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ストライキングガール! EX  作者: EDA
第一章 中野シングダム ~景虎明良と遊佐柚子~
1/10

第一話 虎と猫

2017.3/20 更新分 1/3

・この章は三話で完結です。四月には別のエピソードを公開する予定です。

・3/20、4/6付けの活動報告にてキャラデザの画像や書籍の情報などを掲載しておりますので、ご興味のある方はよろしくお願いいたします。

 リングの上で、二人の少女が拳を交えていた。

 試合ではなく、スパーリングである。ここは中野にある格闘技ジム『シングダム』のトレーニングルームで、今は夕方の自由練習時間だった。


 スパーリングに励んでいるのは、どちらも中学三年生の年若い少女たちだ。

 双方ともに小柄で、体格もほっそりしている。どちらも身長は百五十センチに届いていなかったのだから、同年代の人間と比べてもなお小柄なほうだろう。


 キックボクシングのルールであるので、グローブとヘッドガードの他に、膝用のニーパッドとすね用のシンガードも装着させている。それらの防具が異様にごつく見えてしまうぐらい、華奢な外見をした二人であった。


 しかし、その力量には天と地ほどの差があった。

 さきほどから、より小柄な少女のほうが相手を翻弄してしまっている。自分の攻撃だけを的確に当てて、相手の攻撃は軽妙なステップワークで回避している。それも力半分で、相手をKOしてしまわないように気をつけながら、ひたすら攻撃を撃ち込んでいるのだった。


 もちろんそれは、力量差があるからといって相手をいたぶっているわけではない。スパーリングの形式で、相手を指導してあげているのだ。

 片方はアマチュア・ムエタイの女子世界王者であり、もう片方は入門三ヶ月目の初心者なのである。力量差があって当然の両者なのだった。


(乃々美は上手くやってくれてるけど、そろそろ限界かな)


 ストップウォッチを手にそのスパーを見守っていた景虎明良かげとら あきらは、内心でそのようにひとりごちた。

 三分一ラウンドで始めたスパーで、ようやく二分が過ぎたところだ。しかし、初心者のほうはもう足がもつれ始めて、スパー用の大きなボクシンググローブをはめた腕を上げていることさえ苦痛になっている様子だった。


(やっぱり二分一ラウンドにしとくべきだったかねえ)


 景虎は、このジムの指導員なのである。このスパーは景虎の指示で始められたものなのだから、全責任を負う立場にあった。


(怪我でもされたら元も子もないし、そろそろやめさせるか)


 そうして景虎が声をあげかけようとしたとき、乃々美の左足が相手の右脇腹に突き刺さった。

 彼女が得意とする、左のミドルキックだ。

 普段の彼女と比べれば、あくびが出るぐらいゆったりとした動きであったが、完全にレバーに入ってしまったらしい。くらった相手は右脇腹を抱え込んで、弱々しくリングにへたりこむことになった。


「はい、終了! 二人ともお疲れさん」


 景虎はコーナーに設置された階段を駆けのぼり、ロープをくぐってリングの上にあがった。

 ダウンした少女は、ぜいぜいと息をつきながら起き上がろうとしている。


「ダ……ダウンは二回までオッケーじゃありませんでしたっけ……?」


「体力的に、もう限界だろ。そろそろ三分だし、これで終わりにしよう」


 景虎は膝をつき、彼女の頭に装着されていたヘッドガードを外してやった。

 黄色みがかった短い髪が、汗でしんなりしてしまっている。実際は二分と少々しか経過していなかったが、彼女はすっかり消耗し果ててしまっていた。


「言っておくけど、最後の左ミドルなんて三割ぐらいの力加減だったんだからね。あれでダウンするようじゃあ、もう限界だよ」


 無愛想な声で言いながら、乃々美が景虎のほうに両手のグローブを突き出してくる。「お疲れさん」と応じながら、景虎はその手首のマジックテープをはがしてやった。


「ふん」と鼻を鳴らしつつ、乃々美は自由になった手で自らヘッドガードを外す。

 その下から現れたのは、年齢相応の可愛らしい顔だ。

 いつもじとっとした目つきをしているのが難点であるが、顔立ちはなかなか整っているほうだろう。長い黒髪は三つ編みにして、首の後ろでまとめあげている。身長は百四十八センチしかないし、外見からアマ・ムエタイの世界王者という肩書きを推し量ることは難しい。


 が、景虎のかたわらで荒い息をついている少女のほうは、さらに整った容姿をしていた。

 こちらも身長は乃々美をわずかに上回っているぐらいで、とても華奢な体格をしている。色が白くて、髪も瞳も淡い色合いをしており、一見するとハーフか何かのようだ。ウサギのように丸っこい目が印象的で、テレビで見るアイドルなんかと比べても見劣りしないのではないかと思えるぐらい愛くるしい顔立ちをしていた。


 名前は、遊佐柚子という。

 三ヶ月ほど前に入門を果たしたばかりの、まごうことなき初心者だ。

 入門前にもとりたててスポーツなどには取り組んでいなかったという話であるので、骨格も筋肉も未成熟そのものである。


「まあ、初めての本格的なスパーだったんだから、緊張や興奮でスタミナを削られるのが当然さ。それであれだけ一方的に小突き回されたら、余計にね」


 そのように述べながら、景虎は柚子のグローブも外してやった。


「まったく思うように動けなかったろ? そいつを体感してもらうためのスパーだったんだけど、大丈夫かい?」


「はい! 最初の一分ぐらいで息が切れてきちゃいました! それにやっぱり、蜂須賀さんはすごいです!」


 蜂須賀さんというのは、乃々美のことだ。柚子はへろへろの笑顔で乃々美のほうを振り仰いだ。


「あの、蜂須賀さん、今日はありがとうございました! また時間があったら、よろしくお願いします!」


「え、やだよ。こんな初心者とスパーしたって、僕には何のメリットもないし」


「えー! そんなこと言わないで、どうかお願いしますー!」


「やだったらやだ」


 めげない柚子と意地悪な乃々美に、景虎はついつい苦笑してしまう。


「あたしからもお願いするよ、乃々美。夕方のこの時間はあんたぐらいしか体格の合う相手がいないからさ」


「体格が近けりゃいいってもんじゃないでしょ。こういう面倒なスパーは晴香のほうが向いてるし」


 その晴香は、隣のリングでもう一人の新人ジム生とスパーに取り組んでいた。

 が、あちらの新人はキックボクシングの経験者であったので、互角以上の奮闘っぷりを見せている。元プロ選手の晴香を相手に、大したものである。


「ご覧の通り、晴香にはけっこうカズの面倒をお願いしちゃってるからさ。まあこれからは、晴香にも遊佐さんのお相手をお願いしようと思ってるよ」


「え。そんなに晴香を使われたら、僕のほうこそ相手がいなくなっちゃうんだけど」


「いや、あんただって晴香のほうが向いてるって言ってたじゃないか。あんたをないがしろにしたりはしないから、そんなに心配しなさんな」


 乃々美はいっそうじとっとした目つきになりながら、「あーあ」とぼやいた。


「なんだかこっちの負担ばっかり増えてない? 僕や晴香は指導員でも何でもないんだけど」


「部門は違えど、同じジムの仲間じゃないか。こういうときは、持ちつ持たれつだろ」


 いま名前があがった中で、乃々美と晴香はキック部門、それ以外のメンバーはMMA部門なのだった。

 キックというのはキックボクシング、MMAというのは総合格闘技の略称である。この他にも、『シングダム』においては柔術部門というものも存在した。柔術というのは、ブラジリアン柔術の略称だ。


 だが、そういったクラス分けも便宜上のもので、そこまできっちりと線引きがされているわけではない。MMAにおいては打撃技も寝技も等しく習得しなければならないので、キック部門や柔術部門のトレーニングにも意欲的に参加しているジム生が多かった。というか、キックボクシングや柔術の技術を複合的に扱うのが、MMAという競技の本質であるのだ。だからこその、「総合格闘技」なわけである。


 景虎も、所属はMMA部門だ。年齢はまだ二十四歳で、このジムでは部門を問わず、唯一の女子の現役プロ選手であった。

 というか、三ヶ月前までは、景虎がMMA部門でただ一人の女子選手であったのだ。そこに、遊佐柚子と伊達和樹という二名の新人門下生を迎えることになったのだった。現在、リングの下で自主練習に取り組んでいる他のジム生たちは、みんなむくつけき男子選手ばかりである。


「……伊達のほうはまだキックの経験があるから、まともなスパーになるけどさ。こっちのこいつは完全な初心者なんだから、まだスパーをやれるレベルじゃないんじゃない?」


 不機嫌そうな声で、乃々美がそのように発言した。

 伊達は年長者であったが、後輩に対しては容赦のない乃々美である。

 そして恐るべきことに、彼女は九歳からこのジムに通っているので、景虎よりも古参の選手に属するのだった。


「まあ、そのあたりのことはあたしが様子を見て判断していくからさ。機会があったら、またよろしく頼むよ」


 柚子が心配そうな面持ちになってしまっていたので、景虎はそのように取りなしておくことにした。

 乃々美はひとつ肩をすくめてから、リングを下りていく。


「さ、ちょっくら休憩したら、寝技の稽古に戻ろうか。どこも痛めたりはしてないよね?」


「はい、大丈夫です!」


 だいぶん体力の戻ってきたらしい柚子は、笑顔でそのように応じてきた。

 実に楽しそうな笑顔である。スパーでまったくいいところを出せなかったのに、落ち込んでいる様子はまったくない。


 隣のリングでは、スパーの第二ラウンドが始まってしまっていた。あちらはタイマー式の時計を置いて、三分三ラウンドのスパーを申しつけておいたのだ。

 とりあえず、景虎は柚子と一緒にリングを下り、水分補給とストレッチを指示してから、伊達と晴香のスパーを見守ることにした。


 第二ラウンドに入っても、伊達の動きは落ちていなかった。

 得意の蹴り技を軸にして、果敢に攻め込んでいる。その猛攻を、晴香がやわらかいステップワークでいなしている格好だ。


 伊達は柚子と同時期に入門を果たした新人ジム生であったが、その前には三年ほどグローブ空手という競技の経験があった。それで、アマチュア・キックの試合などにも出場していたという話であったのだ。


 いっぽう晴香は、キックの元プロ選手である。六年ほど前に引退して、結婚と出産を経て、またアマの選手としての活動を再開させた変わり種だ。

 まだ復帰してから半年ていどであるので、全盛期の力はとうてい取り戻せてはいない。が、ここ数年はスポーツジムに通って身体を鍛えなおしていたということで、決して動きは悪くない。


 むしろ、若くて勢いのある伊達と互角の勝負ができていることを評価するべきなのだろう。決して相手に有効打は許さず、隙あらばこまかいパンチを撃ち込んでいる。戦況としては伊達が有利だが、意外に攻撃のヒット数に差はないように思えてしまった。


「カズ、攻撃が荒いよ! もっときっちり距離を考えな!」


 リング下から景虎が呼びかけると、伊達は猛攻の合間に「押忍!」というやけくそ気味の声を返してきた。


「やれやれ。熱くなっちまってるねえ。あれがなけりゃあ、晴香が相手でももっと楽にやりあえるだろうに」


 防音材の張られた壁にもたれながら、景虎はそのように評してみせた。

 その足もとでむさぼるようにスポーツドリンクを飲んでいた柚子が、「すごいですよねー」と声をあげる。


「当たり前の話ですけど、あたしなんかとは全然レベルが違うし……伊達さんとスパーをしたら、あたしなんて最初の十秒でKOされちゃいそうです!」


「ああ。だから、あんたとのスパーは乃々美と晴香にお願いしたいんだよね。カズとぶつけるのは、あまりに危なっかしいからさ」


「……あたしが一人で低レベルだから、みんなに迷惑をかけちゃってるんですよね。ほんとに申し訳なく思ってます……」


「いや、あんたが申し訳なく思う必要はないけどさ」


 ただ、柚子がこの場で浮いてしまっているというのは事実であった。

 ビギナークラスの講習においては、何の問題もありはしない。そちらでは、どのような初心者でも懇切丁寧に指導するシステムが確立されている。が、柚子はそれらの講習だけでは飽き足らず、こうして夕方の自由練習時間にまで参加しているのである。


 初心者でも、講習のおさらいがしたくて顔を出す人間は多数いる。どれほどの練習に参加しても月謝は一律であるのだから、そうしたほうがお得なのは事実だろう。

 が、ここまで熱心な初心者というのは、なかなかいない。閉館日の日曜日を除く六日間、柚子はオーバーワークで体調を崩さない限り、ほぼ毎日のように顔を出しているのだった。


(しかもそれが、中学三年生のこんな可愛らしい女の子だってんだからねえ)


 景虎がそんな風に考えていると、熱心にリングのほうを見つめていた柚子が、いきなりぐりんと顔を向けてきた。

 その鳶色の瞳が、じっと景虎の二の腕を注視する。


「伊達さんも景虎さんも、筋肉がすごいですよね! あたしはこんなひょろひょろだから、それが羨ましいです!」


「そりゃあ、キャリアだけじゃなくて年齢の問題もあるからね。乃々美だって、あたしらほど筋肉はつけてないだろう? 若い内は、筋肉をつけすぎるのもよくないのさ」


「だけどやっぱり、憧れちゃいます! なんだか最近は、筋肉がつくどころか体重が落ちてきちゃったみたいですし……」


「動いてる分、しっかり食べないとね。ただでさえあんたはオーバーワーク気味なんだから、絶対に無理はするんじゃないよ?」


「はい! ジムに通う前の倍ぐらい食べてるし倍ぐらい寝てますよ! おかげで、身長はちょっぴりだけのびたみたいなんです!」


 と、柚子は実に嬉しそうな顔で微笑んだ。

 入門当初、彼女はもっと暗い眼差しをした女の子だった。それがこの三ヶ月で、見違えるほど明るくなったのだ。だから景虎も、なんとかこの物好きな少女を上手く導いてあげたいと願っていたのだった。


(……本当に、どうしてこんな娘っ子が格闘技なんかに興味を持つことになったんだかね)


 景虎などは、これが天職と思っていた。格闘技一本で食べていけているわけではないので「職」と呼ぶには躊躇われる面もあるが、何にせよ、格闘技なしの人生などは考えられないぐらいだった。


 景虎は、子供の頃から体格に恵まれていた。というか、男のように厳つい風貌もしていた。それで名前が「アキラ」なものだから、それなりに忌々しい幼年時代を送ることにもなってしまっていた。


 そうして学生時代は、この体格をどのようなスポーツで活かすべきか、ずっと試行錯誤させられたのだ。中学と高校をあわせて、バレー、バスケ、ソフトボール、陸上、ソフトテニスなど、実にさまざまな部活動を渡り歩くことになった。

 そこで柔道などの格闘技に走らなかったのは、最後のささやかな抵抗であったのかもしれない。男のような外見をした自分が格闘技などに取り組むのは、あまりにも末期的であるように思えてしまったのだ。


 それでけっきょく心から打ち込めるスポーツに出会うことなく、景虎は学生生活を終えることになった。小さな運送会社で事務員兼運転手として働くことになり、もてあます体力や熱情は社会人のフットサルチームに加わることでわずかながらに発散するしかなかった。


 だが、二年ほどで限界が訪れた。

 運動不足なのか何なのか、気分がムシャクシャしてたまらなくなってきてしまったのだ。

 こんなことなら、もっと身体を酷使する仕事にでもつくべきだった。もとから骨太で、筋肉質で、男まさりの怪力を持つこの身体が、もっともっと暴れたいとわめいているような感覚であった。


 それで景虎は二十歳の冬、この『シングダム』に入門することになったのである。

 そこからは、生活が一変した。格闘技が生活の中心になるのに、二ヶ月もかかりはしなかった。

 そうして景虎は一年半ほどのキャリアでプロ選手に昇格し、それを機に会社も辞めてしまった。格闘技で食べていく算段などは立てようもなかったが、もっとトレーニングに時間と情熱を注ぐべきだと考えたのだ。


 生活費はアルバイトで稼ぎ、それ以外の時間はトレーニングに当てた。去年には『シングダム』で指導員の役職をもらうことができたので、アルバイトは朝方から昼までに減らし、いっそう格闘技に集中することができている。


 先のことなどは、あまり考えていなかった。

 自分が結婚できるとは思えなかったので、もっともっと実績を残して、引退後はコーチやトレーナーの職にでもありつけたら最高だな、というぐらいの気持ちでいた。


 そんな景虎の前に現れたのが、この遊佐柚子と伊達和樹であったのだ。

 MMA部門としては、景虎を除けば初めての女子ジム生である。キック部門や柔術部門には何名かの女子ジム生が存在したが、MMA部門における女子ジム生としては、彼女たちが初の後輩であったのだった。


(……カズのほうは順当に仕上がってきてるから、こっちのこの娘っ子を何とかしてあげなきゃな)


 有り体に言って、柚子というのはまったく格闘技に適性のない少女であった。

 十五歳の中学三年生で、スポーツの経験もなく、体格にも恵まれていない。とりたてて病弱なわけではないが、平均よりは貧弱なほうだろう。それに、生まれつき肌が弱いらしく、普通では生じないような青痣や擦過傷などをこしらえてしまっている。今も目の上に絆創膏を張っており、二の腕や腿のあたりには乃々美からもらったゆるい打撃の痕が残されてしまっていた。


(それに、サンドバッグを殴るのは楽しそうだけど、実際に人を殴るのには腰が引けちまうみたいだし。そんなんで、いったい何が楽しいのやらねえ)


 指導員として、景虎はそこのあたりを見極めたいと願っていた。

 が、この遊佐柚子という少女はとらえどころがなくて、なかなか本質が見えてこないのである。


「……ねえ、遊佐さん。あんた、グラップリングに専念する気はないのかい?」


「え?」と柚子がびっくりまなこで景虎の顔を見上げてくる。

 グラップリングというのは、組み技と寝技のみで優劣をつけるルールのことだ。MMAの基礎技術として普及しているが、グラップリング・ルールの世界大会などというものも、いちおうは存在している。


「完全な初心者なら、まずはグラップリングや柔術に専念してみるってのも有効だと思うんだよね。ましてやあんたは、十五歳の中学生なんだからさ。そっちでしっかり寝技の基礎を身につけてから、おいおい打撃の練習に取り組んでみるってのはどうだろう?」


「あたし……やっぱりみんなの足を引っ張っちゃってますよね」


 と、柚子はじんわりと涙を浮かべてしまう。


「それだったら、みんなのお邪魔をしないように、こういう時間はサンドバッグだけ叩いてますから……」


「そういう話じゃないんだよ。ただ、立ち技と寝技をいっぺんに習得しようってのは大変なことだからさ」


「でも……あたし、立ち技の稽古も大好きだから……」


「ちょいと提案したぐらいで泣くこたあないだろう。情緒不安定な娘っ子だね」


 景虎は柚子の肩にかけられていたタオルを奪い取り、それで顔を乱暴にふいてやった。


「嫌なら嫌でいいんだよ。勝手に先回りして勝手に泣かれたら、あたしはどうすりゃいいんだい?」


「……ごめんなさい。景虎さんを困らせてるって思ったら、すごく悲しくなってきちゃって……」


「あんたは新人ジム生で、あたしはこのジムの指導員なんだ。あたしを困らせるのがあんたの役割だし、これぐらいのことであたしは困りゃしないよ」


「はい、ごめんなさい」


 柚子は自分でも顔をふいてから、弱々しく景虎に笑いかけてきた。

 やっぱりどこか、不安定な少女である。無邪気で朗らかで元気いっぱいなのに、ちょっとつまずくとすぐに涙をこぼしてしまう。十五歳という若さを考えても、あまり普通でない不安定さであった。


「お疲れさん。今日もいつもの顔ぶれだな」


 と、ふいに陽気な声が響き渡った。

 振り返ると、大きな人影がのしのしと近づいてくる。このジムの創立者にして会長である黒田征吾であった。


「やあ、遊佐さんも熱心だね。体調のほうは大丈夫かな?」


「はい! さっきは蜂須賀さんにスパーをしてもらいました!」


「そうかそうか。ああ見えて、あいつは指導するのに向いてるからな。どんどん稽古をつけてもらうといい」


 黒田会長は、大らかに笑いながらうなずいた。

 ビヤ樽のような体格をした、四十過ぎの大男である。丸っこい顔の下半分が黒い髭に覆われており、山小屋のオーナーでもしていそうな風貌であった。


「おお、カズもお疲れさま。今、ちょっと時間いいかな?」


「押忍。今日は早いっすね、会長」


 三分三ラウンドのスパーを終えた伊達が、タオルで頭をかき回しながら近づいてくる。

 こちらは高校を出たばかりの、シャープに研ぎ澄まれた体格をした娘であった。セミロングの髪は明るい茶色に染めており、それなりに顔立ちは整っているものの、非常に鋭い目つきをしている。


「実はな、さっき『フィスト』の運営さんから電話が入ったんだ。週末の大会に出場できるみたいだぞ」


「えっ! マジっすか!?」


「ああ。出場選手の片方が負傷欠場になっちまってな。補欠で登録していたお前さんが繰り上げで出場だ」


「やった! ついにデビュー戦っすね! こっちは待ちくたびれてたとこっすよ!」


 それは、日本で一番規模の大きいMMA団体『フィスト』の主催するアマチュア大会の話であった。

 伊達は完全なプロ志向の選手であったが、明確なプロテストなどの存在しないMMAの世界においては、まずアマチュアの大会などで実績を残す必要があるのだ。


「普通は三ヶ月のキャリアで公式大会ってのは早すぎるぐらいだけど、ま、アマ・キックの実績もあることだしな。ウェイトのほうは大丈夫かい?」


「そりゃもちろん! アタシだって、出場をあきらめてたわけじゃないっすからね!」


 伊達は歓喜の表情で、なおかつ両目には闘志の炎を燃やしていた。

 その目が、決然と景虎を見据えてくる。


「そうと決まったら、猛特訓っすね! トラさん、寝技のスパーをお願いします!」


「ああ、そうだねえ……」


 それでは柚子はどうしよう、と横目でうかがってみると、彼女は羨望と賞賛の表情で伊達を見つめていた。


「伊達さん、出場おめでとうございます! あたし、応援に行きますね!」


「ああ。相手が誰だろうと、絶対KOで仕留めてやんよ」


 普段は柚子にそっけない伊達も、勇猛な笑顔でそのように応じている。半ばあきらめかけていた大会への出場が決定して、かなり昂揚しているようだ。


「それじゃあ、晴香は……ああ、乃々美とスパーを始めちまったか。先手を取られたね、こりゃ」


「あたしのことは気にしないでください。サンドバッグでも叩いてますから」


 柚子は、はにかむように笑っていた。

 どうにも世話を焼きたくなってたまらない笑顔である。

 すると、黒田会長が助け舟を出してくれた。


「なんなら、俺が遊佐さんのお相手をしようか。スパーはできないけど、立ち技のフォームの仕上がり具合いを見てあげるよ」


「わーい! ありがとうございます!」


 柚子はぴょこんと立ち上がると、景虎に一礼してから、黒田会長とともにサンドバッグのほうに近づいていった。

 逆に自分のほうが取り残されたような寂寥感を味わわされつつ、景虎はもう一人の可愛い後輩の指導に取りかかるしかなかった。

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