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第36話 事実

「に、逃げましょうっ、透華さんっ!」


 夕食後投函されていた手紙の内容を告げると、結衣は慌てた様子でそう言った。


「逃げるっていっても、逃げる当てもないですし……」


「あてはあります。前に私が行ったあの宿ならきっと匿ってくれると思います」


「うーん、どうしたものですかね……」


 逃げたからといって安全とは限らない。こちらはストーカーについて何も知らないのだ。どこに住んでいるのか、何人なのか、何故こちらに危害を加えるのか──。


「まあ、最悪の場合を想定して紅葉さんだけ一旦避難するのはありかもしれませんね」


 あの宿とどの程度のつながりがあるのか前回一度宿泊しただけでは見極めることができなかったが、結衣が信頼できるのならそこに匿ってもらうのも悪くないだろう。


 そう考えていたのだが。


「──いえ、透華さんも一緒に、です」


 結衣は冷静に透華の瞳を見つめ、そう言った。


「ストーカーは確実に透華さんも狙っています。それがなんのためなのかはわからないですけど……」


「……なにかそう思った理由があるんですか?」


 確信したかの様子でそう言う結衣に問う。しかし、結衣は首を横に振ってもう一度透華の目を見つめた。


「証拠といえるほどのものはありません。でも、感覚がそうだっていってるんです。お願いします、信じてください」


 奥行すら感じられる透き通った瞳に射抜かれた透華に、考え直すように告げる気はとうになかった。むしろ、結衣が言うのならきっとそうなのだというある種の盲信までが透華の心に存在していた。


「わかりました、紅葉さんがそこまで言うなら、その通りにしましょう」


 平日、週のど真ん中のことだった。




 ◇◆◇




「透華さん、まだ仮説なんですけど、聞いてもらえますか……?」


 宿へ向かう特急列車の車内、透華の隣に腰掛けた結衣が答えを待たず続けた。


「これから向かう宿の近くにある笹宮トンネルで起こった事故を覚えていますか? 十年前、あのトンネルで崩落事故が起こりました。死傷者が百人を超える大事故でした。そしてそこには私の父と、拓水さんがいたんです」


「えっ?」


 突然登場する父の名前に動揺する透華。


 確かに前回笹宮トンネルという名前を聞いた時、言い表せない引っ掛かりを感じていた。しかし、それが何故なのかは全く見当がついていなかった。


「学会に参加するために出張していた父達は、帰ってくる途中で崩落事故に巻き込まれたそうです。でも何とか難を逃れて、地元の救急隊と一緒に救命活動に取り組んだんです。そこには……視察に来ていた政治家もいました」


 そこまで言った結衣の表情が一気に曇る。


「危険な救命活動に必死に取り組んだ父達でしたが、力及ばず数名の命を救うことができませんでした。……父達は、世間から罵声を浴びせられることになりました。マスコミが『政治家を救うために無辜な市民が死亡した』と報道したんです──」


 結衣は真っ直ぐ前を見たまま嗚咽を零すでもなく滂沱の涙を流していた。


「──父は、世間からの罵声を苦にして、命を絶ちました」


「……っ!」


 知らなかった。


 拓水も硝子も一切その話には触れたがらなかった。自主的に話をすることはおろか、尋ねてもはぐらかすばかり。いつしか透華はそれについて訊くことを止めたのだ。きっと、まだ未熟な透華に話すことを避けたのだろう。


「父が亡くなってから母はおかしくなってしまいました……。食事も睡眠も摂らず、糸の切れた操り人形のようでした」


 何も知らなかった透華に対して、結衣はきっと多くの苦悩を抱えてきたのだろう。


 透華にも、うっすらと記憶が残っている。


「……少し話が逸れました。もちろん『政治家を優先した結果無辜な市民が死亡した』なんて事実はありません。父達は誇りある医療従事者として最後まで真摯に仕事を遂げました。ですが、まだご遺族の中には父達を恨んでいる人がいるのかもしれません。実際はどれだけ見当違いだったとしても、当人からすれば正義ですから」


 悲しげにそう告げる結衣にの横顔には強い哀愁が漂っていた。


「……これが私の仮説です。確たる証拠はないですが。さぁ、そろそろ到着ですね」


 涙を引っ込めて淡々と告げる結衣とは対照に、透華の頭の中は色々な考えがぐるぐると回り続けていた。




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