71:重なる誤解③
憂鬱なまま店に立つと、いつもしない失敗をするものだ。
パンを籠にうつす時に落してしまったり、釣銭の計算間違いをお客さんに指摘されたり。お客さんの選んだパンを床に落とし、平謝りもした。
踏んだり蹴ったりとはこういうことだと悲しくなる。
忙しい時間帯が一段落し、おかみさんは元気付けるように、気落ちするクリスティンの肩をぽんぽんと叩いた。
「ティン。気にしない。気にしない。こういう日もあるものだよ。
焼きたてのパンとミルクを持って、早めに休みなさい。気持ちを切り替えてから出かけるんだよ」
「はい、ごめんなさい。ありがとうございます」
泣きそうなほど、打ちひしがれていたクリスティンはミルクと紙袋に入れたパンを持ち、早々に部屋へ戻ろうとした時だった。
カランカランと扉のベルが鳴る。
反射的に、勘定場の隅に私物を置き、いらっしゃいませと言いかけた語尾が濁った。
そこに現れた軽装のライアンに、クリスティンはひえっと恐れおののいた。
(こっちもこっちで、問題があったんだ!)
デヴィッドとマージェリーのことが大きくて、すっかり忘れていた。
「あっ、おはよう……」
照れながらライアンは蚊の鳴くような声で挨拶をする。まるで、覚えているだろうかと不安を感じているかのようだ。
(ああ……、やっぱり学院で会う時の厳めしい雰囲気と違いすぎる~)
はにかむライアンを見ているとクリスティンまでも気恥ずかしくなる。
「おはようございます」
(とりあえず、笑顔)
と、元気はなくても、クリスティンは笑った。
「パンを買いに来たんだ。この小銅貨二枚で見繕ってほしい」
「ありがとうございます。今まで買われた商品でお好みの品はありますか」
「ミルクパンがあればお願いしたい」
「丁度、四個残っていますけど、他にご希望は?」
「じゃあ、それで。その四個を頼む」
「はい、かしこまりました」
クリスティンはライアンの望むまま、紙袋にミルクパンを四個詰めた。
お金を受け取り、紙袋を渡す。
照れながら受け取るライアンは、学園で会う時とは別人だ。
(なんでこんなに違うのかな~)
戸惑っても、笑顔は崩さない。
「いつもありがとうございます。また来てくださいね」
目尻を下げたライアンが照れながら微笑む。
クリスティンもドキドキしていた。ばれやしないかと、ハラハラしていたとも言える。
店をすぐ出るかと思ったライアンだが、少し何かを言いたげに佇んでいた。クリスティンは気にせず、勘定場の隅に置いた食べ物を持つ。
「今日はこれであがりなんです」
「あがり?」
「はい、店番の終わりです」
「そういえば、朝だけと言っていたな」
「はい。なので平日は、だいたいこの時間にあがります」
クリスティンはそう言うと、奥に向かって一声かけた。
「では、お先に失礼します」
「今日もお疲れ様。また明日お願いね」
奥から、おかみさんの声が響てくる。
困惑するライアンを横目に、クリスティンは勘定場を回り込み、出入り口へと向かう。
「店、出ましょうか」
「ああ、店を出るね。店を出るだけ……」
歯切れの悪いライアンより先に歩き、クリスティンは扉を開けた。
「さあ、どうぞ」
先に出たクリスティンは外で扉を支える。にこにこと扉を開けた状態で、ライアンに出るよう促した。
その時、「ティン」と名を呼ばれた。
道に目を向けると、荷馬車を引くロバと一緒に、レオが近づいてきた。クリスティンと目が合うと、軽く手をふってきた。
クリスティンも扉から片手を離し、軽く振った。
「レオ。どうしたの」
「パン屋に届けものさ」
「届け物?」
ミルクを届ける時間でも、小麦粉を届ける時間でもない。クリスティンは不思議そうに首を傾いだ。
「おかみさんが店に出せないくずリンゴを買ってくれるって言ってくれてね。届けにきたんだ。アップルパイを作って売るらしいよ」
「アップルパイ! 美味しそう」
「ティンはアップルパイが好きなの?」
「好きですよ」
「へえ、じゃあ、店頭に並んだら、買ってあげるよ」
「本当ですか、嬉しいなあ」
調子よく笑うクリスティンを見つめるライアンの表情は複雑な色を帯びる。
そんなライアンの微妙な表情に気づいたクリスティンは出るに出れなくなったことで戸惑っていると勘違いした。
ライアンに愛想笑いを向けたクリスティンは、場を誤魔化すために、不必要な紹介をしてしまう。
「こちらは、レオ。店に食材を卸してくれる方なんです。
こちらは時々パンを買いに来てくれる方で……、らぁ……」
ライアン様ですと言いかけてはっとする。ティンとして会っている時に、名前を聞いたことは無かった。
「ライアンです」
「はじめまして、レオです」
思わぬ自己紹介となっても、クリスティンに合わせて、二人はぺこりと頭を下げる。
ライアンが店を出て、レオは荷馬車に戻り、積んだ荷物からリンゴが入った木箱を持ち上げた。
木箱を持ったレオが一礼して、店内に入っていく。
扉を閉め、クリスティンはライアンを見上げた。ここで名前を聞いたなら、覚えていても不思議はなくなる。ボロが出る確率も下がると、クリスティンも名乗ることにした。
「ライアンというのね。私はティンと言います」
「ティン……」
「はい」
(これで、間違って名前を行ってしまうリスクが下がったわ)
内心、よしよしと思ったクリスティンだが、ライアンは違う。
気になる男とすれ違ったものの、彼女の名前を知れて、さらには自分も名乗れた喜びを噛みめていた。
一歩進んだ気がしたライアンは微笑んだ。
「ありがとう。またくるよ、ティン」
「お待ちしております。ライアン」
嬉しそうに去っていくライアンとは裏腹に、クリスティンは、(ここではライアンも平民のふりをしているからティンはライアンを呼び捨てで良い。クレスとして会う時も呼び捨てで良いけど、クリスティンとして会った時はライアン様と敬称をつけないといけないわね)と、自分に言い聞かせていた。
(三役それぞれで会う人って面倒ねえ……)
一番、避けたいのに、頼れる人である点も、困りどころだった。
学院についたクリスティンは、ロッカーを開き、絶句した。
そこにあるはずの教科書一式がまるまる消えていたからだ。
(なんで? なんで! 一週間もたたないうちになんでこんなことになるの!!)
愕然とするクリスティンの脳裏に、ごみ箱が浮かぶ。あの時、捨てられていたのは、警告だったのだろうか。
(捨てられるならまだいいわ。破かれたり、燃やされたりしたら……)
脳裏に昨日呼び出された場所にあった焼却炉を思い出す。
クリスティンは蒼白になる。
ロッカーの扉を閉めて、大部屋を飛び出した。
廊下を走る。途中で、デヴィッドとすれ違った。
走り去るクリスティンの表情から、ただならない事態だと悟ったデヴィッドが、クリスティンを追いかける。
集会場へ通じる道を横に逸れれば、焼却炉が見えてきた。
白い煙が立ち上っている。なにかが燃えていることは明白だった。
駆け寄ったクリスティンは、肩で息を繰り返しながら、焼却炉を見た。
火にくべられた十数冊の本がある。
薄く唇を噛んだクリスティンは、片手に魔力を込める。
魔力で表面を覆いつくしたその手を焼却炉のなかに突っ込む。数冊の本を掴かむなり、ひろいあげ、そのまま、地面に叩きつけた。