51:もう一度、出会う時③
やっとの思いで立ち上がったクリスティンは、情けない顔でスカートの汚れをほろい、空を見上げた。
「ああぁ……。どうしよう。入学式どころから、見学日にやらかしてしまったわ」
第一王子の王太子殿下にぶつかって、『気にしないで』と言われても、普通なら謝っただけで済むわけがない。
(これなら、あの青い髪の先輩みたいに、しかってくれる方がましじゃない。これから気をつけます、ごめんなさいで、一件落着で終わるでしょ)
しかも、『これから時間はあるか』と殿下は訊ねてきた。
あの場に青い髪の先輩がいなければ、押し切られていたかもしれない。
(あんなにきれいな顔で、きらきらして頼まれたら、眩しくてまけちゃうわよ)
さらには『よろしく頼むな』とも言っていた。
(よろしく頼むってなに?
殿下の周りに侍るなら、王家につながる公爵家や貴族の筆頭である侯爵家みたいな偉い人でしょう。
私なんて、平民上がりの地方男爵の娘よ。一番関係ない場所で、遠目から、あれが王太子殿下、さすがまばゆいばかりの方ね、なんて思って、眺めている者でしょう)
恥ずかしいのか、いたたまれないのか。ひっくるめた重い気持ちを抱えて、花園と青い髪の青年が称していた花壇をぬう小道をとぼとぼと進む。
風に揺れる花々はいたって平静で、気高く、美しいのに、クリスティンだけは大雨に濡れそぼった子犬のような心境で歩いていた。
(今日はもう、誰とも会いたくないよ。
また誰かと会ったら、更なる墓穴を掘ってしまいそうよ)
花園と呼ばれるだけあって、薔薇を中心に、多種類の花が咲き誇る花壇を横目に、曲がりくねる小道を進むクリスティンの視界の端に、小さくなったガゼボがうつりこむ。
クリスティンは歩きながら、ガゼボを見つめた。
なぜ、見たこともないあの場所に行きたくて仕方なかったのか。
思い当たることがまったくない。
ただただ、突き上げるような衝動にかられて動いただけだった。曖昧な衝動の余韻だけが残り、その感情がなんなのか、もうつかみどころがない。雲を掴もうとするような、空をかくような、気持ち悪い想いが胸にしこりとして残る。そんな、かきむしりたくなるような胸やけに遮られて、思い返そうとしてもなにも思い浮かばなかった。
(あそこに、私はなにを求めていたのだろう)
パンを買いに来た青い髪の貴族の青年がいただけだった。
(びっくりさせて、怒られただけなんて……)
驚き、きっと睨まれた。
精悍な面立ちだけに、やけにきつく感じた。思ったより怒っていなかったのかもしれない。殿下が近づけば、去りなさいと促してくれたのだから。
殿下と連れ立って去っていく背を思い出す。
(パン屋に来たあの人。殿下の傍にいるなんて……、きっと身分だってそれ相応なのよ。殿下があんなに親しくしているんですもの)
見学初日から、憂鬱になる出来事ばかりで悲しくなる。
(きっとあの出会いなら、あの時の子だって、絶対に覚えられちゃう。
また粗相をしたら、あの時の子かって睨まれるのかなあ。
ダメな奴って、見下されるのかなあ)
未来まで失敗を引きずりそうな気がして、クリスティンは気落ちした。
花壇を抜けて、元の道に戻る。三棟の校舎をぐるりと眺めながら、重い足取りで門へと向かう。
校舎内も一部解放されているものの、これ以上見学を続け、長居をしたくなかった。
そそくさと逃げるようにクリスティンは学院を後にする。
気落ちしたまま、まっすぐ家に帰る気にならなかったクリスティンは、自然とオーランドの屋敷へと足が向く。
部屋に憂鬱を持ち込んだら、一晩泣いてしまいそうで帰るに帰れなかったのだ。
屋敷の入り口から庭先を覗くと、芝生の上で、ラッセルとロロが遊んでいた。芝生に転がるラッセルに、のしかかるロロがじゃれている。
(いいなあ。楽しそう……)
失敗続きのクリスティン、恐れを抱き踏み出せない。
入る勇気がなく、躊躇したまま、眺めていると、ぱっとロロが顔をあげて、クリスティンに向かって走り出した。
「ロロ!」
身体を起こしたラッセルも走るロロ越しにクリスティンを見た。
しゃがんだクリスティンが、足元に駆け寄ってきたロロの頭を撫でてあげる。ロロははっはっと舌を出し、尻尾を大きく振って喜んだ。
「お姉ちゃん、どうしたの」
続いて駆け寄ってきたラッセルに笑いかける。
「今日は学院の見学に行ってきたの。今はその帰り」
「じゃあ、遊びに来てくれたんだね」
「そうね」
気を紛らわせにきたとは言えなかった。
「ねえ、じゃあ、一緒に遊ぼうよ。ここで」
「いいの?」
「うん。ご主人様からこの庭で自由に遊びなさいと言われてるんだ」
「へえ」
「うん。芝生をきれいにしておけば、あとは自由にしていていいんだよ」
(古城で、子ども相手は慣れているものね。おいちゃんならそう言いそうだわ)
にこにこ笑うラッセルと手を繋いで、クリスティンは屋敷の中へ入った。ロロは二人の足元を嬉しそうに回りながら、ついてくる。
「ラッセルはいつも一人で遊んでいるの?」
「うん」
「寂しくない?」
「教会の学習会には参加しているよ。そこに行けば友達がいる。一緒に文字の読み書きを習ってたり、遊んだりしているんだ」
「お勉強もしているのね。この辺は貴族の方が多く住んでいるのでしょう。ラッセルは貴族に混ざって学んでいるのかしら」
「違うよ。それぞれのお屋敷には、住み込みで働いている人がいるんだ。その子供たちが中心。だから、みんな家で働いていて、帰って来てからお手伝いをするんだよ。
前までは一人で遊んでいたから、ロロが来てくれて嬉しかった。屋敷は広いけど、一人で遊ぶのは寂しいもの」
「そうよね。一人は寂しいわよね」
クリスティンも部屋に一人になると家族が恋しくて仕方なくなる。
「遊び相手がいるのって楽しいよね」
ラッセルといると、故郷の弟妹を思い出す。今は家族に会えないけれど、目の前には弟のような子どもがいる。
ラッセルとロロと遊べば、気持ちも和むかもしれない。
「なら、私も時々遊びに来て良い?」
ぱっとラッセルの表情が明るくなる。
「うん、嬉しい。また遊びに来てよ」
「そうね。たまに学院帰りによらせてもらおうかしら」
「うん、うん。ロロに会いに来てよ」
「ラッセルと遊びにくるのよ」
クリスティンがほほ笑むと、ラッセルは満面の笑みを浮かべた。
二人と一匹は、芝生を駆けまわって遊んだ。
他愛無い遊びだが、身体を動かしたことで、クリスティンの心は慰められ、汗と一緒に不安もさっぱりと拭い落ちた。
沈んでいた気持ちが回復し、元気になる。
(体を使うのは良いことかも。明日は騎士団の稽古場に行こうかな)
憂鬱な時は、身体を動かすと良いものだとクリスティンは一つ学んだ。
庭で遊ぶクリスティンの姿を見た夫婦は、夕食に誘ってくれた。帰ってから、夕食を準備して、一人で食べる侘しを思うと断れず、ご馳走になってから、帰宅した。
運動して、美味しいごはんで満ち足りたクリスティンはとても気持ちが和んでいた。