46:王家に連なる三人②
子犬を抱いたウィーラーが、ひょいひょいと軽い足取りで、通りを大股で進む。歩いている姿だというのに、歩幅が広いから、まるで走っていると言える速度だ。
クリスティンは少し背を丸め、人と人の間をするりと抜け、躍るようにウィーラーを追いかける。
現場よりずっと高い位置にきて、二人は振り返った。
周りにいる通行人は、もう誰も事が起こったことを知らない。
正門も噴水も、子どものおもちゃのように小さく見えた。
顔を見合わせた二人は笑い合う。子犬は大人しく、ウィーラーの腕の中でリンゴをかじっていた。
「よくやったな」
「目立ちすぎですよね」
「そうだな。以後は気をつけような」
「はい」
「さあ、ここから騎士の稽古場は近い。門構えを眺めに行こう」
騎士の稽古場へと二人は歩き出す。
程なく、到着した。
男性の背丈を超えるほどの塀があり、中は見えない。塀に沿って進むと、開け放たれた門があった。
出入り口から人の掛け声がかすかに聞こえてきた。訓練中のようである。
門には二人の門番も立っていた。
「大きいのね。人もたくさんいそう。私、どうやって、一緒に稽古してくださいって言えばいいのかしら」
「簡単だろ。騎士団長はいらっしゃいますか? と、聞けばいいんだ」
ウィーラーは小声でクリスティンに話しかけた。
「上には、クレスの件は伝えてある。訪ねることは分かっているんだ。分かっていれば、通してもらえる。なっ」
「そっか、なら安心だね」
「そこでだ。もし、入り口で、猫のようにあしらってくる奴がいたら、喧嘩うってきたと思ってやっちゃっていいぞ」
「ええ! そんなことしちゃって、大丈夫なの」
「大丈夫、大丈夫。上にはちゃんと伝えているって言っただろう」
「ええ……、でも、私。手合わせは願いたいけど、喧嘩はしたくないのよ」
「その辺も大丈夫だ。クレスが来ることは上は了承済みだ」
「じゃあ、それも、もしかして……訓練? 鍛錬? 練習……のうち?」
「そうだとも、クレス。察しが良いな。安心しろ、ネイサン近衛騎士団長はお前のことをよく知っている。殿下のつてでな」
「なんだ。それなら大丈夫ね。うん、わかった。そうしてみる」
オーランドの知り合いに話が通されていると聞き、クリスティンは簡単に納得してしまう。
稽古場の場所を確認し、今度はオーランドの屋敷に向かうことにした。
歩きながら、子犬はどうするかという話になり、このまま捨ててしまうのは忍びないというクリスティンのために、管理をする一家に子犬を預けることにした。
屋敷につくとロジャー一家は二人を歓迎した。
子犬の件を話すと、少しロジャーは渋い顔をした。
「殿下の許可がなくては……」
「クリスティンの犬を預かっていると言えばお咎めなしさ」
にこやかなウィーラーの助言に、話は丸く収まる。
(まるで私の名前を出せばなんでも通ってしまいそうね)
クリスティンは、それでいいのかしらと内心複雑な気持ちになる。
ラッセルは子犬のプレゼントをもらえたと大喜びだった。その喜びようにクリスティンも一緒に嬉しくなる。子犬はその場でロロと名付けられた。
ロジャー一家と別れ、貴族学院に向かう。
敷地を囲う長い塀を辿ってゆくと、広い門があった。
歩道から窪むように半円の停留所があり、数台の馬車が停まっていた。
道が窪む角には、守衛用の小窓付きの小屋もある。
小屋の前を二人は通り過ぎた。門の手前にある、半円の歩道を通り過ぎる。
「馬車を停めるだけなのにとても広いですね」
「登校時間帯は馬車の乗り入れが多いからね。複数の馬車が停車できるようになっているんだよ」
「馬車登校ですか。徒歩って目立ちません」
「いいや。寮住まいの学院生は徒歩で来るから、それほどでもないよ」
「なら、良かった」
停まっている数台の馬車の前を通り過ぎる。隣合う馬車の御者が話し込んでいた。
門を覗くと、広い敷地の一部が見えた。中心に芝生と花壇が整えられた幅のある道の向こうに数階建ての校舎がある。
じっとその風景を見ていると、鼓動が早くなってきた。
(これから飛び込む新しい世界に心がおどった? ……、ちょっと違うような)
不思議そうにクリスティンは胸に手を当てる。
湧いてくる感情は、わくわくする、嬉しいなどという感覚とはどこか違う。
(変な感じ)
心臓は力強く打ち、鳥肌が立つようだ。
しかし、武者震いとも違う。
高揚感はない。
クリスティンは名づけにくい感情をとらえきれず、小首をかしぐ。
横にいたウィーラーが身を翻す。
「今日は帰ろう。中を見るのは一日がかりだよ」
「はい」
「学院からパン屋までの道のりは大切だ。今日はそれだけをしっかり覚えればいい。これからの通学路だからね」
歩き出すウィーラーを追いかける。
後ろ髪ひかれ、もう一度校舎を盗み見た。
かすかな不可思議な感覚はすでに散り、跡形もない。
(あれはなんだったの)
手がかりさえ残っていない不可思議な感覚にクリスティンは戸惑うばかりだった。
道の目印を確認しながら、ウィーラーと一緒にパン屋に戻った。
階段の下での別れ際、言葉を交わす。
「クリスティン。今日、子犬と馬車のお嬢様を助けた件だが、クレスの恰好だから止めなかったことを忘れないでくれ」
「はい」
「ティンの時は魔力を使ってはいけない。
クリスティンの時は学院生としての領分のなかで使ってくれ。クリスティンほど魔力を扱える者は、学院には数人もいない。
思いっきり使っていいのは、殿下の直弟子を名乗れるクレスの時だけにするんだ。そのためにネイサン近衛騎士団長に殿下が話を通していると覚えておきなさい。いいね」
「はい。分かりました」
「くれぐれも、魔力の使い方には気をつけること」
念を押すウィーラーに、(やっぱり先生じゃない)とクリスティンは心のうちで笑ってしまう。
※
「パン屋に行きたい」
王太子デヴィッドの真剣な呟きに、ライアンは両目を瞬いた。
「城のパン職人が毎朝焼いており、美味しいパンを食べていらっしゃるでしょう」
「ちがう。叔父上が紙袋一杯に手土産でくれたパンが食べたいのだ」
「なにを、いきなり……」
ライアンが眉間をもむ。
ここはデヴィッドの自室。肘かけがある大ぶりな一人掛けの椅子に丸テーブルを挟んで二人は座っていた。
「一緒に食べたじゃないか。美味しいですねと言ってたのを覚えているぞ、ライアン」
「そりゃあ、オーランド様に美味いかと問われて、不味いなんて言えないでしょう。実際に美味しかったですしね」
デヴィッドが身を乗り出す。
「もう一度食べてみたいとは思わないか。私は食べてみたいぞ」
「お一人で行かれたらいいでしょう」
「それはダメだ。私は一人では出歩けない。だが、百人力のライアンが一緒にいてくれるなら、大丈夫だろ。折角、下町をぶらりとするのに、護衛を引き連れて歩きたくないのだ」
「俺は護衛代わりということですか」
「叔父上に匹敵すると賞賛される、騎士団の稽古場も近衛騎士団長権限で自由に出入りできる信頼厚いライアンと一緒なら問題ない、はずだ。父上も納得する!」
早口のデヴィッドは疑わしい。ライアンの目がすわる。
「殿下。それ、許可取ってないでしょう」
「許可、どうだろう。後で確認してみよう」
目が泳ぐデヴィッドに、ライアンの不信が募る。
「あなたが怒られるのに、俺を巻き込むのはいい加減にしてくれ」
「良いじゃないか。ライアンの兄たちももう立派に仕事をしてて、忙しそうだし。私と一緒に出歩けそうなのは、ライアンしかいないんだから」
「俺はあなたに貴族学院高等部進級おめでとうございます、と言いにきただけです。なんで、そんな面倒ごとに、突然に、引っ張り出されなくちゃならないんです、かっ!」
語尾を強く言い放つと、デヴィッドはちょっといじける。
「あのパン、美味しかったんだ。また食べたいと思ったって不思議じゃないだろ。
なあ、ライアン。食べたくないか?
一緒に食べた時、美味いと言ったのは噓だったのか?」
四歳年下の面倒くさい従弟にライアンはうんざりしながら、呟いた。
「わかりました。いいですか。今回だけですよ」
その今回だけが、何回積み重なっている事やら。
※
翌日の早朝、二人は馬車に乗り噴水近くまで移動した。
(まったく、パンのためにならば早起きできるのか)と呆れるライアンと花でも飛ばしそうなほど楽しそうなデヴィッドが馬車を降り、目当てのパン屋に向かう。
パン屋がオーランドの屋敷を管理している平民の実家であり、その場所も調べ済みであった。
メインの通りから、二人は横道に入っていった。