90:魔石の修理②
ひとしきり気持ちが落ち着くまで、クリスティンは泣いていた。
ベリンダは黙って傍にいた。部屋に行きましょうとも言わず、ただ穏やかに見守りながら。
涙が枯れた頃、ハンカチで目元を拭いてくれた。
優しい手つきに母を思い出し、クリスティンの胸は熱くなる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。泣きたい時に泣けないのは辛いもの。きっと我慢していたのよ」
「私、一人ではなかったはずなのに……」
「張りつめていた気持ちがほどけただけよ。ここには私しかいないわ。気にしないで。殿下にも黙っているわ」
「ありがとう」
ベリンダは落ち着いたクリスティンを部屋まで送ってくれた。
後は一人で大丈夫と戻ってもらい、クリスティンは月明かりを頼りに、ベッドへと向かう。
広くてふかふかのベッドにもぐりこむと、身体がずんと重くなった。
今までの緊張感が一気に解消され、目を閉じると間を置かず深い眠りについた。
深く沈んだクリスティンは夢を見た。
そこは学院の一室だった。
(生徒会室ね)
生徒会長用の執務机には、デヴィッドが座っている。
すぐ横には、ライアンが書類を手にして、一枚二枚と確認していた。
二人は仲が良さそうで、時折笑いながら、言葉を交わしている。
二人が同時に顔をあげると、クリスティンに向かって、おいでと手招きした。
呼ばれるままに一歩踏み出す。
一瞬暗転し、再び明るくなる。
デヴィッドが消え、生徒会長の執務机に、突っ伏して寝ている人が一人。髪には寝ぐせがついている。
『生徒会長さん、起きてください。もうすぐ昼ですよ』
クリスティンではない声がした。誰が発したのかと思って見回しても、誰もいない。
執務机に寝ている男が起き上がる。
『もう、昼か』
オーランドの声に、クリスティンがびっくりする。
(なんで、おいちゃん? 生徒会長はライアンでしょう)
思ったとたん再び暗転し、明るくなる。
執務机にはライアンが座っていた。こちらを向いて、はにかんだ。
『クリスティンか。どうした、なにかあったか?』
応えようとしても、声がでなかった。
もがくように発声を試みて、「ああぁ」とやっと声を出せたところで、クリスティンは覚醒した。
薄ぼんやりと開けた両目に天蓋が映る。
(ここはどこ……)
惑う意識はすぐに現実へ返り咲き、クリスティンはオーランドの屋敷に泊まったのだと思い出した。
横をむくと、カーテンをしめていない窓から光が射しこむ。
朝日はまだしっかり昇っていないようで、窓の半分が群青色をしていた。
身体を起こし、腕を伸ばした。
気持ちも体もすっきりしている。
(昨日は目まぐるしい一日だった。今日はもう少し落ち着いて過ごしたいわ)
目覚めたクリスティンは、なにか夢を見ていた気がするものの、その内容はすっかり忘れてしまっていた。
ベッドから起きて、向かった衣裳部屋でオーランドが選んでくれたワンピースを着た。三角巾もついており、ひとまず畳んでポケットに入れる。
ロングコートを羽織ると、いつでも出かけられる気がした。
部屋を出て、階下へと向かう。
誰かに一声かけて、屋敷を出たいと考えていた。
ひとまず、食堂を覗く。
誰もいない。
クリスティンは引き返し、応接室へと向かう。
階段前を通り過ぎる途中で、「クリスティン、早いな」とオーランドの声が頭上から降ってきた。
見上げると、とんとんとオーランドがおりてくる。
「おいちゃん。おはよう」
「おはよう。よく寝れたかい」
「うん、とっても。心身の重しが取れたようよ」
「そうか、それは良かった」
オーランドが階段を降りきり、クリスティンは傍に寄った。
「良かった、会えて。いってきますも言わないで出かけるのも忍びなかったの。行ってくるわ、おいちゃん」
「では、すぐに馬車を用意しよう」
「いいわよ。歩いて行くわ。メイン通りならいいけど、パン屋には豪華な馬車で乗り入れでできないもの。朝の配達をしている人もいるのよ。お仕事の邪魔になってしまう。それは困るわ」
「ならメイン通りを下るまでは馬車で一緒に行こうな。大きな通りまで送るなら、問題ないだろう」
(ひとりで行けるのに……)
過保護なオーランドに、クリスティンは困ってしまう。
「なにか不満か」
「ううん。それならメイン通りまで送ってもらうわ」
「じゃあ、すぐに出かけよう。朝ご飯は軽食をロジャーが用意してくれている。すでに馬車にのせているぞ」
用意周到さに仰天したクリスティンは、促されるままに、オーランドと一緒に路上で待つ馬車へ向かう。
二人が乗り込むとすぐに出発した。
揺れる車内で、包み紙に巻かれた食べ物を開くと、パンに野菜や肉が挟み込まれていた。水筒には、紅茶も入っている。
クリスティンは両手で包み紙ごとパンを掴み、食べ始めた。
オーランドも隣で同じものを食べている。クリスティンはちらりとオーランドを盗み見て、またパンに視線を落とした。
(男爵領にいた時と変わらないと言っているけど、やっぱりなんか違う気がする)
オーランドはクリスティンに甘い。そして、優しい。
男爵領にいた時は、好かれている状態が当たり前で、向けられる優しさをなんの疑いもなく、受け止めていた。
歓迎会で再会して、屋敷に連れてきてもらうと、そこに用意されたのは、とても、友人の娘を迎え入れるために用意したとは思えないほどの部屋と衣装と家具だった。
何か違う。
その違和感が、なんなのか、クリスティンは察しきれない。
クリスティンはもう一度オーランドを見た。
(パン屋に部屋があるというのに、まるでこのまま屋敷に住んでもおかしくない部屋を、なんで用意しているの)
クリスティンの視線に気づいたオーランドが微笑みかける。
目を逸らすタイミングを逸したクリスティンは両目を瞬いた。
オーランドの手が伸びる。あまりの自然な所作にクリスティンは動けなかった。
オーランドの親指がクリスティンの口元近くを拭う。すぐに指は引っ込められた。その親指は、クリスティンの目の前で、オーランドの口元に移動していく。
指先にはパンに挟まれている具を味付けているソースの色味がのっていた。
弟妹の多いクリスティンも幼い子の食事をする時に、口元を拭ってやることもある。
食べ物がついていれば、それを取り、面倒だからと食べてしまう経験もある。
オーランドは同じ行為をしているだけなのに、なにかが違った。
オーランドは指ではなく、クリスティンを見ている。静かな瞳に映りこむ自身の姿を見てしまうと、なぜか体の奥がぼっと燃えた。
オーランドがさも当たり前に、親指のソースを舐めた瞬間、クリスティンの動悸は最高潮に高まっていた。
(なに、なんなの。こんなおいちゃん、初めて見る)
クリスティンはオーランドから目を逸らした。
三角巾をまだつけていない髪がはらりと落ちる。隠れた耳が無性に熱くて、おかしな自分を気づかれたくないクリスティンは、急いでパンを食べ始めた。
勢いあまり、喉につかえる。
むせそうになり、トントンと胸を叩くと、横から水筒が差し出された。
急いで受け取って、ごくごくと飲む。
「大丈夫か?」
オーランドの優しい声音に、また心臓が締め付けられる。
そんな反応に気づかれたくないクリスティンはうつむいたまま、むせて苦しいふりを続け、数度頷いた。
その後、クリスティンはゆっくりと食べた。
夢中で食べているふりをして、オーランドに声をかけられないように気を配った。
(なにやっているんだろう、私……)
王弟殿下であり、剣豪であり、聖騎士であり、世界を守る人である。
知っていることと、実感することは違う。
今まで知らなかったオーランドの一面を見たクリスティンは向けられる優しさをどう受け止めればいいのか、分からなくなっていた。