサン用の石膏像やたくさんのキャンバスなどが置かれた、雑然たる様相である。
「あの、どうぞ」と真琴は彼女のためにパイプ椅子を広げてみせた。
羽柴レオナは、仏頂面でぼりぼりと頭をかく。
「そんなウキウキした顔されると、リアクションに困るんだけど」
「べ、別にウキウキは……し、しちゃってるかもしれませんね。羽柴さんとは、もっとお話をしてみたかったので……」
「だからあたしは、弁当を食いに来ただけだっての」
羽柴レオナはどすんとパイプ椅子に腰を下ろすと、スポーツバッグから弁当箱を取り出した。
なんというか、古式ゆかしい弁当箱である。二段に分かれていたりもせず、平たい四角の形をしていて、和風の手ぬぐいで包まれている。
「あんたも食べたら? これからなんでしょ?」
「あ、はい」と応じながら、真琴もパイプ椅子に腰を下ろした。
こちらは行きがけにコンビニで買ってきた菓子パンだ。羽柴レオナは包みをほどきながら「へー」と気のない声をあげた。
「そんだけしか食べないの? いくらちっこいからって、少なすぎない?」
「そ、そうですか? もともとあんまり食べるほうではないので……」
「あっそ。ま、好きにすればいいけど」
彼女のほうは、実に立派なランチであった。やや大きめの弁当箱に、白米もおかずもぎっしり詰め込まれている。主菜は鶏の唐揚げで、青菜のおひたしや煮豆やひじきやブロッコリーなど、なかなか栄養のバランスも整えられている様子である。
「ったく、給食ぐらい準備してほしいよなー。毎朝毎朝、めんどくさくてたまんねーよ」
「そ、そうですね。中学校だったら、普通は給食が――」
そのように言いかけてから、真琴は気づいた。
「……あの、もしかして、それは自分で作ったお弁当なんですか?」
「ああ? うちは母親が忙しいんだよ。馬鹿親父の分まで働いてくれてっからな」
その見事な弁当に箸をのばしながら、じろりと真琴をにらみつけてくる。
「あのさ、そこまで意外そうな顔をされっと、さすがにムカついてくるんだけど」
「い、いえ! すごいなあと思っただけです! わたしなんて、目玉焼きぐらいしか作れませんし……」
「それで不自由がないんならいいんじゃねーの? あたしだって、作りたくて作ってるわけじゃねーよ」
真琴の母親は祖父の介護で忙しくしているため、食事はほとんど既製品か店屋物である。
しかし、ランチタイムの話題に相応しいようには思えなかったので、真琴は黙ったままジャムパンをかじることにした。
「……そんで、絵のほうはどうなったんだよ?」
「ああ、はい……家に帰ってからも、寝るまでずっと取り組んでいたんですけど……なかなか思い通りにはいきません。時間が経てば経つほど、頭の中のイメージも薄れていってしまって……」
「ふーん、大変だな」
「……それであの、羽柴さんにお願いがあるのですが……」
「やだ」
「あ、いえ、その、せめて話だけでも……」
「やだったらやだ! そんな前置きされたら、話を聞かなくても想像つくだろ!」
「……やっぱり駄目ですか……」
真琴はがっくりと肩を落とすことになった。
唐揚げを咀嚼していた羽柴レオナは、それを呑み下してから「なんだよー」と唇をとがらせる。
「そんな泣きそうな顔すんなよなー。なんだかあたしが悪いみたいじゃん!」
「はい……ごめんなさい……」
「わー、マジで泣いてんじゃん! あんた、卑怯だぞー!」
「ご、ごめんなさい。決してそういうつもりじゃあ……」
真琴は慌てて目もとをぬぐった。
しかし、涙は止めようもなくぽたぽたとこぼれてしまう。
「こ、これは気にしないでください。ちょっと一昨日から、情緒がおかしいんです」
「…………」
「なんとか今のイメージだけで頑張ってみます。気分を悪くさせちゃってすみませんでした」
真琴は頑張って、笑顔をこしらえてみせた。
弁当箱を膝の上に置いたまま、「あーもー!」と羽柴レオナは頭をかきむしる。
「わかったよ! もういっぺん見せりゃあいいんだろ!? くっそー、泣けば何でも許されると思いやがって!」
「そ、そんな無理はしないでください。わたしは大丈夫ですから……」
「大丈夫とか抜かすなら、その涙をとっとと引っ込めろよ! あーもー、厄介なやつに引っかかっちまったなー!」
わめきながら、羽柴レオナはやけくそのように白米をかき込んだ。
ポケットから取り出したハンカチで涙をぬぐいつつ、真琴は思わず「えへへ」と笑ってしまう。
羽柴レオナは眉を吊り上げて、「だからその顔が卑怯だって言ってんだよ!」と真琴を蹴る真似をしてきた。
◇
放課後は、また別の場所に呼び出されることになった。
やっぱりさびれた区画にある、人気のない公園である。場所は昼休みの間に教えてもらい、放課後、別々に学校を出て、この場で待ち合わせることになったのだ。
「昨日の公園は学校に近すぎるからな。ここなら、誰にも見つからねーだろ」
確かに人気はないのだが、そのぶん学校とも盛り場とも遠いので、不良がかった人間が近づいてくる用事はなさそうだった。
「こんなところに公園があるなんて、わたしはまったく知りませんでした。羽柴さんの家はこの近くなんですか?」
「あたしの家は二丁目だよ。……あっ! 絶対に道場とか覗きに来んなよ? 下手なケンカよりおっかねーもんを見る羽目になっからな!」
「そ、そんなに激しい稽古なんですか? ……まさか、道場にまで羽柴さんを悪く思うような人がいるわけではないですよね?」
真琴は少し心配になってしまったが、「いねーよ、そんなもん」と一蹴されてしまった。
「文句のあるやつは全員ぶちのめしてやったからな。それで痛い目を見りゃ大人しくなるぶん、町の馬鹿どもよりはなんぼかマシだよ」
「ああ、そうですか。ほっとしました」
「……てゆーか、あたしは女だからナメられることも多かったけど、道場の連中は気味が悪いぐらい団結してるよ。あんた、うちの道場のこと、なんにも知らねーんだな」
「は、はい。ごめんなさい」
「何も謝る必要はねーよ。それだけ真っ当な人生を送ってきたってことなんだろーな。ケンカが生きがいみたいな馬鹿どもでもなければ、うちの道場と関わることもねーんだろうし」
そのように述べながら、羽柴レオナは口もとをねじ曲げた。
真琴が唯一苦手とする、彼女の自嘲的な表情だ。
「この町がこんなに騒がしいのは、半分がたはうちの道場のせいなんだよ。うちの道場と仲良くやってる馬鹿どもと、それにムカついてる馬鹿どもとで、戦争をしてるようなもんなんだからな。だから、あたしなんかと一緒にいるところを町や学校の馬鹿どもに見られちまうのはまずいんだよ」
「そ、そうなんですか? それじゃあ、もしかして……羽柴さんたちは、正当防衛で対処しているだけ、とか……?」
「そんなわけねーじゃん。ケンカ両成敗って言葉を知らねーの? うちの道場の連中だって、好きで暴れてるだけなんだよ」
羽柴レオナの切れ長の目に、物騒な光が燃えあがる。
「あたしにしたって、おんなじことさ。これまでに、何十だか何百だかって馬鹿どもをぶちのめしてきたんだ。それが全部、正当防衛だったなんて、そんなふざけた言い逃れをする気はねーよ」
「そ、そうですか……」
だけど真琴には、彼女が好きこのんで暴れているようには、どうしても思えなかった。
真琴の視線を振り払うように、羽柴レオナはそっぽを向いてしまう。
「で? おしゃべりなんざに時間を使っちまっていいの? あたしもそんなにヒマな身体じゃねーんだけど」
「あ、す、すみません! すぐに準備します!」
その公園にはベンチが存在しなかったので、真琴は下半分の埋められたタイヤの上に腰を下ろし、スケッチブックを広げてみせた。
今回は、羽柴レオナが実際に動いている姿を確認しながら、クロッキーをさせてもらう手はずになっていたのだ。
「それじゃああの、後ろ回し蹴りだけにこだわらず、色々と動いてもらっていいですか……?」
「へいへい。おおせのままに」
羽柴レオナはスポーツバッグを放り捨てるや、いきなり後方に右拳を振り回した。
それからすぐに屈み込み、地面と水平に左足を旋回させると、立ち上がり際にまた拳を振りかざす。
真琴が魅了されたのは、彼女の流れるような挙動であった。だから、単発の動きを見るだけでは足りないのかもしれない、と考えたのだ。
真琴の要望に従って、羽柴レオナは姿なき敵と戦い続けてくれた。
まるで舞踏のように美しいなめらかさである。
だが、真琴の抱く空手や格闘技といったものの概念からは大きく外れている。何せ彼女は、攻撃のためにも防御のためにも、ほとんど構えというものを取ろうとしなかったのだった。
その手足には、大の男を昏倒させるほどの破壊力が備わっているはずなのに、ふわりふわりと優美に動いている。一番イメージに近いのは、太極拳などの中国拳法かもしれない。
それでいて、真琴は彼女に撃退される敵の姿を、何度かははっきりと幻視することができた。
確かにこれは、相手がいて初めて成立する動きなのだ。これらの攻撃をすべてくらってしまっていたら、相手は生命までをも奪われてしまいそうな気がした。
(すごいな……あれだけ動いてるのに、身体の軸がまったくブレてないみたい……だから、不規則な動きなのに、芯を感じることができるんだ、きっと)
もちろん真琴は、空手や格闘技などについて何の素養も持ってはいないが、人体の構造については、それなりにわきまえているつもりでいた。人間がこれほど軽やかに動くには、どれぐらいの鍛錬が必要であるのか、ちょっと想像がつかなかった。
羽柴レオナの拳や、手首や、肘や、肩、それに頭や、膝、爪先、かかとなどが、次々と敵の身体を打ち砕いていく。やっぱりそれは、ぞっとするほど美しく、ぞっとするほど恐ろしい流線の連続であった。
じゃりっと足もとの地面を鳴らしながら、ふいに羽柴レオナが左足を振り上げる。
彼女が『飛燕』と呼んでいた後ろ回し蹴りである。
その攻撃の鋭さとなめらかさに、また真琴の背中はぞくぞくと震えた。
さらに彼女は左足を下ろすや、今度はそちらを軸足にして、逆側の足を振り上げた。
さきほどとは鏡合わせの構図で、同じ攻撃が繰り出される。
そして虚空に何発かの拳を叩きつけてから、彼女はぴたりと動きを止めた。
その顔が、ぐりんと真琴に向きなおってくる。
「あのさー、どーでもいいけど、さっきからまったく手を動かしてないように見えんのは気のせいなのかなー?」
「あ、す、すみません……すっかり羽柴さんの動きに見とれてしまって……」
「…………」
「イ、イメージはすごく固まってきています! 昨日までとは比べ物になりません!」
「……絵のこととか全然わかんねーけど、なーんかだまされてる気がすんなー」
羽柴レオナはジャージを脱ぎ捨てて、それをバッグの上に放り投げた。
ブラウスの袖を肘までまくり、「ふう」と小さく息をつく。
そこからまた、彼女は演武を再開してくれた。
動きには、まったくよどみがない。たとえ数分間でも、これだけ立て続けに動くことなど、真琴にはとうていできそうになかった。
(顔……そういえば、羽柴さんはどんな表情を……)
クロッキー用の鉛筆を握りしめつつ、真琴は目を凝らす。
羽柴レオナの表情は、真剣そのものであった。
楽しそうには見えないし、苦しそうにも見えない。ただ、粛々と為すべきことに取り組んでいる、といった様子である。
そういえば――一昨日の晩も、彼女は同じような表情を浮かべていた気がした。
境内は暗かったのでそこまで確信は持てないのだが、あれほど激しい戦いを見せながら、彼女はまったく昂揚しているように見えなかったのだった。
これほど自在に身体を動かせるのに、彼女は喜びを感じることはないのだろうか?
反面、他人にあれだけの暴力を行使しながら、良心を苛まれることはないのだろうか?
たとえ悪漢とはいえ、相手も人間なのである。それを暴力で屈服させるなら、普通は何らかの感情にとらわれるものなのではないのだろうか。
達成感でも、勝利感でもいい。あるいは、罪悪感でも、後悔の念でもいい。だが、彼女はあくまで無表情であり、そしてひたすらに真剣であった。
(ずっとそんな環境に身を置いていたら、特別な感情なんて感じなくなるものなのかな……でも……)
なんだかそれは、羽柴レオナらしくないように感じられてしまった。
あれほど情感豊かな女の子が、得意の空手に取り組んでいるときに、何も感じていないというのは、ずいぶんちぐはぐに感じられてしまった。
あの切れ長の目は、何を見据えて敵を倒しているのだろう。
敵と戦うという行為は、彼女にとって何なのだろう。
真琴はそんな不可解な疑念にとらわれることになってしまった。
「さー、もう十五分ぐらいは経ったよな! さすがに大汗かいちまったよ!」
やがて動きを止めた彼女は、大きな声でそのように宣言した。
はだけたブラウスの胸もとを手であおぎながら、スポーツバッグの中をまさぐる。そこから取り出されたのは、ミネラルウォーターのペットボトルであった。
「そろそろ夕飯の買い出しに行かねーといけないからさ。あたしは帰らせてもらうぞ?」
「あ、はい、ありがとうございました! すごく参考になりました!」
「……そのわりに、スケッチブックは真っ白みたいだな」
「は、はい、すみません」
真琴はそそくさとスケッチブックを閉じてから、羽柴レオナのもとまで駆け寄った。
「夕飯の準備まで羽柴さんが受け持っているんですね。忙しい中、本当にありがとうございました!」
「……泣き落としが通用すんのは一回だけだかんな」
べーっと舌を出しながら、羽柴レオナは手の甲で汗をぬぐった。
時節はすでに、六月も終わりに差し掛かっているのだ。今年の梅雨は雨が少ない代わりに、湿度がひどかった。
「あ、あの、よかったら、これを使ってください!」
真琴は通学鞄の中から、未使用のハンカチを取り出してみせた。
羽柴レオナは「ふん」と鼻を鳴らしつつ、スカートのポケットから自前のハンカチを引っ張り出す。
「あたしだって、ハンカチぐらい持ってんよ。野蛮な暴力女でも、いちおー女子なんだかんな!」
「一応どころか、羽柴さんはすごいです。そんなに空手の稽古をしながら、夕食まで作っているなんて……なんだか自分が恥ずかしくなってきてしまいます」
「だから、あたしだって渋々だっての! 出来合いの弁当とか好きになれねーし、金がもったいねーから、自分で作るようになっただけだよ」
「……でも、家族の分まで作ってるんですよね?」
「あいつらに好き勝手させてたら意味がねーんだよ。母さんが頑張って稼いだ金を無駄にできっか」
羽柴レオナはバッグを拾い上げ、脱いだジャージは肩に引っかけた。
「そんじゃー帰っか。あっちの通りに出たら、あたしは先に行くからな」
「はい。本当にありがとうございました。……それで、あの……」
「何だよー? 嫌な予感しかしねーんだけど!」
「は、はい。本当に心苦しいんですが……もしもまた時間のある日があったら……ちょっとだけ、その、今日の続きをお願いできませんか……?」
公園の出口に向かって歩を進めながら、羽柴レオナは愕然と目を見開いた。
「信じらんねー……こんなに図々しい人間は、うちの馬鹿親父を除けば初めてだぜ」
「ほ、本当にごめんなさい! あともうほんのちょっとで、イメージを固められそうなんです!」
「……だったらいっそ、今日の内に片付けちまうか」
「あ、いえ、その……ほんのちょっとなんですけど、どれぐらいの時間が必要かは自分でもわからなくって……」
羽柴レオナは目眩でも感じたかのように額を押さえてしまった。
その細くて引き締まった腕に、真琴は思わず取りすがってしまう。
「お願いします! わたしにできることだったら、何でもしますから! 最初のイメージさえつかめれば、たぶんもう大丈夫だと思うんです!」
「……泣き落としはもう通用しねーって言ったよな?」
「な、泣きません! でも、お願いします!」
羽柴レオナは肺の中身をすべて絞り出すようにして溜息をついた。
「……返事は保留する。今は考えんのもかったるいわ」
「はい! ありがとうございます!」
「まだオーケーしてねーのに、お礼とか言ってんじゃねー!」
怒った声で言いながら、羽柴レオナは肘で真琴の頭を小突いてきた。
かつて悪漢を叩きのめしたその肘は、とてもやわらかく真琴の髪に触れてくれていた。