09パンドラにて
翌朝、ジョセフとアビーの家を出て、パンドラという町に向けて出発した。
アビーも加わって四人。ジョセフに皆で挨拶をした。
「ケンジ。これを譲るよ。役に立つことがあるかもしれない」
細長い望遠鏡みたいな物をジョセフから手渡される。おおおっと思いながら受け取る。
「ありがとうございます。僕なんかにいいんですか。もらっちゃって」
うれしすぎて声がうわずってしまう。
細い目をさらに細めてジョセフが頷いている。
「望遠鏡だよ」
「へえ……」
手に持ったそれをくるくる回しながら眺める。
「ここで調節する」
望遠鏡の外側にぐるりとつまみがあって、ジョセフがそれを指差した。
「進みたい方向は右でも左でも目を動かせば自然にそっちへいくから」
――進みたい方向?
アビーがそばにきて「やってみて」という。
言われるままに遠くに見えていた教会のような建物にむけて、覗いてみた。
最初はふつうに映っていたのがぐんぐんとズームしていって、教会にあるような大きな鐘が鮮明に見えてくる。
「あっ」
ズームされただけではなかった。銀灰色の鐘がアップになったかと思うとそこから鐘の黒い裏側が一瞬映ってなかへと降りていく。ぎゅいんと急激に視界が傾き、やがて教会のおそらく天井から下の聖堂を見おろしている。狭い。五十人も入ればいっぱいになりそうだった。木造で床も壁も飾り気がない。
「すげえや」
信者らしき人が何人か席に座っている。真上からミニチュア人形のようにそれがみえる。黒い服を着た人が動いているのも見えた。つまみを回していくと服のボタンや椅子についている傷や髪をかき上げる指の爪までが見えてくる。
「ほーほーほー。おもしろいな」
開襟シャツを着た男がズボンのポケットに手をつっこんでいて、そのポケットがだんだん透けていく。
「おっ」
ポケットの中にある紙切れを手で握っているようだ。さらにつまみを回すとそれは紙幣だとわかった。
突然横からぐいと望遠鏡を誰かが握ってきた。
「オレにもオレにも」
望遠鏡から目を離すとリュックが覗こうとしている。
「リュック。ケンジがまだ見ている途中でしょう」
ソフィアがリュックに注意している。
「いいよ」
リュックも興味があるだろうと思って渡す。僕は充分に見た。大喜びでリュックは広場の方へ望遠鏡を向けて覗いている。
「リュック。止せ」
なぜかジョセフの顔色が変わっている。アビーもリュックを見て「あ」と声を出していた。
いきなりふらふらっとリュックが後ずさりしてぱたんとその場に倒れた。
「リュック?! だいじょうぶ?」
びっくりして駆けよる。
倒れて顔を横向きにしたリュックが「きもちわる……」と口に手を当てている。
アビーがリュックを抱き起こした。肩に掛けていた荷物入れからタオルを出している。顔にタオルを当ててぐったりしているリュックに、ソフィアが「どうしたのリュック」としゃがんで声を掛けている。
「びっくりしたよねリュック。すぐに治るよ」
そういってアビーがリュックの額に手を置いている。
「これは向き不向きがあってね」
地面に転がっていた望遠鏡を拾って、ジョセフが僕に渡してくれた。
「合わない人は酔うんだ。一分も見ていたら気持ち悪くなってくるらしい。数秒でだめという人もいる。特にどういうわけかエルフは合わないことが多いんだ。さきに話しておけばよかった。うっかりしていた」
「いいよ。オレ見たかったんだもん」
まだ青い顔をしていたがリュックはもう立ち上がってソフィアに頭を撫でてもらっている。
ちらとアビーをみて「アビーありがとう」とリュックが言った。
「ふふ。さ。行こうか」
アビーにうながされてソフィアとリュックが並んで歩きはじめる。
「ありがとうございました」
昨日からのことを含めて改めてジョセフに礼を言った。
「気をつけてな」
ジョセフに見送られて僕たちはタイタンを後にした。
* * * * *
三日後。パンドラに着く。
昼をずいぶんと過ぎていてみな腹を空かせていた。
宿よりもまずは食事だということになる。
賑やかな通りを歩いていく。
海老や貝の絵が描かれた赤い看板を指差して、アビーが「ここ美味しいんだよ」と言う。リュックが「行こう行こう」と賛同して、僕とソフィアに異存はない。
その店には屋外にもたくさんテーブルが置かれていて、半数以上が客で埋まっていた。
木製のテーブルにベンチのような細長い椅子がついている。背もたれはない。
テーブルとテーブルの間をぬってぞろぞろと僕たちは空いている席へと向かう。そしてふたりずつ向き合って座った。
僕の隣にはリュック。前にはソフィアとアビー。
料理が運ばれてくるまでのあいだ少々待つことになった。
「すごいね。魚介類が食べられるんだ」
町から町へと行く道には地平線と草原、町中では畑や果樹園などがあり、あとは川しか見たことがない。
「パンドラの近くには海があるってこと?」
訊いたがアビーは首を傾げている。赤毛に陽が当たって艶々している。
「どうなんだろう。あたしもこの先には行ったことがないんだよな」
「ねえねえ。この町にほんとうにリアムっているのかなあ。だとしたら、もしかしたらこのお店で食事をしてるかもしれない?」
そう言ってリュックがきょろきょろとあたりを見まわしている。
「いないわよ」
周囲を見まわすことなくソフィアが即答した。落ち着いた声だ。
「いたらすぐにわかります」
「どんなやつなんですか」
興味が湧いて訊く。
ソフィアはふと考える顔になっている。
「そうねえ……。ひょろ長いの」
「へええ……」
「ソフィア、それだけじゃわかんないよ、ケンジにはわかんない。あのね。ごてごてしたやつなんだよ」
ひょろ長いよりもっと分かりづらいぞ。
「ごてごて……?」
「手首にじゃらじゃら巻いてる。チェーンを首からぶら下げててさ! わかるよね?」
「わかるわかるっ。あたし苦手だなそういうの」
「チェーン?」
「ネックレスっていうのかなあ。ねえソフィア。似合わないのにごてごてに飾ってるんだよねリアムって」
「でも身につけているものは高価なのよ。持ち歩くのがいちばん安全だって考えているのかもしれないわ」
「お待たせしましたー」
ロングスカートに白いエプロンを着た女性がテーブルにやってきて元気な声を出した。
目の前に大きな皿をすっと差し出されて魚介の香りがテーブルいっぱいに漂う。リュックたちも話をとめて運ばれてきた料理を見ている。
「うっわ。ソフィア、見て見て。海老がこんなに大きいよ!」
「リュック。皆の料理が揃うまでは静かにね」
ソフィアが諫めたがリュックは既にスプーンを握っている。ウエイトレスが立ち去ったときには海老のグラタンの三口目をぱくついていた。
僕の前の大きな皿にはあさりや帆立の入ったパスタが盛られている。フォークを手に取る。つるんと口に入れたパスタに絡んだソースからじわんと海の味が広がった。具もすくって食べる。
「おいしい」
「明日もここに来ようよ」
パスタをフォークにくるくると巻き付けながらアビーが言う。
喋ることができなくてみな頷くことで賛同の意を示していた。
すっかり平らげて食後の飲み物を飲んでいると満腹感と陽射しの柔らかな温かさが心地よくて何をしにきたのか忘れてしまいそうだった。
「このあたりって賑やかだけど町全体ではもっと静かな場所もあるのでしょうね」
カップを置いてソフィアがアビーに話しかけている。
「そうだねえ。静かな場所?」
「リアムはどんなところに住んでいるのかなと思って」
「町はずれに墓地があるからそこは静かだよ。あとは麦畑のある道に沿って抜けていったところ。そのくらいかなあ」
ひとしきり考えてからアビーが口を開いた。
「だけどこの町のなかでさ。たとえば金を持ってるような家だったらそれって町中に何軒か建ってるよ」
「ええ。リアムが私たちの家に来たときのことなんですけど……『ここは周りがとても静かだね』と言っていたのです。自分は賑やかなところが苦手だから住むならやはり静かな場所に限ると思っておりますと言っていました」
「あいつそんなこと言ってたんだ?! ごてごてなのに?」
「リュックもいたわよ。リアムが持ってきたお菓子をリュックが食べていたとき。言ってたわ」
「そういえば丘の麓に一軒立派な家があるって聞いたことがあるな」
「そこだよ! リアムの家」
「それはどうかわからないわよ……」
迷うようにソフィアが呟いた。僕は身を乗りだした。
「宿に泊まるときついでに訊いてみたら? すぐに分かるかも」
「そうねえ」
「宿屋はここからそんなに遠くないよ? ケンジ、もう行く?」
「行く行く!」
僕よりさきに答えたリュックが張り切った様子で立ち上がった。
がたんとテーブルが揺れる。
「あー……」
「あーあ」
「……リュック」
テーブルの広い範囲にオレンジジュースが零れていた。倒れて転がったグラスが僕の前で止まる。手にとってテーブルに置きなおす。
立ち上がったソフィアがポケットからハンカチを取り出した。中腰になってテーブルのうえを拭きはじめる。アビーも荷物入れからなにか取りだして拭いている。
* * * * *
皆がオレンジジュースでわさわさしていたときだった。
「あのう。つかぬことをお伺いしますが」
唐突に声を掛けられた。
みると端正な顔立ちの男性がテーブルのそばに立っている。
ツバのある帽子を被ってスーツを着ている。頑強そうな体つきだ。
帽子を脱ぎながらその男が会釈した。
後ろへ撫でつけた黒髪の艶やかな男は綺麗に整った口髭がよく似合っていて何となく気障だなと思った。
「はい?」
もっとも近い場所に立っていたアビーが応じて彼を見上げた。
「そこのご婦人の持っておられる――そのハンカチなのですが」
うん? という表情でソフィアがテーブルを拭いていた手を止めて男を見た。