1.フラグを立ててはいけません
(あぁ…平穏な日常)
遠く広がる初夏の青空、放課後を知らせる軽快なチャイム音、校庭に響く笑い声。
そう、今の俺は日本の男子高校生だ。
教室の窓辺でひとり、男子高校生の日常を噛みしめていると、教室の扉がカラリと開いた。
「ウースッ。なに、お前居残り?」
野球部のユニフォームを着た坊主頭が、こちらへずかずかと向かってくる。
(いかん、名前が思い出せない)
高校入学からそろそろ一か月。同じクラスの同級生くらい憶えておかないとまずいところだが、ここんとこ異世界続きだったもので記憶が曖昧だ。
気まずさを誤魔化しながら、笑って答える。
「そう、小テストの結果悪すぎて居残り」
「へぇ意外、賢そうなのにな」
「それ俺が眼鏡ってだけだろ」
肩をすくめると野球少年は笑い、忘れ物取りに来たんだ、と前の席からノートを引き出した。
ノートには几帳面な字で中島と書いてある。
野球が好きな中島君は、部活も勉強もしっかりやるタイプらしい。
(なんだかんだ言って、ここ県内でも指折りの進学校だしな)
「あ、マナちゃんだ」
窓辺に視線がくぎ付けになった野球少年につられ窓を覗くと、広さだけが取り柄の校庭で主役をはる陸上部員たちが一斉にスタートしたところだった。
トラックを周回する集団のなかで、群を抜いて速い少女がいる。
ポニーテールをリズミカルに揺らし、周囲を置き去りに長い脚でスイスイと駆けていく様子は、まるですばしっこい黒猫のようだ。少女は圧倒的な差をつけてゴールした。
「いつ見ても気持ちいい走りっぷりだな、マナちゃん」
「同中の子か?俊足だな」
「まさかマナちゃん知らないのか?学園のアイドルだぞ。陸上は全国レベル、成績優秀、性格温厚、極め付きは滅多にお目にかかれないレベルの美少女だ。中学のときはファンクラブまであったぞ」
「美少女ねぇ」
たしかに遠目でも目立つ容姿だ。
「声まで可愛いんだよなぁ。天は何物も与えるんだなぁ」
「そいつはうらやましい」
毎度なんのスキルも与えられず、異世界へ強制転移させられる自分とは大違いだ。
「あ、やべ。そろそろ戻るわ!戸渡も課題、頑張れよ」
「中島もな」
名前を呼ぶと中島少年はニカッと笑い、手を振り去っていった。
特技なし、成績底辺、性格見た目どちらも地味で平凡な俺は、おとなしく机の上の課題と向き合うことにしよう。
空が赤く染まる頃、ようやく終わらせた課題を職員室に提出する。
「戸渡くん、入学早々たるんでるぞ」
面倒見の良い担任から小言をもらう。
「基本の関数を忘れるなんて、春休み遊びすぎか?」
「すみません、ちょっと旅に」
(こないだの界渡りは長かったもんな……。受験が終わった直後で良かったけどすっかり忘れてる)
「旅か。学校と異なる経験を積むのはいいことだが」
「いえ!俺はここで!!高校生活を!楽しみたいんです!!」
「そうなのか」
「トラックにぶつからない!地面が光ったら即座に離れる!二本歩行の白兎をみても追いかけない!」
「そ、そうか。よくわからんが安全には気をつけろよ」
異世界転移回避の三原則を高らかに宣言したところで、担任から解放される。
教室に置きっぱなしのカバンを取りに階段を登っていると、後ろからセーラー服が元気よく追い抜いていった。さらりと揺れるポニーテールに見覚えがある。
(お、今のは噂の美少女・マナちゃんか)
少女の整った横顔からは、内面の明るさがにじみ出ている。
(正直、異世界を渡り歩きすぎて美醜センスには自信がないが、可愛い、んだろうなこれは)
軽快に階段をのぼっていく後姿をなんとなく目で追っていると、少女が急にくるりと振り返った。ひらりと翻ったスカートから、急いで目線を逸らす。
「きゃっ!」
可愛い声に顔を上げると、バランスを崩した美少女がまさに階段から落ちる瞬間だった。
「危ない!」
受け止めようと手を伸ばし、袖をつかんだ瞬間、目の前が白い光で真っ白になる。
(誓った先から、この光はやばいって―――)
とっさに腕時計で時刻を確認する。
こうして、夕暮れの校舎で少年少女の姿は光に包まれ、消えた。