73:三者三様①
店番を終え、着替えたクリスティンは腰に剣を佩き、騎士団の稽古場に出向いた。
今日は門番に一礼するだけで、すんなり入れた。
大部屋で騎士達に挨拶を済ますと、すぐに演武場へ向かう。
板張りの演武場では、素足の騎士数人が模擬剣を用いて、剣を合わせていた。
型どおりの動きにクリスティンが見入っていると、気づいた騎士達が手招きする。遠慮がちに近づくと、剣を合わせる順番に入れてもらえた。
一心不乱に剣を打ちつけ合う。
清涼な汗が飛び散る。
切れない模擬剣といえど金属でできている。打ちつけ合い共鳴すれば、心地よく金属音が鳴り渡った。
剣戟から響く音に曇りがかった心が洗われ、汗とともにもやもやする悩みが飛散する。
午前の訓練が終わる頃には、クリスティンは清々しい笑顔を取り戻していた。
騎士達に礼を言い、演武場を出て、ふらふらと中庭の水場に行き、顔を洗った。身体をかがめ、手ですくった水を何回も飲んだ。
上体を起し、背を逸らせる。口周りを濡らす水を手の甲でぐいと拭い払った。
(悩んだ時は、身体を動かすのが最良ね)
程よい疲労感に火照る体。発散した汗が蒸発し、心身を軽くする。
中庭の一角に背の高い樹木が植わっていた。クリスティンはふらふらとその木陰に誘われ、根元に座り込んだ。
腰に佩いていた剣を地面に置き、幹を背に膝を立てた。
見上げれば、青空が広がり、白い雲が流れていく。
(こんなにゆっくりした気持ちで空を眺めるのっていつぶりだろう)
王都にきてからずっと目まぐるしい日々だった。新しい生活に慣れるのも大変だし、学院生活もトラブル続き。
男爵領の空、領地から王都まで馬車から眺めた景色が脳裏をよぎる。
(学院に行かないで、毎日ここに来たいぐらいだわ)
学院に通うために来ておいて、それはないだろう。叶うわけがないことに、自嘲の笑みが浮かぶ。
視界の端に、場に不似合いな人物が映りこむ。何の幻かと、クリスティンは瞬いた。
実像ゆえ消えない存在を、両目を大きく開けて見入る。
途端に体から一気に汗が吹き出し、心胆を奪われ、身体が強張った。
見間違うわけがない。
そこには、薄紫色のワンピースを着たマージェリーがいた。彼女はすぐにクリスティンことクレスを見つけ、駆け寄ってきた。
「クレス様」
「マージェリー……さま」
「まあまあ、クレス様。敬称なんていりません。私のことはマージェリーとお呼びくださいませ」
にこやかに木陰に入ってきた彼女に合わせて、クリスティンも立ち上がる。身長は少しマージェリーの方が高い。
「今日はいったいどうされたんですか」
「お兄様に連れてきてもらったんです」
学院にいる時の厳めしい顔とはまったく違う笑顔を向けられ、クリスティンは戸惑う。ギャップもさることながら、先日怒られたばかりの相手とどう接したらいいか分からなかった。
「マージェリー様こそ、このような場になぜ? 見学ですか」
「いいえ、ちょっと人に会いに。ここが一番、人目につかなくて良いのです」
誰に会いに来たんだろうと小首を傾げる。
「マージェリー。ああ、クレスもいるのか」
マージェリーの背後から今朝聞いたばかりの声が響いてきた。
「ライアン!」
素っ頓狂な声を出してしまったクリスティンが口を手で覆う。
マージェリーが横にずれると、紙袋を手にしたライアンも木陰に入ってきた。
「丁度良い、ここで話すか」
「そうですわね」
「話って?」
「学院のことですわ。クレス様」
「学院!」
クリスティンは、それは聞いても良いことなのかと落ち着かなくなる。
「そんなお話、ぼっ、僕みたいな無関係の者がいて良いんですか? あの、その、聞いても……」
「いいわよね。関係者ではありませんもの」
マージェリーがライアンに目配せする。
「問題ないだろ。高等部の話だからな」
「なんで、ここで? 学院で話せばいいじゃないですか」
クリスティンの背に嫌な汗が浮かび、上ずる声で訊ねていた。
「学園でマージェリーと話すことが難しいんだ。マージェリーが一人になるような場面は稀だし、一人で生徒会室に来てもらうわけにもいかない。誰に見られるとも知れないからな」
「密談をするには、私たち、少し面倒な立ち位置なのよね」
うんうんとライアンとマージェリーが頷き合う。
その様子に、上級性も大変なんだと、クリスティンは妙に納得してしまった。
涼しい木陰に三人はしゃがみ込む。紙袋を持っていたライアンが中身のパンをすすめてきた。
それはクリスティンがライアンに今朝売ったパンである。まさか売ったパンを自分で食べることになるとはクリスティンは思いもしなかった。
ミルクパンが減っており、丸パンが多く残っていたので、クリスティンは丸パンを手にする。マージェリーも丸パンを手にし、ライアンはミルクパンを手に取った。
会話は食べながら進められる。
「いささか、面倒なことになったわ」
「噂の話は聞いている。トレイシーからも報告を受けているからな。出所は分からないのか」
「分からないわ」
「デヴィッドも立場をわきまえずに、一人の女子学院生を連れ回すからな」
「それだけとは思えないけど……、だって一週間でしょ。まだ。こんな断定的な噂、誰かが意図して流しているとしか考えられないわ」
「最初は憶測でも、面白いからと断定になり、一気に広まることだって考えられるだろ」
クリスティンは丸パンを食みながら、心に痛い話が始まったと自覚した。それはまさしく、学院におけるクリスティンの話である。
「噂を知って、一度その子、クリスティンに会いに行こうと思ったのよ。そしたら、ちょうど後輩の子が、待ち合わせをしていると言うので、行ってみたの」
「待ち合わせ?」
「そう。田舎から出てきたばかりの子でしょ。殿下と一緒にいるリスクも分かっていないと思ったのよ。困ったことがあったら、相談にのってあげてって言っておいたから、さっそく待ち合わせて話をしようとしてくれていたのよ」
ジェーンとシルビアのことだ。
マージェリーは二人が言っていたように、クリスティンのことを心配してくれていたのだ。彼女の優しさ、暖かさ、懐の深さが心に沁みた。
(男爵領の領民を受け入れてくれている公約家の方はやっぱり違うわ)
素直なマージェリーを見ているとクリスティンも彼女を心酔しそうになる。
上級生二人による驚きの会話は続く。
「ところがそこが集会場と中央校舎の間にある焼却炉前だったのよ」
「あんなところで!」
「おかしいでしょ。しかもクリスティンから変更の手紙をもらったと、シルビアが見せてくれたの。教室から急きょ、焼却炉前へ移動になったのよ、おかしいでしょ」
「おかしいな」
「でしょ。あんな場所にわざわざ呼び出すなんて……」
パンを食みながら、クリスティンは、内心(違う)と叫んでいた。デヴィッドの時と同様に、マージェリーもクリスティンを装った誰かに呼び出されているのだ。
脳裏に、手紙を届けた女子学院生が浮かぶ。
しかし、彼女もまた誰かに頼まれたと言っている。ならば彼女に手紙を託した人物が怪しい。
怪しいと言えども、手がかりはない。
(でも……、でも……。これで一つはっきりしたわ。焼却炉前に集った五人は誰かに全員誘い出されたということなのね)
「クリスティンは大丈夫なのか?」
「昨日はやっぱり一人でいたそうよ。彼女の同級生から聞いたわ」
「デヴィッドと関わって、とんだ災難だな」
「田舎から出てきたばかりですもの、仕方ないわよ。だから彼女の同級生に頼んでおいたのだけど……」
「一応、その同級生の名前を聞いておくか」
「ジェーン・メリングとシルビア・トムリンズよ」
「覚えておく」
「私からは直接助け船は出せないから頼むしかないのよ」
「曲がりなりにも、デヴィッドの婚約者である公爵令嬢が噂の男爵令嬢をかばう訳にはいかないよな」
「そうなの。事態が複雑になりそうで、できないのよ」
ため息をつくマージェリーに、クリスティンは感動のあまり泣きそうだった。まさか、こんなにもマージェリーが心を砕いていてくれていたとは思わなかったのだ。
(どうしよう。私、マージェリー様のこと大好きになりそう)
学院での厳めしい顔もすべて立場故の演技で、こうやって可愛らしく困ってライアンに相談しているマージェリーこそが本来の彼女だと思うと、同性という垣根を越えて、憧れと好意を抱かずにはいられなくなる。