47:王家に連なる三人③
太陽ものぼりきらない朝早くから、王都の一角にあるパン屋の準備が始まる。パンをこね、寝かせていた生地を形成し、鉄板に並べて焼いていく。
パンが焼き上がり始める頃、売り子姿に変装したクリスティンが小道から出てきた。
道には農産物を積ぶ荷馬車が停められ、帽子を被った男が手早く各店に荷物を届けていた。荷馬車を引くロバは、耳を垂らし、つまらなそうに首をたれている。
クリスティンは素早く身を翻すと、店内に入った。挨拶もそこそこに、おかみさんの指示に従い、パンを陳列する。
籠を棚に置いていくなかで、店内の小窓から道を見ると、新聞売りが声を張り上げ、歩き始めていた。
新聞を買う人が集まってくると、パン屋に常連客が押し寄せてくる。
扉からせり出した曲線の金具にベルを引っ掻けたら、開店合図だ。
新聞売りが活気づく、六時から七時がかきいれ時。八時台の朝食に合わせて、買いに来るのだ。
店に客が溢れれば、勘定場でおかみさんと清算に明け暮れる。時々パンが焼き上がり、「焼きたてでーす」と声をかけると、「それちょうだい」とパンは飛ぶように売れた。
八時になりほっと一息つく。
おかみさんが調理場に戻り、クリスティンが店番を始める。
八時半を過ぎると、客足はめっきり減る。休みの日は九時まで手伝う約束だ。
(もう少しね)と時計を見ると、カランカランとベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
入店してきた男性に、いつもの挨拶を笑顔とともに投げかけた。
青い短髪の青年が恐る恐る入店する。後ろ手で扉をしめると、立ち止まり、きょろきょろする。
平民のお客さんと違うと一目でわかった。簡素に見える服装でも、生地や仕立てが違う。平民の衣服は、もっとくたびれていて、ところどころに継ぎがある。彼の服装にはそんな綻びが一つもない。
背の高い青年が立ち止まり、クリスティンを見た。
立派そうに見えて、頼りなく助けを求める眼差しにドキリとする。
(声をかけた方がいい? それとも、声をかけられるのを待つ方が良い?)
迷っていると、背後からおかみさんの声が飛んできた。
「ティン、パンを店頭に並べておくれ」
「はあい。今行きまーす」
おかみさんに呼ばれた用事が先だと調理場に入る。
ふわっと焼きあがったばかりのパンの芳香に包まれた。
バターとミルクを含んだ甘い香りに、ふわああと酔いしれ、胸いっぱいに香りに彩られた空気を吸い込んだ。
「ほらほら、手を止めないで。堪能してないでかごに入れて、持っていってちょうだい。今のお客さんにすすめておくれ」
「はい」
厚手のミトンを手にはめて、手早く籠にパンを移し替える。
その籠を抱えて店頭へと戻ると、眉間に皺を寄せる青年が並ぶパンとにらめっこをしていた。
(貴族のご子息が、慣れなくてどうしていいか分からないね)
端正な美丈夫が困っている姿はどこか可愛らしい。
この様子だと、お忍びで市井を散策している可能性が高い。衣装だって、平民に合わせて彼なりに質素にしているつもりなのだろう。
(ここではそれでも立派に見えるのにね)
なにせ貴族学院の入学式前だ。地方に住まう貴族の子弟が、せっかく王都に来たのだからと、市民の住宅街に好奇心で足を運んでもおかしくない。
地方から出てきたクリスティンだってそう変わりない。彼の行動も理解できる。
籠をもってそろそろと近づく。青年はクリスティンに気づき、申し訳なさそうな顔になる。聞きたいことはあるようだが、何を聞いたらいいかさえ分からないようだ。
クリスティンは笑顔を崩さず、話しかけた。
「焼き立てもありますよ。あったかい焼きたてパンはいかがですか?」
「じゃあ、それで」
青年はほっとした表情になり、呟いた。
クリスティンはパンの籠を抱えて青年の横に立ち、市民の娘らしく、愛想よくへろっと笑う。
「パン屋ははじめてですか」
「ああ、まあ……」
首に手をかけて、青年は視線を天井へ流す。
(貴族の人だからプライドが高いのかも。初めてって言えないのかな?)
小首をかしげ、にこにこするクリスティン。
その笑顔をもう一度見た青年はちょっと照れて、咳ばらいをした。
「悪いのだが」
「はい」
「これで見繕ってほしい。その焼きたても含めて」
差し出されたのは小銀貨だった。
クリスティンは目をむいた。
(これって、一日の売上になるじゃない)
勘定を行うにあたり、パン屋のおかみさんから、王都のお金の基準をクリスティンは教えてもらっていた。
平民が主に日常使うのは、銅貨。
貴族が日常使うのは、銀貨。
領地同士、大型商店同士、大型商店と貴族同士など、大きな取引でやり取りつかわれるのが、金貨。
それぞれの通貨には大、中、小とある。
領地の日常では銅貨を使用していたので、男爵領の生活とは、そこそこ羽振りが良い平民程度なのだと理解した。
父の男爵なら、銀貨や金貨を用いる取引もしているかもしれないが、そこまでクリスティンは領地経営に携わっていない。
つまり銀貨を出してきたからには、青い短髪の青年は、平民の暮らしが何たるかも知らない坊ちゃん貴族なのだ。
(世間知らずの地方から出てきた貴族なのかな)
似た立場を想像し、クリスティンは勝手に親近感を抱く。
自信なさげに手のひらの銀貨を握りしめた彼の澄んだ紺碧の瞳に微笑みかけた。
「ごめんなさい。銀貨はいただけないわ。釣銭が用意できないの。それより小さなお金はないのかしら」
「すまない。持ち合わせてはいないんだ」
「仕方ないわね。あなた、いくつパンがあればいいの。最低いくつ」
「最低なら、二つあれば足りる。だが、本当は、ここにあるだけでも良い」
「あるだけって、いったい何人で食べるのかしら?」
「二人だ」
「だから最低二つなのね。分かったわ。このパンは、小銅貨一枚で三つなの。小銅貨二枚あれば、六つ買えるわ。
小銅貨二枚で六つ買えば、一人で三つずつよ。それだけでお腹いっぱいになるけど、いかがかしら」
「妙案だが。俺はこれしかもちあわせがない」
青年は手を広げて、銀貨を見せた。
クリスティンは銀貨と困り顔の青年を交互に見た。
(せっかく、平民の店に寄ったのに追い返されても可哀そうよね)
同じ学院に入学する学友であれば、顔を合わせた時に後ろめたいだろう。学院で彼を見かけるたびに、あの時追い返してしまった人だ、なんて後悔をしたくなかった。
「いいわ。お金は貸してあげる」
首にかけている小ぶりの財嚢を引き出した。
小指の爪ほどのひん曲がった茶色い硬貨を二枚取り出し、彼に差し出す。
パン屋で給金が出るのは一月後。その間を賄う、約二か月分の生活費を持ってクリスティンは王都に来ていた。
「いつでもいいわ。これと同じものを返してください」
「しかし……」
戸惑う青年の手をクリスティンは握った。手のひらに、無理やり硬貨を押しこめる。二人の手の中で銀貨と銅貨がこすれあう。
「どうぞ、これであなたのものよ。この銅貨で買える焼き立てパンは、六個です。六個でよろしいですか、お客様」
クリスティンが満面の笑みを浮かべる。
複雑な表情で青年は視線を地に落とした。間を置き、おずおずと視線をクリスティンに戻す。
「……、ありがとう。不慣れなところ、助かった」
「はい、まいどありがとうございます」
良いことをした気になったクリスティンは嬉しくなり、満面の笑みを浮かべべた。
照れた青年はまた目を逸らす。
クリスティンが手を放す。彼は解放された手を握り、もう片方の手でそっと撫でた。
手早く袋に焼き立てのパンを六つ入れたクリスティンはその紙袋を持って青年の元へと向かう。暖かい紙袋を受け取った青年はクリスティンに小銅貨二枚を手渡した。
「必ず返しに来るよ。ありがとう」
「はい、待ってます」
「ありがとう、また来る」
「またのお越しを、お待ちしております」
クリスティンは手を振って見送る。
一礼した青年がパタンと扉を閉めると、勘定場の釣銭入れに小銅貨二枚を仕舞いこんだ。