第二話 奇妙な交流
2017.4/1 更新分 2/7
その日の放課後である。
真琴は昇降口を出て、さらに正門まで過ぎるのを待ってから、意を決して羽柴レオナに声をかけた。
「あ、あの、羽柴さん!」
羽柴レオナはうろんげに振り返り、そして深々と溜息をついた。
「何だ、またあんたかよ……まだあたしをコケにし足りねーの?」
「そ、そんなんじゃありません! ただ、羽柴さんに謝っておきたくて……」
「謝る? 何を?」
「だ、だから、覗き見みたいな真似をしてしまったことをです。羽柴さんがあんなに恥ずかしがるとは思ってなくって……」
「うっせーよ! 追い打ちかけんじゃねー!」
またちょっと顔を赤くしてから、羽柴レオナはぷいっとそっぽを向き、そのまま速足で歩き始めてしまった。
それに追いすがりながら、真琴はなおも言いたてる。
「あの、本当にごめんなさい! わたしはそんな、羽柴さんのことをおかしいだなんて思っていないので、どうか許してください」
「……許すとか許さねーとかの話じゃねーだろ。あたしが頭おかしいってのはほんとのことなんだし」
「ど、どうしてですか? 拳を鍛えていただけなんでしょう?」
「……十五歳の中三の女が昼休みにまでそんなことやってんのは頭おかしいって話じゃねーの?」
「で、でも、空手の稽古なんですよね?」
羽柴レオナは小さく舌打ちしてから、いきなり左の拳を真琴の鼻先に突きつけてきた。
やや大きめではあるものの、べつだん傷痕などがあるわけではない、普通の女の子の拳だ。
しかし、どことなく違和感があったので、よく見てみると――握った拳の前面が、綺麗に真っ平らになっていた。関節や骨による凹凸が、いっさい見受けられないのだ。
「普通は拳を鍛えてると、拳頭の骨が盛り上がるもんなんだけど、あたしの場合は骨が変形したり軟骨が潰れたりで、こんな風にぺったんこになっちゃったんだよね」
「は、はい……」
「うちの親父や兄貴なんかも、みーんなこーゆー拳なんだよ。物心がつく前から巻藁とかを殴ってたせいなのかね、よくわからんけど。……何にせよ、うちの家族はあたしも含めて、みーんな頭がおかしいんだよ」
「そ、そんなことはないですよ。だって、羽柴さんの家は空手の道場なんでしょう?」
「空手は空手でも、ケンカに勝つためだけの空手だよ。あんただって、兄貴たちの噂は聞いてんじゃねーの?」
羽柴レオナには、二人の兄が存在した。そして、数年前に卒業した彼らがどれほどの武勇を誇っていたかということは、今でも語り草になっていた。そして、羽柴レオナは「あの」羽柴兄弟の妹だということで、いっそう周囲から恐れられていたのだった。
「ま、自分や家族の馬鹿さ加減を大声でわめいたってしょーがねーか。もういいから、とっとと帰んなよ」
「あ、いえ、わたしもこっちの方角なので……」
「だったら、先に行きな。あたしはここで待っててやっから」
そうして羽柴レオナが足を止めたので、真琴は驚いてしまった。
「あ、あの、わたしが声をかけてしまったのは迷惑でしたか……?」
「あたしのそばにいて迷惑がかかるのはあんたのほうだろ? いいから、行きなって」
「で、でも、わたしはまだ羽柴さんに話したいことが……」
羽柴レオナは眉をひそめて、周囲に視線を走らせた。
下校時間であるので、あたりにはたくさんの生徒たちが歩いている。が、誰もがレオナと真琴のそばには近づかないように一定の距離を保っていた。
羽柴レオナはがりがりと頭をかき、いきなりあらぬほうへと足を踏み出した。
古びた家と家の間にある、小路だ。そちらに足を向けようという人間は他にいなかった。
真琴は一瞬だけ迷ってから、彼女の後を追いかけた。
幸い、横に並んでも、彼女はそれをとがめようとはしなかった。ただ、ほとんど小走りのようなスピードでどんどん歩を進めていく。
この辺りは、古くて平屋の家屋が多かった。若い人間などはあまり住んでいないのかもしれない。塀のない庭でご老人がひなたぼっこをしている姿が見えるぐらいで、他には誰ともすれ違うことはなかった。
そうしてその小路を抜けると、やや唐突な感じで小さな公園が現れた。
滑り台と砂場があるだけで、他の遊具は撤去されてしまっている。ここにも人影はひとつもない。
「ここならいっか。……で、話って何?」
「あ、いえ、その……ど、どうしてこんな場所に?」
「そりゃー学校の馬鹿どもの目につかないようにだよ。あたしをつけ狙ってる馬鹿は多いんだから、あんたまで一緒に目をつけられたら大変だろ?」
真琴は思わず眉をひそめることになってしまった。
「羽柴さんをつけ狙うって……どうしてそんなことになってしまうんですか? 羽柴さんだって、女の子なのに……」
「そりゃー『羽柴塾』の人間をぶちのめせたら、あいつらにとっては何よりの勲章になるんだろ。ましてやあたしは道場主の娘なんだからさ」
「で、でも、そんなのはあまりにも……」
「うっさいなー。あんただってこの町の人間なんだろ? あいつらは、騒ぐ口実が欲しいだけなんだよ。遊び感覚で人を殴れる連中にモラルやら何やらを求めたってしかたねーってことさ」
羽柴レオナはジャージのポケットに両手を突っ込みながら、自嘲するように口もとをねじ曲げた。
それは、あんまり真琴にも好きになれない表情だった。
「あたしのことはいいからさ。とっととあんたの用事を済ませなよ。あたしなんかに、何の用事があるっての?」
「それは、あの……昨日知り合ったばかりで、こんなことを頼むのはすごく気が引けるんですけど……」
「何でもいいから言ってみなって。いきなりぶん殴ったりはしねーから」
真琴はその手の通学鞄とスケッチブックを胸もとにかき抱きながら、呼吸を整えた。
そして、羽柴レオナの顔を正面から見つめる。
「あの、羽柴さん! よかったら……わ、わたしの絵のモデルになってくれませんか?」
「はあ?」
そのときの彼女の顔は、ちょっとした見ものであった。
切れ長の目がこれ以上ないぐらい見開かれて、口もぽかんと開けられてしまっている。
「い、いま何つった? 絵のモデルがどうしたって?」
「わ、わたしの絵のモデルになってほしいんです。何かあの、空手の技を出している姿で……」
羽柴レオナはいっそう困惑の表情になりながら後ずさった。
「いやいやいや! 何の冗談だよ? 面白くねーから、本題に入れって!」
「こ、これが本当に本題なんです。……やっぱり駄目ですか?」
「いや、だから! あたしをモデルとか意味わかんねーし! 何がどうしてどうなったら、そんな馬鹿げたことを思いつくんだよ!?」
「わ、わたしにもよくわかりません。でも、昨日の羽柴さんの姿が目に焼きついてしまって……時間が経つ内に、どうしても描きたくなってしまったんです」
羽柴レオナは絶句して、さらに身を引こうとした。
真琴は思わず、そのジャージの裾をつかんでしまう。
「わ、馬鹿、いきなり手を出すなよ! 反射的に膝が出そうになっただろ!」
「ご、ごめんなさい。また走って逃げられちゃいそうな気がしたので……」
「誰がいつどこで逃げたんだよ! おかしなこと言うとマジでぶっとばすぞ!」
「ご、ごめんなさい!」
謝りながらも、真琴はジャージの裾を離そうとはしなかった。
羽柴レオナは片方の手をポケットから抜き、金色の髪をがしがしとかきむしる。
「も、もう一度空手の技を見せてくれるだけでもいいんです。そうしたら、きっとイメージを固めることができると思うので……それを絵にすることを許してもらえませんか?」
「……あんた、マジで言ってんのか?」
「はい! 大真面目です!」
「信じらんねー……あんたも頭がおかしいみたいだな」
羽柴レオナは頭をかくのをやめて、ポケットの中に手を戻した。
「そんじゃーまー、こっちもマジでお返事させてもらうけど……ごめんなさい。死んでも嫌です」
「ど、どうしてですか?」
「どーしてもへったくれもあるかよ! そんな小っ恥ずかしい真似、嫌に決まってんだろ!」
「そ、それじゃあ、完成した絵は誰にも見せません! それでも駄目ですか?」
「誰にも見せねーとかありえねーだろ! それじゃあ何のために描くんだよ?」
「自分のためです。美術部を辞めてからは、自分のためだけに絵を描いてるんです」
羽柴レオナは、けげんそうに小首を傾げた。
「あんた、美術部でもないのに絵なんて描いてんの? 画家の娘か何か?」
「ま、まさか。子供の頃から絵が好きだっただけです。だから、美術部を辞めても絵をやめる気にはなれなかったんです」
「そんなに絵が好きなら、どーして美術部を辞めちゃったのさ?」
これには、真琴のほうが驚いてしまった。
「それはあの、去年の事件のせいですけど……羽柴さんは、あの話を知らないんですか?」
「美術部の話なんて知るわけねーじゃん。あたしには何の関係もねーし」
「そうですか。学校中の人に知られていると思ったんですけど、自意識過剰だったみたいですね」
羽柴レオナはいっそうけげんそうな面持ちで、真琴のほうに顔を寄せてきた。
「なんでそんな泣きそうな顔になってんの? なんか問題でも起こして退部になったとか?」
「いえ……美術部の顧問の先生と、ちょっと色々あって……」
真琴は悩んだが、思い切ってすべてを打ち明けることにした。
羽柴レオナがこの話を知らないのなら、それは自分の口で伝えたいと思ったのだ。憶測まじりの勝手な噂話で、彼女に誤解されてしまうのは嫌だった。
昨年の、美術部の顧問教員にまつわる苦い記憶である。
彼は真琴が入部した当初から、とてもよくしてくれていたのだが――昨年の終わり頃に、いきなり男女交際を求めてきたのだった。
部活動のない日の放課後に、美術室へと呼び出されて、真琴はその思わぬ告白を受けることになった。いまだ中学二年生であった自分に、三十歳間近の男性教員が交際を申し込んでくるなどとは、まったく想像することもできていなかった。
そうして真琴が大いに混乱しながらも、その申し出を断ると――彼は我を失って、いきなり真琴を突き飛ばしてきた。さらに、真琴の上にのしかかって、乱暴にブラウスを引きちぎってきた。そこで、たまたま部室の前を通りかかった他の教員たちに取りおさえられたのだ。
翌週には、その教員が学校を去ることが告げられた。
真琴の親の意向で刑事事件にはならなかったが、懲戒免職であった。その理由が生徒たちに告げられることはなかった。
しかし、人の口に戸は立てられないものである。
しかも悪いことに、その教員は美術部の人気者であった。なおかつ、当時の部長であった女子生徒は、顧問の教員に対してひそかに恋心を抱いていた様子であった。
おそらくは、その人物が発信源となり、あらぬ噂が学校中に広げられることになった。本当は真琴のほうから誘ったのだとか、実は以前からつきあいがあって別れ話がこじれただけなのだとか、事実無根の噂までもが広げられてしまっていた。
それで多くの友人は真琴のもとから去っていき、残りの友人は真相はどうであったのかと問い詰めてきた。それで真琴は、何もかもが面倒くさくなってしまったのだ。
それから半年ほどを経て、現在は六月の下旬。
真琴は相変わらず、学校の誰とも口をきかない生活を続けていた。
そういった内容を、真琴は何とか被害者ぶらないように気をつけながら説明することになった。
「……何だよ、それ。くっだらねー話だな」
すべてを聞き終わった後、羽柴レオナはそのように言い捨てた。
「ま、あの学校はそーゆー部分も乱れてっからな。その馬鹿教師も馬鹿どもの馬鹿が伝染っちまったんだろ」
「どうなんでしょうね。わたしにはよくわかりません」
羽柴レオナのジャージの裾をつかんだまま、真琴は大きく息をついた。
「とにかくそういうわけで、わたしは自分で描いた絵を見せる相手もいませんから、何とか許してもらえませんか?」
「…………」
「もしも完成した絵が気にいらなかったら、破いてもいいです! それでも気が済まなかったら、わたしのことを殴ってもいいですから――」
「ああもうわかったよ! しつっこい野郎だな!」
怒声をあげて、羽柴レオナがまた顔を寄せてくる。
真琴は思わず首をすくめてしまったが、ジャージの裾だけは離さなかった。
「そんなに描きたいんなら勝手にしろよ! あたしはてきとーに技を見せりゃいいんだな?」
「は、はい! ありがとうございます!」
「……そんで、技を見せるってどうすりゃいいんだよ? ケンカの場になんて連れていけねーぞ?」
「あ、それは、道場の様子でも見学させてもらえたら……」
「あんな馬鹿どもの巣窟に近づこうとすんじゃねーよ! ……そんでもって、いいかげんに手を離せっての」
「あ、はい、ごめんなさい」
真琴がようやく手を離すと、レオナはスポーツバッグを足もとに放り捨てた。
そして、真琴のほうを向いたまま、何歩か後ずさっていく。
「相手もいねーのに技を出すとか、アホくせーなー。目ん玉かっぴろげて、よーく見とけよ?」
「は、はい!」
レオナはポケットに突っ込んでいた手を抜き放ち、虫でも捕まえるような仕草で虚空を叩いた。
「これでいいのかよ? 満足したか?」
「あ、いえ、もうちょっと技らしい技を見せてもらえたら嬉しいのですが……」
「技らしい技って何だよ」
羽柴レオナは唇をとがらせつつ、今度は無造作に右足を振り上げた。
といっても、正面に向かって垂直に足を上げただけのことである。短いスカートがふわりとなびき、ハーフ丈のジャージに包まれた長い足が腰の高さまで上げられたところで、またすみやかに戻される。
「え、ええと……」
「何だよー? あたしの技なんて、こんなもんだって! あんたも昨日、見てたんだろ?」
そういえば、最初の二人はそういう無造作な攻撃をくらって、あっさり昏倒してしまったのだった。一人目は下顎を斜め下から殴られて、二人目は股間を蹴りあげられて、そのまま立ち上がれなくなってしまっていた。
「で、でも、後半はけっこう激しく動いていましたよね……?」
「そんなの覚えてねーっての。相手に合わせて動いただけだし」
「そ、それじゃあせめて、空手っぽくかまえてもらうとか……?」
「そんなきっちりした型とか、『羽柴塾』にはねーんだよ」
言いながら、羽柴レオナは片足を踏み出した。
前に出しているのは右足で、右腕はだらりと下げたまま、左拳を腰にかまえている。
そのだらりと下げられた右腕が、いきなりバネ仕掛けのように振りあげられた。
手首が、直角に曲げられている。その鈎状の手首で虚空を叩くや、今度は左拳が突き出された。
やはりそれらも、ごく何気ない動作である。力が込められているようにすら思えない。
しかし――真琴はほんの一瞬だけ、彼女の前で敵が力なく崩れ落ちる姿を幻視できたような気がした。最初の一撃で顎を叩かれ、次の攻撃でみぞおちを撃ち抜かれたように思えた。
「なー、もういいかな? 本気でアホらしくなってきたんだけど」
「あ、あの、ぐるっと足を回す蹴り技とか見せてもらえませんか? 昨日も最後に使ってましたよね?」
「だから、覚えてねーっての。足を回すって、『鎌刈』か『飛燕』か?」
言いざまに、羽柴レオナが右足を振り上げた。
今度は上体を傾けて、横合いに足を上げている。その足先が、自分の頭よりも高い位置にまであがり、ちょいと空気をかき回すように弧を描いてから、ふわりと地面に下ろされた。
もしも正面に相手が立っていれば、内側から回された足の裏で顔面を蹴り抜かれていそうであった。
「今のが『鎌刈』な。で、これが『飛燕』」
前に出した右足を軸に、羽柴レオナが身体全体を旋回させる。
デッキシューズを履いた足が、うなりをあげて虚空を凪いだ。
まさしく、昨晩に五人目の男を撃退した、上段の後ろ回し蹴りである。
それはやっぱり、真琴が息を呑むほどの迫力であり美しさであった。
「い、今のです! 今のをもう一度お願いできますか?」
「『飛燕』かよ。こんなの、よっぽどの乱戦じゃねーと使わねーけどな」
言いながら、羽柴レオナは同じモーションで技を繰り出した。
真琴の中で、むくむくとイメージが広がっていく。
「あの、すみませんけど、もう一度いいですか?」
「何だよー。いっそのこと、動画でも撮っちまえば? 最近の携帯電話って、そーゆー機能もあるんだろ?」
「あ、わたし、携帯電話は持っていないんです……それにたぶん、動画とかだと意味がないと思いますし……」
羽柴レオナは溜息をつきながら、もう一度同じ技を見せてくれた。
「あのさ、扇風機にでもなった気分なんだけど」
「ご、ごめんなさい! すごくかっこよかったです!」
「カッコイイったって、人間をぶちのめすための技だけどな」
羽柴レオナは片方の手だけをポケットに突っ込み、もう片方の手で鼻の頭をかいた。
「よくわかんねーなー。これだけのことで、絵とか描けんの?」
「な、なんとかイメージはつかめました。忘れない内に、クロッキーだけでも仕上げちゃいますね」
真琴はベンチまで移動して、膝の上にスケッチブックを広げた。
そうして鞄からクロッキー用の鉛筆を取り出しつつ、羽柴レオナのほうを振り返る。
「あ、ごめんなさい。わたしのほうは、これで何とかしてみますから……」
「んで? 昨日もそうやって暗くなるまで、シコシコ描いてたのかよ? ったく、こりねーやつだなー」
呆れ顔で言いながら、羽柴レオナは真琴の隣に腰を下ろしてきた。
「は、羽柴さん、お時間とかは大丈夫なんですか?」
「うっせーっての。いいから用事を済ませろよ」
「は、はい」
真琴は集中して、白いスケッチブックと向かい合った。
頭に刻みつけられた流線を、なんとかそこに刻みつけようと試みる。
こんな描き方をするのは、真琴にしても初めてのことだった。
しかし、動画や写真を参考にしながらでは、この頭の中のイメージを絵にすることはできなかっただろう。真琴が描きたいのは、羽柴レオナの織り成す流線から導きだされた自分自身の情動であったのだ。
なかなかうまくいかないため、描いては次のページを繰る。羽柴レオナの持つ優美さと、迫力と、しなやかさと、鋭さを、いったいどうしたら平面の世界で表現できるのか、思いのままに鉛筆を走らせた。
昨日も、夕闇に陰った神社の様子があまりに見事で、心をつかまれることになったのだ。
しかし今は、それ以上に心が湧きたっていた。思い通りの線を描けないことが、もどかしくてたまらない。真琴の受けた衝撃は、こんなものではないはずだった。
「……あんた、すげー集中力だな」
そんな声が聞こえてきたので、真琴は顔を上げてみせた。
羽柴レオナの顔が、思いも寄らぬほど近くにある。しかし、その目は真琴ではなくスケッチブックのほうに向けられていた。
「ああ、いえ、そんなことはありません。ちょっと夢中になってしまいましたけど」
「ちょっと夢中で済むレベルじゃねーだろ。この五分ぐらいで何回声をかけたと思ってんだよ」
「ご、五分?」
真琴としては、ほんの十数秒ほど、我を失っていたような感覚であった。
が、クロッキーの失敗作は、全部で二十枚ほどにも及んでいた。とうてい十数秒で仕上げられる量ではない。
「トランス状態っつーの? ったく、放っておいていいのかもわかんねーから、ドキドキしちまったじゃねーかよ」
「ご、ごめんなさい。めったにないけど、たまに没頭しすぎちゃうんです」
しかし、ここまで描くことに集中できたのは、真琴にしても初めての体験であった。
何か不整脈のように心臓が高鳴ってしまっている。
「それに、すっげー絵が上手いのな。美術部だったんだから、当たり前なのかもしんねーけど」
「い、いえ。わたしなんて、賞とかも取ったことはありませんし……ただの下手の横好きです」
「ふーん。ま、絵のことなんて、あたしにはわかんねーけどさ。……でも、あんたの絵、すごくかっこいいと思うよ」
「か、かっこいいですか?」
「うん。……あ、別に自画自賛してるわけじゃねーからな! こんなん、自分だとは思えねーし!」
と、羽柴レオナは顔を赤くしながら、真琴の顔をにらみつけてくる。
彼女のこういう子供っぽい表情は、真琴にもとても好ましく思えた。
しかし、クロッキーの出来にはまったく満足できていない。最新のページに描かれた流線も、真琴の中に渦巻くイメージと比べれば、泣きたいほどに貧相なありさまであった。
「ま、続きは家に帰ってからにしなよ。その様子だと、ほんとに暗くなるまで描き続けそうだし」
羽柴レオナは立ち上がり、「うーん」と大きくのびをした。
それは昼休みに見たのと同じ仕草であり、同じ表情であった。
あのときは、真琴に見られていることにも気づかずに、無防備な姿をさらしてしまっていたのだ。
しかし今は、真琴がかたわらにいるのに、そのような姿をさらしてしまっている。
その事実が、思わぬ勢いで真琴の胸を揺さぶってきた。
さまざまな悪評にまみれている羽柴レオナであるが、本当はこんなに無邪気な顔つきができる女の子であったのだ。それが真琴には、なんだか嬉しくてたまらなかった。
「何やってんだよ? 居残るつもりなら、ほんとに置いて帰っちまうからな」
「あ、はい、すみません……それであの、羽柴さん、今日は本当にありがとうございました!」
真琴は立ち上がり、限界いっぱいまで深く頭を下げてみせた。
そうして顔を上げると、羽柴レオナは呆れたような面持ちで笑っていた。
「つくづくおかしなやつだなー。……いいから、帰ろーぜ」
「はい!」
真琴は鞄とスケッチブックを抱え込み、羽柴レオナとともに公園を出た。
その胸には、びっくりするほど温かい感情がこみあげてきていた。