コトノハチカクオモイフカク
人間誰しもが通過するであろう言葉と心の葛藤などを重視して書きました。初投稿です。
言葉はいつもすぐ近くにある。なぜ神様はこんなに近くに言葉を作ったのだろう。
心はいつも深くにある。なぜ神様はこんなに深くに心を作ったのだろう。
「 ――――がママに―――――から。ぜったいに。だからもう ――――なかないで……」
あれは、忘れもしない。蒸し暑い夏の日。いつも見ている小さな手が、とても大きく、いつも馬鹿にしていた小さな体が、とても大きく見えた。そして、いつも見ていたキレイな顔は、ぼやけてしまって見えなかった。
きっとそれは―――――――――――俺が泣いていたからだ。
――――――――携帯のアラームが騒がしく部屋に響く。どんなに悲しい時だって、馬鹿らしいほどハッピーな音を鳴らしやがる。近頃はアラーム無しでも六時に目覚めてしまう自分が嫌だ。もっと眠っていたいのに。
「ふぁ…」
間抜けな欠伸をして布団から出る。まだ五月だってのになんて陽気だ。部屋中が蒸し暑さであふれかえっている。早く新鮮な空気を吸い込みたくて、窓を開ける。
「たくろー!起きたぁ?」
窓の下から叫ぶ黒髪の女。俺の答えを聞くまでもなく、ダカダカダカっとすごい音をたてながらアパートの階段を登ってくる。苦情を受けるのは俺なんだけど……
「たくろー昨日何食べたっ?」
んー……。少し考えてから「 ――――カレー」昨夜食べた物すら思い出せないなんて…もう年か?と言ってもまだ二十代なのだが。女はすかさず油まみれのガス台と、食器であふれかえった流しを交互に見て言った。
「また買ってきたでしょ」
さすが。するどい。
「呼んでくれればカレーくらい作りに来てあげるのに」
女は口を尖らせながら、カレーなら三日くらい食べられるのに、とブツブツ言いながらまるで自分の家の冷蔵庫のように慣れた手つきで卵を取り出すと、慣れた手つきで溶き始めた。ジュっとフライパンが音をたて、おいしそうな匂いが狭い部屋に広がっていく。
「でーきた。はい。ご用意は良いですか」
「いーですよ」
「「手を合わせて、いただきます」」
あまりおいしいとは言えない料理を口に運ぶ。まぁ毎日作りに来てくれているのだから、ありがたいものだ。無言で箸を進める。
「玉子焼き、どう?」
「どうって…おいしいんじゃないの」
俺の返答に不満だったのか、女は口を尖らせて、さっきの倍のスピードで卵をパクパク口に運んだ。分かりやすいヤツだ。
「味じゃないよ。玉子焼きがおいしくないなんてありえないじゃん。形だよカ・タ・チ!」
あぁ~。そっちね。確かに今日のはちゃんと形になってた。
「ま、上手なんじゃない」
俺のそっけない一言で、鳥の口のような口が横に引っ張られ、大きな目が細まる。
「でっしょ~。今までで一番かなっ」
単純。もう笑ってるし。
そんなやりとりをしているうちに、時計の針が八時を指した。
「藍、時間」
「 ―――やっば!何で言ってくれなかったん!」
俺の所為かい。血相を変えて、ものすごい速さでくたくたになったローファーを履き始める。
「髪は?」
「いつもどおりで。早くね
」腰まである黒髪に櫛を通す。二本しばりはまだ時間が掛かってしまうが、ポニーテールなら手馴れたもんだ。俺がしばり終わるのを待ってるちょこんとした後姿に吹き出しそうになる。――――頭をぽんと叩く。これが出来たの合図。
「ありがと」
ちょっと曲がってしまったが、そこには触れない。気づいてないのか、俺に気を使ってくれてるのかは不明だ。
「 ――――――――スカート短くね?」
「今はこのくらいが流行りなんだよ。今しか出来ないのっ。こーゆー格好は」
あぁそうかい…。てか、パンツいちご……いいや。これ言ったら殴られる。
「じゃ、いってきます」
俺は黙って右手をひらひらとあげる。藍の後姿が小さくなった頃にやっと言う
「―――――――いってらっしゃい」
なんて不器用な奴だろう俺は。ありがとうの五文字も言えやしないんだ。自分より十も年下のやつでさえ簡単に言えるってのに。年下だからこそ――――――?そう、大人になればなるほど、素直な気持ちを言葉にすることを躊躇ってしまう。恥ずかしいことのように思ってしまうんだ。こうやって人は年取っていくのか…。って、まだ人生の半分も生きていないのに。
ところで、藍は別に俺の彼女でもなんでもない。ただ、幼い頃から一緒によく遊んでいたという関係。俗にいう幼馴染みってやつだ。別にやましい気持ちもないし、向こうも十も上のおっさんにそんな感情はないだろう。ん………おっさん…は言い過ぎか。
最近、高校生になった藍は、ぐっと大人っぽくなったような気がする。スカートも短くなったし、化粧も少ししているようだ(一回パンダのような目をして来たことがあってすぐに直させた事もあった)。
藍を見ていると、何とも言えない感情に襲われる事がよくある。嫉妬とは認めたくないのだが、嫉妬だろうな。保育士という夢に向かって毎日を過ごしている藍は、なんだかキラキラしていて。毎日が楽しそうだ。友達とマックにいっただの、ファミレスででオールしただの、先生に呼び出しくらってプール掃除をさせられただの、他愛もない話だが、俺にはそれが少し、いや、すごく羨ましいんだ。ただ毎日を過ごしているだけの俺には…。
携帯をチェックする。派遣の仕事も不定期。最近では連絡が来ることも稀だ。友達の家で経営しているコンビニでたまに働かせてもらい小遣い稼ぎ。こんな生活がいつまで続くのか。いつも藍を見送った後に思う事がある。それは―――
藍は…どうしてこんな俺に会いに来てくれるのだろうか。
――――――同情。だろうね。はい、FA。
聞けば良いのに。なんで?どうしてこんな俺の所に毎日来るのって。
「そうだよ
だって
可哀想じゃん」
答えは分かっているのに。その答えが怖くて、いつも答えあわせが出来ないんだ。
今日は何もしないまま、一日が過ぎた。いや、今日も、か。もう夕方だってのに、全然涼しくならない。漫画でも、読み返すかな…なんて思っていた時、階段を駆け上がる騒がしい音が響いた。藍だ。
「たくろー。食べるラー油売ってなかったよ!」
「まじでか」
食べるラー油、俺はメディアで取り上げられる前から密かに目をつけていたのだが、最近テレビや雑誌で取り上げられるようになってから、手に入りにくくなってしまった。藍は学校帰りに通り道のスーパーでいつも買ってきてくれるのだ。てか、また「おかえり」を言い逃してしまった。少し後悔。
「テンション上がんない?」
「うん。」
「今度買い溜めしとかないとね。たくろーすぐ食べ終わっちゃうもんね」
「うん。」
「……家来る?今から作るのもめんどいし、一緒にご飯食べよーよ」
「雅彦さんいるんでしょ」
「そりゃぁいるさぁ!あ、でも残業あるって言ってたから、ちょっと遅いかもだけど。」
俺が答えを渋っていると、藍はこう付け足した。
「お母さんも、たくろーに会いたがってるから…さ」
「…真理子さん、元気?」
「会ってみれば分かるって!はい、決-まりっ」
真理子さんには、頭が上がらない。本当に色々迷惑をかけたから。この年になってこんな姿を見せるのは恥ずかしいけど、久々に会ってみたいと思ったほんの少しの気持ちを胸に、俺は支度をし始めた。
「わー!たくろーにぃちゃんだぁ。」
「おっ。でかくなったな直。もう八とか九くらい?」
「もう十一だよ。六年だよ」
「彼女とか、いんの?」
「まっまだ、いないよ。そんなん!はえーよ」藍の弟の直がタックルを仕掛けてくる。力も大分強くなったようだ。俺も年とるはずだな。藍のランドセル欲しがって泣いてた事もあったっけ。直とじゃれあっていると、奥から懐かしい声が聞こえた。
「――――――――――拓夢くん…?」
真理子さん。藍の母親だ。
「ご無沙汰してます。」
それしか言う言葉が思いつかなかった。ほんとうにご無沙汰なのだ。だって、最後に会ったのは八年も前なのだから。真理子さんは何も聞かずに、「さ、ご飯にしましょ」それだけ言って、台所へ戻った。「どしたの、たくろー。」藍が心配そうに尋ねる。俺は聞こえないフリをした。
「はぁ~お腹すいたっ」
制服から上下黒のスウェットに着替えた藍がドカッと音をたてて胡坐をかいて座る。テーブルが揺れ、コップの麦茶が少しこぼれる。
「藍!もう……ごめんなさいね。行儀悪くって。女の子なんだから、そんな座り方やめなさいよ。何回言われるの」真理子さんが眉間にシワをよせて俺に謝る。
「いいじゃん。別に。なんでお母さんが謝るん?」
ただ座り方を直せば済む事なのに、藍は皆の前で言われた事が気に入らないらしく、口を尖らせた。こうなると、もう何も話さない。むすっと下を向いて携帯をいじるか、二階に避難するかのどっちかだ。昔から変わらない。
「はぁ…まったく。せっかく来てもらったのにごめんなさいね、拓夢くん」
「別に、いいっす…」俺が言い終わらないうちに
「だからお母さんが謝んないでってば!」
いつも藍はこんなんだろうか?俺も、このくらいの年だったら、こんな風に些細な事に反抗していたのかな。もう少し優しく出来ないものか。どう考えても真理子さんが正論だ。注意される原因は自分自身が一番よく分かっているだろうに。
結局微妙な空気のまま、夕食は終わってしまった。
「また遊びに来てよ、たくろーにぃちゃん。俺ね、バスケクラブに入ったんだ。今度一緒にやろうね」
「おう。スラムダンク全巻貸してやるよ」
「よっしゃ!ぜったいだよ」
藍は既に家の外で俺を待ってる。きっと口を尖らせながら携帯でもいじっているだろう。靴を履き終えると、台所から出てきた真理子さんに引き止められる。
「拓夢くん…。折角来てくれたのに変なところ見せちゃってごめんなさいね。あの子、最近いつもあんな感じなの。ちょっとした一言にも突っかかってきて、酷い時は物に当たったりする事もあるの。」
「そうなんすか。」
「あの子、拓夢くんの事、本当に大好きみたいで。あの子の事だから、拓夢くんに迷惑掛ける事もあると思うけど、よろしくね」
「迷惑だなんてそんな…。逆にこっちの方が助けられていますよ。藍のお陰で支えられてます。」
本心だ。真理子さんには素直に言えた。真理子さん、ちょっと痩せたかな?髪も落ち着いた色になって、全体的に少し小さくなった気がする。
「――――――遅いよ。」
案の定玄関を出ると口を尖らしている藍がいた。
「わりぃ。ちょっと話し込んじゃって。」やべ……言わなきゃよかった。
「また余分な事言ったでしょ。」鋭い目つきで藍が見上げる。
「いや、真理子さんはお前の事思って…」
「あんなのただのおせっかいだよ!いつもいつも…人の事ばっか言って!本っ当ウザイ」
「おま、ウザイとか…そういうの止めろよ」
「たくろーには分かんないよ!私はいつも家でチクチクチクチク言われんだから。女なんだからとかもう高校生なんだからって…なんなのマジ」
「だーかーらー。真理子さんはお前の事が心配なんだって」
「あんなのに心配なんかされる筋合いないよ!私の事なんか何にもわかってないくせに!自分のエゴを押し付けて小言ばっかり!死んじゃえば良いのに――――――!」
まるでせき止められていたダムの水が一気に放水するかのように言うと、大きくため息を付いて藍は息を呑んだ。目が泳いでいる。俺を直視出来ずに俯いている。体が震えている。
「―――――――――俺、1人で帰るからここまでで良いよ。」
「た…たく………私……ごめ…」
俺は何も言わずに背を向けた。
別に、怒ってなんかいない。ただ、悲しかった。娘を想っている母親に対して敵意向きだしで歯向かう子ども。自分の事を何も理解してくれないと嘆く子ども。簡単に死という言葉を口に出す子ども。真理子さんの手作りのコロッケ。皆で食べるご飯。もう、俺には心配して叱ってくれる肉親がいないという事実――――
藍は…泣いているだろうか?鼻をすすっているだけだろうか?振り返らないから分からない。いや、振り返れない。なぜなら俺が泣いているから。泣いている顔なんて、藍に見せられない。
もう、藍には二度と見せられない。
あの日、俺はバイバイしたんだ。あの日の自分と。絶対に泣かないって決めたんだ。
「だから―――――来たくなかったんだよ…」
あの家に来ると、色々な記憶を思い出してしまうから。
「お母さん…………」
その日俺は、久しぶりに声を上げて泣いた。
大丈夫、今日いっぱい泣いたから、また明日から頑張れる。
なんて自分は自己中なんだろう。いつもいつも、事が起きてから気づく。そうじゃないと、自分の悪さに気づけないんだ。皆はどうやって学んでいるのだろう。私はいつも、人を傷つけて、後悔してやっと気づく。そうなってからでは遅いのに。私には、自分以外の皆がとても器用に見える。自分は人の何倍も遠回りしてやっと皆と同じ位置に立てている。そんな感覚。もっと上手に人と付き合いたいのに。ココロでは、分かっているつもりなのにいつも裏腹で。
たくろーに、絶対に言ってはいけない言葉を言ってしまった。もしも過去に戻れるなら、自分であの時の自分を引っ叩いてやりたい。お母さんの言っている事だって、間違っていないのに。素直に認められなくて。認める事が恥ずかしくって。なんて子どもなの――――――。涙が溢れた。悲しみ?悔しさ?自分に対する怒り?なんの涙なのか分からない。私が泣いてる場合じゃない。一番泣きたいのはたくろーだ。あの時の記憶が頭の中をめぐる。
まだ五歳だったのに、あの日の事は鮮明に覚えている。匂いも、音も、色も。黒い服を着たたくさんの大人がいて、なんだか空気も違っていて、少し怖かった。オレンジジュースや、さきいか、見た事もない色んなお菓子を貰ったけど、別に嬉しくなかった。おいしいとも感じなかった。だって…泣いていたから。いつも私をいじめるあの人が。体中を震わせて。顔は見えなくて。私はどうしたらいいか分からなくて隣に立っている事しか出来なかった。だって、何か言ったら崩れてしまうんじゃないかってくらいに、ぼろぼろだったから。でも、何とか元気になってほしくて、元に戻ってほしくて私は言ったんだ。あの言葉を――――――――。
「あいちゃんがママになってあげるから。ぜったいに。だからもう泣かないで……ね、たくろー」
私がたくろーのママになるんだ。いっぱいいじめられたけど、それはいじめじゃなくって、私の事を大切にしてくれてるからこそって分かっていたよ。だって、暖かかったんだもん。たくろーの私を見る目が。だから、今度は私がたくろーを元気にしてあげたい。お願いたくろー、元のたくろーに戻って?
その日から、私はたくろーの家に通うようになった。ご飯の作り方も、ママに聞いて練習した。ちゃんとした物が作れるようになったのは中学を過ぎた頃からだったけど、たくろーは卵かけご飯でも、お醤油で炒めたご飯でも、レトルトのカレーでも、何でも「うまい」って言って食べてくれた。私はたくろーの笑った顔が好きだ。もっともっと、たくろーを笑わせたい。そんな思いがいつもあった。
それなのに――――――――――――――
「ごめんね…」
本人を前にして言わなきゃいけない言葉なのに。空に向かって言ったって、何も意味がない。高くて遠い空に、ただ虚しく吸い込まれていくだけ。こんなんじゃ…だめだよ。私、最低だ。
夢を見た。懐かしい、母さんの夢。今はもう、声すら思い出せないけど。夢の中の母さんは優しく微笑んでいた。
不思議と目覚めは良かった。今日は来ないかな。藍。今冷静になって考えてみると、俺も大人気なかったな。藍はまだ多感な時期なんだし、俺が経験していないだけで、普通の家庭ではあれが日常茶飯事な風景なのかもしれない。藍が母親に対してどう思おうが、藍の勝手だし、俺が干渉する必要もない。その人と一緒に生活している人にしか分からない部分だってあるはずだ。
「……やべ、ゴミ出し…」今日は木曜。燃えるゴミの日だ。今日を逃すと、次の日までに悲惨な事になってしまう。慌てて部屋中のゴミをかき集める。四袋。恐ろしい。
「くっさ。」玄関のドアを蹴り、ゴミ袋を外へ追いやる。
「―――――――おはよ」
「……お、はよう」
藍がいた。目は合わなかったが、すぐに分かった。目が浮腫んでいる。昨日相当泣いたんだろうな。こいつは、自分を責めたのだろうか?
「貸して。二つ、持つよ」
「…お前今から学校だろ?臭くなるし、時間いいの」
「……少しくらい平気。」俺は比較的軽い方のゴミを渡した。くさっ…と小さく呟く藍に、なんだか笑ってしまった。藍は視線を合わせようとしない。俺が笑ったのにも気づかなかったようだ。安心させてあげたかったのに。
「―――――――――――――あの、き、昨日さ」
藍は恐る恐る切り出した。
「いいよ。別に気にしてないから。」
藍のこんな顔を見ているのが耐えられなくて、俺は止めた。それでも藍は引き下がらない。
「良くない!私の気が済まないから…言わせてよ。あぁっ……てか、こんな言い方だとまた自分の為みたいな感じになっちゃうけど…。ちがくて、何ていうかな…あの…」
藍は頭をボリボリ掻きながら続けた。
「たくろーの気持ち考えないで、あんな事言っちゃって…本当に自分最低って思った。お母さんの事だって、本当は心の中で分かってるんだよ。悪いのは自分だって。お母さんがイライラをぶつけたくて言ってるなんてこれっぽちも思ってない。なのに、言葉はいつも反対の事言っちゃうの。そうすると、止まんなくなって、昨日も。いつもやっちゃってから気づくの。それじゃぁダメだって、何回も後悔してるはずなのに。だから、ちゃんと謝りたくって」
まとまってないけど、藍の言いたい事は何となく分かった。素直じゃないんだ。こいつは。いや、素直に気持ちを表せられないだけなんだ。俺と同じだ。
「……謝んなくて良いからさ、一つだけ聞かせて?」
「………え?」
「藍は…さ…」藍が勇気を出してくれたんだから、俺も勇気を出さなきゃ。簡単だよ。たった一言だろ?
でも……すごく…怖い。
「藍は、俺の事が可哀想だから毎朝来てくれるの…?」あくまで平然を装って、さらっと聞いたつもりだった。でも、最後の方は、声が震えて言葉にならなかった。
自分の心臓の音が聞こえる。腹の底から熱いものがぐわーっと上に上がってくる。
「そ う だ よ」の四文字が怖い。返ってきた言葉は
「たくろーは――――――そう思ってたの?今までずっと」
意外な反応だった。逆にこっちが聞かれるなんて。
「私は…たくろーが…」藍が何か言いかけた時――――――――
「あいちゃぁぁぁぁん!富岡が門のとこいるよぉ!今日登校指導っ!」
藍の親友だ。
「やばっ…トミーかい!じゃ、また…来る…ね、たくろー」
やっと視線が合った。
「…おっおう」
藍は…なんて言おうとしたんだろう?
「たくろーは、そう思ってたの」
そう言った藍の今にも泣きだしそうな顔が、頭から離れなかった。
それから数週間。今日もいつもどおり、藍を送り出す。藍が振り返って言った。
「たくろー、今日さ、テスト期間だから部活ないの。二時くらいに校門来れる?」
「ん…平気だけど」
「じゃ、いってきます」なんで今日…?携帯のスケジュールを見て気づく。あぁ、今日は母さんの死んだ日だ――――――――――。
二時を過ぎても藍は玄関から出てこなかった。じりじりと焦げ付けるような暑さに、イライラが募る。
「ごめんたくろー、HR長引いちゃって。」
藍が大急ぎで駆けてくる。時計は二時四十分を指していた。
「いや、別に、今来たから平気。」申し訳なさそうな藍を見ていたら、自然に嘘を付いていた。
「あれ…萩原じゃん。」
「あ、後藤。
」後藤、と呼ばれるその男は、いかにも流行に乗ってます的なオーラを醸し出している、いわば「今風」の男だ。髪は栗色で、ツイストをかけ、所々に赤いメッシュを入れている。制服のズボンは、こっちが恥ずかしくなるくらい下げ、キティちゃんのパンツが見えている。いや、見せていると言った方が正しいだろう。こんなのがいるなんて、時代は変わったもんだ。校則も昔に比べ、ゆるくなったのだろうか。
後藤とやらは俺を下から上へ、上から下へ往復するように見てから半笑いで藍を見て言った。
「彼氏?」
「ちっ…ちがうよ。早く行こ、たくろー」
藍は今までに見た事もないような顔で隣を歩く。沈黙が辛くなったので、俺の方から切り出した。
「藍、誤解招いちゃったみたいでごめん。藍はあーゆーのが好きなんだ?」
「なっ…そんな訳ないじゃん!あんなチャラ男。キモいよ」
「安心した。」
「へ…何?」
「いや…」
なんで安心したのだろう。
―――――――そうだ、俺は藍を小さな頃から知っているから、家族も同然だから。あんな男に好意をもってもらっては困るのだ。真理子さんも、直も悲しむだろう。だから藍が嫌いだと言ってくれて安心したのだ。それだけの事だ。深い意味はない。藍は俺の妹みたいなもんだから。
藍の学校からは、目的地まで歩いて十五分。こうして藍に誘われなければ、この場所に来る事はなかっただろう。一人で行くべきだろ、普通。命日を忘れるなんて罰当たりだ。
いや、忘れてなんかいない。独りで来ないのは―――――――
「帰る時さみしくなるから」
びっくりして、振り返る。俺が言った言葉じゃない。
「でしょ?………忘れたなんて、嘘、言っちゃダメだよ。」
「……お前エスパー?」
「分かるよ。何年一緒にいると思ってんの。それに、」
藍の髪が顔に掛かる。甘い匂いに、むせ返りそうになるが、決して嫌じゃなかった。藍の体温が、少し汗ばんだ体が心地良い。変態か、俺は。
「藍は、たくろーのママだよ?ママは、子どもの事なんか何でもわかっちゃうんだからねっ。」
藍の頭に顔を埋める。藍の体は、相変わらず小さくて、でも、とても大きかった。
母さんの好きだったゆりの花を上げて、墓場を後にする。自然と、俺たちは手を繋いでいた。まるであの日の記憶を確かめ合うかのように。
「ママ…か…」
「何?悪い?」
「小っせぇママだよな」
「たくろーがでか過ぎるんだよ」
「………藍、ありがとな」
「……………。」
藍は、照れていたのか、俺の声が小さくて聞こえなかったのか、小さく頷く素振りを見せるだけで何も言わなかった。
家まで帰る道が、こんなにも穏やかな気持ちで歩けるのは初めてだった。
あの日を境に、藍は少し変わった気がする。毎朝来て、飯を作ってくれる。他愛もない会話。何も変わってないはずなのに、何か違うのだ。
「藍、なんかあった?」
「へ?べ、別に何も?」
「…そ。」
今日の玉子焼きは、少ししょっぱかった。
変わったのは、藍だけではない。俺もずっと目を背けていた就活を始めた。久々に着るスーツは、防虫剤の匂いが染み付いている。CK1の香水をぶっかけて、家を後にした。
職業訓練所は、平日だというのに人で溢れかえっていた。俺くらいの年の人も居れば、明らかに還暦を迎えているような人も居た。これか、テレビで騒いでる就職難というやつは。順番待ちをしていると、誰かから声を掛けられた。
「ね、あ、あの、違ってたら申し訳ないんですけど、笹間くん…ですよね」
「は…はぁ」
俺の頭の中で友達リストを何回も検索したが、こんな可愛い人はどこにもヒットしなかった。
「田上、麻里絵です。中学の時一緒だった…お、覚えてるかな…」
「――――――――――あぁ!」
「よかったら、お昼でも食べません?」
田上麻里絵。中学時代のあだ名はガリエ。体が細かったからではない。ガリエのガリは、ガリ勉から来ているものだった。それにしても…
「綺麗に…なったよね~」
黒髪で一本に結っていた髪は、ほんのり栗色になり、まるで歌手のYUKIのようなボブになっていて、元々綺麗な顔立ちだった為か、薄っすらとした化粧でいやらしくなく、とても彼女に合っている。
「そんなに変わったかなぁ?あの頃はね、勉強一本だったから。笹間くんは、変わってないね。」
「それ、ほめ言葉?」
田上はくすくすと笑った。あぁ、この顔。変わっていない。
「そーいえばさ、一緒に学級委員…だっけ?やったよね?」
「え………あぁ忘れちゃったぁ。笹間くんて記憶力いいんだね」
「あれ、田上とやったんじゃなかったっけな…違ったか」
母さんがいなくなってから、俺はいろんな人との繋がりを絶って来たから、田上とこうやって話すのがなんだか新鮮で―――――――普通に楽しかった。
「ねぇ、よかったら、アド教えてくれない?」
「あぁ、勿論。」
「また、誘っても良い、かな?」
「あぁ、俺大体家にいるからさ。恥ずかしい話、暇してるからいつでも連絡してよ」
「ありがとう。じゃあ、またね」
田上は短大を卒業してから保育士になったそうだ。だが、その世界は過酷なものだったらしい。標的は自分ではなかったものの、職場でのいじめや保護者とのトラブル、人間関係、全てが嫌になってしまったという。理想と現実は違う…といったところか。田上も、まだやりたい事が見つけられてないと言っていて、なんだか安心した。今日こうして再会出来たのも、何かの縁なのだろう。珍しく、自炊をして、ゆっくりよ風呂に浸かってから眠りに付いた。今夜は良く眠れそうだ。
その後も田上とは、自然に会う約束を交わしていた。誘ってきたのは向こうだが、俺の方も「話したいな」と思っていた。会話が途切れる事も無く、沈黙を気にする事も無かった。彼女のホワホワした空気になんとも言えない心地良さを感じていた。
「笹間くん…失礼を承知で、聞いても良い…かな」
「何」
「笹間くんは…今独り暮らしなの」母親の事に触れないあたり、田上らしい。
「うん、すぐそこのアパートでね。元は親が経営してた所だからさ、待遇も良いんだ。今は他の人にまわっちゃったけど。」
「あ…ごめんなさいっ私、そんなつもりじゃ」
「良いんだよ、変に気ぃ使わなくったって。」
「………。」
田上は黙り込んでしまった。そんな顔されたらこっちが困る。
「こっ…今度、笹間くんちに行っても良いかな?私、こんなんでも料理得意なんだよ」そう言って、田上は力瘤を二つ見せた。なんだこの仕草は。かわいすぎだろ。
「家、何も無いけど(笑)。それでも良ければ是非、お願いするよ」社交辞令のつもりだった。それに、田上も気を使ってそう言ってくれただけだと思っていた。
暫く二人で夜道を歩く。街灯の少なさが、田舎だという事を物語っている。
「―――――あっ。ここまでで大丈夫だよ。わざわざ送ってもらっちゃって、ごめんね」
「こっちこそ、忙しいのに会ってもらっちゃって。楽しかったよ。」
「またね、笹間くん」
「ん。またね」
こんな事言ってる自分が恥ずかしい。
「……忘れたなんて、嘘だよ。ずっと、ずっと……てたよ」
田上が何か言ったような気がしたが、よく聞き取れなかった。そうだ、今度藍を田上に会わせてあげよう。リアルな現場の話とか、短大の情報とか、藍に役立つ情報を色々知っているだろうから。
この時の俺は…藍の気持ちなんか全然分かっていなかった。いや、自分自身の気持ちにも———。
人間てのは、単純な生き物だ。「またね」そんな一言で、生きる力が湧いてくる。明日も生きてていいんだ、なんて前向きな気持ちになってしまう。いつも見慣れた部屋の色が、少し明るく見える。掃除をしようかな、なんて珍しい事を思う自分。浮き足立ってる半笑いの自分を鏡で見て恥ずかしくなる。
「…えぇ~マジでか」カーテンを開けてがっかり。外はどしゃぶりの雨。洗車した翌日は必ずこうだ。なんて思っていると、ダダダダっと階段を駆け上がる音がした。時折「ひゃっ…跳ねんな」などと汚い言葉が混ざって…
「たくろー、おはよ。」
藍は傘が無かったのか、ずぶ濡れだった。いやー濡れた制服ってのは…いや、これ以上は自重。
「傘忘れたん?」
「急に降ってきたんだよ!乱層雲…ん、積乱雲…だっけ…って、どっちでもいいや」
藍は自分で解決し、洗面所でドライヤーを使い始めた。
俺はこの前藍が忘れていったピンクのシュシュを腕にはめ「藍、髪。」藍が背中を向ける。と同時に、ふわっと匂った。
「匂うな」
「なに?あたし臭い?生乾き臭かい。周りに迷惑かけんじゃん」
「ちげーよ。藍の匂いって独特だなーと思ってさ」
「……なにそれ。意味わかんない。あたし貶されてんの」
「違うって。匂いってさ、結構アレらしいよ。重要なんだって」
俺はテレビかなんかで得たうろ覚えの知識を話し始める。
「ふーん…。じゃあさ、たくろーはあたしの匂い……、」
そこまで言いかけると、藍は首を横に振り、言うのをやめてしまった。
「何」
「てか時間やばい!」藍は何を聞こうとしたのだろう。
「送ってこうか」
「いーの?」
「この雨じゃどうやったって濡れちゃうだろ。横降りだし」
「…ありがと」
藍の反応が、いつもと違う気がしたが、何がどう違うのか、自分でも良く分からなかった。
車に乗り、エンジンをかける。
「ごめん、さみぃよな。もうちょっと待って」
暖房を全開にするが、冷たい風が吹き出てくる。
「ねぇ。たくろーさ、何かあった?」
「なんで」
「なぁ~んか、違うから」
「違うって、何が」
「……色々」
「色々って、、、、まぁ、無いって言えば嘘になるけど」
別に隠す必要もなかったのだが、田上の事は今すぐに話さなければならない事でもないし、浮き足立ってる自分に気づかれてしまったのが少し恥ずかしくて、なんとなく誤魔化してしまった。
「………そっか」そこで会話は途切れてしまった。
校門前には、何台もの車が止まっている。藍もここで下ろした方が良さそうだ。
「帰りは?」
「用事があるならいいよ。友達と帰るから」
なんで藍が不機嫌になってるのか意味が分からない。何か気に障るような事言ったっけ?
「この前と同じくらいに居ればいいか」
「……いいよ、本当に大丈夫だから。こなくていい」
藍は力なくドアを閉め、行ってしまった。強くバタンと閉めてくれれば、俺だって何か言い返せたのに。
藍はああ言ったけど
「迎えに来るに決まってんだろ。
」雨の中傘も持たないレディーを歩かせるほど薄情な男ではないぞ俺は。その時…携帯が鳴った。
「もしもし…」
電話の主は
まだ記憶に新しい、先日に聞いたばかりの声だった。
「田上。どうした」
「ごめんね、急に。今日何か用事あるかな?」
「…いや、何も無いよ」
ムシャクシャした気分を晴らしたくて、俺は二つ返事で田上と会う約束をした。
「今日は寒いねぇ。」
田上はこの前とはまた違った雰囲気で、民族のような格好をしていた。こういうの、よく雑誌で見かける。藍は…似合わないだろうなぁ。って、なんで藍が出てくんだよ。
「な、何か、あたし顔についてる?」
無意識に、田上の顔を藍に置き換えて見ていた。朝、あんな事があったからだ…。今は藍の事は忘れよう。今は田上と会ってんだ。田上に失礼だ。
「そういう格好もするんだーと思って」
田上は下を向いて
「へ、変かなぁ」
前髪をつまんで苦笑いをした。
「いや、普通に似合うと思うよ。そういうのって、着こなしとか難しそうだよね」
勝手な思い込みかもしれないが、田上は男に慣れていない感じがする。他愛もない話をしているだけだが、時折目が合うと、恥ずかしそうに前髪を押さえて下を向いてしまう。そんな姿が、妙に可愛くて。俺も気兼ねなく話が出来た。
「結構長居しちゃったね。」
料理の皿は全て片付けられ、ドリンクバーの容器だけになったテーブルを見て、田上が申し訳なさそうに店内を見回す。
「そろそろ、行く?」
「うん。あ、私が払うよ」
俺が財布を出すと、すかさず田上も財布を出した。別に、そんなに気を使わなくていいのに。
「私が無理言って誘ったんだし、払わせて」
「いや、俺もいい気晴らしになったし、誘ってもらえて良かった。ここは払わせてよ。次回は田上のおごり…って事にしといてさ。」
田上は申し訳なさそうに、俺の手元を見ていた。
『又お越し下さいませ』
「ごちそうさまでした」
こういう言葉を普通に言える田上は、きっと育ちが良いんだろうなと思った。
「4時か…」
そろそろ藍が終わる頃かな。
藍は車に乗ってくれるか分からないけど…
「今日は、ありがとう。迷惑じゃなかったら、また、連絡するね」迷惑だなんてとんでもない。逆に俺が礼を言う方だ。
「俺も楽しかったよ。」
「今度は私に奢らせてね。」
田上は何度もペコペコと頭を下げて、赤い軽自動車に乗って帰ってった。
雨は一向にやむ気配がない。
「萩原ぁ~」
茶髪のチャラ男がイラついてる私を面白そうに見て話しかけてくる。
「……何」
「シカトすんじゃねーよ。」
あごを乗せていた手を降ろし、顔を覗き込むようにして近づいてくる。おめーは距離感てもんがわかんねーのかよ。
「何って言ってんじゃん、シカトなんてしてねーから」
思わず声をあらげてしまった。そんな私の態度に怯むことなく、むしろ笑顔になったそいつは言った
「生理?」
「…………死ね」
外を見ると、雨は勢いを増していた。横ぶりだった雨が、風であちこちに降りつけている。やり場のない怒りをどこにぶつけたら良いのか分からずに、当り散らしている。まるで今の私の心の中みたいに―――――――
そろそろ、藍が終わる頃だ。
「まじやべー」「何この雨~ウケるし」
ヤバいしウケるしで今の若者はどうなってんだ。ヤバイと言いつつ楽しそうに下校する生徒たちを見ながら、黒髪のチビを探す。どんな顔して来るかなあいつ…。
「……あ…」
玄関から出てきた女は、今朝見たばかりのピンク色のシュシュをつけてぶすっとした表情をしていた。その姿に思わず吹き出してしまう。なんて顔してんだあいつ…どんな言葉をかけよう?怒ってた理由を聞いてみよう。そんな事を考えていると…女の後ろから見覚えのある男が出てきた。あいつは――――――
「お~い萩原ぁ」
「…………」
「傘無いのにこの雨ん中どうやって帰るんだよ」
「(雨なんて別に関係ない)」また。まただ。自分勝手に怒って、人を困らせた。朝の一連のシーンが頭をめぐる。一番意味わかんないのはたくろーだよね。せっかく送ってくれたのに、一方的に怒って、一方的に降りて。たくろー、困ってた。
「……あやまろう」
たくろーに謝ろう。素直に「ごめんなさい」は言えないかも知れない。だって私…ひねくれもんだもん。でも、ちゃんと自分の言葉で言おう。たくろーなら、メチャクチャな私の言葉も理解してくれるから。雨に濡れたって関係ない。ずぶ濡れで化粧が崩れたって構わない。早く、たくろーに会いたい。
そう思うと、私は自然に雨の中一歩を踏み出した。
「萩原ぁ俺の傘に入れよ」
「だからいいってば」
それでも無視して進む私にイラついたのか、後藤はすごい勢いで私の腕をつかんだ。
「…っ痛い。離して」
「なんでそんなに拒絶するん」
後藤はそう言うと、校門の方に目を向け「ふ~ん」と口角を上げると更に強く腕を引っ張った。バランスを崩した私は後藤にもたれ掛かるようにして倒れた。甘ったるい香水の匂いと、噛んでいるガムのフルーツの臭いがすごく不快だ。
「やだっ」
突き飛ばそうとする私の両手を後藤は押さえ込むと
「………!?」
次の瞬間、私の唇は後藤の唇で塞がれていた。
「んんっ…なにすっ」
「俺怒らせると怖いよ?」
そう一言言うと、満足気に微笑み後藤は去っていった。
「藍」
聞き覚えのある声
今一番聞きたくない声が私の名前を呼んだ。
「たく…」
もしかして…
見られた……………?
たくろーは無言で私の腕を引いて車に乗せた。車の中はすごく暖かくて、たくろーがずいぶん前からここに居た事を示していた。
「……………すごい雨だね」
たくろーに見られた。そればかりが頭の中をぐるぐる回って、何にも考えられなくなる。こんな事言いたいわけじゃないのに。まずは「迎えに来てくれてありがとう」でしょ?
しばらく沈黙が続く。窓ガラスを打ち付ける雨の音が、早く、早く会話を…とせかしているように聞こえる。沈黙を破ったのは、たくろーだった。
「今の若いやつってすげーんだな。俺らが学生の頃は手ぇ繋ぐだけで翌朝ウワサもんだったよ」
「――――――!」
なんでそんなに普通にしていられるの?
「たくろーは…平気なんだ」
心の中でつぶやいた事をそのまま言ってしまった事に自分で驚く。
「え?」
たくろーがどうしてくれたら私は満足なんだろう?私はどんな答えを期待してるの?これじゃぁまるで……私がたくろーの事…
「あいつとは…そうゆう関係じゃないから」
「……………そ。」
たくろーはそれ以上何も言わなかった。そこで怒ってくれる事を期待していたのに。問い詰めてくれる事を期待したのに。たくろーは、私が誰と何をしようと気にしないんだ…それがすごく寂しかった。お願いたくろー、「あいつに近寄るな」って言ってよ。
ハンドルを握るたくろーの横顔を見る事ができなくて、家に着くまで私はずっとダッシュボードを眺めていた。
それから数日が経った。気まずくて、最近たくろーの家に寄れていない。なんだか胸にぽっかりと穴が開いた感じだ。朝たくさん寝れるのだから、嬉しいはずなのに…。なんて天邪鬼なの。もう、誰が見ても分かるよ。私は、たくろーが
「好き…なんだ」
自分でもよく分かる。私は「ママ」になりたいんじゃない。たくろーの隣にいたいんだ。ずっとわかっていたはずなのに、分からないようなふりをしていた。ほんと…素直じゃない。
その時、携帯が鳴った。 たくろーだ。
「就職先決まった!」
私はスーツ姿でそう嬉しそうに言うたくろーを見て、精一杯の笑顔で「おめでとう」を言った。
「俺の中学校の同級生で、田上麻里子さんだ」
栗色のショートボブの女性は、私には無い色気を持っていて、身に着けているものも大人っぽくて、目の前に座る自分がすごくちっぽけに見えて、子どもに思えた。麻里子サンというその女性は、私の夢である保育士という職業に就いていた事があるらしく、色々教えてくれた。時々「藍ちゃんて、カワイイですね」とお世辞だかなんだか分からない言葉を掛けられて、私はなんとも言えない気分になった。早く…ここからいなくなりたい。
見慣れた部屋なのに。毎日来ていた部屋なのに。彼女に侵食されている気がして、今はすごく居心地が悪い…
「じゃあ、私はこれで」
まだいればいいのに、とたくろーが声を掛けるが、麻里子サンは使ったコップを台所へ持って行き、丁寧に洗うと「またね。藍ちゃんも、就職がんばってね」と言って出て行った。まっすぐに台所に向かった様子から、麻里子サンがここに来たのが初めてじゃない事を悟った。たくろーの家の台所は、私だけの場所だと勝手に思い込んでいた自分が恥ずかしい。胸が、胸の奥が手で握りつぶされているようにぎゅうっと痛くなる。
「藍、勉強になった?」
たくろーが嬉しそうにそう言うから私は
「うん、すごく勉強になったぁ。」
馬鹿。話なんていっこも頭に残ってないクセに。嫌で嫌でしょうがないクセに。たくろーがすごく楽しそうに笑ってるから、私も笑った。叩けばパズルのように崩れるような作り笑い。だって…嫌だよ。私の知らないたくろーを知ってる人が居るって事が。たくろーの家に私以外の女の人が上がりこんでるなんて。別にたくろーは私の所有物ではないのに。私はなんて嫌な子なんだろう?たくろーが誰と何をしたっていいじゃないか。
麻里子サンが帰った後の部屋には、ふんわりとローズの香りが残った。私はそれが嫌で嫌でしょうがなくて、カーテンを開け、窓を開けた。と同時に、何かが転がった。
「藍?」
「………なに…これ」
カーテンの陰に落ちていたのは、たくろーとは無縁なリップグロスだった。
「あぁ、麻里子がこの前忘れていったんだよ。あいつ、すぐ忘れ物するんだよな」
さらっと言うたくろーに腹が立った。麻里子サンは、私が居ない間も、ここに通っていたんだ。私がずーっとたくろーの事で悩み続けていた瞬間も、二人でこの部屋で楽しくおしゃべりをしていたのかな。そう思うと悲しくて、悔しくて、切なくて泣きたくなった。中学校の同級生そうたくろーは言うけど、麻里子サンにそういう感情がないとも言い切れない。
「たくろー…私…」
「藍…?」
だめだ…。たくろーの前で泣いたりできないよ。理由が説明できないもん…
これ以上ここにいたら、私は崩れてしまう。私は夢中でたくろーの家から飛び出した。そして…
電話を掛けた
「…………。今すぐ…今すぐ来て」
こんなの反則。でも、私がたくろーを失ったら、何にすがればいいの?
そいつはすぐにやって来た。
「なに、どしたん」私の様子がいつもと違うのを感じているのか、そいつはいつもの話し方とは違って優しく話しかけてきた。
「…急に呼んでごめん。こんなに早く来てくれると思わなくて」
「なんか今日かわいいじゃん」
「……はぁ…いつもあんなに冷たい態度取ってんのに、よく来てくれたんね」
「へぇ、冷たい態度って思ってるんだ?」
「思うでしょフツー」
「ふっ…。どーゆー風の吹き回し?あの彼氏サンにフられたの」
「……。」
「ん~?図星だった?ごめん」
「じゃないよ……あの人は彼氏じゃ…」
彼氏じゃない。たくろーは私となんの繋がりもない。ただ幼い頃から一緒に居ただけ。その事実がもっともっと私を追い詰める。苦しい苦しいよ。
「おいで」
そう言うと後藤は私を抱きしめた。背中まで手を回して、後藤はいつもにないくらいやさしい声でささやく。
「泣いてもいいよ。今日の萩原すげーカワイイし。なんなら抱いてやるし」
「ばか」
今は少しだけ…この甘ったるい匂いを感じてたい。都合のいい女って、こういう事を言うのか。どんどん嫌な女になってくな…自分。
キスしても自然な雰囲気。ず後藤は何もせずに私を抱きしめていてくれた。
そして、最後に言った。
「萩原ぁ…俺と付き合う?」
私は、無言で後藤を見上げた。
就職が決まり、俺はやっと生きる希望がわいた。何かの為に今をがんばる。世の中に居る人が当たり前のように立っているステージに、やっと立てたように思えた。それを一番最初に伝えたかったのは田上ではなく、藍だった。「なんで?」心の中で俺が問いかける。「一緒に就職活動を励ましてくれたのは田上だろ?」そう、田上は色々してくれた。履歴書を一緒に書いたり、いろんな職場のリサーチをした書類を綴じて来てくれたり。スーツ屋へも一緒に行った。
「でも…」何かを考えようとして、俺は考えるのをやめた。これ以上考えたら、答えが出てしまうような気がしたから。
「おめでとう」と笑う藍は、寂しそうな顔をしていた。藍と何年一緒に居ると思ってんだ。藍の笑顔が本心から来るものではない事なんてすぐに分かる。いつからあいつは作り笑いなんてもんが出来るようになったんだろう?
――――――この部屋に、藍が来なくなって一ヶ月が過ぎた。この一ヶ月で変わった事は、
「昨日は何食べた?」と問いかける女が黒髪の女から、栗色の髪の女になった事。
「………ココイチのカレー」
「そっかぁ。外食だったんだね」
いつかの藍との会話がフラッシュバックする。藍だったらここで口を尖らせて俺を叱っただろうな。思わず、吹き出してしまう。
「どうしたの?」
「いや、何でも…」
不思議そうな顔をしながらも、田上は料理を続けた。
「拓夢くん大変…お醤油がないよ」
「え…まじか」
仕事が始まり忙しく、自炊もここの所サボり気味だった。
「今、何時?」
「11時。まだシミスーならやってるよ。私買ってくるね」
慌てて出て行こうとする田上を引き止めた。
「こんな時間に一人で行ったらアレだよ。俺も行く」
ただでさえ街灯のないド田舎だ。ジャンパーを羽織ると、田上は嬉しそうに笑った。
「まだ、ちょっと寒いね。」
はぁ、と白い息を出して田上が言う。もう3月に入ったのに、夜は急激に冷える。
「使う?」
黙ってジャンパーを掛けてあげる…なんてキザな真似は俺には無理で。俺は脱いだジャンパーを田上に渡した。
「た…拓夢くんは…寒くない?」
「大丈夫」
田上は申し訳なさそうに俺の顔をチラッと見ると、田上の体にはあまるほどの大きいジャンパーを羽織った。
スーパーに着くとすでに蛍の光が流れていて、閉店を知らせるアナウンスが流れていた。
すぐに買い物を済ませ、俺たちは店をあとにした。
「間に合って良かったね。」
嬉しそうに醤油を抱える田上を見て、思わず笑ってしまう。裾で指先まで隠れてしまっている手が、なんだか可愛らしい。その時…
「きゃっ…」
突然眩いライトがこっちに向かって照らしつける。同時にブーンと大きなエンジン音が近づいてくる。ヘルメットも被ってない二人乗りのバイク。普段だったら舌打ちをして「あぶねぇな。ったく今の若者は」とでも言えただろう。でも…
バイクが俺たちの横を通り過ぎようとした時、速度をゆるめた。たった一瞬の出来事なのに、まるでスローモーションのように時間が過ぎる。後ろに乗っていた女は、こっちを見ると男の耳元で何かをつぶやき、エンジン音が焦るようにまた大きくなって通り過ぎてった。
「拓夢くん、今のって、」その先は、言ってほしくなかった。
「………藍ちゃんだよね?」
俺は黙って家まで歩き出した。田上が俺と地面を交互に見ながら駆け足で付いて来る。俺今どんな顔してんだ―――――?
「結局…こんな時間になっちゃったね。」
田上には悪いが、今更、何かを食べる気分にならなかった。
「藍ちゃんて、あぁゆう子と友達なんだね。
」今は、藍の事は考えたくない。藍が手を腰に回していた男は…忘れるはずもない。あの男だ。
「拓夢くん…怒ってる?」
「―――怒って…」
なんで俺が怒る必要がある?こうして俺は今田上と一緒にいる。藍だって、藍の生活がある。
「私じゃ、やっぱり拓夢くんの心を満たしてあげらんないのかな」
そう呟く田上がなんだか寂しそうに見えて…
「もう少し…ここにいる?」
自分でも卑怯な聞き方だと思った。田上は黙って頷き、俺の近くに座った。ローズの香りがふわっと俺を包み込む。無意識に、小さな肩を思い切り抱いた。
「……ぁ」
と小さく声を漏らす田上がすごく愛しく感じた。ブラウスのボタンとボタンの間に手を滑り込ませると、「……っ」
田上は小さく体を跳ねらせた。田上の首筋へ唇を這わせる。これは藍への当てつけかもしれない。でも、もう止まらなかった。
「拓…くん…そこは、」
小さく震えて抵抗する田上に、俺の手は更に勢いを増す。藍の匂い、藍の表情、声、色々な物が頭の中でグチャグチャになる。ただ今は目の前に居る女を滅茶苦茶にしてやりたい。そんな最低な思いを抱いていた。
「―――――――――っ」
「……っ……?」
田上が俺を見上げた。なんで?とでも言いたそうな瞳をしている。
「ごめん…俺、どうかしてた。」
「…………続き、してくれないの?」
ここまでしといて、そりゃねぇだろ。俺が田上だったらそう言うね。でも、田上を抱こうとしたのは「―――――藍ちゃん…でしょ?」
真意を付かれて何も言えなくなる。
「ごめん…田上」
「それでもいいって言ったら?」
「それは、俺が俺を許せない」
「――――だよね。拓夢くんは、そうゆう事出来る人じゃないもん」
田上は、外れたボタンを掛けながら部屋から出て行った。カンカンカン…と階段を降りていく音が胸に突き刺さるように響いた。
「最低…」
自分がしてしまった事を思い出して、思わず壁を殴る。田上に、本当に悪い事をした…。そして俺は
――――――藍が好きだ。
「まだ、忘れらんない?」
気持ち悪いくらいに優しく聞いてくる後藤に私はうんざりする。
「忘れられるワケないっしょ…」
だって、たくろーとはずぅっと一緒に居たんだよ。たくろーが感じてきた痛みも、嬉しさも、悲しさも、全部共有してきた。
「……後藤、ごめんね」
後藤と付き合い始めて1ヶ月。後藤は意外と優しくて、見た目とは裏腹に、普通の人だった。学生らしいデートもした。甘ったるい香水の匂いも、今では少しだけ、心地良い。
「なんであやまるん」
「やっぱりあたし…」
そう言い掛けると後藤の甘い香りに包まれ、唇を塞がれた。
「…ふっ…う…」
歯がガチガチと音をたてるほどの激しいキスに、何も考えられなくなる。私が抵抗しようとすればするほど、後藤の力は強まり、私の口内を犯していく。
「おめぇはっ…はぁ…都合よすぎ…んだよ」
「んっ…」
自分でもわかってるよ、そんな事…。でも、私は
「たく…ったくろーがっ…ぁっ」
「言わせない」
後藤は両足で私の手を押さえ込み、覆いかぶさるように胸元へ唇を落とす。
「…これでっ…ぁ…許して…くれる…?」
それなら、と私は思う。今我慢すればまた、たくろーの元へ行ける…?たくろーは受け入れてくれるかな?また、「しょーがねぇなあ」って笑って髪をなでてくれるかな?たくろー、あれから、また髪の毛伸びたんだよ、私。早く、触ってほしい、縛ってほしいよ…
「………泣いてんの?」無意識に、涙がこぼれた。
「―――――。」一瞬、後藤と目が合う。後藤は優しく私の頬を撫でて涙を拭いてくれた。体が離れ、開放されたかと思い体を起こそうとするとさっきよりも勢いを付けて肩を押さえ込まれる。ガンッとコンクリートに頭が打ち付けられる。
「……痛…」ジーンと鈍い痛みが広がっていくと同時に、後頭部に嫌な温かみを感じた。
「泣かれると、もっといじめたくなる」
そう耳元で囁くと…後藤は私の体のあちこちに唇をおとしていく。まるで、自分のものだと印をつけるように。吸われたところがヒリヒリして、痛くて、熱くて、そして気持ち悪かった。それでも私は抵抗をしなかった。
「抵抗しないの?」
これが、私への戒めなら―――――――
放心状態で家に帰る。
早く、お風呂に入りたい…
シャワーを浴びると、真っ赤な液体が流れ落ちた。
「……っう…」
激痛が走った。思わず後頭部を抑えると、手が血で染まっている事に気がついた。髪が血でべっとりと固まっている。あの時…頭を打ち付けたから…。後藤に触られたすべての部分が汚らしく思えて… 髪が、顔が、胸が、口の中が、あそこが、中が、、、
「あああああああああああああああああああああああぁぁああぁっ」
私はハサミを握り締めた。ジャキっという鈍い音の後に、どさっという重い音がお風呂場に響く――――――
そこから先の事はよく覚えていない。
「………っう、うぅぅぅっ―――ひっ―――うぇっ」
脱衣所で鏡に写る自分の姿に驚く。首筋、胸、太ももにかけて、赤い湿疹のようなものがまんべんなくつけられている。こすってもこすっても、消えることのないその印に、私は愕然とした。でも、消したくて、消したくて、皮膚から血が出るほど濡れたタオルで擦った。白いタオルが血で真っ赤に滲んでいく…。
「……ぃゃ…たくろぉ…」
私は家族に聞こえないように声を押し殺して泣いた。
「こういう格好、嫌いなんだけどな。」
制服の下に長ジャージ。こうするしかない。こんな肌、誰にも見せられない。
「…ふ……ヒドイ顔。」
鏡の中の自分は真っ赤な目をしていて、普段の半分くらいしか目が開いていない。髪もハサミで切った為、ざんばらだ。
「もう…これじゃぁ触ってもらえないね」
あなたに触ってもらえるのが好きだった。ぽんって頭を触ってくれるできたよの合図。少し非対称なツインテール。
「たく…
」あぁいつの間にか私の中はこんなにもあの人で一杯だったの。たくろーはいまどうしているのだろう?
あの一件以来、田上とは会っていない。メールが何件か来てるが、未開封のままだ。俺は藍の顔ばかり思い浮かべていた。藍はどうしているのだろう。もう三月。保育関係の学校決まったかな?
「バッカだな、」俺。会おうと思えば会える距離にいるのにそれでも行けないなんて。いつか藍が言った。「私は他人よりも回り道をしてやっと皆と同じスタート位置に立てる」と。そんなことねーよ。お前は臆病な俺と違ってきちんと自分の気持ちを伝えたじゃねーか。
「俺よりずっと、大人だよ」
その時、玄関のチャイムが鳴った。もう10時過ぎだぞ。玄関の向こうに立っていたのは
「………田上…」
「来ちゃった。」
「お茶でいい?」
「ん…ありがとう。いきなりごめんね」
「大丈夫だけど、ちょっとびっくりした」田上にお茶を出しながら、俺は言った。
「あんな…あんなヒドイことしたのに」
「……………。」
田上の表情は見えない。両手でマグカップを持って下を向いている。
「私…ね、ずっと、ずっと好きだった人がいたの。」田上はギュッと唇を噛みしめながら続けた。
「その人はね、どこか闇を抱えているような人だった。いつだって、どこのグループにも属さない。トイレに行くのも一人。ご飯を食べるのも、一人。誰とでも平等に接する人だったの。その人はクラスの誰もやりたくないような学級委員という役割を押し付けられても文句の一つも言わない。クラスで浮いているぐりぐりメガネのガリ子の事、その人だけは田上って名前で呼んでくれた。」田上は続ける。
「その人の事を本当に好きだって思ったのは_____その人のお母さんのお葬式。普段見せないその人の表情に心を打たれたの。人前では絶対涙を見せないその人のそばにいたいと思った。隣で励ましてあげたいと思った。私が笑顔にさせてあげたいと思った。この年になるまで、忘れたことなんて一度もなかった。ずっとずっと、会いたかった。」
そこまで一気に言うと、田上は顔を上げ、俺の目をじっと見つめた。大きく息を吸い込んで…そして…
「あなたの事だよ、拓夢くん。私、ずっと、ずっと、拓夢くんの事が好きでした。」
田上はまっすぐな目で俺を見ている。
「た…田上。……………ありがとう…」
いろんな感情が渦巻く。田上の気持ちは嬉しい。俺の事よく見ていてくれたんだな。だからこそ、先日の事が田上にとって残酷であると再確認させられた。今だって、頭の中には田上ではなくて…
「分かってる。拓夢くんの中には私はいないって。そんなの、藍ちゃんに会った時から分かっていたよ。」
「…え」
心の中をのぞかれたかのような田上の反応に驚く。田上は眉を寄せて笑って言った。
「拓夢くんをこんな表情にさせることが出来るんだ、藍ちゃんにはって思って、それがなんだかすごく悔しくって…ちょっといじわるしちゃったね。拓夢くんと藍ちゃんの空間に割って入るようなこと…。
でも、そうしてまでも、どんなにいやな女の子になっても、拓夢くんの隣にいられるならよかったの…」田上の目から大粒の涙が落ちる。
「…無理なのは分かってる。痛いほど。
だから、だからお願い」
ガタッとテーブルが音を立て、マグカップが倒れた。
「最後に、思い出をください。」
「た、たが…み…んんぅ」
喉まで舌が届きそうなほど激しいキス。
「…ふぅっ……たく…むくんっちゅっ…ハァ、っ…」
涙を流しながら馬乗りになってキスを続ける田上。田上の腕が背中に回る。振りほどこうと思えば振りほどける。でも…涙を流し震えながら唇を重ねる田上に、俺は体を預けることしかできなかった。
その時ドアの向こうに人影が横ぎったように見えたのは…気のせいだったのか。
「俺さ?結構まじに萩原の事好きだったんだよ?」
「ごめん…自分の都合で後藤の事呼んだり甘えたり。私すごく最低なことした。だから、だからこそたくろーにちゃんと言いたいの。」
たとえ、たくろーの目にあの人が映っているとしても。
「んで~?俺はどうすればいいわけ?」
「どうすればって…?」
「このやり場のない気持ちをどうすりゃいいんだよってこと」
後藤の声のトーンが下がった。先日の感覚が体中を駆け巡り、思わず後ずさる。
「あ…や……ぃ、いや」
「まーだ何にもやってないけど?それともなに?思い出しちゃったぁ?あの日の事」
「や…やめて」
奥歯ががちがちと震える。背中を嫌な汗が伝う。全身の毛穴がぞわっとする。
「そのさーたくろーさんちに行ったんでしょ~?そこで何を見たわけ~?女とヤってるとこでも見ちゃった?」
「…………。
それでも。私はたくろーに伝えなきゃいけない」
後藤の眉毛がピクっと動き、舌打ちをしてコンクリをけった。
「…むかつく。俺の一番むかつくパティーンだわ。そうやって女は自分で問題起こして自分で勝手に解決して全て男が悪い風に仕立てあげる。身勝手に持論をかざしやがる」
ドンッと壁に体を押し付けられる。
「きゃっ…」
後頭部の傷口が脈打ち、あの日の感覚、全てが体中を支配する。
「お、オェェェェェェェっ」
胃液がこみあげてきてその場に吐いてしまう。
「きったねぇなぁマジで。つかさ、そんな体中真っ赤で自分以外の男に精液ぶち込まれた女をたくろーさんはどう思うんかね?髪もこんなになっちゃってよぉ」
「…い、いたい」
「なんで抵抗しねぇの?そーゆーのが一番腹立つんだよ」
バキっとすごい音がして、一瞬何が起こったかわからなかった。
「っあああああああああっ」
頬を殴られたのだ。内側、外側両方から血があふれる。10円玉のような臭いが口の中一杯に広がる。
「…っう、おねがいっ…ごと…う」
「くぁはははははっ!まじウケんだけど」
後藤は私の反応を楽しみながら頬を左右交互にはたいた。その度に白いコンクリートの上に赤い液体が飛び散る。
目を開けてられない。私、今どんな顔になってるんだろう?
意識がもうろうとする中で、懐かしいあの人の夢を見た。思い出すのはやっぱりあの夏の思い出。私が心にある思いを抱いた日。制服姿のあの人は涙を流して私の胸の中に顔をうずめたの。小刻みに体を震わせて、声を絞り出すように泣いていた。どうしたらこの人を笑顔にできるだろう?どうしたらこの人を心から楽しませてあげられるだろう?そんなことを考えて頭の中がぐるぐるして、でも私は幼くてうまい方法が思いつかなくて。「あいちゃんがママになる」
心から出た言葉。ママになる…なんて。あのころはママでよかったの。だけどね、私あなたの隣で手をつないで歩いていきたいの。あぁ、もっと早く自分の気持ちに気づいていれば。……ウソ。とっくにきづいていたでしょう?私。ねぇ、たくろー?もう一回、ぎゅってして…?夢の中のたくろーは、やさしく目を細めて、私を包み込んでくれた。あぁ…ちょっとタバコ臭いシャツも、柔軟剤の匂いも心地いい。このまま、時間が止まればいいのに。
私、殴られているはずなのにこんなこと考える余裕あるんだ?もう死んじゃいそうってことかなぁ?死ぬ前に、ちゃんとたくろーに伝えたかったなぁ。ごめんねとだいすきを…
「…にやってんだよ!藍から離れろ」
この声…?
忘れもしないあの人の…だけど、目が開かないの。大好きな大好きな私の大切な人。両目でよく見たいのに…見えないよ…。
たくろー。
「ん…」気が付くと私は、自分の部屋のベッドの上にいた。いつもと違うのは、誰かが私を抱きしめているということ。
「んっ」ズキっと全身に痛みが走る。殴られたせいで腫れてしまった口。うまく開くことができない。目の前にいるその人の名前を呼びたいのに。
「藍…」
たくろー、たくろー。私は声にならない声を振り絞って両手でその人の背中に腕を回ししがみつく。
「藍、藍っ」
たくろー、苦しいよ、そんなに強く抱きしめたら。
「……ぁくろー、……あらひね、ぁくろーが、」
そこまで言いかけて、涙がどっとあふれる。たくろーは眉間にしわを寄せて、ただただ無言で私の髪を撫でた。
「今は無理にしゃべらなくていい。」
「……ろこにもいかないれ…」どこにもいかないで、たくろー。私はたくろーを抱きしめる力を強める。
「……こんなお前をおいていくわけねぇだろ」
たくろーは私の首筋に優しく唇を這わせた。そして、耳元で言った。
「藍…………好きだ」
「……!」
たくろー?泣いているの…?私はあの日のように、ただただ涙を流すたくろーを抱きしめて幸せな気分で眠りについた。わたしも…たくろーが大好きだよ。
「んん…。」
目を覚ますと、時計は9時を指していた。やば、学校…
「………いっか。」
たくろー、ずっと一緒にいてくれたんだ…。目の前で寝息を立てているたくろーにそっとキスをして、私はお風呂場に向かった。
コンクリートと血でところどころ汚れた制服を脱ぐ。こんな臭くて汚い私を、たくろーは抱きしめてくれた。そして、私の欲しかった言葉をくれたの…。
「…あ。」
着替え持ってくんの忘れてた。バカ。部屋にはたくろーがいるけど、まだ寝てるはず…バスタオル一枚で部屋に戻る。
「…(ねてる!よかった)」
さっとタンスから着替えをだし、部屋の外で着替える。
その時…
「藍。」
ドアが開いて、たくろーと目が合う。
「……た、たくろー、おはよ、あのもう起きたの?」
たくろーは明らかに不機嫌そうな顔をしている。そして、私の胸元や腿、全身をじぃっと見つめた。見られた……?
「がっ…学校もう一限目始まってるかなぁ、ね、たくろー」
私は意味のないことを言って、逃げるようにたくろーとは反対方向に向くが、腕を強く引っ張られ、戻されてしまう。
「な…たくろー、なにす」
たくろーは、今袖を通したばかりのシャツのボタンをぶちぶちと外していく。
「…や…みないで…おねがい…」
たくろーだけには見られたくなかった。
「…んだよ、これ…」
たくろーは今まで見たことないような表情をして私の全身をただただ見ている。
「………、汚くて、ごめん」
それしか言えなかった。全身の赤い印は、わたしが垢すりで擦ったせいで所々ひっかき傷のように瘡蓋になっている。
「…藍、俺お前をどうにかしちゃうかもしれねぇ…」
たくろーは震えた声でそう言うと
「たくっ…あ…あぁっ!」私の首筋から鎖骨にかけて舌を這わせた。
「ここも、ここもっ…あいつにやられたのか」
一つ一つ、後藤の印を自分で上書きしていくように…。
「っあ……あっんんっ…やだっは」
「んっ…んんっ…俺以外の男にっ」
「あああっ」たくろーの手が、舌が、吐息が、全て私の体をなぞっていく。
「…こうやってっ…あいつの前でも鳴いたのか?」
「…てないっ…てないってばぁ…あっ」
「ムカつく…」
「あ…やだっそこはっ……ふぅっ…ん」
一番敏感な熱い場所を触られて、私の体がのけぞる。
「れのっ…俺の藍にこんなことして」
「……たくろー、いまっ…なんて」
「ん?こんなことしてって」
「違う、その前、、俺のって」
「俺の藍」
「もっかい…もっかい言って?」
「俺の藍」
「もっかい…」
「俺の藍…」
「もっ…かい…」
あぁ、私はずっとこの言葉がほしかったんだ。私もたくろーを抱きしめ返して、そして―――――――
「っ…くぁ……」
私たちは
ひとつになった。
どれくらい時間がたっただろう?ベットの上でたくろーの体温や鼓動を感じながらぼーっとしている。
「藍。俺、お前の口から聞いてないんだけど。」
「…んー?」
たくろーは私のほっぺをつまんで言った。
「わかんねーフリすんな。お前の口からちゃんと聞きたいの。俺ばっかズルいじゃん」
「……ふふ。」
ちょっとすねてるたくろーが可愛くて、愛おしくて。私はたくろーのほっぺにチュッとキスをして
「………たくろー、大好きだよ。」
やっと…やっと言えたね。たくろーは、何も言わず私を抱きしめてくれた。私たち、すごく遠回りしたね。でもきっとあの日から私たちの気持ちは決まっていたの。
「藍…ずっとずっと、ありがとう…愛してる」
言葉はいつもすぐ近くにある。なぜ神様はこんなに近くに言葉を作ったのだろう。
心はいつも深くにある。なぜ神様はこんなに深くに心を作ったのだろう。
言葉は簡単に発することができる。それは時にナイフのように鋭く人を傷つけたり、羽のように暖かく人を癒したり、反対の事を言って、相手を困らせたり。
心は体の一番深い所にある。俺は、わかった気がするんだ。そんな、見えないように隠してある心と心が通じ合った時、その時が本当に人を愛せたってことになるなんじゃないかって。
だから神様は心を一番深いところに隠したんだ。いつかお互いを想い合える人同士が出会えるように。お互いが探しあって見つけられるように。通じ合った時の喜びがとっても大きく暖かいものになるように。
「あの日の約束、果たせるかなぁ」
「ママじゃなくって
ずっと隣歩いてくれよな。」
「わかんないよ?近いうちに本当にママになるかもよ?」
「ばーか。」
これから先、俺たちはきっとたくさん道を間違えるだろう。たくさん遠回りもするだろう。でも、もう迷わない。自分の心を信じて進むことができるから————
初投稿です。ありきたりな話ですが、人間らしさを大事にしながらキャラを作りました。つたない文章ですが、読んでいただきありがとうございました。