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陛下、それは猫ではなく後宮妃です!~姿を変えて、冷徹皇帝の溺愛本音を聞いてしまいました~  作者: 及川 桜@『後宮の料理妃2』発売
第六章 そして妃は寵愛の冠を戴く

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阿李が深く一礼しながら扉を開けると、夜の空気がふわりと揺れた。

 月光を背に、一人の男が現れる。


 濃紺の龍袍りゅうほうに身を包み、静かな足取りで歩を進めるその姿に、空気が凍るように張りつめていく。

 冷えた夜気さえ、その存在に圧されて後ずさるかのようだった。

 ──そして。


「……璃華」


 低く、けれど穏やかで、どこか威を宿した声が響いた。

 その名を呼ばれた瞬間、璃華の肩がびくりと震える。

 思わず、伏せていた顔をそっと上げた。


 その視線の先に、彼──この国の天子が、確かに立っていた。

 どこから見ても完璧すぎる整った顔立ちは、あまりにも冷たく、まるで人形のようだった。

 あまりの威圧に、璃華の背筋がぞわりと粟立つ。

 その美しさは息を呑むほどで──そして、何よりも恐ろしかった。


(だ、大丈夫……璃華、大丈夫よ。黎煌様は、昔は優しい方だったじゃない……)


 心の中で必死に言い聞かせる。

 けれど、目の前の男は、あの記憶の中の少年とはまるで別人だった。

 残虐皇帝と恐れられる黎煌。

 噂など信じたくなかった。きっと何かの誤解だと、ずっと思っていた。


 でも──今こうして、本人を前にすると、信じていた心がぐらりと揺れる。

 目の前の彼は、あまりにも冷たい。

 阿李が静かに礼を取り、室内からそっと退いた。

 扉が閉まり、音が消える。

 その瞬間、芙蓉殿の空気が変わった。

 璃華と黎煌、ふたりきり。

 静けさが、息苦しいほどに迫ってくる。


(ど、どうしよう……気まずい……)


 何かを話さなければと思うのに、言葉が喉で詰まる。

 吃音が出てしまったら、幻滅されてしまうかもしれない。


(でも……話せば、気づかれてしまう……)


 視線が泳ぐ。手が震える。

 璃華はどうしたらいいかわからず、ただ怯えるように沈黙していた。

 そのとき、黎煌の眉間に、はっきりと皺が寄った。

 険しいその表情に、空気がさらに冷え込むような気がした。


(こ、怖い……)


 胸が潰れそうだった。

 璃華は堪えきれず、ぎゅっと目をつぶり、小さく震えた。

 ──すると。

 静けさを割って、低い吐息が響いた。


「……震えるほど、余が嫌いか」


 その声に、璃華ははっとして顔を上げる。

 黎煌が、鋭く刺すような眼差しで、じっと彼女を見つめていた。


「ち……ちが……」


 ──違います。そう言いたかった。

 けれど、喉の奥で言葉がつかえて、最後まで声にならない。

 ただ一言が、どうしても出せない。


(……また、だ……)


 込み上げてくる悔しさが、胸の奥を熱く染めていく。

 長年、義母に虐げられてきた中で染みついてしまった癖。

 責められたり、恐怖や不安を感じたりすると、言葉が出なくなる。

 それは璃華の意志ではどうにもならない、心に刻みつけられた反応だった。

 だが、そんな事情など、目の前の皇帝には伝わっていない。


「結納金を出したというのに、侍女はひとり。衣装もろくに用意していないとは……」


 黎煌の声が、ひやりと空気を凍らせる。


「お前のもとになど嫁ぎたくはなかった──そういう意思表示か?」


 その言葉に、璃華の顔から血の気が引いた。

 まさか、そんなふうに受け取られていたなんて……!


(ちがう、ちがいます! そんなんじゃ……)


 必死に否定しようとして、璃華は首をぶんぶんと振る。

 でも、それでは足りない。言葉で伝えなければ、誤解は解けない。

 このままでは、黎煌が湛州を敵と見なしてしまうかもしれない。

 自分ひとりの不手際で、国が滅ぼされるかもしれないなんて。


(だめ、言わなきゃ。話さなきゃ……!)


 けれど、焦れば焦るほど、声は出なかった。

 喉が詰まったように苦しくなり、うまく息さえ吸えなくなる。

 視界がぐらりと揺れて、璃華は胸元をぎゅっと掴んだ。


「どうした。顔色がおかしいぞ」


 黎煌の声が、今度はほんのわずかに低く和らいだ。

 彼が一歩、近づいてくる。

 そして、璃華の顔を覗き込んだとき──


 璃華の呼吸が乱れた。

 苦しい。胸が、締めつけられる。

 どうして、私は……普通のことすら、できないの。


(苦しい……私のせいで……全部……)


 言葉も、呼吸も。

 涙がにじんだ視界のなかで、璃華は崩れ落ちそうになる。

 ──そのとき。

 ふいに、温かな手が背中に触れた。


「……ゆっくり、息をしろ」


 黎煌だった。

 厳しく冷たかったはずのその手が、今は驚くほど優しく、璃華の背をそっと撫でていた。


「無理はするな。まずは、吐け」


 黎煌の声は低く、けれどどこかやさしかった。


「吸うのではない。吐くことに集中しろ……それでいい」


 璃華は、震えるように息を吐き出した。

 すると不思議と、苦しさが少しずつ和らいでいく。

 喉が開き、ようやく空気が肺へと入ってきた。

 鼓動も、少しずつ静まっていく。


「……あ……あり……」


 ありがとうございます、と伝えたかった。

 けれど、言葉が口の中で引っかかる。

 それでも、ようやく一歩踏み出せた気がした、そのとき。

 黎煌は、ふと璃華から身を離した。


「俺が……近くにいるからか」


 ぽつりと、そう呟く声がした。

 璃華が顔を上げたとき、黎煌の瞳に一瞬、かすかな悲しみが宿るのが見えた。

 すぐに彼は視線をそらし、くるりと背を向ける。


「……帰る。余がいては、息も吸えないようだからな」


 言葉とは裏腹に、背中がどこか寂しげだった。


(ちがう……そうじゃないのに!)


 璃華は、必死で声を出そうとした。


「あ……あ……っ」


 けれど、うまく言えない。

 声にならない言葉が、喉の奥でぶつかって、溶けていく。

 黎煌は、そのまま何も言わず、静かに扉の向こうへと姿を消した。

 あっけないほどの夜渡りだった。

 せっかく来てくれたのに、璃華はただ、彼をさらに失望させてしまっただけだった。


 膝が崩れ落ちる。

 璃華はその場に座り込み、ただぼんやりと扉を見つめた。

 涙が、音もなく頬を伝っていく。

 嗚咽も声も出ない。

 静かに、静かに、落ちていく涙だけが、璃華の失意を語っていた。


(……こんなに、自分に失望したのは初めて)


 あの日、義母に頬を打たれたときよりも。

 罵られ、蔑まれた日々よりも──

 今日の自分が、一番みじめだった。


(どうして、私は……)


 何ひとつ思うようにできない。

 ただ、うまく話すことすらできない自分が、たまらなく惨めだった。


(……こんな自分じゃなければ、よかったのに)


 胸の内に、黒い言葉が溢れていく。


(嫌い……嫌い……嫌い……嫌い……っ!)


 心の奥底で繰り返す言葉は、痛みの刃になって、何度も自分を突き刺す。

 ――私は、自分が大嫌い。

 こんな身体も。

 この声も。

 何もできない自分自身が、心の底から憎い。

 できることなら、消えてしまいたい。

 このまま、跡形もなく、闇に溶けてしまえたなら──


(自分じゃない、何かになりたい)


 誰でもいい、何でもいい。

 こんな自分じゃない、別の何かに。

 そう願わずにはいられなかった。


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