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窓から入る柔らかな風が、少年の髪を優しく、撫でるように吹き付ける。
窓を開けた少年は寝間着姿のまま、んんっと伸びをする。尤も少年が寝間着姿以外の服を着ることは滅多に、というか皆無であったのだが。
線の細い身体に、整える機会があまり無い為中途半端に伸びた髪の毛も相まって、彼と初めて会う人間が一目見て、彼の性別を正確に判別する確率は五分五分といった感じであった。――知らない人に会う機会にも恵まれてはいないが。
煌々と輝く太陽に、雲一つ無い青空。文句無しの快晴である。絶好の洗濯日和に、今頃使用人達は張り切っている頃だろう。
と、少年がぼんやりと考え込んでいた時、ぴちち、と慎ましやかに囀る一羽の小鳥が少年の目の前まで飛来して来た。
「!」
その姿を確認すると同時に、少年が窓辺から僅かに身を引く。小鳥は少年を特に意識することはなく、窓辺に散らばるパンくずを口ばしで突いた。
それは少年がささやかな今日の朝食から少しだけ分け、自ら散らしたものである。彼はそれ程食べられる体では無いので、どうせ残してしまうならば小鳥にも分けてしまうのが良いと考えた為だ。
娯楽の少ない身。小さな来訪者をこうして接待し観察することが、少年のささやかな楽しみの一つだった。
時折囀りを零しながらパンくずを突っつく小鳥を、窓辺に置かれたベッドの上で微笑みながら鑑賞する少年。
と、小鳥は大小様々に散らばる内、一つのパンくずを口ばしで咥えると、
「……あ!」
パンくずを捉えたまま、後は用無しと言わんばかりに小鳥は窓辺から飛び去っていった。
「……はあ……」
青空の彼方へ飛び去って行った小鳥に、残念そうな、そして若干の羨みを込めた視線を送りながら、少年はため息をついた。
「……どこまででも行けるんだよな……。……いいなあ」
小鳥の姿が見えなくなっても、少年はベッドの上から、窓越しの青空をずっと見つめていた。
「……んが?」
自身の喉から発せられた間抜け極まる唸り声と共に、青年の意識は覚醒する。
どうやら束の間、夢を観ていたようだ。内容は覚醒すると同時に綺麗さっぱり忘れてしまったが。
眠い目を擦りながら、青年は覚えている限り最新の脳内情報を引き出す作業にゆっくりと取り掛かかろうとしたが、
「あっ! こいつやっと起きたのか!? ……ははッ! こんな状況で寝こけるたァ全く太え野郎だなあ! ええ!?」
目の前に向けられた、太陽光に反射して寝起きの網膜に刺さる輝きを放つ刃の切っ先と、それを持つ野性的な風体の男のドラ声を認識し、青年の思考能力は強制的に覚醒させられた。
……これは一体どういうことか。青年は目だけを動かし周囲の状況を素早く確認する。
ああそうだ。
青年、もといフリックは、相棒の少女イヴと共に、乗り合いの駅馬車に乗って次の街へと向かう最中だった。
気候も穏やかで天気も良い。馬車の中がそれ程騒がしくなく、かつ程よくガタンゴトンと揺れていたのもあって、つい少しばかりうとうとしていた所、そのまま眠ってしまい……状況を推察するに、どうやら自分が眠っている間に、馬車が野盗の一党の襲撃を受けた、といったところのようだ。
「頭は冷えたか兄ちゃん? 命が惜しけりゃ金出しな金ぇ!」
「おいおいお前ら、俺ら街から街へ渡り歩く根無し草の旅人だぞ。金なんざ持ってる訳ねえだろ」
実際は前の街にて二、三依頼をこなしている為、宿代と旅に必要な道具の買い足しを差し引いても十分な金額が財布の中に入っているのだが、すげなくそう答えるフリック。
無法者に正直に答えてやる義理などある訳がないのだ。
「あーほうほうそうかい。なら代わりといっちゃなんだが……」
野盗の男がじろりと、フリックの隣に座る、こんな状況でもいつも通りの無表情を浮かべるイヴの方に視線を向けた。
「へへへへ、お嬢ちゃん高く売れそうだなぁ、何で連れ歩いてんのかはしらねえがありがたく頂いて……」
男の薄汚い掌が、イヴに向かってぬっと伸ばされる。
するとイヴは突然右手を上げ、伸ばされた男の手、正確に言うならば人差し指から小指までの四本の指を小さな掌で、一息に纏めて掴みとったかと思えば、
べきごきめしょぼきん。
そんな音を立てつつ、男の四本の指を小枝の如く一気に握り潰し粉砕してのけた。
「うげごごごががががっ!?」
激痛にもんどり打った男は、そのまま折られた方の手を持って尻餅をついた。
「な、何なんだあのガキは!? ええい畜生、あいつらの相手はとりあえず後だ……」
他の野盗の一人にフリックとイヴの二人を見張るように言いつけると、男は次の――二人に比べなるべく弱そうな――獲物を探すべく馬車内を見渡す。
「……んん! おい! そこのローブの奴! お前だお前!」
男は馬車内の隅の方に居た人物に目をつけ、左手に持ち替えた剣を振り上げながらずかずかと歩み寄る。
男の言った通り、その人物は黒に近い色合いの、夜のように深い青紫色のローブを纏っていた。顔はローブに付いたフードに深く覆われており、どのような容貌かは窺い知れない。
体つきはローブ越しでも分かる程、細い。一見すると女性のようにも見える。無法者としてのプライドにひびを入れられた男の八つ当たりの相手に選ばれるのもやむなしと言えよう。
「……それはもしかすると、私のことかね?」
「お、おうそうだ。おら金目のモン持ってんだろうが! とっとと出しやがれ! 殺すぞ!」
落ち着いた声音でそう答えたローブの人物は、鈴の鳴るようなよく通る声をしていたが、声の低さからして恐らくは若い男性のようであった。
野盗の男はてっきり女と思って強気に出たつもりが、予想が外れたことで戸惑った声を上げつつも、刃を突き付け恫喝した。
そんな野盗の男を前にしても、ローブの人物は尚も落ち着いた態度を崩さない。
「生憎と私も漂泊の身であって、路銀など碌に持ち合わせていない。しかし君達がどうしても私から価値あるモノを要求するというのであれば……」
「で、であれば、何だよ?」
男の顔が多少強張り、ごくりと喉が鳴る。
先ほどの少女に粉砕された四本の指が、じくじくと急速に熱を帯びる。言い知れぬ予感に男が若干身構えた途端、
じゃらん。
馬車内に突然、流麗な弦の音が鳴り響いた。
「……はぁ?」
これには流石に、様子見を決め込んでいたフリックでさえ怪訝な声を上げた。
上げざるを得なかった。
ローブの若者は突然すっくと立ち上がり、それまでの落ち着いた態度から一変、歌劇の如くのびやかに声を張り上げ朗々と言い放つ。
「私から君達にあげられるものは何もない。ならばせめて吟遊詩人として、この場で最高の音楽を奏でてみせようではないか! 安心したまえ! 私はこれで各地を渡り歩いてきた。腕には覚えあり、だ!」
成程自ら言うだけあって、言葉を募りながら弦を繰る指の動き、そしてそこから響かせる音色は巧みという他無い。八人の野盗の一党に襲撃され、囲まれているという状況でなければ素直に聴き入っていたであろう。
突然の奇行に呆気にとられた男の目の前でローブの若者はどっかと座り、口元に鷹揚と笑みを浮かべ、再びじゃらんと手に持った楽器、リュートを鳴らす。
「さて、と。何かリクエストはあるかね? 因みに私のおすすめは伝説に記されし妖精郷の様子を華々しく描いた優美かつ壮麗な――」
「いやいいです」
「何ぃ!?」
力無く返答した野盗の男に、ローブの若者は愕然とした。
「お前状況分かってんのかよ……分かった上でやってんのか?」
「勿論だとも」
ローブの若者はふんすと鼻を鳴らし、胸を張る。
「君達が何故野盗に身をやつしているかは私の知るところではないが、そのような仕事を続けていると心は自然と荒んでいく。乾いた心に素晴らしい音楽は、恵みの雨の如く染み入り、養分を蓄える……云わば君達が最も求めているものを私は提供していると考えているのだが、もしかするとそれは間違っているのだろうか?」
「間違いだらけだ」
「なんと……」
心底面倒臭げなため息を吐き出しつつ、野盗の男は投げやり気味に告げる。
「もういいから金目のモノ出せ。現物だ現物。何ならそのリュート寄こしやがれ」
「なっ! これは私の魂、半身とも呼べる代物だ! 絶対に渡すことなどできんぞ!」
ひっしと縋り付くようにしてリュートを抱えたローブの若者。それを見て野盗の男は、苛立たしげに頭をガリガリと掻く。
「だからお前なあ……状況分かってんのか? いい加減面倒に感じてきたからマジで殺すぞ?」
「……状況が分かっていないのは、果たしてどちらだと思うかね?」
「何だと……」
するとその時、野盗の男の背後から、どさりと重いものが床に転がる音が響いた。
何事かと振り返る男の視界には、倒れた仲間の姿と、傍らで拳を掲げた状態のまま静止している先程の少女、イヴの姿。
それを男が確認した時には、既にフリックは男の死角で、片手剣を音も無く鞘から抜いていた。
御者があらかじめ馬車に備え付けられていた発煙筒で狼煙を焚いて通報すると、ほどなくして最寄の詰所から街道警備兵が駆けつけてきた。
王国から領内の街道沿いの詰所に派遣される彼らは、フリック達によって衣服で縛り上げられたり関節を外されていたりで身動きが取れず転がされている野盗共を見て、状況を即座に理解してきぱきとやるべきことを開始していく。
領内の街道を管理する国の気風にもよるが、通報の煙を確認してからの対応の速さといい、この辺りの警備兵は比較的仕事熱心な部類のようだ。手際よく野盗共を引っ張り上げていく兵達を背景に、隊長と思しき男は御者といくつかのやり取りを交わした後、フリック達の方へと歩み寄り話しかけてきた。
「御者の方から話は聞いています。いや、本当にありがとうございます。あの連中、この辺りでもそこそこに名の通った札付きでしてねぇ……恥ずかしながら中々捕えられず苦労させられました」
「あれで札付きだったのかよ……まあそれはそれとして、ちなみに何か謝礼とかはあるのか?」
「勿論です。駅馬車に乗っているのならば、この先にある街へと向かうのでしょう? 鳩を飛ばして謝礼を用意するよう伝えますので、街中にある詰所へ立ち寄ってみてください」
マジかよやった! と思わぬ臨時収入に喜んだフリックとイヴはハイタッチを交わした。イヴは例によって無表情のままだったが、多くの収入を得れば美味しいものが多めに食べられることを既に学んでいる身である彼女の目は、心なしか輝いているように見えた。
野盗の引き渡しが無事完了し、街道の向こうへと去っていく警備兵達の背中を見送っていたフリック。
御者が馬車の簡単な点検をしている中、他の乗客達と同じく若干手持ち無沙汰気味でいた彼の横合いから、唐突に声が掛かった。
「いや助かった。それにしても君は、いや君達は強いな。八人の野盗を瞬く間に一掃! 並の旅人にできる芸当ではあるまい!」
あのローブの若者だった。長年の親友に久しぶりに会い声を掛けるかのようなその馴れ馴れしさに若干押されながらも、フリックは普段通りに応対する。
「ま、まあ用心棒ついでに乗せてもらうっていう、御者との取決めもあったしな。これくらいは出来なきゃ世話ねえだろ」
というかお前の危機については半分程自業自得の面も無かったか? という問いかけが喉から出かかったが、フリックは我慢して飲み込んでおく。
「いや、本当に助かった。いざとなれば私が対処すべきかと思ったんだが……」
言葉と共に、ローブの若者はフリックにだけ見えるように、深く被っていたフードを少しだけ持ち上げる。
「御者や他の乗客が私を怖がり、助けたは良いものの馬車には乗せてもらえなかった、なんてことになっていたかもしれないのでな」
「……成程、お前……」
晒されたローブの若者の風貌を確認し、フリックは得心がいった。
若者の容姿は声の印象に違わず中性的かつ端麗。しかし最も目を引く特徴は、その耳が長く伸び、尖っていることだ。
エルフ。
精霊の末裔と言われる、精霊種の一種族。
彼らは秩序と調和を貴び、自然を愛する森の民である。
世界各地の森の中にそれぞれの集落を築いており、基本そこから出ることは無く、他種族と積極的に交流することも無いという。その為、彼のようにこうして森を離れ漂泊している者は非常に珍しいと言える。事実フリックが旅をしている中、森以外の場所でエルフを見掛けた回数は、ほんの片手で数えられる程度である。
その保守的な気質と、精霊術と呼ばれる精霊種独自の術を行使することもあってか、人間達の間では彼らに対する理解が乏しく、しばしば得体の知れない連中という風な、あまり良いとは言えない認識が広まっている。
かく言うフリックも彼らに対する認識は、『何か高飛車な奴が多くとっつきにくい』という感じではあったのだが、目の前の彼は口調こそエルフ特有の詩的な台詞回しであるものの、その性格もこれまた珍しいことになかなか友好的なようだ。……先程の野盗相手に見せた奇行からして、単に頭のネジが幾本か飛んでいるだけなのかもしれないが。
エルフの若者――エルフの年齢は外見に反し数百年単位なんてことはざらにあるため、若者という表現を用いて良いものかは疑問だが――は、優雅な仕草でこちらに右手を差出し、自己紹介を始めた。
「私の名はスクーリオ。故郷の森を離れ、吟遊詩人として各地を放浪している身だ。因みに性別は精霊類学上、雄に分類されている」
「ああ、俺はフリックで、こっちがイヴだ。訳あって一緒に旅をしてる。因みに言っておくが、俺に少女性愛だのといったその手の性癖は無い」
フリックもそれに応え、右手を差出し、握手を交わした。
はい、続きます。
前章はゲストキャラにつきっきりでメインヒロインであるイヴの影が薄かったのですが、ここから先は彼女に関しての話が展開していきます。
ちなみに前章とは数週間~一ヶ月くらい開いているという設定で、章ごとの連続性もなるべく薄くしているので、前章の内容覚えてなかったりそもそも読んでないって人でも大丈夫だと思います。