5
暗い通路の中を、どん、どん、という、何かが勢いよくぶつかるような音が断続的に響いている。
通路と祭壇の間を仕切る戸の無い入口を、スクーリオが氷の壁を作ることでスライムの侵入を防いでいた。
脇腹を食い破られたイヴは地面に敷いた外套の上に寝かされている。傷口には清潔な布が当てられているが、赤い血が派手に染み出ていた。
「彼女の様子は……!?」
「呼吸はしてる。傷は流石に深いが……」
フリックはそこで一呼吸置き、続けて言葉を口にした。
「二日程度で完全に治る」
「……!?」
「突飛な話に聞こえるだろうが、俺の頭がおかしくなった訳じゃねえぞ」
瞠目したスクーリオに、至って冷静な調子でフリックは説明を続けた。
「イヴはな。何故なのかは俺にも分からねえが『死なない』体なんだ。こういう致命傷を負った時とかは、大人しくさせとけば傷が勝手に尋常じゃない速さで治っていくんだ」
「……」
「……ああ、お前が気にする必要はねえよ。トロトロ考え込んだ俺の落ち度だ。気にせず休んどけ」
イヴがフリックに目線を送り、その意図を読み取ったフリックが直ぐに答えた。彼の答えにいくらか安堵したのか、イヴはこくりと一度頷くとフリックから一旦目線を外した。
彼女の様子は多少苦し気ではあったが、意識ははっきりとしており、意思の疎通は――彼女の保護者であるフリック限定ではあるが――問題無く行えるようだった。一見すると、うっかり熱に罹ってしまっただけかのようにも見える。
だが、腹を食い破られるという大怪我を負ってしまったことは紛れもない事実である。あれだけの傷を受けたのであれば、普通の少女であれば即座に死亡してもおかしくない――というよりかは『死亡して然るべき』なのだ。
フリックは背嚢から新たな布を取り出し、イヴの傷口に巻かれているものと手早く交換する。白い布に浮き出る血の染みは、先程のものよりも顕著に小さくなっていた。
多少戸惑った様子で、スクーリオは問い掛けた。
「……彼女は一体、何者なのだ?」
「それは俺にも分からん。イヴ自身も分かってないみたいだからな」
フリックはイヴの額に浮き出た汗を手巾で拭いつつ、彼女の様子を注意深く見守る。
「よく分かっていない状態で長く旅を続けてきたと? ……豪胆というべきだろうか? エルフも人間も、基本的に自分と著しく異なった者は排除する傾向にあるものだが」
不可思義げに、スクーリオはかすかに首を傾けた。
「しかし、君達はお互いを信頼し合っているように、私の目には見える。君が彼女に世話を焼く様子にしても……それに先のイヴ嬢の行動にしても、君を全面的に信頼していなければできない芸当だ」
「敵を引き付けたときのアレを言っているのか? まあそうだな……信頼し合っている、って言われたら、多分そうだ。……というか今までに何回か、ああいうことはやってきたけどな」
寝転がりながら特に見るべきものは何もないのでとりあえず、という風にフリックの顔を無表情でじっと見つめるイヴを横目で確認しつつ、スクーリオは重々しく口を開いた。
「……こんなことはあまり言いたくないが、ここははっきりと言わせてもらおう。……君は彼女を都合の良いように使っている訳ではないのか?」
「やっぱそう見えるか? まあ単純な戦闘能力だと俺の方が弱いわな。どう考えても。俺もまあそれなりには力つけている方だと自分でも思ってるが……それでもやっぱり敵わねえもんだよ。保護者を気取っちゃいるが、どっちがどっちに守られてんのか時々分からなくなる時もあるぜ」
さっきみたいにな。と自虐的にも見える微苦笑を浮かべながら、フリックは答えた。
「都合よく使ってんじゃねえのかって点は、まあ否定はしねえよ。実際イヴがいなけりゃ、俺はとっくにどっかの野っ原で骨になって転がってただろうしな。だが……イヴにおんぶにだっこのヒモ野郎に成り下がるつもりはねえぜ。俺は」
イヴの顔を見つつ、フリックは言葉を続けた。
「イヴは力が強い。おまけに死なねえ。が……魔物やらがわんさか蔓延ってて余裕のあるやつよりも無いやつの方が多い世の中だ。こいつはよく付き合ってみりゃ悪いやつじゃねえってのは分かるもんだが……如何せんそれが分からない、というか分かろうともしないっていう連中がまあ、なあ……」
彼はそこで、言葉を濁す。
常に魔物の脅威に晒されるこの時代、人々の『得体の知れないもの』に対する恐怖は大きい。人間の世を流浪するエルフであるスクーリオはその事実を、身を持って理解している。
ましてや彼女は、言葉を発さない――話さないのか、それとも話せないのかはさて置くとして――。身体能力は常人を遥かに越し、傷を負っても死なず、更に何を考えているか容易に掴めない彼女に好き好んで関わろうとする人間が、果たしてそうそう居るだろうか。
居るとすれば、彼女を利用しようとする悪人か度を越した酔狂か――いずれにせよ、碌でもない連中しか寄り付かないだろう。
「だが、その為の俺だ。こいつと普通の人間の間に立って、至れり尽くせり仲介する。あとは……こいつは自分のことにはとことん無頓着だ。放っておくとボロボロの服でも平気で着続けるし、こっちが指摘しねえと勝手に風呂にも入らない。まあ何故か食欲だけは積極的に主張するが……その辺りの手助けもちゃんとする。出来うる限り世話は焼くし、至らなかったりやらかした時には責任を持つ」
「……」
静かに語り傷の様子を窺うフリックの表情を、イヴは黙ったままじっと見つめている。
スクーリオもこの二日間で、イヴの性格は少なからず把握していた。彼女は自分に対しても、他人に対しても只管に素直である。彼女がフリックの言葉に対し、明確に否定の体をとらないでいることから、彼の思いやりの心は、普段から彼女に十分に伝わっているようであった。
そのフリックの言葉を聞いて、スクーリオはふむ、と少しだけ考え、口を開いた。
「……成程、君達が互いが互いを気遣う、最高の二人であることは理解できた」
「そんな大げさなものではないと思うんだが……」
「いや、恐らく君達の足ならば、この世界中のどこまででも行くことができるだろう。道を分かつ山脈の向こう側でも、前人未到の秘境でも。……もしかすれば、私の故郷にもうっかり入れたりもするのではないだろうか。わはは」
「えらくベタ褒めるな……まあどこにでも行けるってなら、それに越したことは無いんだがな」
呆れたように、けれどまんざらでもなさそうに、フリックはふっと息をついた。
その時、通路の奥からピシ、という音が響いた。
氷の壁が限界近いのだろう。スクーリオは慌てて新しく氷の壁を重ねて張り直す。
「……さて、イヴの応急処置はできたとしても、いつまでもこんな状態じゃどうにもならねえ。一旦引き返すか?」
「いや、この分だと、次回以降はあのスライムが警戒して出てこない可能性がある。確実に仕留めるならば、今を置いて他は無いと愚考するが?」
「そうだよなあ……」
片手で頭を押さえ、ため息をついた。
「お前、確か弓もできるって言ってたよな」
「ああ。望むならばあの粘膜を貫き、一息で核を射抜くこともできる、とびきりの一矢をご覧に入れよう。……しかしそのためには、君の協力が不可欠だ」
「奴の気を引けって言いたいんだろ? まかせろ。イヴが残してくれた情報は、きちんと頭の中に入ってる」
フリックは呼吸が落ち着き始めたイヴをゆっくりと抱え上げ、しっかりと頷いて答えた。
――端的に言うならば、エルフの青年、スクーリオは彼ら二人に可能性を感じていた。
この閉塞した世界において、どこまででも行くことのできる可能性に満ちた存在。
彼は自らが知る物語を語る為、また自らの知らぬ物語を知る為、親しんだ森から広い世界へと躍り出た。
確かに世界は広い。……広くはあったが、それは単純な表面積のみでの話。
この世界で人が歩める領域は、あまりに狭い。自らの領域を出て、真の意味での『冒険』へと歩み出そうとする者の数は――皆無とは言えないでも、あまりに少ない。
それは当然の話であろう。慣れ親しんだ生息圏から少し離れれば、そこは魔物やならず者が跋扈する領域。常人であれば、冒険の感動の前に命を落とすことは必至なのだから。
しかし、自らの知らない驚きに満ちた『何か』を知らないまま、狭い領域の中で人生を終えること。
それは些か、寂しいものではないかと彼は思う。
だが、彼らなら。彼女と、彼女を大切に扱い、良き関係を築く彼ならば、この世界のどこまででも行くことができるだろう。
山の向こうでも、海の向こうでも。
――そして、彼の『御許』にも。
やがて巨大な粘体が、氷の壁を打ち砕いた。
カラカラと涼やかな音を立てて足元に散らばる氷の破片を意に介すことなく、変異スライムは粘着質な音を立てつつ、ゆっくりと狭い通路を進んで行く。
「おいでなすったぜ。準備は良いか?」
「無論だとも」
石造りの通路の奥。スライムと対峙するのは人族とエルフ、二人の男。
「――それでは、始めるか」
言葉と共に、スクーリオはリュートの弦の一本を弾いた。
その途端、リュートが変形を始めた。
まるで木が成長する様子を早回しで見るかのように、めきめきと音を立てながら、木彫りのリュートはたちまちにその形を変えていく。
十秒足らず程で変形を終えたそれは、五本の弦を備えた長弓だった。
スクーリオの髪と服が微かに揺れる。彼の真横に開けられた木枠のみの窓から、風が入り込んできているためだ。
この空間において、少しでも風の精霊の恩恵を受けるために。
「『恵みを運びし西風の長。慈悲を持って、御手をここに……』」
普遍なるものらに大いなる力を請うための祝詞を囁くと、彼の手に持った矢が、たちまち風を帯び始める。
スクーリオは静かにその矢を弦に番えた。一本ではなく、一気に五本の弦を。
エルフ故、生来弓は得意な方だ。当然その扱いも、自らの手足を動かすのと何ら変わりない。
普段使いであるならば、大抵一本の弦のみ用いる。そのままでも十分な働きをもたらしてくれるが、五本の弦を合わせた場合、それは果たしてどのようなものになるか。
「……ッ!」
スクーリオは顔を歪め、歯噛みする。
五本の弦を一気に引き絞ることでもたらされる力は如何ともしがたい。
矢を持つ腕が、弓を持つ腕が、それらを支えるため真っ直ぐに伸ばされた背が軋みを上げる。
少しでも気を緩めれば、全て、この身体の全てが一気に持って行かれそうになる。そんな感覚にとらわれる。
しかし――
今、スクーリオの目の前では、フリックが変異スライムと真っ向から相手をしている。
踊るように切りつけ、躱し、いなし……戦いに巻き込まれないよう安全な場所へと避難させたイヴの代わりに、彼女が小さな身体を張って与えてくれた敵の動作情報を存分に生かして立ち回っている。
一方、目の前の敵になかなか決定打を加えられないことに、スライムは心なしか苛立っているようにも見える。
縄張りの奥深くまで立ち入られて頭にきたこともあるのだろう。氷の壁をぶち破ってまでこのような狭い通路までわざわざ追いかけてくるなど、並大抵の執念ではあるまい。
だが、それが逆に好都合でもある。この狭い空間ならば、いくら身を捻ろうが逃れられまい。
スクーリオは目を眇め、その時を察し、弦を持った指を軽く動かした。
ピン、という鋭い音が耳に入った瞬間、変異スライムの巨大な粘体に、まるで大砲でも用いたかのような巨大な風穴が穿たれた。
五本の弦を用いることで生まれる絶大な貫通力。それに加え、そのままではただの小さな一個の点でしかない矢自体の効果範囲を拡げるため纏わせた極小の嵐が、まるで渦を巻くように大気と粘体を引っ掻き回す。
その威力はさながら稲妻。スクーリオの見せた渾身の一矢に、身体のほぼ中心に大穴を開けられた変異スライムはそのまま崩れる――ように見えた。
「……っ!」
しかし放たれた矢は、あと一歩の所を届かなかった。
不穏な気配を感じ取った変異スライムが、自らの核を矢の射線からわずかにずらすことで、致命的な損傷を回避してみせたのだ。
痛恨の失敗、痛手――
スクーリオの額に冷や汗が伝い、その顔に絶望が滲み初め――
「まァだだああああああああああっ!!」
絶叫と共に、変異スライムの足元から唐突に刃が伸び――
刃が逆手に握られた腕はぽっかりと大きく空いた風穴へと瞬時に潜りこみ、未だ奥へと沈み込んでいない肉色の核のある部分に到達し、
一瞬後、刃が核に突き立てられた。
フリックが力を込めて切り払うと核が斬り分かれ、それと同時に変異スライムは蝋燭のロウの如くその姿をたちまち崩し、完全にその機能を停止させた。