礼拝堂の地下
古びた礼拝堂の床下に開かれた石の階段は、誰にも気づかれないように封じられていた。
(こんな所に……こんなものがあるなんて)
私とユリウスは足元を確かめながら、ゆっくりと地下へ降りていく。
「……こんな構造、地上の図には載っていなかったわ」
「魔法的な封印は見当たらない。単なる物理的な隠し階段のようですね。……人目を避けるには都合がいいです」
ユリウスは剣を抜いたまま、背後を警戒している。灯りは私が手にした簡素な魔導灯。
地下の空気は重く、湿っていた。壁に残された苔と、祈祷文が刻まれた古い石板。
そしてその奥――
「……これ、聖女リリィの……?」
祈祷室の奥、石の祭壇の上に、誰かの手で“新たに”書き直された《聖句》があった。
⸻
「すべての魂は、神と“聖女”のもとへと回帰する。
その導きを妨げるものこそ、罪である。
ゆえに選ばれし者を、聖女は迎え入れん」
⸻
「これは……宗教文に見せかけた洗脳の呪文ね」
(“選ばれた者”って、子供たちのこと?)
私が呟いたその時――地下室の奥から、人の気配が現れた。
「お祈りの時間に……よくも、俗人が入り込んできたものだ」
現れたのは、白装束をまとった男だった。年は三十を少し超えた程度。
瞳は淡い灰色で、その声には抑揚がなかった。
「……あなたが、この“誘拐事件”の黒幕?」
「誘拐? はは、それは違う。あれは“導き”だよ。迷える子らを、聖女様の元に還すための。……ああ、あなたも知っているだろう? リリィ様の素晴らしさを」
私は白装束の男を鋭く睨み付ける。
(この男はリリィを……“偶像”として信じている)
「信仰は光にもなる。でも、それを口実に誰かの自由を奪った時点で、それは“呪い”に変わるのよ」
「聖女は……“希望”の象徴。それを……こんなやり方で、歪めていいはずがない」
「……君は、“異端者”だな?」
男の目が一瞬だけ鋭くなったが、また薄ら笑いを浮かべる。
「異端者は欺く。民を守るふりをして、全てを管理しようとする。……我々は、聖女様の教えを純粋に受け入れただけだ。子供たちも、皆幸せそうだったよ」
(純粋に受け入れる……ただの思考停止じゃない)
「言葉は人を救える。けれど、盲信は思考を殺す」
「あなたの“幸せ”の尺度で、子供を測らないで!」
私が一歩踏み出すと、男が手を振り上げた。石の床に設置されていた魔導陣が起動し、四方の壁が揺れる。
「“導きの儀”はすでに始まっている。君たちはここで終わる。さあ、リリィ様の元へ……」
「させない!」
私が床を蹴り、祭壇に向かって走る。ユリウスが男の前に割って入り、剣で防御する。
「アリシア様!」
「ええ、私が止める!」
祭壇の裏、揺れる石壁の先に、わずかに開かれた通路が見えた。
そこから、かすかな子供の泣き声が――
(なっ、あそこに子供たちが……!)
私は方向を変え、一気にその通路へ駆け込んだ。
薄暗い洞窟の奥、蝋燭に照らされた部屋。
そこにいたのは、五、六人の幼い子供たちだった。皆、白い服を着せられ、ぼんやりとした目をしている。
(よかった……間に合った。この程度ならなんとか大丈夫)
「大丈夫、もう安心よ。あなたたちは、私が守るわ」
私が一人の少女に膝をついて声をかけると、その子は目を見開いた。
「……ねえ、お姉ちゃん。女神様は、迎えに来ないの?」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「あなたが信じたその女神は、間違えただけ。でも、間違いは正せるのよ。だから私は来たの」
少女の目に、微かな涙が浮かんだ。
* * *
祈祷室では、ユリウスが白装束の男を制圧していた。
「もう逃がさない」
「フッ、君たちはわかっていない。これは“始まり”にすぎない。聖女様は、やがて世界を清める。……今の王政も、貴族も、全てが贖罪される時が来る!」
男の言葉に、ユリウスは静かに剣を納めた。
「その時が来ても、俺はアリシア様と共に抗う。“清める”という名の破壊には、誰かが立ち向かわなければならない」
* * *
子供たちは町の親元へ無事に戻された。
事件は静かに収束へと向かった。けれど――アリシアの胸には、ひとつの不安が残った。
「リリィ……あなたが”聖女としてやりたいこと”は、こういうことだったの?」
アリシアは夜空を仰いだ。
満月が、沈黙のまま、全てを見下ろしていた。
* * *
その夜、静かな客室に私は一人で座っていた。
鞄の中の本を取り出し、そっと表紙をなでる。
古びた一冊――“前世のゲームでのシナリオ本”。記憶を取り戻すまで気づかなかった。だがそこには、断罪後の話が載っていない。
(つまり、この世界には、ゲームにも描かれなかった“物語の外”がある……)
「決められた未来なんて、ただの選択肢の一つ。私は、自分で物語を選ぶ」
私は手のひらに意識を集中させた。
そして――淡く、ほのかな光が灯る。水面に落ちる月のように、静かに、力強く。
(変えるのは世界じゃない。未来の形よ)
そして夜の静寂の中、ベランダに一つの影が立っていた。
月光を反射する銀の髪が、フードの下からわずかに覗く。
冷たい瞳が、まるで私の心の奥を覗き込むかのように光った。