92:魔石の修理④
(ひび割れているけど、これなら私の魔力を注いで塞ぐことができるわ。形が残っていて良かった。ウィーラーに止められているし、王都の事情もあるから、ゼロから魔石を生み出すのはさすがに気が引けるもの)
クリスティンは竈の魔石に人差し指と中指を添えた。
(一気に修復したり、新たな魔石を生み出そうとしたら、炎を具現させちゃう。それはさすがにダメ。
だから、ゆっくり魔力を注ぐ)
割れ目に水滴を垂らすように、少しづつ魔力を注ぐ。
微量な魔力の調節は、非常に苦心する。
膨大な魔力を体内に抱えるクリスティンは、ある一定の範囲で調整するのは苦も無くできるものの、一滴まで魔力を微調整するのは、針の穴に目隠しをして糸を通そうとする緊張感をもたらし、苦手としていた。
(ゆっくり、ゆっくり)
心のなかで、自分に言い聞かせながら、額に汗を浮かばせ、眉間に皺を寄せ、微量の魔力を注ぎ入れる。
真剣な顔で見つめるおかみさんは両手で拳を握り、上下に振る。がんばれ、がんばれと声にださないで、心のうちで応援していた。
ニールも胸に両手を握り、天を仰ぐ。
クリスティンが額に汗を浮かべている様を見て、二人はこれは尋常ならないほど大変なことなのだと受け止めていた。
指先から伝わるひびの感触が徐々に埋まっていく。
魔石の奥に魔力が宿っていく。
(もう少し、もう少し)
言い聞かせながら力を調節し、完全にひびがふさがったところで、指を離した。
割れ目は消えており、見た目はつるりと鏡面のような輝きを見せる新品同様の魔石に変わった。
ふうとクリスティンは息を吐き、晴れやかに笑った。
「できたよ」
「本当かい」
おかみさんとニールが覗き込んでくる。
「本当だ。ひびがまるで無かったかのように消えているな」
「ニールさん、これでこの竈つかえるわよ」
「ありがとう。ティン、助かったよ」
「これぐらいお安い御用ですよ。いつもお世話になっているんですから」
「本当にありがとう。俺も嬉しいし、なによりパンを楽しみにしているお客さんを悲しませずに済む。重ね重ね、本当にありがとう」
照れくさく笑んだクリスティンが、はっと気づく。
「そうだ。このことは黙っていてください。誰にも言わないでほしいの。ティンはこんな魔力を持っていないことになっているし、本当はこういうことはしてはいけないの。だから、お願いします。黙っていてください」
「もちろんだ。ティンの事情は分かっているからな」
「さあさ、話は後だ。竈に火を入れて、パンを焼こう。いつもの倍は時間がないよ」
おかみさんの掛け声に、ニールとクリスティンも動き出す。
手に楕円型の金物を握ったニールが竈の魔石を擦った。金物の側面には平らな魔石が組み込まれ、こすり合わせることで竈の魔石に作用し、竈に火がつく仕組みなのだ。
ニールが金物を魔石からはなし、竈の扉を開く。
竈のなかで赤々とした炎が揺れ始めた。
魔力で作られる炎は、色味も熱もあるのに、実際の火のように燃え広がる心配がない。空気が乾き、風に煽られ、延焼しないのだ。密集する住宅街で火事は致命的なので、地方と違い、王都では本物の火を使うことは禁止されている。
魔石の炎でも、火としての役割を十二分に果たすので、王都の住人はそれでよしとしていた。
クリスティンはおかみさんと一緒にすでに形成されたパン生地が並べられた鉄板を運ぶ。ニールが受け取ると、手早く竈のなかに並べていった。
並べ終え、竈の蓋を閉じる。
ニールが真剣にかまどの扉についた火とパンを見つめるなかで、一段落したおかみさんとティンが顔を見合わせる。
「ありがとう。お礼が後になってごめんね、ティン」
「いいえ。今は急ぎだもの。すぐに準備しないとお客さんがきちゃうわ」
「本当にすごいね。学院で学ぶというのはやっぱり特別なんだね」
「そんなことないです。魔力があっても美味しいパンはやけませんからね」
「ははっ。これからも毎朝好きなパンを好きなだけ持って行っておくれ。朝夕、どのパンでも持って行って構わないよ」
「ありがとうございます。
あと、ニールさんにもお願いしてますが、黙っていてくださいね。あんまり人に知られてはいけないことなんです」
「分かっているよ。オーランド殿下から預かっている大切なお嬢さんだ。事情があるのは分かっている。軽々しく、人には言わないさ」
『大切なお嬢さん』という言葉に、昨日からオーランドとの関係に戸惑いを感じているクリスティンはむずがゆくなる。
パンは十五分ほどで焼き上がる。
その間、おかみさんとクリスティンは開店準備のために、店を整えた。
あと数分で竈からパンを出す段になり、ニールの声が調理場から飛ぶ。
入れ替える鉄板を準備し、籠をならべ、焼き上がりを待つ。
焼き上がるパンの芳香が店中に流れ始める。
(この香り。この香りがなかったから、違和感を感じたんだわ)
甘く柔らかい温もり感じる香りをクリスティンは胸いっぱいに吸い込んだ。
ニールが竈の扉を開くと、長い鉄の棒と分厚いミトンを使って、手早く焼けたパンをのせた熱い鉄板を出していく。
厚手のミトンをつけたおかみさんとクリスティンはパンごとに籠にもり、値札を添え、つぎつぎに店の棚に並べていった。
第一弾で焼けたパンを店頭に並べ終えると、最低限のパンは用意できた。
第二弾のパンはすでに竈のなかにあり、第三弾用にニールがパンの形成をはじめ、第一弾で使った鉄板に並べ始める。
クリスティンは店の扉にベルを掲げる。
いつもより遅い開店に、新聞片手に待っているお客さんが数人いた。
「お待たせしました。焼きたてのパン、準備できましたよ」
クリスティンは笑顔でお客さんを店に入れた。
開店から一時間は怒涛のようにお客さんがやってくる。
おかみさんと並び、勘定場でパンを袋に詰めてはお会計を繰り返した。
その間に、第二弾のパンが焼き上がり、目まぐるしく動くクリスティンたちを見かねて、会計を終えたパンをお客さんは自分で袋につめて持って帰ってくれた。
第三弾に焼き上げたパンが半分売れたところで、客足が収まってくる。
賑わっていたのが嘘のように誰もいなくなり、クリスティンとおかみさんは勘定場で並んで、ほっと安堵のため息を同時にもらした。
息が合ったと気づき、二人は目を合わせて、微笑み合う。
「ありがとう、ティン。本当に何度、お礼をしてもたりないぐらいだ」
「いいえ、いつもお世話になっているんだもの。これぐらいのできることはお安い御用よ」
「黙っているから安心しておくれ。
それから、明日はお休みでいいよ。殿下のお屋敷に泊まるだろう」
「えーっと。泊まるかどうかはまだ……」
「王都にいる時は傍にいてほしいはずだよ」
屋敷にオーランドが戻れば泊まることになると、おかみさんはお見通しのようだった。ベリンダからそう聞いているのかもしれない。
「急に休むことになり、ごめんなさい」
「竈をなおしてくれたんだ。とっても助かったのは私たちの方さ。特別な休みに、特別な手当てを出さないとおかしいぐらいだ」
「大袈裟よ。おかみさん」
「それぐらい助かったし、感謝しているのさ。だから、明日はゆっくり休んで、お屋敷から学院に行くといいよ」
「はい……」
店に出れないのは少し寂しい。
仕事の忙しさやお客さんとのやり取り、おかみさんの懐の深さとパン屋の香りが、家族と離れ、寂しいクリスティンを支えてくれていた。
「なに、オーランド殿下がいる時だけさ。
あのお方も私たちのために頑張っていただいている。立場が立場だけに、ティンの様子をここまで見に来ることも難しいだろう。
だから王都に戻った時だけは、殿下に元気な姿を見せてあげておくれ。
毎日働いてくれているんだ。たまに、あちらでゆっくり過ごしておいで」
「はい、ではお言葉に甘えて、そうさせてもらいます」