城下街に立つ
「お、おぉ……」
転移魔法陣に乗った次の瞬間、俺とノアは、まったく別の場所に立っていた。
さっきまでいた、あの神殿とも実験室ともつかない妙な部屋じゃない。
いや、ここも何となく同じような“調和感”はあるんだけど、見える景色や空気が違う。
「初めて、でしたか?」
「いや、初めてじゃない。けど……人の技術ってのは、やっぱ感動するな」
俺のいた世界にも、転移魔法陣はあった。
正確には、“転移魔術”という体系が存在していた。
それを人の手で完成させるのは、簡単なことじゃなかった。
少なくとも、歴史の授業ではそう習った。
俺の家系は魔力を持たなかった。
当然、俺にもその資質はなくて、だから魔術の授業なんかはほとんど真面目に聞いてなかった。
けどやっぱり、実際にこの身で体験してみると、底知れない情動が渦巻くのを感じた。
「面白い人ですね」
ノアは、年相応とは思えない優しい目で俺を見つめ、くすっと笑った。
「何が面白かったんだ?」
「いえ、異世界に召喚されたその日に、王に啖呵を切った人には見えないな……と」
「……まだ、呼ばれてから一日も経ってないけどな」
「ふふっ。そうでしたね」
ノアは少し楽しそうだった。
その笑みは、彼女の無色な外見とは裏腹に、ほんのりと温かさを帯びていた。
彼女の細く透明感のある手が、そっと俺の腕に伸びる。
「では、外に行きましょう。今日は楽しんでくださいね」
そのまま、俺の手を引いた。
力強いわけじゃない。振り払おうと思えば、簡単にできるくらいの力だ。
けれど、俺は振り払わなかった。
そうする理由が、どこにもなかったからだ。
扉が開けられる。
風が頬をなでて通り過ぎる──その瞬間、俺は、一歩踏み出していた。
目の前に広がるのは、まるで別の世界だった。
空のはずなのに、空じゃなかった。
あまりにも高く積み上がった建造物が、空の端から端までを埋め尽くしていた。
いくつもの塔が、無数の層を重ねて聳え立っている。
空を断ち切るように真っ直ぐ伸び、建物の合間には光る軌道が交錯していた。
音のない広告が宙に浮かび、色と形を目まぐるしく変えながら、ビルの壁面を照らしている。
すべてが、人の手で組み上げられた“都市”だった。
……なのに。
美しさに圧倒されながらも、肺の奥にざらついた空気が入り込んできた。
どこか、鉄と熱の混じったような匂いがする。
排気と魔力の燃えカスが混ざったような、不自然に乾いた風。
空気が重い。喉が、ほんの少しだけ痛む。
澄んで見える空のくせに、息がしづらいのは、たぶん気のせいじゃない。
俺の世界に高層ビルなんてなかった。
こんな風に、頭上を覆うように建物が押し寄せてくる景色なんて、見たこともなかった。
どこを見ても、視界が高すぎる。
建物の隙間にある空が、まるで切れ間のようにしか見えなかった。
足元には、異国の模様が刻まれた硬質な舗装が広がっていた。
遠くの通りを、人影が歩いていく。
自動で動く乗り物らしきものが、光の道を滑るように走っていた。
自動車だ。あれは俺の世界にもある。
美しいと、確かに思った。
でも同時に、どこかで“拒まれている”ような感覚もあった。
俺のいた場所とは、すべてが違う。
違いすぎて、息を吸うことさえも、うまくできない気がした。
俺はただ、立ち尽くしていた。
見たこともない景色。
聞いたことのない音。
時には甲高い音へと代わり、それがノイズとなって脳内を掻き回す。
吸い慣れない空気が肺を刺激して、思考がどこか遠くへ滑っていく。
心が少し浮いていた。
ここが現実なのか、ただの幻なのか。
自分が今、何をしていて、なぜここにいるのか。
そんな基本的な輪郭までも、視界に流れる風景に押し流されそうになっていた。
けれど。
「……大丈夫ですか?」
声が、繋がれた手越しに、すぐ目の前から届いた。
視線を声の主に滑らせると、ノアがこちらを覗き込むようにして立っていた。
肩まで伸びた白髪が、都市の反射光に照らされて淡くきらめいていた。
俺を見上げるその目は、いつもよりほんの少しだけ真剣だった。
「息、苦しくありませんか? このあたりの空気、あまり質がよくないんです」
俺はようやく呼吸を整えることを思い出し、少し深く息を吐いた。
意識が、ゆっくりと身体に戻ってくる。
「ああ……ちょっとな。見た目に騙されそうになった」
ノアは小さく頷いて、優しく笑った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「この街には、この背の高い建物の中に、幾千もの人々が暮らしています。
もともとは他の国に住んでいた方や、国に属さない小さな村で暮らしていた方など、本当にさまざまな出自の人たちが、この街に集まっているんです」
そこで、彼女は一度だけ小さく息を吸った。
「見た目は大きな建物ですが、特別な機能があるわけではありません。
もちろん、仕事場として使われることもありますが……
基本的には、ロストリア王国が“受け入れるべき人々”を受け入れていった結果、どうしてもこの規模が必要になった。それだけの話なんです」
高層ビルは、権力の誇示のためではなく、ただ“必要”だったから建てられた。
ノアは、そう伝えたかったのだろう。
「世界の崩壊が影響してるのか?」
「はい」
俺が召喚された意味、そして“勇者”として求められているもの。
こうして実際に現場を歩いてみると、嫌でもそれが肌に染みてくる。
……責任、重いな。思った以上にプレッシャーがある。
──でもまあ、これだけの必死さが街の空気からも伝わってくるなら、少しくらいはやってやるか、って気にもなる。
俺が親から教わった“異世界召喚”ってやつは、大きく分けて二つある。
一つは、自分の私利私欲のために行われるもの。
もう一つは、自分たちの力ではどうしようもなくて、やむなく外界の者に助けを求めるもの。
──頼られたんだ。
だったら、協力しないって選択肢は、たぶん最初からなかったのかもしれない。
「少し、歩きましょうか」
そう言って、ノアはその場でふわりと衣服を変えた。長髪が少し風に靡いた。
雪のように淡いドレスが、光の粒子を散らしながらほどけていく。
代わりに現れたのは、膝丈のグレーのスカートに、白のジャケットを重ねた軽装。
足元には、滑らかで歩きやすそうな靴が自然と添えられていた。
今までの無色なイメージから一転して、唐突に色が重ねられたようで──それだけで、彼女が俺より年上に見えた。
「……え?」
一瞬で服が変わったことに、素直に驚いた。舞台の早着替えでも見ているような感覚だ。
俺なんて、召喚されてからずっと、黒のロンTに運動用の長ズボンのままだってのに。
「魔術──ですよ。行きましょう」
ノアは人差し指を口元にあて、小さく笑った。
その仕草は、普段の彼女からは想像できないほど小悪魔的だった。
無色の髪、透き通るような肌、整った顔立ち。
彼女のひとつひとつの動きが、この街の中で妙にしっくりと馴染んで見えた。
手を引かれて街を歩く。
すれ違う自動車、滑るように走り抜ける二輪車。
高層ビルの谷間を抜けていくと、また次のビルが現れる。正直、代わり映えのない景色だった。
本当に、高層ビルしかない街だった。
日照権なんて言葉、この世界には存在していないらしい。
けれど、建物の中にはさまざまな店が入っていて、
人が暮らす階層も、それぞれ違う空気と文化を持っているという。
ノアは、そのひとつひとつを丁寧に説明してくれた。
どの話も、妙に面白かった。
見た目は同じでも、内部の成り立ちや意味はまったく違う。
それぞれに文化があって、歴史があって、人がいた。
そして、少し静かな交差点で信号を待っていたとき、不意にノアが口を開いた。
「なぜ、ジンガ様はこの話をお受けになられたのですか?」




