追放令嬢、旅に出る
婚約破棄から一夜が明けた。
薄く差し込む朝の光の中、私は鏡の前に立っていた。
ボロボロになった舞踏会のドレス。真紅のレースは破れ、繊細な刺繍には血がにじんでいる。
その裾を握りしめながら、私は静かに息を吐いた。
「……よく泣かなかったわね、私」
鏡に映る顔は、泣きはらした様子こそなかったが、どこか虚ろげだった。
(――でも、それでいい。これでいいのよ)
泣いて縋って許しを乞う“悪役令嬢”なんて、もう演じる気はない。
(だって私はもう“アリシア”であって、“アリシア”じゃない)
昨夜、婚約破棄と断罪を受けた瞬間――
頭に、前世の記憶が鮮明に蘇った。
ブラック企業で心身をすり減らし働いていた、普通のOLとしての人生。
そして、あの世界でプレイしていた乙女ゲーム――『クリスタリアの白薔薇』。
今の自分は、そのゲームの破滅ルートを突き進む“悪役令嬢アリシア”。
(そう、断罪イベントは――終わりじゃなくて、“始まり”だったのよ)
このままなら、私は国外追放、あるいは死刑エンド。
けれど、それは“何もしなければ”の話。
私は、鏡越しに微笑んだ。
「運命なんてものに振り回されるほど、私の人生は安くないわ」
もう誰かの飾りでも、社交界の仮面でもない。“私”として生きる。
そのために、まずやるべきことは一つ。
「屋敷を、出よう」
この場所にいる限り、名家の娘としての役割と偏見に縛られ続ける。
だから、すべて捨てる。ドレスも、名誉も、しがらみも。
そして、その代わりに――“本当の自分”を手に入れるのだ。
* * *
「お嬢様、どこへ……!?」
侍女たちの声を背に、私は躊躇なく屋敷の門をくぐった。
手には最低限の荷物と、数枚の金貨。
「旅に出るのよ。少しだけ……遠くまで」
メイドに呟く。
かつては馬車で通った石畳の道を、今は自分の足で、しっかりと踏みしめながら進む。
冷たい風が頬を撫でた。
それはまるで、私を新たな運命へ送り出す祝福のように感じられた。
(さあ、“悪役令嬢”の次は――“私の物語”を始めましょうか)
「奪われた物語なら、もう一度、自分の手で書き直せばいいのよ」
私は振り返らず、王都の朝の光の中へ歩みを進めた。
* * *
それから数刻後、王都を離れる裏門を、一台の馬車がゆっくりと抜けていく。
私はその窓辺に座り、静かに風を感じていた。
既にドレスは旅装へと変わり、腰には魔導細剣、鞄には古びた本と世界地図。
“公爵令嬢”ではなく、ただ一人の旅人――それが、今の私だった。
「婚約破棄されて、追放されて……さて、これから私はどう生きようかしら?」
自分で言っておきながら、不思議と胸が軽かった。
恐怖も絶望もない。あるのは、どこか高揚するような自由の感覚。
(だって、ここからが“私の人生”の本当の始まりなのだから)
「アリシア様。目的地まではあと三刻ほどです。少しお休みになっては?」
手綱を握るのは、従者のユリウス・クラヴィス。
唯一、王都で私を“人として”扱ってくれた存在。銀髪に銀の瞳、寡黙で誠実な青年。
門を出る際に私に付いてきてくれたのだ。
「そうね。でも、もう少しだけ起きていたいわ」
「では、少しお話でも」
ちらりと振り返った彼に、私は自然に笑みを返した。
「……本当に、よろしかったのですか?」
「何が?」
「すべてを捨て、この道を選ぶことです。アリシア様なら、まだ王都に残ることも――」
「いいえ。私は“捨てられた”のよ。でも……拾われるのを待つつもりもないわ」
「立ち上がる覚悟をした者だけが、“自由”を名乗れるのよ」
その言葉に、彼はしばし黙し、やがて静かに頷いた。
「……やはり、これぐらい強い方だ。お仕えできること、誇りに思います」
「“公爵令嬢”じゃないのに?」
「……それでも、アリシア様はアリシア様です」
「ふふ、頑固ね」
馬車は王都を抜け、夜の街道へと入る。
空には星が広がり、風は涼やかに頬を撫でていく。
「この世界には、まだ知らない場所がたくさんある。ゲームにはなかった土地も、伝承だけの魔導遺跡も、失われた魔核の研究も――」
これはもう、“設定”通りの物語じゃない。
ここからは、“私が紡ぐ”物語。
(だったら――今度は私が、この世界を書き換えてやる)
「私の物語に、脚本家はいらない。――主役は、私自身だから」
馬車の揺れに身を委ねながら、私はそっと目を閉じて、静かな眠りについた。