聖女の声
夜明け前、私たちは旧街道沿いにある小さな町に立ち寄っていた。
「今度はトロイ・メイソン。昨夜、仕事に行ったきりで行方不明か」
ユリウスが新聞記事を見ながら言う。グレイフォールでは、最近になって「橋の女」の噂が絶えないみたいだ。
「“白い服の女に会った男は帰ってこない”……か。悪質な流言にしては、死体も見つからないのが妙ですね」
「そうね。死んでいない。でも、生きているとも言えない。そんな気配がする」
そう私が思うには確信があった。
私の耳には、昨夜からずっと――どこか遠くで女のすすり泣きが響いてくるからだ。
私は椅子から立ち上がり、カーテンを開け、噂の橋をみた。
そこに見えたのは、霧の向こうでぼんやりと浮かぶ古い石橋。そして……誰かが、立っていた。
「いたわ」
「えっ?」
「橋に立ってる。……きっとあれが、“白い女”よ」
橋には白い服を着た女が、川面を見下ろしていた。
私たちは急いで現場に向かった。しかし。橋の入り口に到着すると彼女は消え、空気が変わった。湿り気を帯びた重苦しい魔力。
「ここには“記憶”が残ってる。強烈な、深い痛みが……」
ユリウスが言う。
「アリシア様、ここには“他の何か”の干渉があります。……嫌な感覚だ」
私も頷く。
――その時、脳裏に甘く冷たい声が響いた。
「感じる? これは憎しみ……ああ、いい匂い」
リリィの声だった。
(リリィ……これはあなたが操ってるの?)
「やめて、リリィ……!」
(頭が痛い)
「アリシア様?」
私が手をかざすと、淡い光の粒が指先に吸い寄せられていく。光は震え、そして――女の姿が霧の中から現れた。
真っ白なドレス。濡れた髪。だが、顔は……なかった。その中からすすり泣きが漏れていた。
「……あなた、なのね」
私はゆっくりと、橋の中央へと歩を進むと、女が手を伸ばしてくる。氷のように冷たい指が、私の頬をなぞろうとする。
「……子供……どこ……?」
くぐもった声。
(子供……?)
「……私の……あの子は、どこ……?」
その瞬間、視界に“記憶の断片”が流れ込む。
――暖かい風。子供の笑い声。浴室。濡れた小さな手。血走った目。叫び声。
そして、――崩れる音。
「アリシア様、危ない……ッ!」
ユリウスがすぐさま支えに入る。気づけば、私は欄干の縁に立っていた。
「……あの子を……返して……」
彷徨う女の声。
リリィの声が再び囁く。
「もっと見せてあげる。ほら、思い出しなさい……」
視界が黒く染まり、記憶が雪崩れ込んでくる。
――小さな浴室。赤く濁る湯。母の絶叫。
「やめてッ……!」
その瞬間、リリィの声が楽しげに囁いた。
「いいわ……もっと壊れて」
「黙りなさいッ!」
私は魔核の力を開放する。一閃の光が空気を裂き、リリィの声が掻き消える。
(リリィ……あなたの“憎しみ”が、こんな場所にまで届いているなんて)
「憎しみは伝播する。まるで病のように、記憶の奥に巣くって広がっていく……」
私は唇を噛む。
「でもあなたの思い通りにはさせないわ。私がこの霊を解放してみせる。それがあなたへの復讐の一歩よ」