セックスから考える日本人の国民性
今回はセックスから日本人の国民性をガチ考察してみました。
ネタのように見えますが、結構ガチで考えました。
文章を書くのはこれが初めてなので、温かい目で見ていただけると幸いです。
まずはこのタイトルを見て、欲望に負けて開いてしまった、読者の皆さんに一つ質問である。
皆さんは海外の方たちが日本人の国民性に対する評価として、「日本人は譲り合いやおもてなしを重視する人たちだ」や「日本人は自己主張のできない周りに流されやすい民族だ」と言っている話を聞いたことはないだろうか?
こんなものを書こうとしているくらいだから筆者はもちろん聞いたことがあるし、実際にそう思う部分もある。今回はこの日本人の国民性について、英語圏と中国語圏と日本語圏の「セックス」からバチコリと考察と裏付けをしていきたいと思う。
ちなみに、英語圏と中国語圏を選んだのは、世界での話者数が多い二つの言語だからである。
まず初めに、世界中のAVをよく見ている人たちならわかると思うが、英語圏は絶頂する時になんと言うか知っているだろうか?
それは「cum」もしくは「come」である。「cum」は「come」を少しスラング寄りにさせたもので、どちらも意味は変わらない。用法としては「I'm just came.」で「あ、やばいイった」と言った感じだ。
そして、中国語圏ではというとそれは「来」である。用法としては「我要来了」で「やばい、もうイきそう」と言った感じである。
日本語圏のは語るまでもないことだとは思うが、「行く」である。用法としては「アッ、やばい、挿れただけでイきそ」と言った感じだ。
この三つの「絶頂」をみて、察しのいい一部の読者ならもう気付いただろう。
そう、英語圏と中国語圏だけは「来る」という同じ意味の言葉を使っているのだ。国と国の距離もさながら、言語も全く違うのに絶頂した時の言葉だけは同じ意味なのは、少し地球の神秘を感じなくもないが、それは今回の要点ではない。
今回の要点とは、一人ぼっちで「行く」とか言っている日本人だ。
ところで、皆さんは「行く」と「来る」の違いが何かわかっているだろうか?
「行く」は能動的な言葉であり、物理的な距離が遠く、主に未知の場所へ行くときに使い、「来る」は受動的な言葉であり、物理的な距離が近く、主に多人数間で共通の場所を認識している時に使う。今回は「行く」と「来る」で活用を固定しているため少しわかりづらいかもしれない。
そこで、例文を用意した。
例えば、あなたが誰かとショッピングモールで待ち合わせするときにあなたは
「明日このショッピングモールに来て」と言うだろう。
ここでは、待ち合わせ場所のショッピングモールの場所は二人の共通認識であり、相手が来るように言われているため、受動的である。
そして、あなたが旅行に行くことを誰かに話しているときは
「明後日、〇〇県に旅行に行くんだよねー」と言うだろう。
ここでは「〇〇県に来るんだよねー」とは言わず、「行く」の方を使い、あなたが動いているため能動的で、未知の場所に行くことだろう。
先ほど前述した違いの物理的な距離とは主に会話の登場人物が目的地に到着している場合に使う。例えば、ショッピングモール内で別行動をする場合、その後の待ち合わせ場所が自分たちが今いる店の前なら、
「あとでここに来ればいい?」のように言い、そのまま帰るなら
「あとで駐車場に行けばいい?」というように言うだろう。
もちろんこの違いが全てに適応されるわけではない。あくまで例外はあることを知ってほしい。
そして、違いに対する理解も深まったところで、絶頂に話を戻すが、絶頂とはセックスと言う三大欲求の解放でもあり、究極の愛の行為でもあることの延長線上にある。つまり、愛の延長線上に絶頂があると言うわけだ。このことから、絶頂とは愛から出ている線を辿って、未知の領域に足(陰茎?)で踏み入れる行為だと考える。
絶頂という、三大欲求の解放の時に、他の言語が相手に命令、支持するような言葉を使うときに、日本人は自分が動き、相手により寄り添った「行く」を使うところに日本人の国民性が表れているのだろう。
この文章をここまで読めていると言うことは、読者のあなたは日本人だと思う。
この少子高齢化の時代でも、どれだけセックスに対して真摯に向き合えるか、どれだけ絶頂に対して真摯に向き合えるかが、日本人の「譲り合い」「おもてなし」といった大切な文化を守ることにつながるのだろう。
一読者であるあなたももちろんその例外ではない。
いかがだったでしょうか?
アドバイスや感想を聞かせてもらえると嬉しいです。
これからもこういったものを不定期に書くつもりなので、よければ頭の隅にでもこう言うこと書いてる作者がいたな、みたいに覚えててください!




