49:もう一度、出会う時①
二人の間に落ちた伊達メガネがからからと乾いた音を立てて止まる。
見合っていたクリスティンとデヴィッドの視線が眼鏡に注がれた。
(いやだ。眼鏡が外れちゃった!)
素顔を隠す眼鏡が外れ、クリスティンは焦る。
(拾わなきゃ!!)
落ちた眼鏡を見たデヴィッドも、(レンズが割れていたら大変だ。拾ってあげないと)と思った。
二人は同時にしゃがみ込み、眼鏡に手を伸ばす。
これまた、同時に眼鏡に手を添える体勢になり、伸ばした二人の手が振れ合った。クリスティンはひっと恐れるように驚き、顔をあげる。デヴィッドも同調するように顔をあげた。
しゃがんだ格好で二人の目が再びあう。
端整な顔立ちのデヴィッドが両目を瞬かせる。
あまりに綺麗な顔立ちが眩しくて、クリスティンは恥ずかしくなった。薄化粧をしたって、元から麗しい顔立ちには到底かなわない。
眼鏡なしの顔を、まじまじと見られることに耐えられなくて、さっと落ちた眼鏡を拾い上げるなり、慌ててかけなおしながら立ち上がった。
デヴィッドはクリスティンの素早い身のこなしにびっくりし、座ったまま彼女を見上げる。
脳裏に、眼鏡をかけたクリスティンの顔と、眼鏡を落した時の顔が交互に点滅した。
目を見開くデヴィッドに、クリスティンは思いっきり頭を下げる。
「ごめんなさい。ぶつかって。わざとじゃないんです」
両目を瞑り、早口で謝罪する。
別に怒ってなどいなかったデヴィッドは「いや、別に……」と口ごもった。
ばっと顔をあげるとクリスティンはもう一度、「本当にごめんなさい」と謝罪して、踵を返す。
そのまま脱兎のごとく門のなかへと逃げていく。
まさか逃げられると思っていなかったデヴィッドは呆然とクリスティンの背を見送った。
「えっ? なんで、逃げるの……」
しゃがんだままデヴィッドは逃亡するクリスティンに手を少し伸ばし、固まってしまう。
王太子でもある第一王子デヴィッドに、謝っただけで済むわけはないのだが、もちろんそこは寛容に許しを与えようと思っていただけに、逃げられたことそのものが信じ難かった。
いや、それだけではない。
「なんで、あの娘、眼鏡をかけているんだ」
触った眼鏡にはレンズがなかった。あれは縁だけの伊達眼鏡である。
(眼鏡なしの方が可愛いのに)
眼鏡ありとなしの顔を両方思い浮かべると、走り去ったクリスティンの甘い残り香を感じるようで、デヴィッドは胸がどきどきした。
逃げたクリスティンは正面の校舎に向かって走る。
思った通り、左右に対になる校舎があった。
右を見ても、左を見ても、どこか見覚えがある気がした。
既視感を覚える過去の出来事や経験があっただろうかと、記憶を手繰り寄せても、なにも浮かばない。
男爵領には、森と城、周辺の畑しかなく、こんな整った庭も、綺麗に舗装された石畳も、小奇麗な校舎だってないのだ。
クリスティンは歩調を緩める。
じわっと体が暖かくなる。じんわりと泣きたくなるような疼きが胸奥でひりひりと痛み、涙がせり上がりそうになるのを必死でこらえた。
ぐるりと周囲を見渡す。
広がるぬくもりを理解できないまま、まばゆい世界に目がくらみそうだった。
とらえどころがない感覚であっても、決して嫌な気持ちをもたらすものではない。
嬉しい。
懐かしい。
物悲しい。
複雑な気持ちの糸を解いてみると、そんな言葉が芋づる式に湧き出てきた。
(見たこともない景色なのに、どうして、こんなにも気持ちが揺さぶられるの)
とても、ここで学び始めることができる喜びだけで、こんなかきむしるような温もりがあふれるとは思えず、クリスティンは戸惑う。
(行かなくちゃ……)
思いは言葉となって、クリスティンを導く。ふらりと足が勝手に動き、一歩二歩とたどたどしく進むと、また走り出した。
(行かなくちゃってどこに?)
地図を見た覚えはあるが、鮮明に道を覚えているわけではない。なのに、身体が勝手に、まるで道を覚えているかのように、動く。
(初めて来た場所なのに。なんで?)
戸惑いながらも、なにかを渇望するように、クリスティンは走っていた。
正面校舎手前で道は左右に別れており、左右の道は正面校舎に添ってさらにのびていた。
左に曲がり、走る。
正面校舎と左側の校舎に挟まれた道を通り抜ける。
通り抜けた先には薔薇を中心とした色とりどりの花を咲かす花壇があった。中央にあるガゼボが少し小高くなっていた。
(きれい……)
道は細くなり、花をめでるための小道へと繋がっている。
石畳の小道は円を描くように、ぐるぐると敷き詰められ、余裕があれば周囲の花々を鑑賞しながら歩くことができただろう。ところどころにはベンチも置かれている。
気ばかり急くクリスティンに楽しむ余裕はないはずだった。
(変わらないのね)
なのに昔からこの景色を知っているかのような感覚を伴い、こんな言葉が浮かんできて動揺する。
クリスティンは緩やかなカーブを描く小道を進む。
(初めて見る景色なのに、懐かしいなんて、おかしいわ)
おかしいのに、懐かしさがとめどなく溢れ、体中に充満する。花壇の中心地に行きたくてたまらない。
クリスティンは花壇の中心に目を向けた。
円形の屋根を備えたガゼボがある。
(行かなきゃ)
クリスティンの足が早まる。
(行かなきゃ、ってなに?)
突き動かされるような衝動にかられ、クリスティンは逸る気持ちに後押しされ走る。
弧を描く小道は、庭をぐるぐると回り、どんどんガゼボに近づいていく。
目的地はそこだと心底から突き上げられる。
(行かなきゃ! でも、どうして?)
衝動の意味が分からないままに、クリスティンは走った。
花の香りも、花々の色合いも、腰高の木々に映える色とりどりの薔薇も、見知った風景にしか感じられない。
それだけでなく、とても大切な世界として、キラキラと輝いて見えた。
陽光に照らされ色鮮やかな花を咲かす庭は、まるで幻想的な神の庭である。
白い六本の支柱に支えられるガゼボがくっきりと見えた。
脳裏に強い想いが閃光のように横切っていく。
――― あの人が待っている。
想いを象徴する言葉はすぐにかき消え、言葉は意識に遡上せずに消えてしまった。
それでも、強い衝動を伴う希求感だけは残り、全速力で走るクリスティンは、ガゼボの柱めがけて飛び込んだ。
息を切らして、一本の柱に抱き着く。
(ついた。やっと……)
性急な衝動に後押しされ、到着するなり、その衝動はしぼんでいく。
すると斜め下から、声が飛んできた。
「君は誰だ。突然、驚くじゃないか」
ガゼボに人がいると思っていなかったクリスティンはぎょっとする。
声がした斜め下を見下ろすと、ガゼボ内を囲む腰高の壁際にベンチが置かれ、そこに青い髪の青年が座っていたのだ。
彼は背もたれに腕をかけ、仰け反るように振り向いていた。
いきなり背後に表れたクリスティンに仰天する顔には見覚えがあった。
一瞬で、クリスティンは思い出す。
(あっ! あの時、パンを買いに来た人だ!!)