76:三者三様④
「マージェリー、クレス。待たせた」
「遅いわよ、ライアン」
「悪い悪い」
木陰に入ってきたライアンが二人の前に腰を下ろす。手にはパンが入った紙袋を持っていた。今朝、クリスティンが売ったパンだ。
「まずは、食べるか」
ライアンは紙袋の口を二人に向ける。
覗き込んだクリスティンは、今日もまたミルクパンが減っているなと思い、丸パンを手にした。
マージェリーは前回食べていないミルクパンを手にし、ライアンは丸パンを手に取った。
食べながら三人は話し始める。
「噂はもう独り歩きしている状況なの。出所を掴むのは難しくて、後は自然消滅を願うしかないわ。新入生歓迎会前にこんな大事、頭が痛いでしょう」
「準備は例年通りだから、支障はない。二学年で準備に回ってくれる学院生は淡々としたものだよ」
「やっぱり、高等部に進級進学して、浮き足立った新入生が噂の元なのかしらね」
「どうだかな」
「わからないわね。それはいいのよ。それは……。
今日は、殿下よ。デヴィッドの方」
「俺も、今はあっちまで気が回らないんだが、なにかあったか」
クリスティンは二人の会話を邪魔しないように、ゆっくりと丸パンを食べていた。ライアンはいち早く食べ終え、二つ目に手を伸ばす。
食べかけのミルクパンを握ったまま、マージェリーの手が止まる。
「誤解しているみたい。ジェーンからの話なんだけど、どうも私を目の敵にしているというか、ねっ」
「クリスティンをなぜか気に入っていたからな。同じ科だからってだけじゃないみたいに」
「ライアンまで、そんなこと言わないでよ。私も気にしちゃうじゃない」
「許せ、悪気はない。デヴィッドはまだお子様だから、クリスティンのことは本気で友達と思っているはずさ」
「そう思っていたいのよ、私も」
「そう言うなら、もう少し、優しくしてやればいいのに。ちょっと甘やかせば、すぐにころっと気が変わりそうだぞ」
「曲がりなりにも、それはできないわよ。あの殿下と一緒になって遊んでいたら、将来が心配だわ」
「未来のことは、未来に心配すればいいのに、苦労性だなあ」
ライアンが笑いを噛みつぶし、マージェリーがほんのりと頬を赤らめながら不貞腐れたように頬を膨らます。
クリスティンは、この状況を理解できず、小首を傾げた。
ライアンが口角をあげて、悪戯っぽく笑って言った。
「デヴィッドは王太子殿下で、マージェリーの婚約者で、このマージェリーは出会った時からデヴィッド殿下が大好きなんだよ」
クリスティンは目を見開き、手にしていた食べかけの丸パンを落しかける。まさか、そんな事実が隠れていようとは思いもよらなかった。
「ライアン、そんなあからさまに言わないでよ」
「婚約者と紹介され、金髪碧眼の美しい美童に射貫かれて、十年以上経つんだが、デヴィッド殿下があの調子だから、ずーっと片思いなんだよ」
「ライアン!!」
顔を真っ赤にしたマージェリーが、膝立ちになって、肩を震わせ怒鳴った。
言いすぎたと仰け反るライアンが、「悪い、悪い。どう、どう」とまるで荒馬をなだめるようにマージェリーに平手を向ける。
「クリスティンがマージェリーの立場を狙っているなんて真偽のほども定かでない噂なんて気にせず、デヴィッドも大人しくしていてほしいものだよな」
「話をそらさないで!」
「つまるところ、そういうことだろ」
真っ赤なまま、まだ許してませんと言いたげに、座り込んだマージェリーはそっぽを向き、パンを食んだ。
一連の会話をクリスティンは呆気に取られて聞いていた。
(まさか、マージェリー様の方がデヴィッド殿下にべたぼれなんて、全然気づかなかったわ)
ライアンは涼しい顔で二つ目のパンを食べ終える。
「新入生歓迎会の準備は着々と進めているからあんまり心配しなくていい。マージェリーはなにがあっても、堂々としていろ。
家訓を重んじ慈善活動に勤しんでいるのも将来を見据えてだって分かっているから」
「……分かったわよ」
「そこでだ、歓迎会では頼みたいことがあるんだ」
「なによ」
「表の進行役を頼みたい。裏方にはトレイシーがいるし、だいたいの流れは例年通りだから、問題ないだろう」
「司会進行のこと? 例年なら生徒会長のライアンが動くんじゃないの?」
「俺はどうしてもやることがあって、今回は表には出れない」
「やることってなによ」
「秘密」
不敵に笑うライアンに、マージェリーは不満げに口をすぼめる。
「……いいわよ。わかったわ」
「うん。助かる」
こうして話はまとまっていく様子を傍で聞くクリスティンは、(すっごい話、聞いちゃった~)と放心しながら、丸パンを食べ終えたのだった。
翌週、学院に行くと、相変わらず同級生たちはクリスティンとは距離をとった。君子危うきに近寄らずを実践しているのかもしれないし、本心からクリスティンがデヴィッドを誘っていると思っているのか、判断しかねた。
(黒縁眼鏡をかけて、こんなに地味な装いで、誘惑もなにもあるわけないじゃない。マージェリー様と張り合うほど、身の程知らずじゃないわよ)
鏡に映る自分の姿を思い起こしながらクリスティンは、心のうちで呆れていた。根も葉もない噂ほど、厄介なものはない。
事実無根を証明することはほぼ不可能だ。なにしろ、元がないのだから、証明のしようがない。
同級生たちから見たら、誰かを共通の話題とすることで、仲間意識を高めている一環なのかもしれない。
どちらにしろ、クリスティンが手を出せる領分は超えている。
一人で飄々と受ける授業は、当初想定していた状況ともいえ、慣れてくれば、噂など所詮他人ごとのようであった。
彼らはクリスティンの噂をしているつもりだろうが、そこにクリスティンはいない。いるのは、彼らの都合よくでっちあげた架空の人物とも言える。
(悪口なんて、頭の中で繰り広げる架空の戦いに似ているわ)
自作自演の演武とも言える。
彼らはその行為が、マージェリーやライアン、トレイシーなどの人達にどれだけ迷惑をかけているか分かっていない。愚かと言えば愚かであり、そんなものと言えば、そんなものだ。
(噂なんて、真に受ける必要ないのにね)
大半の学院生は、静観しているだけかもしれない。その可能性は大いにありうる。
クリスティンは授業中、窓から空を見上げながら、そんな自由な空想に耽っていた。
昼時になる。
クリスティンは人を避け、焼却炉前で、鞄から紙袋を取り出した。草地に移動し、腰を下ろす。
今日は先週と比べて工夫してきた。
袋を開けるとハムとレタスを挟んだクッペが二つ。
(意外とこれでも十分、お腹は持つのよね)
ほくほくしながら手にして、三口、四口と食べていく。青空の下で食べる昼食も美味しいものだ。
「クリスティン」
名を呼ばれ、横を向く。真横にデヴィッドが滑り込んできた。デヴィッドは地面に膝をつけ、肩で大きく息を繰り返す。
「殿下! こんなところにどうしたんですか」
「こんなところにじゃない。クリスティン、大丈夫なのか。気にしていないか」
噂のことだとクリスティンもピンとくる。
「大丈夫ですよ」
笑顔で答えた。
デヴィッドは真剣な顔でクリスティンを覗き込む。
「そんなことあるか。
おかしな噂を流されて、こんな不条理な場所で一人で食事なんて! 理不尽にもほどがある!!」
そう言われればクリスティンも困ってしまう。確かにその通りではあるのだ。
「クリスティン、私は決めた」
「決めた?」
意志のこもったデヴィッドの声音に、クリスティンの背を悪い予感がさざ波のように遡上する。
「私は、マージェリーとの婚約を破棄してやる」
「へっ……」
あまりの宣言に手にしていたパンが手から零れた。ぽてんと地面に落ちて、ぽろっとレタスの切れ端が零れた。
「今回の件は、マージェリーに関係する者の仕業に違いない。そうじゃなければ、私やクリスティンをここに呼び出した時、マージェリーだけ、取巻きを連れているなんておかしいじゃないか」
「えっ、そこ……、おかしい?」
デヴィッドがおかしな方向に問題意識を抱いていることにクリスティンは度肝を抜かれる。
(殿下! あなたが、あんな根も葉もない噂を真に受けてどうするんですか!!)
さらに拳を握りしめ、デヴィッドは宣言する。
「そんなに噂を信じるのなら、こっちから噂を真実に変えてやる。
新入生歓迎会で、マージェリーとの婚約を破棄して、クリスティンと婚約してやるんだ!!」
あまりの宣言に、クリスティンは卒倒しかける。
(一体全体、なんでそんな結論になるんですか、殿下!!)
あまりのことに、開いた口がふさがらない。
「待っていろ。私がこんな不条理な状況、一瞬で打破してやる」
デヴィッドはそう宣言するなり、クリスティンの話も聞かずに立ち上がり、「私にまかせろ」と言い捨て、立ち去って行った。
ぽつんと残されたクリスティンの手が虚空をまさぐる。掴むものなどなにもないのに。
「……えっ、それは、ちょっと……」
困るどころじゃすまない!!