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ストライキングガール! EX  作者: EDA
第一章 中野シングダム ~景虎明良と遊佐柚子~
2/10

第二話 ささやかな交流会

2017.3/20 更新分 2/3

「へー、カズっちってば、もう公式試合が決まったんだ? たった三ヶ月で、すごくない?」


 練習の後、更衣室で着替えながら、晴香がそのように述べていた。

 更衣室には、夕方から集まっていた女子ジム生の五名が勢ぞろいしている。奇しくも本日は、部門の異なる晴香や乃々美とも同じ時間に練習を切り上げることになったのだ。


 伊達はこの後のプロ練習にも参加したがっていたが、夕方の四時から今まで四時間もぶっ続けで練習をしていたので、今日はやめさせておくことにした。追い込み練習を始めるには、日がなさすぎたのだ。むしろ今は調整期間として練習を軽めに設定するべきだった。


「ま、キックのキャリアが三年ありますからね。三年と三ヶ月なら十分すぎるでしょう? いいかげん、基礎練習にもあきあきしてたとこですし」


 伊達は陽気に言いながら、シャワーで濡れた髪をドライヤーで乾かしている。出場決定の報を聞いてから数時間が経過しても、伊達は昂揚したままだった。


「それでも、キックとMMAはまるで別物だからねえ。寝技対策はばっちりなの?」


「さすがにこっちから仕掛けるのは無理っすけど、相手のタックルをかわすぐらいなら余裕っすよ。トラさんみたいな強敵と当たるわけじゃないっすからね」


「そっかそっか。カズっちは反射神経もフィジカルも並じゃないからなあ」


 同じように髪を乾かしている晴香は、笑顔でそのように応じていた。

 景虎より三歳年長の二十七歳で、おまけに五歳の子供を持つ身であるのだが、晴香はとても若々しい。なおかつ、景虎を除けば綺麗どころがそろっているこのメンバーの中で、一番色っぽいようにも感じられた。


 十八歳でプロデビューして、二十一歳で引退して、結婚と出産を経て二十七歳でカムバック、というのもなかなか波乱にとんだ人生である。しかも彼女は幼稚園児の息子もいっしょに入門させており、ともにジム通いしているのだった。その息子たる隆也少年は、夕方に自分のレッスンを終えて、今は事務所で母の着替えを待ちわびている。


「あ、そうだ! そしたらこれから、トンチャイの店でお祝いしない? ディナーをご馳走してあげるよ」


「ありがたいっすけど、今は試合に向けて調整中なんすよ。平常体重から二キロ以上は落とさないといけなかったんで」


「あ、そうだったんだあ? でも、二キロぐらいなら楽勝だよね!」


「……そういうことは、自分のシェイプを済ませてから言ってもらえますか?」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、伊達は晴香の脇腹をつついた。

 伊達よりは軽い晴香であるが、そのぶん身長も五センチぐらいは低い。脂肪と筋肉の割合でいえば、どちらがシャープであるかは考えるまでもなかった。


「やめてよ、エッチー。……それじゃあ、ののっちは? 晩ごはん、これからでしょ? ご馳走するから、ひさびさにトンチャイのお店に行かない?」


「僕は別に、祝ってもらうようなネタもないけど」


「いいじゃん。今日は旦那も帰りが遅いから、ディナーは外で済ませる予定だったんだあ」


「なんだ、自分の外食につきあわせたいだけだったんすか」


 笑いながら、伊達がまぜっかえす。

 普段通りの、なごやかな様相である。

 晴香はきわめて社交的であるし、乃々美や伊達は年長者に可愛がられるタイプであった。双方ともに無愛想で口も悪いが、晴香や景虎あたりから見れば、そういった部分も美点に感じられるぐらいなのだ。


 半年ほど前に入門して以来、晴香と乃々美はとても仲良くしているし、それから三ヶ月遅れで入門した伊達も、こうして順当に交流を深めている。年齢も経歴もバラバラである女の集まりとしては、かなり穏便にまとまっているほうだろう。景虎とて、古参の年長者としてそれには貢献してきたつもりだった。


 しかしこの場には、五人目の人物も存在する。

 最後にシャワーをあびた柚子は、更衣室の片隅でドライヤーが空くのをぼけっと待ち受けていた。


 彼女はいつも学校からジムに直行してくるので、今日も制服姿である。白いブラウスに赤いリボン、ベージュのベストに紺色のスカートいういでたちが実に可愛らしい。黄色みがったショートヘアは湿気でぺったりとしており、色の淡い瞳はあらぬ方向にぼんやりと向けられている。


 真っ先に着替えを済ませた景虎は、ロッカーを閉めてから柚子のほうに向きなおった。

 が、口を開くのは晴香のほうが早かった。


「トラさんとゆずっちは? この後、おひま?」


「え? あ、何ですか?」


 柚子が、きょとんと晴香を振り返る。

 ぼけっとしていて、みんなの会話も聞いていなかったらしい。


「晩ごはんだよ。コーチのトンチャイがやってるタイ料理屋に行こうと思うんだけど、一緒にどう? ゆずっちには、あたしがおごってあげるからさー」


「え、あ、でも……な、何でですか?」


「別に何でってことはないでしょ。大勢いたほうが、楽しいじゃん?」


 晴香をよく知る人間であれば、別に珍しい発言でもない。

 が、晴香をよく知らない柚子は、大いに困惑してしまっているようだった。


「だ、だけどあの、あたしは新入りですし……場を盛り下げちゃったら申し訳ないですし……」


「新入りって言っても、もう三ヶ月でしょ? あたしだって、大して変わんないよお」


「は、はい。だけど……」


 柚子はもじもじとしながら、うつむいてしまった。

 本当に困っているのか、ただ遠慮しているのか、これではまったくわからない。ここは、景虎がフォローするべきだと思われた。


「あんまりキックのメンバーと帰りの時間が重なることはなかったからね。たまにはこういうのもいいんじゃないのかい? あたしはもちろん、参加させていただくよ」


「あ、はい……」


「今は八時半ぐらいか。こんな時間だと、親御さんに怒られちまうかな? 晩ごはんを作って帰りを待ってくれてるとか?」


「あ、いえ……それは大丈夫だと思いますけど……」


 そのように言いながら、柚子は上目づかいで景虎と晴香を見比べてきた。


「……ほんとにお邪魔じゃありませんか?」


「お邪魔だったら、誘わないよー。練習中だと、なかなかおしゃべりできる時間もないからねえ。たまにはこうやって、親睦を深めないと!」


「それじゃあ、あの……ご一緒できたら、とても嬉しいです」


 まだちょっとうつむいたまま、柚子ははにかむように微笑んだ。

 練習中に「わーい!」とはしゃいでいた姿とは、まるで別人だ。どうもこの娘は練習中とそれ以外の時間で大きくスイッチが切り替えられてしまうようだった。


「よーし、けってーい! ……あ、気づいたらカズっちだけ仲間外れだー」


「何すか、それ。小学生じゃあるまいし」


「うふふ。参加したくなってきちゃったー?」


「お生憎さま。家でササミとブロッコリーが待ってるもんで」


 伊達は小さく肩をすくめると、ドライヤーを台に戻した。


「おら、空いたぞ。先輩がたにくっついてく気なら、とっとと準備を済ませな」


「あ、はい、すみません……あの……」


 伊達のほうに近づきながら、柚子はまたもじもじしている。

 伊達はけげんそうに首を傾げてから、いきなり柚子の額を指で弾いた。


「ばーか。小学生じゃねえって言ってんだろ。こんなんでハブられてるとか思わねえから、余計なこと気にすんじゃねえよ」


「あ、はい、すみません……」


「……なんか、ビンタでもしたくなる態度だな」


「す、すみません!」


「冗談だよ。それじゃあ、お先に」


 最後に柚子の頭をもう一度小突いてから、伊達は更衣室を出ていった。

 そうしてその日は、初めての顔ぶれでディナーをとることが決定されたのだった。


               ◇


 その店は、中野からすぐそばの新宿にあった。

『シングダム』のコーチであるトンチャイという人物が友人と共同で経営しているタイ料理店である。店名は『カーオクワーィ』で、これは「白い水牛」という意味であるらしい。


 ちなみに『シングダム』というのは「黒い獅子」の意であるらしいのだが、聞くところによると『カーオクワーィ』とは色と動物の順番が逆であるようなので、どちらが正しい文法なのかとトンチャイに聞いてみたのだが、「マイペンライ(なんとかなる)」という言葉しか返ってはこなかった。


 ともあれ、タイ料理店『カーオクワーィ』に入店である。

 幸い、店は七割ていどの混み具合いであり、幼児をふくむ総勢五名でも大きなテーブル席を確保することができた。キック部門の三名が並んで座ったので、景虎は柚子と二人でそれに向かい合う位置取りとなった。


 コーチのトンチャイは今もジムでプロ練習の面倒を見ているので、注文を聞きに来たのはもう一人の経営者であった。試合の打ち上げや忘年会などでも使われているこの店は、景虎や乃々美にとっては数年来の馴染みの店なのだった。


「いやー、ののっちにここを紹介されてから、あたしもタイ料理にハマっちゃったんだけどさー。やっぱり家では再現が難しいんだよねー」


 注文の料理が来るまでの間、一番賑やかにしていたのは、やはり晴香であった。


「ゆずっちは、初めてのタイ料理なんだよね? 最初は違和感あるかもだけど、中毒性がやばいから! だまされたと思って、色々食べてみてね」


「あ、は、はい」


 景虎のかたわらで、柚子はさっきから店内の様子をきょろきょろと見回していた。タイ風のエスニックな装飾が物珍しいのかもしれない。


「確かにあたしも最初は苦手かなと思ったんだけどね。しばらくしたら、なんだか無性にまた食べたくなってきちまったんだよ。他の食事では代替えができないような味だから、そんな風に感じるのかねえ」


 景虎がそんな風に乗っかってみると、柚子はこちらを振り向いて、またはにかむように笑った。


「そうなんですか。すごいですね」


 ようやく練習中の無邪気さが少しずつ戻ってきている感じである。

 なんというか、気まぐれな子猫でも預かっているような心地であった。


「ゆずっちとは、夏合宿以降はあんまり絡めてなかったもんね。また機会があったら、一緒にごはんしようね」


「あ、はい、ありがとうございます……あ、でも、いつも会計をおまかせするのは申し訳ないですから……」


「気にしないでいいよお。中学生とワリカンってのはしのびないもんね、トラさん?」


「そりゃそうだ。こういうときぐらいは、大人に甘えな」


 それほど生活にゆとりがあるわけでもなかったが、たまの外食で出費を惜しむような真似をするのは、景虎の性分ではなかった。ジムの月謝や自分の交遊費は昼間のパートで稼いでいる晴香にしても、それは同じことであろう。


 ちなみに柚子は、学校の制服から晴香の予備のジャージに着替えさせられていた。保護者同伴とはいえ、このような時間に制服姿で盛り場をうろつくのはまずいだろうという晴香の判断だ。


「あ、そうだ。おうちに連絡しなくて大丈夫? 親御さんが心配しちゃうようだったら、あたしが頼りになる大人ぶって安心させてあげるよ?」


 晴香がそのように提案すると、柚子は「いえ」と首を横に振った。


「今日は親も家を空けているので、大丈夫です。……心配してくれてありがとうございます」


「あ、そうなんだ? でも、帰りはちゃんと送ってあげるからね」


「だ、大丈夫です。新宿からなら、ふた駅ですし」


「あー、そういえば、ゆずっちはどこに住んでるんだっけ?」


 答えは、「千駄ヶ谷です」であった。


「ふむふむ。ののっちとは逆方向か。そしたら、トラさんにお願いしてもいい?」


「ああ。電車で片道五分ってとこかね。なんの手間にもなりゃしないから、気にしなくったっていいよ」


 柚子は恐縮のきわみといった様子で小さくなってしまっている。

 その様子を眺めていた晴香が「ふーむ?」とおかしな声をあげた。


「前々から思ってたけど、ゆずっちって面白いよね」


「え、あ、面白い、ですか……?」


「うん。甘え下手の甘えん坊って感じ。単純そうなのに複雑そう」


 柚子は、目を白黒とさせてしまっていた。

 そんな柚子に、晴香はにっこり笑いかける。


「ののっちとは正反対のタイプなのかなー。ののっちは、複雑そうなのにめっちゃシンプルだもんね?」


「僕のどこが複雑そうなのさ」


 隣の隆也少年と小声で喋っていた乃々美が、横目で晴香をにらみつける。乃々美は母親ともその愛息とも仲良しであるのだ。


「だってののっちってば、鬱屈してそうなのに全然鬱屈してないんだもん。ひねくれものかと思いきや、びっくりするぐらい素直だし」


「ふーん。僕のこと、ひねくれものだと思ってたんだ?」


「ひねくれものっていうか、神経質で短気な人間なのかと思ってたよ。そしたら、本性は真逆だったしねー」


 乃々美は面倒くさそうに肩をすくめただけで、何も答えようとはしなかった。

 そのかたわらで、隆也少年はにこにこと笑っている。大好きな母親と乃々美にはさまれて、ご機嫌の様子である。自分の練習後には事務所でお昼寝をしていたので、すっかり体力も回復しているようだ。


 景虎には、この半年ほどですっかり見慣れた光景であった。

 しかし、新入りの柚子は戸惑った様子で小さくなったままである。晴香と乃々美のやりとりをどのように受け止めればいいのか、判じかねている様子だ。


(晴香のお気楽トークも効果なし、か)


 晴香は、人の警戒心を解くのが上手い。実際、乃々美というのは扱いづらいタイプであるはずなのだ。晴香の言う通り、実はまったく裏表のない人間で、素直すぎるぐらい素直なだけなのだが、それを半年ていどで見抜ける人間などはなかなかいないはずだった。


 そんな晴香でも、柚子への扱いは探り探りであるように感じられる。熟練の猛獣使いが子猫の世話には手を焼かされているような、そんな様相に思えてしまった。


「それにしても、ゆずっちは練習熱心だよねー。最近はケガも少なくなってきたみたいだし、だいぶ体力もついてきたんじゃない?」


「あ、いえ、どうなんでしょう……まだまだ全然へたっぴですけど」


「入門三ヶ月目なら、誰だってへたっぴだよ。長く続ければ技術は身につけられるんだから、大事なのは楽しいかどうかだと思うよ?」


「はい、練習は楽しいです」


 柚子が、にこりと微笑んだ。

 こういうときは、驚くほど無邪気に見えてしまう。子猫に頭をすりつけられているような心地にさせられるのだ。


「うんうん。タイ料理と一緒で、中毒性がやばいよね! 代替えがきかないってのも一緒なのかな? ジムの外で人を殴るわけにもいかないし」


「あはは。そんなことしたら、大変ですね」


 やっぱり格闘技にまつわる話だと、柚子から無邪気さを引き出せるようである。

 柚子はちょっと身を乗り出して、晴香と隆也少年の姿を見比べた。


「でも、親子でジム通いってすごいですよね。こんなにちっちゃい子が格闘技を習ってるんだーって、最初はすごくびっくりしちゃいました!」


「うん、さすがに『シングダム』でもたー坊は最年少だけどね。去年の終わりぐらいだったっけな。あたしもスポーツジムで汗を流すだけじゃ収まりがつかなくなってきちゃったから、たー坊に相談してみたの。そうしたら、たー坊も一緒に行きたいって言ってくれてさ」


「……普通、園児にキックの試合を見せたりはしないよね」


 乃々美が横から口をはさむと、「だよねー」と晴香は朗らかに笑った。


「あたしの現役時代の映像を観せてあげたんだ。たー坊が嫌がるならガマンしなくちゃって思ってたから。……そうしたら、イヤがるどころか、カッコイイ! ボクも習いたいって言ってくれてさあ」


 すると今度は、たー坊こと隆也少年がはにかみながら母親の袖を引っ張った。たぶん、気恥ずかしくなってしまったのだろう。

「ごめんごめん」と晴香はその小さな頭を愛おしげに撫でる。


「それでまあ、たー坊が五歳になるのを待ってから、『シングダム』に入門させてもらったわけ。入門規定が、五歳からだったからさ。あそこはキッズクラスの生徒も多いし、コーチ陣もみんな優しいから、ほんとによかったよー」


「そうですね」と柚子も目を細めて笑っている。


「あたしも『シングダム』に入門してよかったです。みなさんには、その……迷惑ばっかりかけちゃってますけど……」


「んー? 少なくとも、あたしは迷惑をかけられた覚えはないなあ。トラさんだって、後輩が二人も入ってウッキウキでしょ?」


「ああ、ウッキウキだね」


「それじゃあ、迷惑をかけられてるのは僕だけか」


「こら! ののっちだって、入門したての頃は先輩がたのお世話になったでしょー? もらったご恩には報いないと!」


「そんな大昔の話、記憶にないよ」


 グラスのお冷で咽喉を潤してから、乃々美は柚子の顔をにらみつけた。


「あのさ、ひとつ言っておきたいんだけど」


「は、はい! 何でしょう……?」


「……僕とスパーをしたいんだったら、もっとしっかり身体を作ってくれない? どんなに手加減してもぶっ壊しちゃいそうで、おっかないんだよ」


「は、はい。すみません……」


「すみませんじゃなくってさ。身体作りのトレーニングにも、もうちょっと重点を置きなよ。身体の基盤ができてないのに技術面の手を広げたって身につくわけないんだからさ」


「そいつは遊佐さんじゃなくって、あたしが頭を悩ませる問題だろうねえ」


 柚子が萎縮しない内にと、景虎も割り込むことにした。


「もちろん、最低限のフィジカル・トレーニングはしてもらってるけどさ。確かに遊佐さんは、もうちょいそっちの比重を大きくしたほうがいいかもしれないね」


「は、はい。自分ではよくわからないので、指示をもらえれば頑張ります!」


「でも、そうするといっそう地味できついメニューになるよ? 入門三ヶ月目だったら、楽しくのびのびと好きな練習をしてもらいたいところなんだけどねえ」


「どんな練習でも、あたしは楽しいです。地味とか派手とかは、あんまり考えたことがありません」


 柚子の淡い色合いをした瞳が、きらきらと光りながら景虎を見つめていた。


「絶対に文句を言ったりはしませんから、あたしに一番必要なトレーニングの仕方を教えてください。どうかお願いします」


「……わかったよ。ちょっと明日からの練習メニューに手を加えてみようかね」


「はい、ありがとうございます!」


 つかみどころのない少女ではあるが、ひとつだけはっきりしていることはあった。それは、彼女が心底から真剣にトレーニングに打ち込んでいる、ということだ。

 強くなる、という目的のために、ひたすら真っ直ぐで貪欲なのである。そうでなければ、十五歳の女の子が週六で格闘技ジムに通ったりなどはしないだろう。費やしている時間や労力は、完全プロ志向の乃々美や伊達と変わらないぐらいであるのだ。


(……あたしも中学生の頃に格闘技に出会ってたら、こんな風になってのかねえ)


 景虎がそのように考えたとき、ようやく注文の品が届けられてきた。

 未知なるタイ料理の登場に、柚子はいっそう楽しげな様子を見せていた。


                 ◇


 それからおよそ一時間半の後。

 景虎は、柚子と一緒に千駄ヶ谷の町を歩いていた。

 自宅までは徒歩で七、八分ほどという話であったので、家の前まで送ることに決めたのだ。未成年者をこのような時間まで連れ回した大人としては当然の義務であったが、柚子はものすごく申し訳なさそうな顔になってしまっていた。


「そういえば、晴香のジャージのままで来ちまったね。親御さんに怒られたりはしないのかい?」


「あ、はい。親は留守にしてますから……」


「ああ、そうか。しかし、ずいぶん立派な場所に住んでたんだねえ」


 道を進むごとに、家屋の規模が大きくなっていく。いわゆる高級住宅街というやつだ。下町育ちの景虎には、なかなか見慣れない光景であった。

 すでに午後の十時を大きく回ってしまっているので、人通りなどはほとんどない。これでは、一人で帰せるはずもなかった。


「……今日は木曜日か。カズの試合までは、あと三日だね」


「あ、はい、そうですね」


「遊佐さんは、本当に応援に来る気なのかい?」


「は、はい……やっぱり迷惑でしょうか……?」


 店ではかなり元気な様子を見せていた柚子も、また申し訳なさの気持ちから小さくなってしまっている。

 景虎としては、楽しい気分で今日という日をしめくくらせてあげたかった。


「まったく迷惑なことはないけどさ。それだったら、雑用係をお願いできないかねえ?」


「ざ、雑用係ですか?」


「うん。その日はあたしがセコンドとして同行するんだけど、そいつを手伝ってほしいんだよ。そうしたら、交通費と食事代ぐらいは、ジムのほうで出してもらえるからさ」


 柚子は、景虎が想像していた以上に喜色をあらわにした。


「ほ、本当にいいんですか? あたしなんて、何もお役には立てなそうですけど……」


「頼んでるのは、こっちのほうだよ。半日も拘束してバイト代を出せないのが心苦しいぐらいさ」


 本当は、景虎がいれば雑用係など必要ないのだ。それでもまあ、黒田会長なら柚子の同行を許してくれるだろう。

 柚子は、半ば無意識のように、景虎の腕に取りすがってきた。


「ご、ご一緒させてほしいです! 絶対、ご迷惑はかけませんので!」


「そんなに気張る必要はないよ。試合中は、せいぜいカズを応援してやっておくれ」


「はい! ありがとうございます! ……あ、あれがあたしの家なんで、もう大丈夫です」


 そのように述べながら、柚子は景虎の腕から身を離した。

 見ると、ひときわ立派な屋敷が高い塀の向こうにそびえたっている。


「ほへー、これまた立派なお宅だね!」


「……あの、今日はありがとうございました。あたしまで誘ってくれて、すごく嬉しかったです。それじゃあ、また明日!」


 最後に輝くような笑顔を見せてから、柚子はぱたぱたと夜道を駆けていった。

 その小さな姿が通用口の向こうに消えるのを見届けてから、景虎はきびすを返す。


 なんとか子猫の餌付けには成功できたようだった。

 景虎は、そこはかとない満足感を噛みしめながら、のんびりと千駄ヶ谷の駅を目指すことにした。

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