94:デート未満のお散歩②
「時間? 時間は……」
オーランドは昼ご飯を用意して待っていると言っていた。昼時にはまだ時間はある。かといって、遅くなればオーランドに心配をかけてしまう。早く帰るに越したことはない。
振り切って逃げようかと頭を過ったが、ライアンの必死な雰囲気に動き出せなかった。
なにをそんなに焦っているのかと聞きたくなるぐらいだ。
なにかを言おうとして、言葉にできないのか、口元がかすかにふるえているようだった。
「ティン」
「はい」
ライアンの緊張が伝わる。
じわっとクリスティンの身体も強張った。
(なに、なんなの? この張りつめた空気は。学院で、殿下と一緒に睨まれた時とも違う。この息苦しさはなに……、っつ、痛い)
掴まれた手首に力がこめられる。
痛みに顔が歪むと、はっと気づいたライアンが手を引いた。
そのまま、踵を返して逃げればいいのに、クリスティンは手首をそっと胸に寄せた。掴まれていた部分がじんじんと疼く。
本当は手首を摩りたかったが、紙袋を持っており、叶わない。
クリスティンに、なにか言わなければいけないとライアンは必死になるものの、うまい言葉が切り出せない。
得も言われぬ必死さが伝わってきたことで、クリスティンも戸惑う。まるで助けてと言われているようでもあり、捨て置けない哀れさが胸を過った。
大きく息を吸いこんだライアンがゆっくりと話だす。
「ティン……、時間があるなら」
「あるなら?」
「一緒に……」
そこまで言うと、ライアンは力なく、俯いてしまった。
あまりの弱々しさにクリスティンは、彼を置き去りにできなくなった。学院で見た威厳ある雰囲気と真逆すぎて、どう声をかけていいかも分からない。
(私、なにか傷つけることでも言ったかしら……)
いたたまれなさにクリスティンは自分の落ち度を探すものの、思い当たることはなかった。
話しかけられるのを待っているのも辛くなる。
息苦しくて、呼吸するために、声を発した。
「ねえ、ライアン……」
俯いていたライアンがはっと顔をあげる。見開かれた両目の眼光に、クリスティンはたじろいた。
「あっ、あの……」
他愛無いこと、当たり障りないことを頭の中でぐるっとめぐらせ、クリスティンは言った。
「今日はパンを買いに来たわけじゃないの?」
「あっ……、ああ。そうだな。ミルクパンがあれば、少し買おうかと……」
今日は竈が壊れたせいで、いつもよりパンの数が少なかった。
食べやすいミルクパンは子どもから大人まで人気で完売している。
棚に並べたパンとその数を思い起こすと、クリスティンは冷静になれた。
「ミルクパンなら、今日はもう売れてしまったの」
「そっか、それなら、仕方ないな」
「帰るの」
「ああ、用事があるからな」
どこに、と聞きかけてクリスティンはやめた。
(騎士団の稽古場に顔をだすのかな)
パンを売った後、ライアンと稽古場で何度も再会している。
マージェリーとライアンと木陰でパンを頬張った時、ミルクパンはいつも売った数より少なかった。先にライアンが食べたか、誰かと一緒に食べていたのだろう。
(私のことでおいちゃんと連絡までとってくれたのよね)
ライアンが動いてくれなければ、おいちゃんは現れず、来週もまた一人で過ごすことになったかもしれない。
生徒会に誘うライアンは、『こきつかってやる』と宣言したが、別の見方をすれば、近くで守ってやると言っている様でもある。
厳しい顔を見せても、本当は優しい。
学院では立場があるから厳しく接しているだけなのだ。
彼の心根をクレスとして盗み見てしまったから、ライアンを恐れはしても邪険になんてできなかった。
気にかけてくれている。
心配してくれている。
木陰で、ライアンが語った言葉はクリスティンのなかに残っている。
一人でも、一人じゃない。そう気づかせ、支えてくれた一人である。
クリスティンはライアンが嫌いじゃない。学園では怖いとは思うが、クレスとして見れば気さくで、長女のクリスティンからしてみれば、憧れの兄の様にも思える。
ティンとして見れば、どこか可愛い。
(歩く道は一緒なのかしら)
稽古場に行くなら、メイン通りに出て、のぼっていくことになるだろう。クリスティンもオーランドの屋敷へ戻るなら、同じ道を歩く。
クリスティンはライアンに微笑みかけた。
「ねえ、ライアン。私、メイン通りに行くの。ライアンはどこに行くの?」
「メイン通りを上に向かうが……」
どこに、とは聞かなかった。
ライアンはティンに名前しか語っていない。
貴族であることは隠したいのだろう。あくまで、ただのライアンとしてティンと向き合うつもりなら、クリスティンもそれに付き合うことにした。
「私も、メイン通りに行くの。良かったら、一緒に歩かない」
見開いたライアンの両目が、すぐさま、細まる。
嬉しそうに、軽く頬を赤らめ、頷いた。
大きな体を震わせて、喜びを堪えるライアン。
大柄な彼が見せる小動物のような反応は、クリスティンの目にとても可愛らしくうつる。
「一緒に……、行こうか」
噛みしめるように呟いたライアンの横にクリスティンは並んだ。
覗き込み、笑いかける。
「レオにパン二つ買ってもらったの。どこかで一緒に食べて行かない?」
屋敷には、オーランドだけでなく、ロジャー一家もいる。二つだけ持って帰っても誰と食べるか迷ってしまうだろう。
切り分けて食べるのはもったいない。
一緒に食べるなら、オーランドとなるだろうが、せっかくならラッセルもいるロジャー一家とも食べたい。
そう考えると選択肢は一つ。
(今はライアンと一緒に食べて帰って、美味しかったら、今度、お土産に買っていこう)
クリスティンはパンが入った紙袋を掲げて見せた。
「きっと美味しいよ」
「ああ。いつも美味しいから、期待してしまうよ」
「私も同じ」
目が合って、笑いあう。
「紙袋、持とうか」
「軽いよ。パン、二つしか入ってないもの」
「いいよ。貸して」
片手のひらを上向きに見せられて、クリスティンは吸い寄せられるようにパンの袋を載せた。紙袋を抱き込んだライアンが、なぜか切なくほほ笑む。
(私、まだライアンにちゃんとありがとうって言えてない気がする)
ふいに気づいた。
恐れてばかりの上に、気まずさが先行し、心からありがとうとまだ伝えていないと……。
(ライアンがいてくれてありがたかった。木陰の会話も、あのパンも。あれがあったから……)
クリスティンはたくさんの意味を込めて微笑んだ。
「ありがとう」
言葉には伝えきれない深い想いが籠められている。
今はまだ言えないことも多いが、感謝だけは嘘偽りないとつたわればいいなと願っていた。