第一話 邂逅の日
2017.4/1 更新分 1/7
暗がりの中で、小西真琴は恐怖にすくんでいた。
寒くもないのに身体が震えて、心臓はどくどくと脈打っている。十五年間を生きてきて、かつてこれほどの恐怖に見舞われたことはなかった。
そんな真琴の目の前では、信じ難い光景が繰り広げられている。
たった一人の女の子が、五名もの男たちを次々と叩きのめしているのである。
すでに二名の男たちは、地面に這いつくばっている。
そして今、三人目の男がみぞおちを蹴り抜かれて、弱々しくうずくまるところであった。
「この野郎!」とわめきながら、四人目の男が背後から女の子につかみかかった。
女の子の華奢な身体が、太い腕に抱きすくめられる。
女の子は、不愉快そうに「ちっ」と舌を鳴らした。
「くたばれっ!」とわめきながら、五人目の男が角材を振りかぶった。
しかしそれが振り下ろされるより早く、女の子は背後の男の爪先をかかとで踏みにじった。
男は女の子を羽交い絞めにしたまま、痛そうに顔をのけぞらせる。
すると、そのわずかなスペースで勢いをつけて、女の子は男の鼻先に自分の後頭部を叩きつけた。
男はたまらず自分の顔に手をのばし、解放された女の子は振り向きざまに左肘を繰り出した。
その左肘で、男の下顎は顔面を覆っていた手の平ごと撃ち抜かれる。
そして女の子はその勢いのまま身体を旋回させて、左の足を振り上げた。
角材を振り下ろすモーションの途中にあった五人目の男は、そのかかとでまともにこめかみを蹴り抜かれた。
二人の男が、同時に地面へと沈む。
これで全滅であった。
五名もの悪漢が、たった一人の女の子に全滅させられてしまったのだ。
時間にして、わずか十数秒の出来事であった。
「手前……俺たちにこんな真似をして、ただで済むとでも……」
一番最初に倒された男が、うつぶせに横たわったまま、くぐもった声をあげる。
女の子は、無言でその右脇腹を蹴りつけた。
男は濁ったうめき声を振り絞りながら、水揚げされたエビのようにびくびくと全身を痙攣させる。
「文句があんなら、いつでもかかってこいよ。どーせ手前らはこっちが大人しくしててもケンカを売ってくんじゃねーか」
そのように言い捨てながら、女の子は前髪をかき上げた。
暗がりの中で、誘蛾灯にぼんやりと照らされるその髪は、きらきらと金色に光っていた。
その切れ長の目が、冷めた光をたたえて真琴のほうをにらみつけてくる。
賽銭箱の隣にへたり込んでいた真琴は、思わず悲鳴をあげそうになってしまった。
「……あんた、いつまでそうやってんの? こいつらが動けるようになる前に、とっとと逃げたほうがいいと思うけど」
「あ……わ、わたしは……」
それ以上は、言葉が続かなかった。
情けないぐらい、声も震えてしまっている。こんな災厄が自分の身に訪れるということが、いまだに信じられない心地であった。
それに、恐怖とも異なる激しい情動が、真琴の心を痺れさせてしまっている。
その情動の正体が知れる前に、女の子は金色の頭をかき回しながら真琴のほうに近づいてきた。
「ほら、さっさと立ちなってば。もう、しかたねーなー」
女の子の手が、こわれものでも扱うような優しさで真琴の腕を取り、そっと引き起こしてくれる。
が、真琴は両膝が震えてしまい、思わず女の子の腕に取りすがってしまった。
ジャージに包まれた女の子の腕は、とても引き締まっているが、とても細かった。こんなにほっそりとした腕が野蛮な男たちを叩きのめしたなどとは、とうてい信じられないぐらいだった。
「それでいいや。せめて、自分の足で歩いてよね」
真琴に片方の腕をつかませたまま、女の子は地面から何かを拾いあげた。
それは真琴の通学鞄とスケッチブックだった。
「あんた、絵でも描いてたの? なんでもいーけど、こんな暗くなるまで神社なんかにいるもんじゃないよ。こーゆー人気のない場所は頭の悪い連中のたまり場になってるんだからさ」
彼女の言う通り、真琴は用心を忘れてスケッチに夢中になってしまっていたのだった。そうして慌てて帰ろうとしたところで、この悪漢たちに取り囲まれてしまったのだ。
もしもこの女の子が通りかかっていなかったら、いったいどのような目にあっていたのか――そんなことを想像するだけで、背筋が凍りつきそうになる。しかもそれは真琴にとって、過去のトラウマを刺激される恐怖でもあった。
真琴はよほど情けない顔になってしまっていたのか、仏頂面の女の子にまた間近からにらみつけられることになった。
「そんな泣きそうな顔すんなよ。さ、とっとと引きあげよーぜ」
そのように言いながら、女の子は力強い足取りで境内を歩き始めた。
半ばそれに引きずられるようにして、真琴も震える足を踏み出す。
女の子は、とても背が高かった。
きっと百七十センチ近くはあるだろう。小柄な真琴よりも頭半分以上は大きい。
それでいて、黒いジャージの上下に包まれたその身体は、むしろ細身に見えるぐらいであったが、真琴がどれほど体重をあずけても、まったく危なげもなくそれを支えてくれた。
うめき声をあげている男たちの間をぬって、二人は暗い境内を横断する。
鳥居をくぐると、次は石造りの階段だ。
真琴はまだ足もとがおぼつかなかったので、いっそう女の子の腕をきつく抱きすくめることになった。
「ほら、足を踏み外すなよ? 人の腕を杖がわりにしてることはカンベンしてやっから」
「ご、ごめんなふぁい……」
いまだに気持ちの落ち着かない真琴は、おかしな言葉を発してしまった。
女の子はきょとんと目を丸くしてから、ぷっとふきだした。
「どーでもいーけど動揺しすぎだろ。これに懲りたら、もうちっと用心深く生きるこったね」
「ふ、ふぁい……」
「やめろよ、笑わせんな」
女の子は、くすくすと笑い声をたてた。
その横顔は、さきほどまでとは別人のように無邪気に見えてしまった。
やがて二人は石段の下の道に出て、くっつきあったまま歩き続けた。
女の子が真琴のほうに鞄とスケッチブックを差し出してきたのは、大通りまで出て、あたりに通行人が見えるようになってからだった。
「ほら、ここまで来りゃ、もう安心だろ? これ以上はあたしと一緒にいるほうが危なっかしいから、一人で帰んな」
真琴はなんだか小さな子供みたいな不安感にとらわれながら、女の子の腕から身を離した。
その手に、鞄とスケッチブックが押しつけられてくる。
「そんじゃーね。寄り道しないで、真っ直ぐ帰んなよ?」
女の子は真琴に背を向けて、夜の街路を走り始めた。
真琴はその背中が見えなくなるまで、その場から動くことができなかった。
そして、自分は窮地を救われたのに、お礼の一つも言えていなかったのだということを、今さらながらに思い知らされた。
真琴と彼女の最初の交流は、そうしてあっけなく終わりが告げられたのだった。
◇
翌朝になっても、真琴は奇妙な心地にとらわれたままだった。
昨晩の出来事が本当に現実のものであったのか、いまひとつ確信を持てずにいる。夜の境内で悪漢たちに囲まれて、そこを一人の女の子に救われた――言ってみればそれだけの話であるが、荒事とは無縁で生きてきた自分にとっては、あまりに衝撃の大きすぎる出来事であった。
もっとも、真琴の住む町において、それは珍しい話でもない。
この町は非常に治安が悪くて、暴力沙汰の事件がとても多かったのだ。
夜の盛り場などでは毎日のように乱闘騒ぎが繰り広げられており、死人でも出なければニュースになることもない。ここは銚子市の海沿いにあるさびれた港町で、暴力団などが入り込んでいない代わりに、地元の住人たちが異様に荒くれているのだった。
真琴はこの町が大嫌いだった。
小学生の頃は中央の市街にある学習塾に通っていたので、自分の地元があまり普通ではないということも、すでに思い知らされていた。塾で知り合った友達などは、真琴がこの町の住人だと知ると、親からつきあいを差し止められるほどであった。
盛り場に近づかなければ、自分の身に危険が及ぶことはない。
しかし、普通に過ごしているだけでも、殺伐とした話は次から次へと耳に飛び込んでくる。このたびは、初めてその災厄が自分の身に降りかかってきただけ、ということなのだ。
(こんな町、大ッ嫌い……だから母さんも、父さんと喧嘩ばかりしてるんだろうなあ……)
父はこの町の生まれであったが、母はそうではなかった。大学時代は父も市外で一人暮らしをしており、その頃に母と出会ったのだそうだ。それで結婚を機に、父の地元に移り住んだらしいのだが――真琴は幼い頃から、両親が仲良く過ごしている姿をほとんど目にしたことがなかった。
結婚してすぐに父方の祖父が大病を患ってしまったために、なおさらこの町を離れることができなくなってしまったのだ。年を重ねるにつれ、両親の仲は険悪になっていった。どちらの親も嫌いではない真琴には、それはとてもつらいことだった。
朝からそんな憂鬱な思いにとらわれながら、真琴は学校へと向かった。
その学校も、真琴は大嫌いだった。本当は市外にある私立の中学校に進学するために塾通いをしていたのに、経済的な事情から、けっきょく断念することになってしまったのだ。両親の仲が深刻なまでにこじれてしまったのも、ちょうどそれぐらいの頃からだった。
この町を悪くしているのは、地元の住人たちに他ならない。
だからこの学校にも、町を悪くしている張本人たちがたくさん在籍していた。
有り体に言って、この学校は荒れていた。
全生徒の一割ぐらいはどうしようもない不良生徒で、もう二割ぐらいはその予備軍であった。校内で喧嘩が起きることも珍しくはなく、しょっちゅうあちこちの窓ガラスが割られていた。年に数回はパトカーが呼ばれることもあり、教師の入れ替えも異様に多いように感じられた。
(それに……今ではわたし自身も問題児あつかいだしな)
学校に到着した真琴は、重苦しい気持ちで教室に向かった。
真琴は、三年一組だ。教室のドアを開けると、何人かが振り返ってきたが、声をかけてくる者はいなかった。
真琴は、このクラスで孤立していた。
去年の終わりにちょっとした問題が起きて、その噂が学校中に蔓延してしまったからだ。
真琴は今でも自分は悪くなかったと信じているが、それを周囲の人間に主張して回る気持ちにはなれなかった。今は、一刻も早く卒業して、なるべく地元から遠い高校に進むことしか考えられなかった。
やがて担任の教員が現れて、ホームルームを開始した。
朝のこの時間は、ある意味では一番平和なひとときであった。このクラスにも存在する問題児たちが、まだ登校していないからだ。彼らが姿を現すのは、たいてい昼近くになってからだった。
そうして担任の教員がホームルームの終わりを告げようとしたとき、いきなり教室の後ろ側のドアが引き開けられた。
入室してきた人物の姿を見て、クラスメートたちがちょっとざわめく。そのざわめきを、真琴は普段とは異なる心地で聞くことになった。
入室してきたのは問題児の一人、羽柴レオナという女子生徒であった。
羽柴レオナは好奇と不審に満ちた視線をはねのけながら、窓際にある自分の席へと近づいていった。
「は、羽柴さん、ホームルームに参加するなら、もう十分ぐらいは早く登校しないと……そうすれば、遅刻扱いにしないでも済みますし……」
まだキャリアの浅い若めの教員が、愛想笑いのような表情を浮かべながら、そのように発言した。
スポーツバッグを机の脇にひっかけて、自分の席についた羽柴レオナは、不機嫌そうに「ああ?」と声をあげる。
「しかたねーじゃん。登校するなり、三組の馬鹿どもがケンカを売ってきたんだからさ。文句があるなら、あいつらに言ってくんない?」
「い、いや、だけど……」
「だけどじゃねーよ。あんな馬鹿どもを放置してんのは学校の責任だろ? その責任をあたしに押しつけんじゃねーっての」
それだけ言い捨てると、羽柴レオナは頬杖をついて窓のほうを向いてしまった。
担任の教員は口の中でごにょごにょと何か言ってから、挨拶もなしに教室を出ていってしまう。
これも、いつもの光景である。羽柴レオナは問題児の中では出席率も高く、そして教師に暴力をふるうような気性ではない分、こうした些細な衝突が多かったのだった。
だからクラスメートたちも、その後は素知らぬ顔をしておしゃべりを始めていた。
そんな中、真琴はやっぱり普段とは異なる気持ちで羽柴レオナの姿を盗み見ることになった。
(やっぱり……昨日の女の子は羽柴さんだったんだ……)
改めて、それを確認する。
三年生に進級し、同じクラスになってからもう三ヶ月ぐらいは経過していたのだが、悪評の高い彼女のことはなるべく視界に入れないようにしていたので、どこか確信が持てずにいたのだ。
だけどもう、それを疑う気持ちにはなれなかった。退屈そうに頬杖をついて窓の外を眺めているその姿は、昨晩間近から見た横顔とぴったり一致していた。
鼻が高くて、切れ長の目をした、とても容姿の整った女の子である。それで身長は百七十センチ近くもあり、非常にすらりとしたスタイルをしていたので、見ようによってはモデルのような美人と称することもできるだろう。
しかし彼女は、すべてを拒絶するような鋭い眼差しをしていた。それに、肩ぐらいまである髪は男のようにぼさぼさで、おまけに金色にブリーチしてしまっていた。
制服のほうも、ひどいものである。ブレザーは着用せず、ブラウスの上に体育用のジャージを羽織っており、スカートは異様に短く、そしてその下にやっぱりハーフ丈のジャージをはいている。こんな格好でこんな目つきをした彼女に声をかけられるのは、同じぐらい不良がかった人間だけだろう。
そして彼女は女子生徒であるにも拘わらず、他の誰よりも強烈な悪評にまみれていた。
そのほとんどは暴力沙汰の話であり、校内でも校外でもしょっちゅう騒ぎを起こしていた。彼女の家は空手の道場で、男にも負けない野蛮さと腕力を持っているのだというもっぱらの評判なのだった。
(それが事実だっていうのは、昨日ではっきりわかったけど……)
しかし真琴は、たいそう落ち着かない気持ちを抱え込むことになった。
それらの悪評と、昨日の無邪気な表情が、うまく重ならないのだ。
それに、今の横顔と昨日見た横顔も、顔立ちそのものは一致するのに、まるで別人のように見えてしまう。実は双子の姉妹であったのだとでも聞かされたら、容易く信じてしまいそうなほどであった。
(羽柴さんって、いったいどういう人なんだろう……)
そのように思いながら、真琴は言い知れぬ煩悶とともに半日を過ごすことになった。
◇
昼休みである。
その日も真琴は、美術準備室で昼食をとっていた。
もちろん、真琴の他に人影はない。そうであるからこそ、真琴はこの場所で昼休みを過ごすようになったのだ。
真琴はすでに美術部を退部した身であったが、この部屋はずっと入り口の鍵が壊れたままであったので、好きに使うことができた。他に修理するべき場所が多すぎて、こんな些細なところにまでは予算を回せないのかもしれない。何にせよ、真琴にとってはありがたい話だった。
美術部は辞めても絵は描き続けていたし、真琴は油絵の具の香りが大好きだった。いらぬ雑音を気にすることなく、大好きな香りに包まれていられるこの時間が、真琴にとっては一番心の休まるひとときであった。
昼食は菓子パン二つとパックのジュースだけなので、五分もあれば食べ終わってしまう。あとは準備室に保管してある画集をチャイムが鳴るぎりぎりまで楽しむのが、真琴の日課であった。
今日はどの画集にしよう、と部屋の奥にある本棚まで近づいたとき、真琴は窓のカーテンが五センチぐらい開いたままであったことにようやく気づいた。
昨日の放課後にここを訪れた美術部員か何かが閉め忘れたのであろうか。誰かに覗かれるとまずいことになってしまうので、真琴は先にそちらを閉めておくことにした。
そうしてカーテンに手をかけたとき、その隙間から奇妙なものが見えた。
窓の向こうは中庭のようなスペースであるはずだが、その手前に深い植え込みがあるので、視界は閉ざされている。その植え込みの中で、人影が動いたような気がしたのだ。
いくぶん胸をどきつかせながら目を凝らすと、確かに何者かがいた。
手入れがされずに雑木林のような有り様になっている植え込みの中で、何者かが一心に樹木の一本を殴りつけていたのだ。
金色の髪が、木漏れ日を反射させてきらきらと輝いている。
その何者かとは、羽柴レオナに他ならなかった。
いっそう胸を高鳴らせながら、真琴は窓ガラスに顔を寄せる。
まさか木陰で人間でも殴っているのかと危うんだが、彼女が殴っているのは間違いなく樹木の幹だった。
拳には、タオルか何かを巻きつけているようだった。
だが、渾身の力で樹木を殴っているように見える。
タオルで皮膚は守られるとしても、拳の骨がおかしくなったりはしないのだろうか。
真琴は息を詰めてその奇妙な光景を見守ることになった。
脳裏には、昨晩の彼女の姿がよみがえっている。
あれは、恐ろしい光景だった。暗がりであったのが幸いで、たぶん男たちは口や鼻から血を流していたと思う。人一倍軟弱な真琴に耐えられるような光景ではなかった。
しかし、そういった恐怖心とは別に、真琴は大いに心を揺さぶられていたのだった。
野生動物のようなしなやかさで、一回りも大きい男たちを次々と叩きのめしていく羽柴レオナの姿は、ぞっとするほど美しくも見えてしまったのだ。
特に、最後の男を蹴り倒した上段の回し蹴りなどは、背筋が寒くなるほどの美しさであった。
長くてすらりとした足が、うなりをあげて闇を引き裂き、自分よりも背の高い男のこめかみを見事に撃ち抜いていた。暴力を嫌う真琴でさえもが、その凄まじさには心を魅了されてしまったのだった。
そうして真琴がまたえもいわれぬ感覚に心をつかまれそうになったとき、羽柴レオナが植え込みの外に出てきた。
その手には、彼女が通学用に使っているスポーツバッグが下げられている。それを足もとに置き、両手の拳からほどいたタオルを乱暴に投げ入れると、彼女は「うーん」と大きくのびをした。
その顔は、教室で見せていた仏頂面ではなく、昨晩にも見せていた無邪気そうな表情を浮かべていた。
羽柴レオナのその表情が、真琴にささやかな勇気を与えてくれた。
真琴は震える指先で窓を開錠し、カーテンもろとも一息に開け放った。
「あ、あの、羽柴さん!」
「うわあ、びっくりした! なんだよ、あんた!」
仰天したように、羽柴レオナが身を引いた。
建物と植え込みの間には大したスペースもなかったので、二人は二メートルていどの距離で向かい合うことになった。
そうして向かい合うなり、羽柴レオナの右拳がすかさず腰のあたりで握られるのを見て、真琴はごくりと生唾を飲み下す。昨晩も彼女はそうして何気なく握った拳で男の一人を叩きのめしていたのだ。
羽柴レオナは驚きに目を見開きながら、真琴の顔をまじまじと見返してきた。
「あ、あれ? ひょっとして、あんたは昨日の――」
「は、はい! 同じクラスの小西真琴です! あの、昨日は……」
「へー、同じクラスだったんだ? うちの制服だとは思ってたけど、まさか同じクラスだったとは思わなかったよ」
羽柴レオナは、実に不明瞭な表情をしていた。いったいどんな表情を浮かべたものかと迷っているかのような様子だ。
その選択が済んでしまう前にと、真琴は頭を下げてみせた。
「あの! 昨日はどうもありがとうございました! 動揺していて、お礼も言えずにすみませんでした!」
「いや、別にお礼とかどうでもいいけど……あんた、そんなところで何やってんの? このへんって、特別教室しかなかったはずだよね」
「わ、わたしはこの美術準備室で昼食を食べていました。それであの、植え込みの中に羽柴さんの姿が見えたから……」
真琴がそのように言いかけると、羽柴レオナは「ちょっと待て!」といきなり大きな声をあげた。
「そ、それじゃああんた、あたしがこっちに出てくる前から覗き見してたっての?」
「べ、別に覗き見をしようと思っていたわけではなく、お邪魔をしちゃったら悪いかと思って……」
彼女の気分を害してしまっただろうかと、真琴は胃袋が縮みあがる思いであった。
が、彼女は案に相違して、その顔を羞恥で赤く染め始めた。
「うわー、恥くせー! あんた、あたしのこと馬鹿だと思ってんだろ?」
「い、いえ、そんな風には思わなかったですけど……いったい何をやっていたんですか?」
「べっつにー! ヒマだから拳を鍛えてただけだよ!」
それも空手の稽古の一環なのだろうか。
よくわからなかったが、とにかく彼女はとても恥ずかしそうだった。
「こーんな場所で嬉々として木の幹をぶん殴ってたら、頭おかしーとしか思えねーよな! ああいいよ、どーせあたしは大馬鹿なんだよ! ガキの頃から頭を殴られすぎて、こんな大馬鹿になっちまったんだよ!」
「そ、そんなことはまったく思っていないですけど……」
「ふーんだ、うっせーよ! あわれみの目で見るんじゃねー、この覗き見野郎! ばーかばーか!」
まるで子供のようにわめきながら、羽柴レオナは足もとのスポーツバッグをすくい取った。
そして、後も見ずにその場から走り去ってしまう。
真琴はそれを呆然と見送り――それから、「あは」とおかしな具合いに息をもらしてしまった。
驚いて、自分の口もとを押さえつける。
真琴は無意識の内に、笑ってしまっていたのだ。
そんなのは、今年に入ってから初めての出来事であるはずだった。