エピローグ
2017.4/1 更新分 7/7
一年後。
学校から帰ってきた真琴は、郵便受けに入っていた封書の送り主の名前を見て、胸を高鳴らせた。
それは半年ぶりに届いた、羽柴レオナからの手紙であった。
すぐに封書の中身を確認したいという欲求を懸命におさえつつ、急ぎ足で玄関をくぐる。
母たちは畑に出ている時間なので、家には誰もいなかった。
しかし、玄関には鍵すら掛けられていない。そういう土地柄であるのだ。
きゅっきゅっとウグイス張りのような音色を鳴らす廊下を駆けて、自分の部屋のフスマを開ける。
通学鞄を壁に掛けて、机の上からハサミを取り上げ、真琴は丁寧に封書を開封した。
ひとつ深呼吸をしてから、中の便箋をそっと取り出す。
そこには封書と同じ綺麗な筆跡で、たくさんの文字が記されていた。
冒頭には『三崎真琴様』の文字がある。
三崎というのが、真琴が一年前に得た新しい苗字なのだった。
『お久しぶりです。
元気にやっていますか?
こちらは、それなりに元気です。』
そんな挨拶の部分だけで、真琴は思わず涙をにじませてしまった。
しかし、そこから読み進めていくと、喜びよりも大きな驚きに見舞われることになった。
『こちらも両親が離婚することになりました。
自分は、母と一緒に東京へ引っ越すつもりです。』
手紙には、そのように記されていたのである。
真琴はいっそう胸を高鳴らせながら、手紙を最後まで読みきった。
『母もこの町での生活にはウンザリさせられていたそうです。
でも、自分が中学校を卒業するまではと我慢していたそうです。
そんなの、早く言ってくれよって感じですよね。
だけど、あんまり早く引っ越していたら三崎さんとも出会えていなかったのだから、まあいいかなと考えなおしました。
これを機に、空手なんかはやめてしまって、真っ当な人間になれるように努力したいと思います。
今は少しでもいい学校に転入できるように、猛勉強の最中です。
三崎さんのようにおしとやかな女性を目指して頑張るつもりです。
引越し先の住所がわかったら、またお手紙を出させてもらうので、それまでお返事は不要です。
それでは、お元気で。
羽柴レオナ(もう少ししたら、九条レオナに変わります)
追伸
楽しく絵は描けていますか?』
それで手紙は終わりであった。
もう一度、最初から最後まで読みなおしてから、真琴はほーっと息をついた。
そうして、大事な手紙をくしゃくしゃにしてしまわないように気をつけながら、そっと胸に押し抱く。
(羽柴さんも、やっとあの町を出られるようになったんだ……)
まずはその喜びと安堵の気持ちが、胸いっぱいに広がった。
それから、手紙にあった一文が温かく真琴の中にしみわたっていく。
『だけど、あんまり早く引っ越していたら三崎さんとも出会えていなかったのだから、まあいいかなと考えなおしました』
彼女はきっと、特に考え込むこともなく、さらりとその文章を書いてのけたのだろう。
羽柴レオナとは、そういう少女であったのだ。
真琴はこぼれそうになる涙を手の甲でぬぐってから、手紙を封書の中に戻した。
そして、古びた勉強机の一番上の引き出しを開ける。
その引き出しには、これまでに彼女からもらった二通の手紙も大事にしまわれていた。
一通目は、引っ越してすぐにもらったもの。
二通目は、正月にもらった年賀状。
それが真琴と彼女のこの一年間のやりとりのすべてであった。
電話などは、一本もかけていない。
おたがい携帯電話は所持していなかったし、自宅の電話は使いたくないからかけてくるなと言われてしまったのだ。
「だって、あんたの声とか聞いたら泣いちゃいそうだしさ。そんな姿、馬鹿親父どもには見せらんねーだろ?」
別れ際、彼女はそのように言っていた。
真琴があの町を離れた日の、駅のホームにおいてである。
だから真琴たちは、たったこれっぽっちのやりとりしかできていなかった。
それにたぶん――羽柴レオナは、真琴の新しい生活の邪魔をしたくはない、とも考えてくれていたのだ。
もちろん彼女との交流が、新しい生活の邪魔になるとは思わなかった。
だけど真琴は、彼女の言葉に従うことにした。
真琴のほうこそ、自分の存在が彼女の重荷になってはならない、と腰が引けてしまったのだ。
自分は早々にあの町から脱することになった。そんな自分がしつこく交流を求めても、彼女を苛立たせるだけなのではないのか――真琴には、そのように思えてしまったのだった。
(でも、羽柴さんもあの町を出られたんなら……もうちょっと手紙の回数を増やしても大丈夫かな)
そのように考えただけで、真琴は心から嬉しくなってしまった。
新しい場所での生活には、何の不満もない。
中学校や高校に通うのに、バスや電車を使って一時間近くもかけなくてはならないような土地であるが、そんなものは苦にもならなかった。
祖父の畑仕事を手伝っている母親も、見違えるように明るい表情を見せるようになっていた。だからきっと、自分も同じように変化しているのだろうと思う。田舎で、不便で、何の娯楽もないような土地であったが、それでもあの殺伐とした港町では得られようもない平穏で心安らかな生活が、そこにはあったのだ。
中学校でも高校でも、新しい友人めいたものを作ることはできていた。
中学校は七ヶ月ばかりで卒業することになってしまったし、高校はまだ入学してから三ヶ月ていどしか経っていないので、どちらの人々ともまだ友人関係を構築している途上の段階ではあるが、それでも少なくとも孤独ではなかった。
(こんなわたしでも、受け入れてくれる人間はいる。……それを教えてくれたのは、羽柴さんなんだ)
彼女もきっと、新しい土地で新しい友人関係を構築することができるだろう。
彼女はあんなに優しくて、魅力的な人間であるのだから、そうならないわけがなかった。
(東京か……それじゃあやっぱり、気軽に会える距離じゃないな……)
だけどそれでも、真琴が彼女の存在を忘れることはないだろう。
それぐらい、彼女は真琴の心に大切な感情をもたらしてくれたのだ。
たとえこのまま一生顔をあわせる機会がなかったとしても、それは変わらない――真琴はそのように信じていた。
『楽しく絵は描けていますか?』
手紙の最後の一文を思い出して、真琴は思わず口もとをほころばせてしまう。
そうして真琴は部屋の奥に進み、押入れのフスマを開けて、風呂敷に包まれた油絵のキャンバスを取り上げた。
風呂敷を取り払い、描き途中の絵に視線を落とす。
学校などには持ち込まず、家の中でだけ少しずつ描き進めている、大事な絵だ。
そこに描かれているのは、夕闇の中で躍動する羽柴レオナの姿であった。
(わたし、描いてるよ。約束通り、誰にも見せていないしね)
いつかこの絵が完成したら、羽柴レオナ自身に見せることができるのだろうか。
それを空想して毎日筆を握るのが、今の真琴にとっては一番楽しい時間なのだった。
こんなに幸福で楽しい時間を忘れられるわけがない。
こんなに鮮烈で美しい少女を忘れられるわけがない。
そのようなことを思いながら、真琴は今日も幸福な時間にひたるための準備を始めることにした。




