⑤
阿李が深く一礼しながら扉を開けると、夜の空気がふわりと揺れた。
月光を背に、一人の男が現れる。
濃紺の龍袍に身を包み、静かな足取りで歩を進めるその姿に、空気が凍るように張りつめていく。
冷えた夜気さえ、その存在に圧されて後ずさるかのようだった。
──そして。
「……璃華」
低く、けれど穏やかで、どこか威を宿した声が響いた。
その名を呼ばれた瞬間、璃華の肩がびくりと震える。
思わず、伏せていた顔をそっと上げた。
その視線の先に、彼──この国の天子が、確かに立っていた。
どこから見ても完璧すぎる整った顔立ちは、あまりにも冷たく、まるで人形のようだった。
あまりの威圧に、璃華の背筋がぞわりと粟立つ。
その美しさは息を呑むほどで──そして、何よりも恐ろしかった。
(だ、大丈夫……璃華、大丈夫よ。黎煌様は、昔は優しい方だったじゃない……)
心の中で必死に言い聞かせる。
けれど、目の前の男は、あの記憶の中の少年とはまるで別人だった。
残虐皇帝と恐れられる黎煌。
噂など信じたくなかった。きっと何かの誤解だと、ずっと思っていた。
でも──今こうして、本人を前にすると、信じていた心がぐらりと揺れる。
目の前の彼は、あまりにも冷たい。
阿李が静かに礼を取り、室内からそっと退いた。
扉が閉まり、音が消える。
その瞬間、芙蓉殿の空気が変わった。
璃華と黎煌、ふたりきり。
静けさが、息苦しいほどに迫ってくる。
(ど、どうしよう……気まずい……)
何かを話さなければと思うのに、言葉が喉で詰まる。
吃音が出てしまったら、幻滅されてしまうかもしれない。
(でも……話せば、気づかれてしまう……)
視線が泳ぐ。手が震える。
璃華はどうしたらいいかわからず、ただ怯えるように沈黙していた。
そのとき、黎煌の眉間に、はっきりと皺が寄った。
険しいその表情に、空気がさらに冷え込むような気がした。
(こ、怖い……)
胸が潰れそうだった。
璃華は堪えきれず、ぎゅっと目をつぶり、小さく震えた。
──すると。
静けさを割って、低い吐息が響いた。
「……震えるほど、余が嫌いか」
その声に、璃華ははっとして顔を上げる。
黎煌が、鋭く刺すような眼差しで、じっと彼女を見つめていた。
「ち……ちが……」
──違います。そう言いたかった。
けれど、喉の奥で言葉がつかえて、最後まで声にならない。
ただ一言が、どうしても出せない。
(……また、だ……)
込み上げてくる悔しさが、胸の奥を熱く染めていく。
長年、義母に虐げられてきた中で染みついてしまった癖。
責められたり、恐怖や不安を感じたりすると、言葉が出なくなる。
それは璃華の意志ではどうにもならない、心に刻みつけられた反応だった。
だが、そんな事情など、目の前の皇帝には伝わっていない。
「結納金を出したというのに、侍女はひとり。衣装もろくに用意していないとは……」
黎煌の声が、ひやりと空気を凍らせる。
「お前のもとになど嫁ぎたくはなかった──そういう意思表示か?」
その言葉に、璃華の顔から血の気が引いた。
まさか、そんなふうに受け取られていたなんて……!
(ちがう、ちがいます! そんなんじゃ……)
必死に否定しようとして、璃華は首をぶんぶんと振る。
でも、それでは足りない。言葉で伝えなければ、誤解は解けない。
このままでは、黎煌が湛州を敵と見なしてしまうかもしれない。
自分ひとりの不手際で、国が滅ぼされるかもしれないなんて。
(だめ、言わなきゃ。話さなきゃ……!)
けれど、焦れば焦るほど、声は出なかった。
喉が詰まったように苦しくなり、うまく息さえ吸えなくなる。
視界がぐらりと揺れて、璃華は胸元をぎゅっと掴んだ。
「どうした。顔色がおかしいぞ」
黎煌の声が、今度はほんのわずかに低く和らいだ。
彼が一歩、近づいてくる。
そして、璃華の顔を覗き込んだとき──
璃華の呼吸が乱れた。
苦しい。胸が、締めつけられる。
どうして、私は……普通のことすら、できないの。
(苦しい……私のせいで……全部……)
言葉も、呼吸も。
涙がにじんだ視界のなかで、璃華は崩れ落ちそうになる。
──そのとき。
ふいに、温かな手が背中に触れた。
「……ゆっくり、息をしろ」
黎煌だった。
厳しく冷たかったはずのその手が、今は驚くほど優しく、璃華の背をそっと撫でていた。
「無理はするな。まずは、吐け」
黎煌の声は低く、けれどどこかやさしかった。
「吸うのではない。吐くことに集中しろ……それでいい」
璃華は、震えるように息を吐き出した。
すると不思議と、苦しさが少しずつ和らいでいく。
喉が開き、ようやく空気が肺へと入ってきた。
鼓動も、少しずつ静まっていく。
「……あ……あり……」
ありがとうございます、と伝えたかった。
けれど、言葉が口の中で引っかかる。
それでも、ようやく一歩踏み出せた気がした、そのとき。
黎煌は、ふと璃華から身を離した。
「俺が……近くにいるからか」
ぽつりと、そう呟く声がした。
璃華が顔を上げたとき、黎煌の瞳に一瞬、かすかな悲しみが宿るのが見えた。
すぐに彼は視線をそらし、くるりと背を向ける。
「……帰る。余がいては、息も吸えないようだからな」
言葉とは裏腹に、背中がどこか寂しげだった。
(ちがう……そうじゃないのに!)
璃華は、必死で声を出そうとした。
「あ……あ……っ」
けれど、うまく言えない。
声にならない言葉が、喉の奥でぶつかって、溶けていく。
黎煌は、そのまま何も言わず、静かに扉の向こうへと姿を消した。
あっけないほどの夜渡りだった。
せっかく来てくれたのに、璃華はただ、彼をさらに失望させてしまっただけだった。
膝が崩れ落ちる。
璃華はその場に座り込み、ただぼんやりと扉を見つめた。
涙が、音もなく頬を伝っていく。
嗚咽も声も出ない。
静かに、静かに、落ちていく涙だけが、璃華の失意を語っていた。
(……こんなに、自分に失望したのは初めて)
あの日、義母に頬を打たれたときよりも。
罵られ、蔑まれた日々よりも──
今日の自分が、一番みじめだった。
(どうして、私は……)
何ひとつ思うようにできない。
ただ、うまく話すことすらできない自分が、たまらなく惨めだった。
(……こんな自分じゃなければ、よかったのに)
胸の内に、黒い言葉が溢れていく。
(嫌い……嫌い……嫌い……嫌い……っ!)
心の奥底で繰り返す言葉は、痛みの刃になって、何度も自分を突き刺す。
――私は、自分が大嫌い。
こんな身体も。
この声も。
何もできない自分自身が、心の底から憎い。
できることなら、消えてしまいたい。
このまま、跡形もなく、闇に溶けてしまえたなら──
(自分じゃない、何かになりたい)
誰でもいい、何でもいい。
こんな自分じゃない、別の何かに。
そう願わずにはいられなかった。




