③
「すまなかった。俺が……もっと早く迎えに行っていれば……」
滲むような沈痛の声が、璃華の耳元に落ちる。
璃華は、抱きしめられ、驚きに息を呑んだ。
けれど、胸の奥から温かな喜びがじんわりとこみ上げてくる。
そっと首を振りながら、黎煌の背に静かに手を添えた。
「れ、黎煌様は……や、約束を果たしてくださいました……。け、けれど、私が……こ、こんなふうになってしまって……」
その言葉に、黎煌は静かに首を振る。
「璃華は、何ひとつ悪くない。その話し方だって、一生懸命さが伝わってきて、愛おしいと思う。璃華のすべてが、俺は好きなんだ」
そう言って、黎煌は抱きしめていた腕をそっと離し、まっすぐ璃華の瞳を見つめた。
その真剣なまなざしに、璃華ははっきりと感じた。
黎煌もまた、不器用なりに必死で自分の想いを伝えようとしているのだと。
「わ、私……こ、こんな私ですが……お、お側にいても……いいのでしょうか?」
涙が、ぽろりと璃華の瞳からこぼれる。
「もちろんだ。……俺の側にいてくれ」
その言葉とともに、黎煌はふたたび璃華を強く抱きしめた。
白檀の香りがふわりと鼻をかすめる。璃華は、その胸のぬくもりに身を預けた。
愛する人にすべてを受け入れてもらえたことが、何よりも嬉しかった。
心の底から、幸せだった。
しばらくの間、ふたりはそっと抱き合い続けていた。
やがて、黎煌がゆっくりと体を離す。
視線が重なり、言葉の代わりに、静かな緊張が空気を満たしていった。
(……今宵、私と黎煌様は本物の夫婦になる)
心臓が早鐘のように鳴り響き、緊張で胸が張り裂けそうだった。
けれど、もう覚悟は決まっている
璃華は目を閉じ、そっと唇を結ぶ。
ドク、ドク、ドク……自分の鼓動が耳の奥で響く。
「璃華……」
甘く、どこか切なげな声が、名を呼んだ。黎煌の吐息が混じる。
(大丈夫……黎煌様に身を委ねていれば、きっと……)
夜伽の所作など、詳しくは知らない。
でも、流れに身を任せていればきっと──そう思い込もうとする。
(ああ、こんなことなら、もっとよく知っておけばよかった……)
ふいに、不安が押し寄せる。
自分の浅い呼吸が意識され、自然と眉根が寄っていった。
そのときだった。
黎煌は、璃華の額にそっと口づけを落とした。
(……え?)
それは、まるで幼子をあやすような、やさしい仕草だった。
そこには、男女の甘やかな情熱など微塵もない。
きょとんとした目で黎煌を見上げると、彼は蕩けるような眼差しで璃華を見つめていた。
そして、やわらかく微笑みながら、璃華の頭をそっと撫でる。
(……え?)
夜伽の所作には詳しくなくとも、これが──何か微妙に違う、ということくらいは分かる。
璃華が想像していたのは、額への口づけや頭を撫でられることではない。
けれど、黎煌は満足げに微笑むと、璃華をそっと抱きよせ、寝台に横たわらせた。
再び心臓が高鳴りはじめ、璃華は身を固くする。
しかし黎煌は、璃華をやさしく抱きしめたまま、静かに目を閉じた。
(……え?)
ま、まさか……このまま、お休みになるつもりでは……?
いや、そんなわけ──
璃華は身じろぎせず寝台に横たわりながら、頭の中だけが慌ただしく動いていた。
きっと、これから何か展開があるはず。
そう信じて待ち続けていたというのに、聞こえてきたのは──黎煌の、規則正しい寝息だった。
(嘘、でしょ……)
そしてそのまま、何事も起こらぬまま、朝を迎えたのだった。
公務へと向かう黎煌に上衣をかけ、璃華は寝殿の扉の前まで見送った。
「また、今宵も来るからな」
その言葉に、璃華は驚いたように目を丸くする。
「ま、また……いらしてくださるのですか?」
「当然だ。毎晩来る。ここはもう、俺たちの寝殿なのだから」
(……俺たちの、寝殿……)
どうやら、昨夜何もなかったのは、不満があったからではないらしい。
黎煌の顔を見れば、璃華への愛しさが隠しきれずに滲み出ているのが、よくわかる。
その事実に安堵した璃華は、ふにゃりと柔らかな笑みを浮かべた。
「お、お待ちしております」
すると、黎煌の顔が、ぽっと赤く染まる。
目を泳がせながら右手を伸ばしかけたものの、ふいにもう一方の手でそれを抑えつける。
まるで、何かと必死に葛藤しているようだったが──璃華には、よくわからなかった。
「では、行ってくる」
黎煌は額にわずかな汗を滲ませながらも、仮面のように動かぬ冷徹な表情をつくり、扉に手をかけた。
「い、いってらっしゃいませ!」
璃華は慌てて背中に声をかける。
その瞬間、黎煌の手がぴたりと止まった。
肩が、ふるふると小さく震えている。
まるで、今すぐ振り返って、璃華を抱きしめたくて仕方がない、という衝動を必死で抑えているようにすら見えた。
(……そんなわけ、ないわよね)
璃華は思わずそう自分に言い聞かせる。きっと、願望がそう見せているだけ。
黎煌は大きく息を吸い込むと、背筋をぴんと伸ばし、威厳ある佇まいで扉を開けた。
外では、すでに宦官が恭しく控えている。
その背中が見えなくなるまで、璃華はじっと、目で追い続けていた。




